第68話 VSゴブリン(?)
ギィと、掠れた鳴き声と共に草藪をかきわけて森の奥から現れた魔物、それは──
くしくも……かつて終焉の大陸でもそうだったように。
この大陸で"生きて"初めて相対した魔物は『ゴブリン』だった。
群れで行動をしてはいないのか、続けて仲間の影が現れることもなかった。たった一人で現れたそのゴブリンは、姿を見せたその場所で、俺たちがいることに呆然して立ち止まっていた。
しかしすぐにゴブリンは我にかえると、今度はきょろきょろと立ち止まった場所で周囲を確認し始めた。状況の把握をしているのだろうか。しかし完全にこちらから、目を離すことをしていない。
そんなゴブリンがどうするのかを、俺たちは黙って観察していた。それしかしようがなかったからだ。はっきり言ってこのゴブリンが襲ってこようが、逆に逃げていこうが、どちらでもいい。こちらから何かをしかける必要性は何一つだって無いのだから。
ただ一つだけ重要なことがある。そしてそれはちょうどいいので今済ませておくことにした。
「【鑑定】」
俺は当初の目的である情報を得るため、ゴブリンへ向けてスキルを発動する。
※ステータス※
ゴブリン LV95
【種族】ゴブリン
【職業】虫使い
【スキル】
・虫呼び LV7
・交心 LV3
・料理 LV1
・環境適応 LV1
※
「……すごいな」
思わず声を漏らす。
目の前に現れた情報に驚いて、だった。
「レベルが『二桁』か……さすがに初めて見たな」
終焉の大陸の中でも、比較的弱い魔物が生息している傾向がある沿岸部でもレベルが三桁を下回った魔物は見たことがない。
これまで俺は大陸の外からやってきた日暮やティアルに、『終焉の大陸は桁が違う』と散々言われてきた。確かにそうも言いたくなるだろう。なんせ文字通り、本当に違うのだから。
「何レベルなんじゃ?」
「……『95』」
「ふーむ、なるほどのう」
「…………」
傍らでティアルが【鑑定】スキルを持った日暮に、尋ねる会話が聞こえてくる。
「これがこっちの大陸での、普通のゴブリンか。確かにあの大陸にいるのとは桁が違うな」
二人の会話に、そう言って混ざる。しかし二人は俺の言葉を聞いて、微妙な表情を浮かべた。何か的外れなことを言ってしまったのだろうか。日暮は、少しだけ言いにくそうにしながら話しかけてきた。
「違うよ、秋」
「違うって、何がだ?」
「このゴブリンは『普通のゴブリン』じゃ、ないんだ」
なるほど、と納得する。
確かにいくらなんでも弱すぎる。レベルも身体つきもまるで戦えるとは思えない。即座に俺はそう考えたのだが──
「このゴブリンは『強すぎる』」
日暮の言葉は、想像とは真逆のものだった。
「強い……?」
『95レベル』のゴブリンが……?
