第89話 使用人『千』①
気づけば当たり前のように『終焉の大陸の空』にいて生きていた。
どう生まれたのか、何故生まれたのか。
そんなこと知る知らない以前に、疑問に思う意識すら希薄だった。
まだら模様のように、いつでも空を飾っている『魔素溜まり』。生まれた魔物は空高く生まれおちたというのに、空を飛べるとは限らない。
そのまま落ちて死んでいくもの。抗うように自分の持つ力を工夫して浮かぶ者。咄嗟に進化を果たして奇跡的に空に適応する者もいる。
『GYAAOOOOOOOO──────ッッ!!!!』
地上からここ最近いつも聞こえる、咆哮。
──あるいは落ちてなお、生き延び、地の魔物を喰らうたくましい魔物……なんていうのも。
少しでも思考があれば、それらの魔物と同じように魔素溜まりから生まれて、今こうして空を歩いて生きているのだと分かってもおかしくはない。だが当然のようにその感覚はない。だから自分がどれだけの年月をそうしていたのかも、知りようがなかった。
体から糸をするすると出していく。
その一本の糸は、何重にも折り重なり、鳥の形になっていく。
そうしてできた鳥は精巧、精密で、ただでさえ生きているような出来だ。実際に羽ばたきだして動きだすのだから、なおのことそう見える。全身から目の奥までもが生気を感じさせないほど白く染め上がってなければ、生きていると心の底から思ったとしてもおかしくはなかったかもしれない。
パタパタと空へと飛びだした白い鳥。
何もないところで飛び上がったり、降下したり、反転したりと、不規則で不思議な飛び方をしている。
ある程度そんな飛び方をして、何かが落ち着いたのか。今度は同じ場所を維持するように羽ばたきながら静止していた。無機質に、機械の部品の一つとして、回り続ける歯車のように。
そんな白い鳥が無数に、何十、何百と飛んでいる。
その鳥の群れは、遠くからみれば全員で『球』の形を作っているように見えた。
鳥と鳥の間を、空飛ぶ魔物が勢いよく通り過ぎていく。
直後に魔物は、身体を切断されたように真っ二つにして命を失った。
命だった肉は放物線を描くように落ちていく。ついでにと、血飛沫を周囲に撒き散らしながら。
その血が通ったあとにほんのりと、飛んでいる鳥と鳥の間にはりめぐらせれていた『糸』が赤く浮かび上がる。
無数に飛んでいる白い鳥一羽一羽に、つながっている一本の糸。それが空中で立体的に、機能的に編み込まれていて、それを何百という鳥が支えるように飛び続けている。
それは宙に浮かぶ『糸の城』とも言えるような、紛れもない『蜘蛛の巣』だった。
その空に浮かぶ巣の中で唯一存在することを許される巨大な『蜘蛛の魔物』は、細い糸の上に立ち、降って湧いてきた魔物の死骸を掴んで口にしていた。
※ステータス※
神捕蜘蛛 LV2119
『種族』
蜘蛛族 魔虫族
『スキル』
模範模造 LV42
姿勢維持 LV35
環境適応 LV20
腕力強化 LV33
糸強度強化 LV24
気配遮断 LV17
観察 LV8
耐性強化 LV9
『固有スキル』
糸放操糸
※
魔物の死骸を口にしているのは、反射的にだ。
知っていることは『それ』だけだったから。
自分の身体と力の使い方。
身を守り、獲物を口にして、生きる必要があるという自然の法則への感覚。
そんな生の道をとことん挫くかのように、自分をゴミ屑のように土くれに還せる、強大な存在が腐るほど蔓延った過酷な環境の場所であるという現状の理解。
それだけが発生したときから備わって理解している事柄だった。
だから自分自身もその『過酷さ』の一部だということは、理解していない。
ついさっき死んだ魔物からしてみれば、腐る程蔓延っている強大の存在と、自身が何も変わりはしない、なんてことなど知るはずもない。
空に浮かぶ巨大な蜘蛛の魔物。
世界のどこかである亜人に畏怖され、語り継がれていようとも──結局のところ。
魔物が生まれて、死んでいく。
そんな終焉の大陸ではありふれた『過酷な環境』という背景を構成するその一部として──ただの『現象』でしかなかった。
空から糸を垂らす。
地上にまでのばしきると、適当な魔物の形をそこで造って地面を歩かせた。
こうしていればいつか、魔物を模造した糸に地上を生きる魔物がうまいこと誤解して食いついてくれる。そのあとはその獲物を糸で巻き取って、上空まで引き寄せれば狩りには事欠かない……普段なら。
最近は成果が乏しかった。
厄介な魔物が地上の一体を縄張りにして徘徊しているせいだ。
強くて硬くて素早くて、そこらにいる魔物を片っ端から口にする食い意地を張った、獰猛な魔物だ。おまけに狙った獲物は絶対に狙うのを諦めないほどしつこい。その魔物自体を狙ったことが一度あったが、体重が重すぎて上空まで持ち上げるのに苦労し、あげく硬すぎて牙が通らず、喰らうことも殺すこともできなかった。以降、あえて手をだすことをしていなかった。
それにこちらは上空、あちら地上。直接被害を被ることはない。
しかし邪魔臭いことこの上ないのは間違いない。
なのでその魔物が獲物を追っているときに、糸で作った魔物でちょっかいを出し、その獲物を横取りするような日々がここのところ続いていた。実際にそれで効率よく獲物をしとめることができていた。
その日も、その魔物は獲物を追いかけ回していた。
山と山の間にある両側が崖になった、岩だらけの一本道のような道を走っている。
あの魔物と一本道を追いかけ合うのは、一番あってはならない状況の一つだ。獲物の運の無さがわかる。
