3 逃亡阻止
四方の暗闇から、いっせいに光の玉が尾をひき眼前に迫る。
となりに立つ彼が、手をひと振りしただけで見えない壁が瞬時に構成され、それを阻んだ。遮断された光の玉が花火のようにはじけた。
さらに追うようにつづけて青や赤の閃光がはげしくぶつかり、爆音とともに四散する。
「なっ、なに……!?」
ルーは身をすくめた。
「この城の魔法士どもが庭に潜んでいる。術で攻撃を仕掛けてきたんだ」
ふいに、その攻撃がやんだ。ゆらり、それは真正面に現れた。
深海の底からはいあがってきた亡者のようだった。
真青の長髪で顔をおおい、不気味な笑みを刻むうすい唇だけがそこからのぞく、青年。淵色の鎧を身につけ、その胸部には鮫が打ち出されている。
ほのかな光をおびて宙に浮かび、くくくと喉をふるわせて笑った。
「処刑まぎわの脱走か。しかも手引きつきとはな、どこの誰だか知らないが感謝するぞ」
ルーは、きょとんとして彼を見た。
敵だろうに、なぜ感謝されるのかわからない。
すると青髪の青年は、ひたとその視線をルーに向けた。
前髪のすきまから研いだ刃のように剣呑な眼が、ぎらりとのぞく。
「せっかくこのオレが捕まえたというのに、〈クトリの殺人鬼〉は即処分にする決まりでな、上からのお達しで拷問の必要はないという。この優秀な拷問吏ガジュ・ロビンの腕が……!」
ざわりと悪寒がした。
拷問のイメージを思い出すよりも早く、本能的に言いようのない気持ち悪さをルーは感じた。思わずとなりにいたサディスのマントを、ぎゅっとつかんだ。
サディスはそんなルーを一瞥し、目の前の青年に問いかけた。
「それで?」
「〈クトリの殺人鬼〉が他国に野放しになれば、防波堤であるはずの我が国キャラベの沽券に関わる。これは国家犯罪だ、どこのだれがその陰謀を企んでいるのか吐かせるのが、オレの役目ってわけでな……一度に二人の女を責め立てられるチャンスなどそうそうない。愉しみなことだ」
ガジュはにやりと薄い唇をゆがめた。
いつのまに忍び寄ってきたのか、ガジュのように身ひとつで滞空したり、恐ろしげな翼の獣に乗った兵士らが、ぐるりと二人を囲んでいた。その数五十ほど。
ルーはひやりとした冷気を感じて、サディスをみあげた。
彼は、ふ、と息を吐いて微笑した。冷たい。
眼差しはどこまでも凍てつくほどに冷やかで、心臓が縮みあがりそうな笑みだ。
はた、とルーは気づいた。
あれか、女とまちがわれたことを静かに怒ってるんだ……!
なんだかとり囲む敵より彼の方がこわくなって、つかんでいたマントからそっと手を放し、一歩あとずさりかけると、すかさず二の腕をつかまれた。
絶対零度の視線を拷問吏ガジュに向けたまま、サディスは言った。
「せっかく来たんだ。置き土産なしはやはり失礼だろう」
閃光が炸裂した。
とっさのことで、ルーはあいた左腕で目をかばうのが精一杯だった。
耳にドン! ドン! とつづけざまの爆音が轟いた。
爆風に体がさらわれそうになり、強い腕に引きよせられたところまでは覚えている。飛びかう閃光と、爆音のまっ白に染めぬかれた空間。
一瞬だったのか、それとももっと長かったのかわからない。意識が完全に飛んだ。
ごうごうと、耳もとで唸るものすごい風圧に気がついた。
頭のてっぺんから爪先まで、暴風が叩きつけてくる。
目なんてまともに開けていられない。
なんとか周囲を確認しようと、両手でかばいつつ薄目を開けた。
それでも、指のすきまから容赦なく忍びこむ風圧で涙が出てくる。
さっきとはまた違う、まっ白な景色の中にいるようだ。
密度の高い霧の層をつき抜けて──飛んでいる。
飛んでいる? おいらが?