「私が召喚されてからこの世界で初めて戦ったゴブリンは『5レベル』だった。この樹海は『危険地帯』に指定されるような場所だから……他の場所にいる普通の魔物よりも、かなり高いと思う」
要するに日暮たちの言っていた『桁』は、俺の想像しているよりもさらに一つ下だったわけだ。確かにレベルの基準が海を越えただけで、あまりにも変わりすぎている。今俺が低すぎて驚いているのと同様に、ティアルと日暮が終焉の大陸でレベルが高くて驚いているのだとしたら……それはとてつもない話だろう。
思わず言葉を無くしかけたものの、しかし気持ちを持ち直した。
『上』に想像を越えているのならばともかく、『下』に想像を越えているのであればそこまで支障はないだろう。
「相変わらず人間はレベルの基準が低いのう……。とはいえ、この森もそこそこは厳しい環境じゃからの。他の獣とも見分けがつかない低レベルのゴブリンに比べれば、だいぶ高い部類には入るであろう。これくらいのレベルからそこそこ頭も回りはじめる。このゴブリンもすぐに、人数差の不利を察して逃げ出すはずじゃ」
そうだろうな、と心の中で同意する。
唐突に遭遇したゴブリンは、未だ茂みの中からこちらを伺っている。
俺はさっき俺自身の立場で、ゴブリンが戦うか逃走するかをあげたが、しかし実際ゴブリンからしてみればとれる選択は一つだけしかない。不利な状況を察して逃げることなんて知能の低い魔物でも当然のようにすることだ。
──ガサリ。
しかしだった。
茂みが揺れ、葉の擦れる音がなる。
ゴブリンの行動は予想に反したものだった。茂みに半分隠していた姿を現し、広場の中に向かって、俺たちとの距離を詰める一歩を踏み出したのだった。
そのまま広場にまで出てきたゴブリンは持っていた武器を構え出した。構えた武器は見るだけで手入れがされていないことがわかる粗末なものだったが、しっかりと槍としての形を成していて、この点に関していえば魔物の牙や骨を振り回していた終焉の大陸のゴブリンを越えているかもしれない。
「ふむ……。面白いのォ……」
槍の穂先を向けられながら、ティアルは目を細めつつ呟いた。そして俺もまたその言葉に少なからず心の中で同意した。
俺は……俺たちは、遭遇してから今までこのゴブリンを認識してはいなかった。漠然と『この大陸のゴブリン』と括り、その一部分でしかなかった目の前のゴブリンという個のことを、ようやく今認識した。
ゴブリンは、今この瞬間も槍を向けながら俺たちの方へゆっくりと近づいている。それは本来ならあり得ない行為だ。戦力差が分かっていないのかと思ったが、そんなわけでもない。ゴブリンの進み方はよく見ると、緊張してぎこちがなく、瞳には恐怖の感情が浮かんでいる。だがなぜか同時に、身体全体から戦意もまたしっかりと感じられるというのがどこか矛盾していた。
逃げだせば簡単に逃げられるはずの、俺たちを前に逃げず、あえて戦う姿勢を見せる『このゴブリン』の様子は……ティアルではないが、何故なのか疑問を抱いてしまう。
ほんの少しだけきな臭くなってきた状況を前に、無意識に五感が研ぎ澄まされる。どれだけ自分との実力に差があろうが、明確な戦意を前にして、全く構えずにいられるほど余裕を持って生きてこれたわけではない。
研ぎ澄まされた五感は自然と現在の状況を把握して、『なるほどな……』とゴブリンの行動に納得した。
「目障りですねっ私が倒しますかっ秋様」
「いや、いい。もう倒しても、意味がないし」
「こいつが何がしたいのか、わかるんですかっ」
「あぁ、ティアル。この『竜木の広場』は植物がはえないんだよな?」
「うむ、見ての通りの」
「ということはこの広場は、色々厄介な植物が生息しているこの樹海の中で、唯一植物の被害を受けることが少ない『安全地帯』ってわけか」
「そうじゃのぉ~。ここはそういう場所じゃの」
「なるほどね」
──人が悪い悪魔だ。
心の中でつぶやきながら、【アイテムボックス】から大剣を取り出す。