さらにそれに加えて、逃げていく方向から、糸で作った魔物がやってくるのだから。必死に逃げている最中に唯一の退路から挟み込まれたときの絶望はどれほどのものなのか、地上に降りたことがない蜘蛛にはわかりようのないことだった。
糸で作った魔物を、退路から獲物に近寄らせる。しかし獲物は怯むことも驚くことも減速すらもせず、逆に攻撃を仕掛けてくる様子で加速して突っ込んできた。
だがそんな行動は想定の範囲内だった。攻撃をしかけてきた獲物に対して、魔物を糸に戻して攻撃をすかして絡めとる。そして急激に巻き取って、獲物を上空に引き上げた。地上では名残惜しそうに元々追いかけていた魔物が空を見上げているがどうでもいいことだった。
感慨なんてありはしない。
それが事実だった。
しかし数秒後にそれが発生することになるとは、このとき思ってもいなかった。
打ち上げて、まるで喰われにきたかのように、すぐそばまで獲物はやってきた。その身体を一度にすべて喰らうように躊躇なく牙を伸ばす。しかしこのとき、なぜだか獲物の姿がブレた。まるで『そこにいると思い込んでいた』かのように。
そのせいで、実際に喰らえたのは身体の一部だけだった。足らしき箇所を喰らいながら、落ちていく獲物を眺める。
「【ペテン神】」
そんな音を発しながら、獲物は落下していた。
逃れられてしまったが、元々獲物を追っていた魔物が、大口を開けながら地面で待っている。どうやら今回は獲物を横取りすることはできなかったようだ。その事実に感慨はない。
「【部屋創造】」
落下し続けている獲物に向けていた、視界の端で何やら『変化』があったように見えた。だが小さな変化だ。気に留める必要があるとも思えずすぐに意識から消える。むしろ取り逃がした獲物すら、もうすでに意識から消えかかっていた。
「……はぁ。これだけはやりたくなかったな……。
──【爆破】」
ボンッと、爆発音があがって空気が震える。再び意識が獲物に向けられて集中していく。この場所ではあまりにもありふれた音だが、無視するには危険すぎる音だ。
しかしその音は、獲物がきっかけに発生したものだろうに、なぜだか『獲物自身』に向けられていた。まるで自爆──いや自爆そのものだった。
自爆した獲物はあらぬ方向へ飛んでいく。
身体から煙を上げて、皮膚を焦げつかせながら。
意図が理解できなかったが、地面の魔物が慌てたように走っているのをみてその意味を理解する。
吹っ飛んでいく獲物を目で追っていると、ふと、地面についさっき発生した『異物』が視界の端から現れ、徐々に獲物との距離を縮めていく。そして落下し、地面にまでたどり着いた獲物は、何回か跳ねて転がりながら、吸い込まれるように『異物』の中へと入って姿を消した。その直後にぱたり、と音を立てて、後を追うように異物の姿も幻のように消えていく。
「GYAAOOOOOOOO──────ッッ!!!!」
寸前のところで追いつけず、苛立つようにあげた咆哮が周囲一帯に響く。
「──────」
奇妙な感覚だった。
変な獲物だった──そんな『印象深さ』を抱いたからだ。
それは今までに抱いたことがなかった感覚だ。
そして危機意識以外で初めて、『記憶』という機能が働いたのも初めてだった。
その事実に一瞬困惑するが、すぐにこれまでと同じ、ただ生を掴み取るためだけの機能でしかない凪のような感覚に流され消える。
しかしそれは確かにあったこと。
だから『数日後』にその『獲物』が再び地上に現れたときに、見てすぐに分かった。
でも分かったからと何が変わるわけでもない。
地上を徘徊する魔物と『獲物』を懲りずに取り合っていた。
同じ獲物に同じ手段の罠が効き辛い。なので別の手段で獲物を釣り上げ、前回と同じように上空へ打ち上げた。今度こそ獲物を喰らうため。
しかしこの大陸で逃した敵と再び相対することが、どれだけ恐ろしいことなのか。このときはまだ知らなかった。
宙へ浮かんだ獲物はこちらへ手を伸ばす。そして──
「【爆破】」
と口にした。
次の瞬間、これまでに感じたことのない凄まじい衝撃と溶岩をかけられたような熱さが一瞬で身体を覆っていく。蜘蛛の巣がボロボロと焼け落ち、コントロールを失った模造の鳥たちが真っ逆さまに落ちていく。
そんな落ちているはずの鳥と、一向に距離が開く様子がない。
そう思ってはじめて、同じように落下していることに気がついた。
視界に見える自分の長い足からは、黒ずんだ煙が上がっている。それどころか焼け続けて、熱が籠っているのか赤く光を放っている箇所まであった。どれだけ強い爆発をくらえばこんなことになるのか。
しかしその事象を起こした当事者の獲物も、同じように落ちている。しかも獲物自身、爆発に巻き込まれたのか身体から煙があがっていた。前回自爆した爆発とはわけがちがう規模だったから巻き込まれるのは、当然の話だった。
しかし不思議なのは同じように落下しているはずなのに、距離が開いていくことだ。
明らかに獲物のほうがはやく落下している。
「【爆破】」
前見た時と同じように、獲物は自分の近くでわざと爆発を起こした。
その爆発を利用して、さらに加速して地面へ落下していく。攻撃だったさっきの爆発もきっと同じように利用していたのだろう。だから落下する速度が違かった。
そうして加速するのは何のためなのかは、すぐに分かることだった。
落下する力と加速した勢いのすべて叩きこむかのように、地面で大口を開けて待っている魔物の硬い脳天から、武器で串刺しするように貫く。凄まじい勢いに周囲で土煙が軽くあがっていた。魔物は貫かれた箇所から血だけを垂らしながら、大口をあけた姿格好のまま、絶命している。