どうやら、腰ベルトを背後から誰かにつかまれ運ばれているらしい。
なんとか首だけ振り返っても、しろい霧の奔流が邪魔をして、その運び主がよく見えない。
「…ッ、……!」
あの銀髪の人なのか確認しようと声をかけようとするが、風圧に負けて自分の声すら聞こえない。それどころか息がつまる。仕方ないので口を閉じた。敵じゃないことを祈りつつ。
どさくさであの亡霊みたいな男に捕まってたら、めちゃくちゃイヤなんだけど。
びゅるるるるるるる
背後から、渦巻くような別の風音が近づいてくる。
いきなり左足首が、がくんと抜けるような衝撃。
上昇が突然止まり、銀の一閃が、自分の足先をくぐって飛んだ。
風で、銀糸の束が頬をかすめる。見上げてサディスの顔を確認できて、ホッとしたのもつかのま、いきなり宙に放り投げられた。
「うわあああっ!?」
ぽてんと、尻もちをついた。
「え?」
銀光を発する透明球の中にいた。
なにこれ、どうなってんの?
サディスは銀球の外にいた。
しかも、銀球はまたたく間に風に流され、彼から遠ざかってゆく。
「えええ? ちょ、ちょっと、ま───」
彼の足下の雲塊を突きあげるように、まっ青な髪をふり乱した男が踊り出てきた。
手には、長柄の武器。棒の先端に舟形の大刃がついている。それを横なぎに払ってきた。
いつのまに抜いたのか、サディスは白銀の長剣でそれを受けた。
見えたのはそこまで。
あっというまに濃霧、いや、雲海の彼方に二人の姿は見えなくなった。
お、おいらだけ先に逃げちゃって、いいの……かな……?
しばらくは、流されてる向きとは逆方向を凝視していた。
サディスが無事、追いかけてくるのを期待して。
ふと、足もとに引きつるような鈍い痛みを感じた。
左足首になにか黒いものがはりついている。
「?」
ルーは屈みこんでそれを手にとってみた。硬い……革紐の断片らしきもの。
足首に赤い線の痕がくっきり。
さっき片足が、がくんと引っぱられたのを思い出す。
もしや、これ? これが巻きついて引っぱった?
あのゴーモンリとかの仕業? まあ、現れたタイミングからしてそうなるのかな。
ところでゴーモンリって何だっけ? ……まあ、「女を責めるのが楽しみ」だの目をギラギラさせてたから、ろくな人種でないことだけは確かだろう。
ルーは手の中の違和感に、思わず革紐のかけらを投げ捨てた。
足下でそれははねた。そして、いつまでもウネウネと左右にのたうつ。
「い、生き物だったのか……!?」
虫だろうか。細長い先端にある赤い口腔をカッとひらき、小さなギザギサの歯牙を向けて、……こちらを威嚇している。イモムシに見えなくもないが、目はないし、口から黄色いヨダレをぽたぽた落としてる時点で、ただの虫ではない気がする。
本能的に危険を感じ、ブーツのかかとで踏み潰そうとした。
瞬間、その妙な生き物はポンと拳大ほどに膨らんだ。
ぎょっとして、ルーは下ろしかけた足を引いた。
すると、また、ボボンと人の頭ほどに膨れる。
「ええっ?」
あわてて彼女は銀球のはしっこに飛びすさった。
怪しい虫はさらにバン! ボン! と、ひと呼吸ごとに膨らんで、やがてルーの腰の高さにまででかくなった。
この虫、ぜったいヤバイ……! なんとかしないとっ!
魔獣の仲間だったりしたら、おいら喰われちゃうし!
銀球の外に追い出せないか? もしくは、おいらがここから逃げ出すとか!