近づいていたゴブリンが驚いたように目を見開き、足をその場で止める。そのゴブリンに一歩近づくと、ゴブリンは驚いた猫のように後ろへ跳んだ。やはりこのゴブリン、戦う素振りは仕草だけのようだ。
「あっ……」
日暮が、何かに気づいたように声を漏らす。
ゴブリンが跳び引いたことによって地面に残ったのは、ゴブリンの足跡だ。土にくっきりと浮いた足の形。その足跡の中にはよくみれば『血だまり』ができていた。
「あのゴブリン、傷が……」
「踵から広がっておる。どうやら背中に負っているようじゃの」
なぜゴブリンは逃げなかったのか。
なぜまるで戦いに挑むように武器を構えたのか。
なぜそれなのにゆっくりと近づき、しかし攻撃はしてこなかったのか。
まるで時間を稼ぐかのように。
安全地帯の竜木の広場、血だまりができるほど大きな背中についた傷。
答えはもう、明白だった。
微かに聞こえる破壊音。近づいてくる気配はもう、ティアルと千も気づくぐらいにははっきりと感じられる。
どうやらこのゴブリン──追われてるようだ。
「何かくる……っ!」
ようやく気づいた日暮が、ゴブリンの背後へむけて叫ぶ。
「GAAAAAAAAAAAAAA──────!!!!!!」
そんな咆哮が上がったのと、同時のことだった。
現れた魔物はかなりの巨体を持っていた。進路を阻んでいた何本もの木を、知ったことかと土ごと宙にうかせ、あるいは根元から折りながらこの広場へ無理矢理現れた。
身体にはいくつもの蔦や、トゲのような植物が巻き付いている。なのに何事もないかのように平然としている。この樹海に蔓延る植物にも負けない頑丈さを持った魔物であることは簡単に見抜くことができた。
「『辿魔』……ッ!」
現れた魔物が起こした土煙に耐えながら、日暮の言った言葉。その言葉には、強い危機感がのっていた。ゴブリンだけだったときよりも明らかに、表情が緊張している。
「(やるな……)」
視界を一瞬横切り、離れ去っていく影に、心の中で呟いた。
その影は、大きな爪の傷がついた背中をこちらに向けて、新手の魔物が現れた頃にはすでに走り出していた。俺たちと魔物から一番離れられる方向へ向かって。きっとすべてがこのための行動だったのが今ならわかる。この状況を作り出すことに、ゴブリンはすべてを賭けたのだ。
『逃げない』のではなく、『逃げられなかった』から。
日暮が『辿魔』と言った、この魔物から──
「(辿魔か……)」
現れた魔物を見つめる。
終焉の大陸から出て、こちらの大陸へ来るまでの道のりで様々な話をティアルから聞いた。その中の一つにはその魔物の話もあった。
『魔物と人には、"違い"がある』
『違い?』
ティアルは結論を急がない話し方を時折する。
このときはそんな感じの話し方だった。
『お主には分かるかの?』
『分かるかって言われてもな……。正直いって違いだらけなんじゃないのか?
見た目も、生態も、生きる場所も。あえて聞く必要がある事だとは思えないな』
『なら、聞き方を変えてみようかの。例えばわしは『魔族』の『悪魔族』じゃ。お主と違って翼があり、角がある。さてわし自身は"人"か"魔物"か?』
『人かな』
『それはなぜじゃ?』
『人の形をしていて、人の考え方をしていて、人の行動をしているから』
『ふむ、なるほどのう。確かにわしは"人"じゃ』
間違いなく、そうだろう。
『ならば秋、"ゴブリン"は果たして人と魔物、どちらじゃ?』
『ゴブリン?』
少し考えるが、すぐに『人』だと結論づけた。部屋の中にいるゴブリンたちのことを思い浮かべて。少なくとも俺自身はゴブリンたちと魔物と一緒にいるというよりかは、人と一緒にいるという感覚でいるからだ。
『ゴブリンは、"魔物"じゃ』
そんな考えを、ティアルは毅然と否定した。
『これは魔物の中にも、お主のいう人の形、人の考え、人の行動をするものが少なからずいる、ということじゃ。そういう種族は基本的に"亜人"と区別され呼ばれている。歴とした"人の形をした魔物"じゃ』
『それを言うならティアルもそうなんじゃないか?
