30 禁忌の海域から漏れた密談
本日、二話目の更新です。
9月22日、午前零時。
よほど打ち所が悪かったのか、そのあともひどい頭痛は時折襲ってきた。
そのためか寝起きで頭がくらくらする。
いつもは節約のため宿の同じ部屋をとっていたが、今は壁の向こう、となりの部屋に彼はいる。きっと、もう出立の準備をすませているはずだ。暗い中、ばかでかい寝台でのろのろと起きあがり、乱れた赤毛を手ぐしでととのえる。
ちゃぷん
どこかで水の音がした。
浴室はこの寝室から居間をとおって廊下にでて、向かいの部屋にある。
ここまで聞こえるとは思えないのだが。
ルーは寝台から足をおろして、違和感に気づいた。
ぱしゃん!
床一面に水が張っている。思わず足を引きあげ、寝台の上であとずさった。
水は暗闇の中でぼんやりと赤く光っていた。
えぇ……!? なんでっ、たしか、ここ四階だよ!?
浴室の水が出っぱなしであふれてきたとか!?
それぐらいしか考えられない。
でも、例えそうだとしても、水が赤く光るなんてありえないよな?
「サディスっ」
となりの部屋の彼が気づかないのも変だ。
天井も光っていた。いや、天井がない。空だ。炎のような血のような赤い光の帯が、ゆらゆらとカーテンのようにたれ下がり不気味にゆらめいている。
視界のとどく範囲すべてが真っ赤だ。当然、部屋の壁もない。
おおきすぎる寝台に乗った自分だけが、いきなり赤い海と赤いオーロラの世界に放りこまれたようだ。
水面から手がつき出してくる。さわさわと増えてゆく。
棍……! おいら、どこにやったっけ!?
寝台の上を見回しても見つからない。
この非常事態に、愛用の武器がないとはなんとも心細い。
おちつけ冷静になれと、自分に言い聞かせながら、あたりをもう一度ゆっくり視線をめぐらせる。
「禁忌の海域……!」
そうだ、これは以前、山小屋で見た夢だ。
いまと同じように海は凪いでいた。目覚めたら忘れちゃってたけど……。
潮の匂いが妙にリアルだ。まさか夢だと思っていたら、実は魂がここまで飛んで来ちゃった、なんてことはないよな………それはコワすぎる。
しかし、そこまで考えて、曾祖父がくれた地図を思いだす。
プルートス大山脈からなら、登山中に遠い禁忌の海域だってみえたはずだ。
そういえば、休憩中にもサディスから教えてもらったはず。登りに専念しすぎて疲れはてていたので、そのときはただ「へー」と、うなずくしかなかったが。
禁忌の海域にクトリの遺跡島はあると言われ、行った者はほとんどが帰ってこない。
もどってくるのは〈殺人鬼化する呪詛〉を受けた者のみ。
何故、こんな夢を見る?
あのときは高山病で体調をくずし頭痛がひどかった。
いまも、頭を強打したせいで頭痛がおさまらない。共通点といえばそれぐらいか?
……なくした記憶と関係があるんだろうか。
耳をすませ、凪いだ波間にただよう手に視線を合わせる。
気持ち悪くないかと問われれば、正直わりと気持ち悪い。だが、襲ってくる気配もないし、言うなれば、なんだか道端に生えた不気味植物ていどにしか思えない。
おそらく、本能的に無害と感じているのかもしれない。
それは肘から上だけで、惰性でぷらぷら手招きしているように見える。
動きは海草のようだが、血の気は失せて青白いものの、みなごつくてがっしりしたものばかりだ。大人の男の腕だろう。数メートル先に、おおきな手だが、やけにしなやかでほっそりとした腕があるのに気づいた。爪が赤く染められている。あれは女性のものだ。
すると、こちらの視線に気づいたかのように、その女性の手は、すっと人さし指を立てた。ルーを指している。
それが合図であるかのように、ほかの腕たちは水面に沈んで消えてしまった。
鼓動がどくんと、つよく打った。
ルーは自分の背後に、だれかがいるのを感じる。
首だけで、そっと振り返ってみた。
息使いすらなく、まるで千切れた人型の闇のように、ひっそりとそれはそこにいた。
ルーの足下からは、いつのまにか寝台が消えている。
彼女は水の上に浮かぶように立ち尽くしていた。
厳かな口調で、千切れた人型の闇がしゃべった。
「いるはずだ。───男ではなく、女が」
ルーをはさんで反対側に遠く、ボロボロのフードマントで全身をつつんだ小柄な人が、やはり水の上にぷかりと浮かんでいた。
その人は大仰に肩をすくめて言った。
「クトリ島から女の足で逃れられるはずはない」
千切れた人型の闇は、ゆるく頭をよこに振った。
「──の乙女ならば」
ボロマントの小柄な人は、うなずいた。
「……確かにそれならば可能。運命を変える」
「遊戯の最終関門だ。千番目は死ぬが──」
小柄な人は、ふしぎそうに頭をかしげた。
「千一番目も生きてはいない。それでよいのでは?」
千切れた人型の闇は、低い声音で釘を刺した。
「ならぬ、早急に見つけよ」
「……御意」
「今代の星はふたつ。至上の銀。前代未聞なり。揃わぬうちに〈クトリの呪詛をもつ女〉を───殺せ」
鮮やかな血色のオーロラが、ゆらゆらと揺れていた。
本日、午後六時頃にあと一話、更新予定。