そうはいっても、つなぎ目も出入り口もなさそうな密閉空間だ。
自分がどうやってここへ入ったのかも分からないのに。
武器になりそうなものを自分は身につけていないのか。
ぼろいシャツやズボンのポケットをまさぐるが、底に穴が空いてて何もない。
ふと、革のベルトに目を留める。錆びた金属のバックルがついてる。
迷う間もなくそれを腰から引きぬいた。
怪虫がもそりと近づいてくる。
極限まで開いた口の直径は、ルーの肩幅よりでかい。丸呑み可能なサイズだ。
というか、ヨダレを垂らしつつなので、これはもう食事する気満々でにじりよってるとしか思えない。
怪虫がぼよんと跳びはねた。
ルーは寸前で避けると、革ベルトをしならせて、怪虫のぶよぶよした体の真ん中めがけて、鋭く打ち下ろした。
ドンッ
まさかの破裂。いや爆発。
膨張しすぎた外皮はおそろしく薄くもろかった。
黄色の液体が、銀球の中で噴霧となって充満した。
ひどい腐敗臭にとっさに息を止めたが、いつまでも続けられるはずもない。
ビリッと体が大きくゆれた。
手足が自分のものじゃないかのように痺れて、膝からかくりと崩れ落ちた。
でも、意識はあった。その直後だ。あたりがいきなり暗くなる。
なぜ? 銀球そのものが発する光があったし、夜空の月で雲海はしろく照らされていたのに。床も暗い。まっくろだ。しろい雲の波はどこにいった?
体が落ちる。すごい勢いで降下してゆくのがわかる。
内臓が背中へと浮き上がり圧される。
黒く染まった元・銀球が地上へと落ちてゆく。
どうしようッ。この球、地面に激突して助かるのか!?
無理だ、ムリ! 落下速度がどんどん上がってるし。
死ぬ、ぜったい死んじゃう────ッ!
なにかの気配を感じた。
動かせない視線の先、ややして、まっくろだと思っていた床に信じられないものを見た。目、だ。人間の、灰色の双眼が、黒い床にぽつんと浮きあがるようにしてこちらを凝視している。どろりと澱んだ視線に、肌があわだった。だけど、何故かはっきりと、そいつが自分の「死」を見届けようとしているのだと感じた。
……っ、どいつもこいつも!
ムカッ腹立った。
意地でも死ねない、ぜったい死ぬもんか────!
けほっ、げほッ。
鼻と喉がつまる感覚に、目が覚めた。
……なんか、おいら気を失ってばっかりのような……
あたりがぼんやりかすんでいる。
怪虫の噴霧かと錯覚するが、どうやら違うようだ。
まわりが瓦礫なので、砂塵が舞いあがっているらしい。
大きな月が照らしているおかげで、十メートル四方までは見渡せる。
起き上がろうとして、まったく体に力が入らないことに気づいた。
そういえば、さっき体が痺れて……いったい、いつからこうやって倒れてたんだろう。
それに、ここは? まだキャラベとかって国の中なのか? 人の気配がしない。
壊れた石壁に、石床……天井がない。廃墟かな。
おいらを助けに来た銀髪の魔法士は……?
まさか、あのゴーモンリにやられたんじゃ……ッ!? あいつ、怪虫操るとかどんだけ危ないやつなんだよ。はっ、はやく、逃げなきゃ!
ハデに落ちたので、きっと今ごろ探しているだろう。
手足の先に集中して力を入れようと頑張る。
喉がからからで息もうまくできないし声も出ないが、そんなことかまってられない。
動け動け動け動け───ッ!
あせるほどに事態は変わらず。
遠くから騒然とした空気を感じとった。城の屋上で軍隊に囲まれたときと似ている。
追いつめてくるような殺気の波動。
こ、こんな状態で見つかったら即殺されるッ、イヤだ───ッ、動け──ッ!
しろく煙る砂塵の向こうに、人影が現れた。
「見つけたぞ、黒髪女」