俺もそうだ。誰も自分が人か、人の形をした魔物か、分かりようが無い』
『いや、明確に分かりようがあるのじゃよ。もちろん人側の、おこがましい尊大な感情もあるにはあるが。大きな特徴の違いも確かに存在するのじゃ。魔物には"有り"、人には"無い"特徴の違いが。そこの赤いのは分かるじゃろう』
『……魔物の亜人と人の違いはたくさんある。その中でも最大の違いだと言われてるのは──魔物は人と違って『進化』をすることだ』
話を振られた日暮が、少しうんざりしながらも話はじめた。
進化とは、前の世界で起こるような何百年と時間を重ねて起こるような生物の進化ではない。それよりももっと短い時間の内に起き、魔物の種族全体、あるいは個体の魔物自身の印象を強烈に変えてしまう。そんな進化とよばれる現象が起きるのが、『魔物』の特徴なのだと。進化は人には起きえないものだそうだ。
その説明を聞いて、終焉の大陸で起こった様々な出来事が思い浮かぶ。思い当たることは、たくさんあった。部屋にいるゴブリンたちに起きた急激な変化への疑問だって、答えを得たも同然だった。
『そんな進化した魔物たちは別名で、"辿魔"と、呼ばれておる』
ティアルがこちらに意味ありげな視線を向けて、真剣な声でそう言った。"知っておけ"とでも言うかのように。思えばティアルが少し遠回りするような言い方をするときは決まって相手に対して理解を求めるときだった。
『秋……こんなことを言うのはおこがましいけれど、気をつけてほしい。あっちの大陸は終焉の大陸ほど魔物が強いわけじゃない。でも全く弱いってわけでも、ないんだ。終焉の大陸で生息している魔物に匹敵するような魔物もいる。そしてもしそんな魔物がいたとしたら──それは間違いなく『辿魔』だろうから……』
辿魔には気をつけろ。
そう、念を押すように日暮から忠告を最後に受けて、この会話を終えた。
気をつけてほしい、か……。
※
ディガディンディル LV866
【種族】甲獣
【スキル】
・硬化 LV30
・掘削 LV17
・不殺 LV11
・寄生耐性 LV5
・除草体液 LV20
【固有スキル】
・共種共鳴
※
「【爆破】」
現れたステータスの情報と魔物の姿を重ねながら、魔力を込めて【爆破魔法】を『辿魔』へ向けて発動させる。
一瞬音が止む。その直後に起きる爆発。爆発は辿魔が現れたときとは比べものにならないほど、とてつもなく大きな音と、熱風を巻き起こす。
衝撃と光と熱が、現れた辿魔を包み込んだのは、広場に辿魔が姿を見せてからものの数十秒の事だった。
起きた衝撃が少し大きすぎたのか、竜木の葉がひらひらと視界を横切りながら舞っている。
そんな中で煙を上げて横たわる、辿魔の死骸を。まるで余韻に浸るかのようにみつめていた。
「一瞬……」
辿魔が現れたときよりも、姿勢を低くしていた日暮が唖然とつぶやく。すでに何もかもが終わったというのに姿勢がそのままなのは、緊張がまだ解けてはいないからなのだろうか。
「メチャクチャじゃな」
続けてティアルも。ただ日暮とは違い姿勢は腕を組んだまま平然と立っている。辿魔の死骸へもさほど目を向けず、えぐれた地面や破壊された竜木の下にある廃墟など、周囲の状況を見ながら漏らしていた。
「竜木も、エグれておるのぉ」
視線を竜木のほうへ向けると確かに焦げ付いて、えぐれていた。威力を抑えたつもりだが巻き込んでしまっていたらしい。ティアルの言うとおり、竜木の広場は俺たちがここへ来る前よりもかなりメチャクチャになっていた。
「やりすぎなんじゃ……」
日暮の言葉を無視しつつも、若干罪悪感を覚えなくもない。すでに事が終えてようやく
「そうか、『こっち』では環境が『修復されない』のか……」と至って普通のことを思い出した。当たり前のことなのに、その事が少しもどかしかった。
辿魔の死骸へと近づき、【アイテムボックス】の中へ収納する。
ついくせでやってしまったが、そう言えばこっちの大陸で手に入れた魔石なら『RP』はどうなるだろう? 気になったのでそもままもっておくことにした。
「さて……」
現れた魔物はいなくなった。
そんなにたいした時間、起こっていた出来事ではない。それにしては周囲がメチャクチャだが。
とりあえずは一段落ついたといったところだろう。
そんなわけで、俺はある方向へ視線を向けた。
もう一つまだ残っている『出来事』、それと向き合うために。といっても、辿魔と同様こちらもそんなにたいしたことではない。
「………………ギ……ィ」
視線の先にいるのは、最初に出くわしたあのゴブリンだった。
捨てられたボロぞうきんのように、地面を這いずっている。だがあまりにも傷ついた身体は、這いずってですら前に進めてはいなかった。
竜木はこの森の植物を枯らしてしまう。それはつまり厄介な植物も豊富な樹海で、都合のいい場所を作り出すということだ。そういう場所が、強者の支配下に置かれるのは終焉の大陸でも見飽きた光景だった。
だからこそ、あえてