後宮での生活 7
そうだ。なにをわたしは悠長に構えていたのだろう。
すぐにここから出ていくべきだったのだ。
こんな場所は、わたしのいるべき場所ではない。
身分不相応な部屋や衣装を与えられ、豪華な食事を出されても、それでわたしというものが変わったわけではない。わたしは庶民の出の、しがない宮廷料理人なのだ。
「メイリン様! お待ちください!」
後方からシェンインの声が聞こえてくる。けれど、わたしは振り向かず、廊下の先に向かって歩いていた。
広い王宮の中、わたしは出口を探していた。
ここから出て、もとの自分に戻るのだ。もう一度、宮廷料理人としての自分に戻るのだ。
もはや一度このような状態になって、もとの職に戻れるとも思えなかったが、それでもそこにしかわたしの居場所はないと思っていた。
それがわたしが目指した道であり、人生のすべてを賭けてきたものだったのだ。
「メイリン様!」
周囲では、何事かと女官たちがこちらをちらちらと見ていた。しかし、わたしが廊下をずんずん進んでいくのを止めるものは、後ろから追ってくるシェンインや彼女が従えている女官の他にはいなかった。
どこ?
どこに出口はあるの?
わたしはいったいどこに行けばいいのだろう――。
涙で滲む世界の中で、わたしは自分の行くべき道が見つけられずにいた。己の身の置き所がわからずに、後宮をさまよい歩いていた。
そのとき、視線の離れた先に、一人の人物が中庭を囲む回廊を歩いているのが見えた。
――王リーシン。
その姿は遠目にも堂々としていて、この国の王である風格が漂っていた。
皇太后の言葉は正しい。
わたしのようなものが、あの王の妃になるなど、夢物語だったのだ。わたしは一時、夢を見ていただけなのだ。
わたしは王がこちらのほうに近づいて歩いてくるのを見て取り、くるりと踵を返した。
「メイリン様!」
そちらには追いかけてきていたシェンインを始めとする女官たちの姿があったが、わたしは彼女たちのことには構わず、先を急ぐようにして、もと来た道を早足で駆けた。
早くここから立ち去らなければ。
王に見つからないうちに、ここを出なければ――。
しかし、それはどうやら叶わなかったらしい。
遠くからわたしの名を呼ぶ声が聞こえてきていた。
「メイリン!」
それはすぐに近くから聞こえるようになり、わたしは急いでその声から逃げるように足を速めた。
「待て! メイリン!」
しかし、その声はもう真後ろに迫っていた。その声の主はわたしの手首を掴み、わたしを強引に振り向かせた。
リーシンは、わたしの涙に濡れた顔を見て、驚いたような顔をしていた。
「どうした。なにがあった……?」
わたしは顔を伏せると、思い切りかぶりを振った。
「いいえ。なんでもありません……!」
「なんでもないわけがあるか。それに、いったいどこへ行こうとしていたのだ。随分と急いでいたようだったが」
なんと言って説明すればいいのか。ここから逃げて出ていこうとしていたことを聞いたら、彼はどう思うのだろう。
言い淀んでいるわたしに、リーシンが先に口を開いた。
「もしかして、なにか嫌なことでもあったのか? なにか困っていることがあるなら、なんでも言え。おれがなんとかする」
今朝あったことをここで話したとしても、それが解決に繋がるとは思えなかった。きっと王と皇太后との間に、いらぬ諍いを起こすだけだ。
それよりも、わたしが黙ってここからいなくなるほうが、ずっといい解決になるような気がした。
黙っているわたしに、リーシンが思いついたように言った。
「もしかすると、母上か? 母上が、お前のところに行ったのか?」
黙っているわたしの様子に、それが答えと見てとったのか、リーシンは言った。
「そうか。くそ。あのわからずやめ。おれが行って、余計なことをするなと諫めてやる!」
「やめてください!」
悲痛にそう叫んだわたしに、リーシンは眉をひそめた。
「皇太后様がわたしをお認めにならないのはもっともです。やはり、この婚約は間違っていたのです。わたしが王族の一員となるなど、許されないことなのです!」
それを聞いたリーシンの瞳は、悲しげに揺れた。
「違う。違う違う! そうではない! おれとお前が結婚することは、間違ったことなどではない! 身分の違いなど、なぜそれほどまでに気にするのだ! おれを見ろ! 王という肩書きではない、このおれ自身を見ろ!」
吐き出すようにしてそう言ったリーシンの痛切な言葉は、わたしの心を打った。
「おれが! おれ自身の意志で、お前との結婚を望んだのだ! それを、他人が妨害することは許さない! 母親といえど、それをすることは許せることではない!」
リーシンはそう言うと、踵を返し、足早にどこかへと向かい始めた。
きっとこのまま皇太后のところへ行くつもりなのだ。
わたしはそれに気づき、慌てて呼び止めた。
「お待ちください! 王様!」
「止めるな! もう我慢がならん! 母上には、よく言って聞かせねばならん。もう、おれは母上の言いなりにはならぬと! おれの決めたことに、口を出すことは今後一切許さぬとな!」
ずんずんと怒りも露わに大股で歩くリーシンに、わたしはついていくだけで精一杯だった。
「やめてください! お願いですから!」
そんなわたしの言葉など、逆上して興奮しているリーシンには届かなかった。
止められない。
こんな王様を止められる人など、今ここには誰もいるはずがない。
わたしはいろんな意味で泣きそうになりながら、リーシンのあとを追った。