その魔物の死体が、一瞬で消える。
「「「Gulolo……」」」
その間に周囲に何体もの魔物が集まってきていた。
「はぁ、目敏いな……。
ここらへんで最近幅をきかせてた奴らがいなくなった途端に、これだから──」
そう言って舌の根も乾かぬうちに新しい戦闘がまた始まる。
地面に落下し、死体と見分けがつかないほど、ぼろ屑のように転がっていたためだろうか。
か細い息の根を止められず、地面に這いつくばりながらその光景を眺めていた。
普段ならわざわざ目を向ける価値もない。
目を背けたところで視界に勝手に入ってくるほどの、ありふれた普通の光景だ。
敵も味方もなく入り乱れて、変わっていく環境の中で、血液と魔物の身体の部位が飛び交う光景なんて。
だからそんな光景になんて感慨など何も抱くはずがない……普段なら──。
今は『何か』が違った。しいて言えば感覚が違う。
──そう。
『光景』の方ではない。それを見ている自分の何かが違う。
何かが変わっている。何が、なぜ? わからない。
しかしそのせいで、こんなにもありきたりな光景が全く別の何かのように思える。
世界が、何かを飾り立てるかのように整って、きらきらと光り輝いて見える。
この『感覚』は一体、なんなのか。
不思議だ。
ぐらぐらぐら、と唐突に地面が揺れる。
それは戦いがちょうど終わり、死体の上で佇んでいた唯一の勝者が「はぁ……」と疲れたように息を吐きだした瞬間のことだった。
少し遠くで起きているののなのか、今いる場所では小さいものに感じられた。
しかし確実に何かが起きる予兆であることは間違いない。揺れが起きている方向へ、視界を移す。
視線の先にあるのは『山』だった。
徐々に大きくなっていく揺れに、同調するかのように、どこからか流れる『水の音』が聞こえ始めた。周囲に水はどこにもないのにも関わらず。
ボンッ、と冗談みたいな音が、一帯に響いた。
それは一つの『山』がまるごと、空へ吹き飛んだ音だった。
冗談のように吹き飛んでなくなった山が元々あった場所で、代わりに巨大な『水の柱』がその場所を占拠していた。空の青さと同化するほど高く、元あった山よりも太く伸びた水の柱は大きすぎて、水の流れが落ちているのか登っているのか、もはやわからない。
それが『登っている』ことがわかるのは、限界まで昇り切った水の柱の頂上部分が『落ちてきた』ときだった。真上から視界の広さを超えるほどの巨大な水の塊が落ちてくる光景は、空が落ちてくるのに等しく思え、恐怖で身が固まる。もはやミニチュアのようにもみえる宙に浮いた山が、バラバラに崩れあらゆるところに降って注いでいる光景なんて、とうに存在が霞んで意識にもない。
ぐにゅりと、落ちている途中で、水の柱の先端部分が気まぐれを起こしたかのように再びまた空へ昇りはじめた。そして再びまたどこかで落ちては昇り……そんな動きを何度も繰り返して、水の柱は空をうねりながら進む。まるでそれ自体が生きているかのように。
「──《津波》か」
水の柱が、小さな水の破片を撒き散らして、いたずらに立派な『湖』をいくつも作り出しながら、空を移動していく光景を視界にとらえていると、側で音が聞こえてきた。どんな意味の音なのかはわからない。ただの音としてしか捉えられなかった。
「『現象の魔物』。すべての魔物の到達点。
圧倒的で、強く、孤独……。
そして、どうしようもなく──」
だけど次に発せられた音は、違かった。それだけはなぜだか心で認識できた。
これまでただの『音』としか認識できなかったものが、『言葉』として自分の中に入って溶けていく。その言葉を中心に、バラバラの自分が一つにまとまっていく。
ああ、きっと『それ』なのだろう。
──美しい。
自分の中にあった感覚は、間違いなくそう呼ばれるものだ。
漠然で曖昧で感覚的な話だった。だけどどうしようもなく、疑う余地がないほど、確かだった。
「ダメだな……。これじゃああまりにも『弱い』……。
もっと──研ぎ澄まさないと。
諦めて、切り捨てて……もっと……強く……」
誰に向けたわけでもない発せられた言葉。
相変わらず意味は分からないものの不思議とある部分だけは、感覚で聞き取ることができた。
駄目──なのだろうか。
そうなのかもしれない。
でも命が尽き果てていく、今最後のこのときを、この感覚の中にいられるのはとても得難いことのように思えた。
少なくともただ厳しさという背景の一部として──『現象』として死ぬよりかは、ずっと……。
身体から力が抜けていく。
それはずっと前から自覚していることだった。
その流れに逆らうつもりはなかった。
なのに──使ったことのない『機能』がこのときまた働いた。
それは『欲』だった。
もっとこの感覚を。
もっと美しさを。
もっと味わって、世界を──
『生きたい』。
次の瞬間、視界を光が覆った。
見飽きるほど見てきた、虹色の光。誰もが警戒を抱くその色に、危機感が募る。
「──この光は……」
微かに『言葉』が聞こえる。だけど最早それどころではない。
身体がドロドロにされてかき乱されているような感覚。
痛み、吐き気……それに尋常じゃない量の情報が許容範囲を超えて詰め込まれる。様々な種類の苦しみが、何重にもなって、同時に襲いかかっていた。あまりにも壮絶で、のたうち回りたかったが、身体が動かずそれすらもできない。ただ耐えるしかなかった。
「やっぱり、また、これか。
あの空にいた、蜘蛛の魔物か?
死んでいたと思ってたけど、まだ生きていたんだな……」
声が、すぐそばで聞こえた。
「魔物が『人間』になる……。もう何度もあったのに未だ、理由が全くわからない。
それに『外』で人間になった魔物と出会ってもおかしくないはずなのに、そういう気配は全くないっていうのが、不思議だ。今までも全部、魔物の時にすでに会っていたやつが人間になるパターンしかない」
ゆっくりと、目を開ける。
──怖い。
最初にまず、そう感じた。本能的にだった。
あらゆる感覚がこれまでと変わっている。風の感触、目に映る景色、色、思考回路。身体の動かし方も違う。
恐怖すらも、より生々しいものになっている。以前の機能としての恐怖とは比べものにならない。直接心臓につながっているかのように鼓動にまで影響してくる恐怖なんて、弱点をふやす欠陥した機能にしか思えない。
自分が今曝け出している無防備さと、何が起きたのか理解できなさに、とめどなく恐怖が溢れ出す。
「大丈夫か?」
顔をあげる。
何もかもが変わったと思っていた中で唯一変わっていないものがそこにあってようやく少し安心する。
だが相手がこちらに何かを言っているのはわかるが、まだ言葉も、声の出し方も分からない。もどかしく口をパクパクすることしかできない。
「ほら──」
ただその『差し出された手』の意味だけは、分かった。
やっぱり感覚的に、わかることができた。
それをどうするべきなのかも。自分がそれをできるかどうかも。
動かし慣れていない手を伸ばす。
そして──その手を掴んだ。
◇◆◇◇◆◇
木の上で寝ていた『魔避けカヅラ』が、ぼとりと地面に落ちた。
寝ぼけていたわけではない。唐突に感じ取った『強大な気配』のせいで気絶したからだ。
でも落ちたのは間違いなく、幸運なことだった。
なぜなら寝床として使っていたその木は、落ちた次の瞬間には、吹き飛んでいたから。
異常な速度で飛来する『肉塊』が直撃したことによって、粉々に。
飛ぶ『肉塊』は、さらに木を数本折って、ようやく止まる。
周囲では粉々になった木片と、血液と、土埃がごちゃごちゃになってまみれていた。
音で無理やり意識を覚醒させられた魔避けカヅラが、飛び起きて逃げさっていく。
その側でついさっきまで、飛来していた肉塊がよろよろと立ち上がっていた。べちゃりと血液を、こぼれ落としながら。
「小笠原さんッ! 無事か!?」
吹っ飛んでいった小笠原に声をかけながら、小走りで近寄っていく。
──ほんの一瞬だった。
【重力増加】をものともしないメイドは、一瞬で距離を詰めて虫の脚を使った一撃を小笠原に喰らわせた。そして明らかに人が飛んではいけない速度で、小笠原が物のように飛んで行った。
「幌……くぅん〜……。ヤバイよ……アイツ……。本当にシャレになってない……かも。少なくとも攻撃を『防ぐ』なんて考えちゃだめなタイプだよ、アレは……気をつけてね……。そんなことしたら全部『持ってかれちゃう』からさ……。見てよ……【脂肪強化】で上がってる防御力でこの様だよ……」
赤黒く染まった脇腹を押さえながら小笠原が言う。勇者の制服の頑丈さと、少しふざけた名前にみえるが名前に似つかわしくない程度には性能がいい『ユニークスキル』の【脂肪強化】によって上がっている防御力をたやすく貫かれ、服まで染みている赤黒さは今もなお大きくなり続けている。
小笠原に容易く、ここまでの深傷を負わせる相手に戦慄を覚えずにはいられない。
「真正面から直撃で防いでたらでかい穴を空けて死んでいたねぇ……」
弱気に告げる小笠原。
しかし脂汗をかきながら、ニヤリと笑った。
「まぁでも攻撃を食らって接触したときに【重力増加】を
『単独指定』にかえてあげたからねぇ。ただでやられたりはしないよ、僕はさぁ」
『単独指定』──【重力増加】で、能力を使用する相手を指定する方法の一つだ。範囲内にある、あらゆるものに効果を発揮する『範囲指定』と違って、『単独指定』はたった一つにしか能力をかけられない。しかも直接触ってかける必要があるため、近接戦闘が好きじゃない小笠原は毛嫌いしており、戦闘中にはもっぱら範囲指定を使いがちだ。
しかし一度かけてしまえば『単独指定』の効果は『範囲指定』効果よりも数倍強い。レベルが低い者なら下手したら圧死か呼吸困難に陥る。幌も単独指定で能力がかかった剣を拾おうとしたことがあるが1ミリもズラすことすらできなかった。
「これで奴も少しは──」
そう自信をにじませながら言葉を発する小笠原に、内心では同意しながら話をきいていた。
──ザッ……ザッ……。
だが、土を蹴るような足音が聞こえて、ピタリと会話が止まる。
──ザッ……ザッ……ザッザッザッザッ。
聞こえてくる音のテンポがあがっていく。
反射的に小笠原の顔をみると、青ざめた顔と怯えた目で、音が聞こえてくる方向へ釘付けになっていた。
……これは、かなり不味いな。
「ダ……ダメだ、幌くん。
ヤバイ、もう坂棟くんどころじゃないよ、これ──」
さらに木がへし折られ、倒れていく音が加わった瞬間。
咄嗟に小笠原と行動を起こしたのは同時だった。
「──逃げるよッ、幌くんッ!」
「あぁ、分かった!!」
暗い森の中を走る。背後から聞こえる木がへし折れて倒れる音が増して激しくなる。
相手にとって樹海に生えた立派な木なんてものは、道端の小石を蹴り飛ばすようなものなのだろう。
「小笠原さんッ! さっきの道に戻るべきだ。
暗い視界のメリットが向こう側に働いたら最悪だ。
俺たちは何も暗視系のスキルを持っていない」
「はぁ……はぁ……。わかったよぉ……幌くん……!」
しんどそうに走る小笠原の返事を聞いて、進路を少し変える。
それからすぐに、月明かりに照らされた道へとまた戻って、道沿いに小笠原と走りだした。それから少しして、凄まじい音をあげて、木を吹き飛ばしながら月明かりの元に虫メイドも戻ってきた。
視界の端で吹き飛ばされた木片が追い抜いていくのを見て、一瞬後ろを振り返る。すると普通の人間の足で走りながら、背中から生えた虫の脚を補助のように使って、能力の効果なんてないかのように走っている姿がみえた。
本当に能力が効いているのか……と絶望に襲われそうになる。だがよくみると一歩踏み出すたびに、踏み込んだ足が沈むように地面にめり込んでいるので確かに効いてはいるようだ。最初に小笠原に一撃を加えたときの、あの一瞬にも思えた距離の詰め方を思い出すと、天と地の差がある。
つまり効いていて、この速度ということか……。
みるみると距離が詰まってきている。このままでは追いつかれるのは時間の問題だ。
「……使うしかないよ。幌くん……。【千林】くんを……」
それを小笠原も分かっているのか息を切らしながら言ってきた。
「…………」
「大丈夫だよぉ……幌くん……。はぁ、はぁ……欲をかかなければいいんだよ……。あの虫女が倒せなくても……坂棟くんが取り戻せなくても……もういいんだ。ここから生きて帰れることが最優先で、それだけで、もう……。願いを下げれば費用も……変わってくるはずさ……はぁはぁ……」
「……確かにそうだ、もうやるしかないだろう」
「はぁ……はぁ……。なら今から僕が時間を時間を稼ぐから、その間に『交渉』を終えてね……頼むよぉ?」
「……わかった」
しかし『時間を稼ぐ』といってももうやれる手段はほとんど残されていない。一体どうするつもりなのか。【千林】を出しながら、横目で様子を伺っていると、小笠原が取り出したものを見て方法に納得がいった。それならば多少時間が稼げる可能性があるだろう。
意を決した様子で、小笠原は取り出した『指輪の神器』を指にはめた。
「『逆転の神器』──【重力増加】ッ!」
能力を発動した瞬間、追ってきている虫メイドの踏み出した足が空振り、一気に進む速度が減速する。一瞬不思議そうな表情を浮かべていた虫メイドだが、すぐに何が起きたか気づいたようで、走る動作そのものを、もはや止めている。
当然そうするだろう。地面に足がついていないのに走ったところで前に進めるわけもなく意味がないのだから。
フワフワと、無重力空間に一人だけ放り込まれたかのように虫メイドが宙へ浮いていく。小笠原の能力が神器によって逆の効果になって発動した結果だ。
「どれだけ強かろうが早かろうが地面を踏めなきゃ前には進めないからねぇ……。【重力増加】が効かないような化物には、こっちの方が案外効くなんてことも多いからさ……。今のうちに幌くん、千林くんと交渉をしてお願いしちゃってよ……」
うなずき、足を止めて、出現している千林と向き合う。
千林は地面に立ちながら、口の端を深めに吊り上げて不気味に笑みを浮かべているだけだった。いつもはやかましいのにこういうときに限って静かなのは気味が悪い。しかもそれを分かっていてやっているのだから、意地が悪いやつだと思う。
「千林──」
「げえッ!?」
千林と向き合ってかけた声を、かきけすほどの小笠原の声に、慌てて立ち上がる。
それから小笠原の視線が上へ向けられていることに気づき、同じ場所へ目を向けた。
視線の先では、逆転した小笠原の能力の影響で身体が『逆さ』になっているにもかかわらず、何もない空中を平然と歩いている虫メイドの姿があった。
「なっ……」
ふわふわと、幻想的にも見える白い蝶が空中を何匹も不自然に飛びかっている。その蝶と蝶の間では、時折月の光が反射していくつもの『線』が交差している姿が浮かび上がるのが目に見えた。それが何かはわからない。
ただ一瞬、たまたますべての線が月に照らされて、全体が浮かび上がって見えたとき。それは空中に作られた『蜘蛛の巣』のようにも見えた。
クスクス。
微笑みながら、何もないように見える空中を、一歩一歩確かな足取りで歩いている。
進むのを止められない。
それどころか、姿勢をしゃがむように低くしている。
背中の虫の脚も、強くしなりながら折り畳まれて、とても強いバネを縮めているように見える。
表情の消えた顔が、狙いを定めるように真っ直ぐにこちらへ向けられたとき、怖気が走った。
「と、幌くん。ヤバイ、逃げないと……。止まっちゃだめだ……」
直後にどうなるかなんて想像するまでもない。
すぐに飛びかかってくるだろう。へたしたらそのままの勢いで殺される。
小笠原のいう通りだった。
「……なんだ?」
しかし虫女は予想に反して飛びかかる姿勢をといた。
もう一度逆さの状態に立ち上がって、こちらに背を向けるように背後へ体を向けた。
その直後、『何かの攻撃』を虫の脚で弾いていた。その証拠に、周囲では甲高い音が鳴り響いた。
今のは──
「魔物か……?」
「確か、冒険者ギルドから借りた資料に載ってあったねぇ……。あぁ、やっぱりそうだ。竜木の一つを支配してる『樹新婦』って魔物だよ。大人しいが戦い出したら獰猛で手強いっていう、夜型の魔物だ。月が昇って活発化したのかもしれないね……」
解析の神器を使った小笠原に教えてもらう。
やがて魔物が月明かりの元に出てきて姿があらわになる。人サイズの盆栽を背負ったような蜘蛛型の魔物が、大きさと不釣り合いなほど長い手足を使い、空中にいる虫女に飛びかかるように襲いかかって攻撃をしていた。
ふと、目の前を光る何かがヒラヒラと横切る。
……花びら?
「なんかよくわからないけど……なんにせよ……急いがないとダメだ……。走って距離を開け続けながら交渉をするべきだよ、幌くん……慌ただしいけど。あんま時間は稼げなさそうだからねぇ……」
「そうだろうな……」
さらに新手として『樹新婦』がもう一体、坂の上から現れている。他にも何やら、わらわらと蠢いている黒いシルエットは小蜘蛛だろうか。なんにせよ尋常じゃない数だ。あれはあれで侮れないことは間違いない。
「(だが……)」
小笠原と一緒に、再び夜の森を走り出した。
脳裏に焼きついた、光景を振り払うように。
樹新婦が力がない姿で、虫の脚にただの一撃で『串刺し』になって絶命していた、その光景を。
「おいおい、大変そうだなぁ〜幌〜。
忙しいならあとにしてやろうか〜?」
併走して飛ぶ【千林】が、ニヤニヤしながら声をかけてくる。
「……馬鹿を言うな、千林。
状況は分かっているだろう。『あいつ』から逃げ切るために助けを借りたい、その願いに対価は何がどれくらい必要だ」
「んだよぉ〜せわしねぇなぁッ!!
もっとお喋りしてもいいんだぜぇ〜ッ!? ギャハハ──」
遮るように千林を睨み付けると「おぉ〜恐ぇ!」といって身体を震わせる。そのあと、落ち着きを取り戻すように咳払いをしていたが、そのときにもまだちょっと身体が震えていたのは、本当に怖がっていたのかおちょくってるのか、いまいちわからない。
「幌ぃ〜。俺にとっての『価値』は、覚えているよなぁ……?」
「……あぁ」
能力のレベルが上がり、初めて【千林】を出したときの記憶が蘇る。
──俺は『極上の価値』が好きだ。
能力を把握するために、自分が【千林】と名付けた三体目の【価値人形】と向き合って会話をしたときに、まず最初にそう言われた。
『俺の好みに合えば、願いに対しての対価をまけてやるよ』
『その、極上の価値というのはどういうものを言っているのか、教えてくれ』
『空腹なときと、満腹なときとじゃあ、同じ飯だとしてもうまさはちげえよなぁ〜〜。言ってしまえばよぉ〜〜俺がいう価値っていうのは空腹な時の飯なんだ。わかるかぁ〜? そしてその逆が誰もがもつ普遍的な価値……ま、一番わかりやすいのが金なわけなわけだがよぉ〜〜……はぁ……だから今クソしらけてるんだよなぁ……』
部屋を埋め尽くす『金貨』に、千林はあきれるようにため息をついた。。
ベリエット帝国が『代償型』のために割り振っている専用の金庫部屋で会話をしていた。前回の百蘭の例があったために、こうした判断をとったが、どうやら間違っていたようだ。
『叶えられる願いと、叶えられないが願いが人にはあるよなぁ、幌?』
『あぁ、そうだな』
『さらに叶えられない願いにも、諦められる願いと──諦められない願いがある』
『……あぁ』
『願いが叶わない。だけど諦められない。矛盾だ。矛盾してるじゃねーか。アァ!? そんな矛盾を覆そうとしたときが、最も価値にとって極上な瞬間だ。何にかえても叶えたい願いも、深く身を削るほど自分に結びついた対価も。どっちも最高! それは臓器みたいなもんだ。深く身に結ばれた血が通った価値。生きたいやつも死にたいやつも望んで差し出しはしねぇ、身を切って今後の人生を不便にすることなんか、わざわざしなくねぇししなくていいことだからなぁ〜〜。だけど叶えたい願いの前には臓器も、飢えた時に差し出された飯も、苦悩の末に差し出しちまう。矛盾は価値の特異点だ。幌〜〜〜お前がこれから何を願い、何を差し出して、生きていくのか。楽しみだなぁ〜〜』
思い返してみると、その時の会話はまるで今この瞬間のために言われたのではないかと勘ぐりたくなる。
情報としてしか聞いていなかった言葉が今、脈打ち始めるように、実感を伴った言葉に変化している。
──これから身を切るように、大事な何かを差し出さなければならない。
「やっとこの日が来たなぁ〜〜。幌ぃ〜〜。
待ちわびたぜこの時をよぉ〜。
あいつは半端じゃねえからなぁ〜〜!
臓器一個なんてもんじゃ桁が違うレベルで割が合わねえぞぉ〜〜〜!!」
「……何が必要だ。どうすればいい」
「あ〜……小笠原の命──」
眉間にシワが寄る。
並走している小笠原がギョっとした様子で千林の方をみた。
「──は……いらねえわ……。
ギトギトして、脂っこそうだしな、ギャハハハ!!
あ〜いいのがあったわ、クソ幌。
お前が今差し出せる中で一番『価値の高い』ものがなぁ〜!!!」
「……それはなんだ」
千林は意地の悪い笑みを見せつけるように、ぐっと幌の顔のそばまで近づいて告げた。
「お前が苦労してここまで至ってきた『旅の成果そのもの』だ!!
どうだぁ!? ギャハハハ!!!」
「『旅の成果』だと……? ……どういうことだ」
「『記憶』だよ。きーおーく!!
お前がこの旅で得た『最も価値の高い記憶』を代償によこせ!!
それで願いを叶えてやるよ!!」
──記憶。
そんな形の『代償』もありえのか。
「…………」
怪訝さに、だまりこむ。
すると、横から小笠原が話しかけてきた。
「はぁ……はぁ……。
なにそれ……幌くん、そんなの絶対叶えてもらうべきだよ。お買い得じゃん、そんなのさぁ……。間違いなくそれって『坂棟くんが生きてたこと』と……彼女が『辿魔族と組んでいた』ことの二つでしょ? ……だったら幌くんがそれを忘れたところで問題なんかないよ……だって僕が覚えてるんだからさぁ……はぁ、はぁ」
……そうだ。
幌自身が覚えてなくても、小笠原が覚えていればその提案は実質ノーリスクに等しい。ベリエットに小笠原が報告すれば、情報は勝手に機能して動き出す。記憶を弄られるという事実に薄気味悪さを覚えるがそれは所詮気分の問題で、生死の境にいる今気にするべきことではない。小笠原のいう通り、『お買い得』だ。
だからこそ──『都合が良すぎる』という考えが頭によぎる。
本当にたったそれだけで、この状況から助かり生きてかえることができるのか?
考えればきりがないが、それを考え切る時間は残されていない。
後ろへ一瞬振り向くと、死体になった二体目の樹新婦を投げ捨てている虫メイドの姿が視界に入った。片手にもった『網』の中には大量の小蜘蛛が捕獲されており、もはやこちらを追うのに障害だったものをすべて取り除き終えている様子だった。
そしてゆっくりとこちらへ、逆さのまま顔を向けられる。
感情のこもってない貼り付けたような笑みと無機質な瞳に、背筋が氷の棒でなぞられたかのように怖気が走る。
「……願うんだッ! 幌くん!!
それしかないよ、もう!!」
そうだ。それしかない。
願わないなんて選択肢など、もはや取りようがないのだから。
意を決して、千林に告げた。
「【千林】、取引だ。俺がこの旅で手に入れた『最も価値の高い記憶』を差し出す。その代わり、追ってくる敵から俺たちを生きて逃せ。それが願いだ」
そう告げると、千林は激しく笑って、その場で止まった。
依然と走り続けているので、距離が離れ、千林を後方へ置き去りにする形になっていく。
「交渉成立だなァ〜〜〜!」
止まった千林が光り始め、ボンッと音があがり、煙が立ち上る。
すでに魔物との戦闘を終えた虫メイドは当然こちらへと来ている。千林の得体の知れない動きを最後まで待つこともなく、虫の脚で千林に攻撃をいれていた。
だがその攻撃を、人サイズにまで大きくなった千林は止めている。
「おぉ……! 千林くんの戦闘フォームだねぇ! 百蘭くんと十華くんのやつはみたことあるけど、千林くんはなんていうか……アメリカのダークなヒーローみたいだねぇ」
「…………」
走りながら二人で後ろの様子を伺っていたが、幌も同様の感想だった。
背が高く、全身は黒に染まり、男特有の筋肉質で強靭な身体が浮かびあがるように強い主張をしていて、背中には大きな黒い羽。人形のときの千林を彷彿とさせる顔を覆ったマスクをみると、完全に小笠原の言うそれだった。
千林は虫メイドの足を投げ捨てて、高いテンションで咆哮のような叫び声をあげていた。
「よっしゃぁ!
パワー全開だぜぇ〜〜〜〜〜!
うおおおおぉぉぉぉぉぉ〜〜〜〜〜〜ッッッ!!!」
まるで隠された力を開放するように千林を中心に『風』が巻き起こる。
その風のあまりの激しさと強さに、横を葉や枝が通り過ぎていく。
「……なんか本当に強そうだね……攻撃も受け切れてたし……。それになんか今もまだ力みたいなのを開放してるような様子だよ。まだまだ風が強くなってるね」
「……いちいち逐次開放していかずに、最初から強いのはだめなのか?」
走りながら背後の千林へ訝しげな目を向けていた。
数秒たっても風はやまない。それどころかなぜか体が光始めていた。
『──ウウウウウウォオォォォオオオオオオオ!!!!!!』
千林の声が辺りに響き続ける。
「ッ! 小笠原さんッ──」
そしてこれまでで一番の風が吹く。
それは最早爆風といっても過言ではなく、走っているとその風に乗せられて身体が浮きそうになるほどだった。
やがて風が収まると、千林の身体は仄かに光っていた。
「ど〜よぉ〜。これでマックスパワーだぜッ! オイッ!!
身体の強さもお前と並んだこの俺をよぉ〜ッ!
止められるかァアッ!? なんだぁ!?」
言葉を言い終える前に、千林の目の前に巨大な何かが飛来しながら迫ってきていた。
それは千が持っていた『網』だった。小さく細かい網目の奥を覗くと、小蜘蛛が大量に中で蠢いている。
「はっ!! そんなもんッ、まともに受けると思ってんのかぁ〜〜〜アァン!?!?」
避けるのは容易いことだった。
ただ、身体を攻撃の軌道からずらせばいい。それだけで攻撃は通過していくのだから。
だが『網』におかしな動きが起きたのは、すれ違うその瞬間だった。
両手を広げても抱えきれないほどだった網の大きさが、大きめのボールくらいの大きさに唐突に『縮んだ』のだ。
「あ?」
見た目から感じてた威圧がなくなり、拍子抜けしたような感覚が起こる。だが直後に縮んだということの意味を嫌でも理解することになった。そもそも考えればわかる話だった。ただでさえはち切れそうなほど、小蜘蛛が中にパンパンに詰まった網が、無理やり縮めばどうなるか……なんてことは。
大量の濁った色の小蜘蛛の体液が、絞り出され、周囲に巻き散らかされる。バラバラになった小蜘蛛の身体の一部も、カスのように混じっていた。
間近でそんなことが起きた千林に、影響がないはずがなく、全身にそれが降りかかった。ねっとりとした液体が体や顔中にまみれて、視界を一時失う。叫びながら慌ててそれを拭った。
「おげぇぇぇぇぇ!!! なんだこりゃ、気持ちわりぃ〜〜〜っ!
いくら臓器が好きって言っても、濃厚小蜘蛛ジュースはお呼びじゃねぇぇぇぇ──うっ」
どすっ、と。千林の身体が揺れた。
小蜘蛛の体液で、ぼやけた視界から微かに目の前にいる千の姿をとらえる。小笠原の能力が切れているのか、興味なさげに無表情で地面の上に立っていた。
そして背後から伸びた虫の脚が、太い一本にまとめるように束ねられ、それが真っ直ぐに千林に向かい伸びている。どこに伸びているのか目で追うと、胴体を貫くように突き刺さっていた。
身体の内側で突き刺さったものがピクリと、動く。
それは束ねて刺さった脚が、再びその場で『開こう』とする動きだ。
その瞬間に、直後の運命を悟った。
「あぁ〜……。『戦闘力』は再現できても、『経験』はいただいた価値じゃあ再現できてなかったかぁ〜……」
千は一本のように束ねて突き刺した脚を、千林の身体に刺したまま開くように力を入れた。内側から開く、強烈な力に耐え切れず、次の瞬間千林の身体はバラバラになって周囲に撒き散らされる。
『仕方ねぇなぁ〜……初陣は……こんなもんか……ギャハハ……』
最後にそんな言葉を残して、空気に溶けるように千林が消えていく。
残された千は無表情で、小笠原と幌が走って逃げていた方向へ視線を向けるが──すでに二人はそこにはいなかった。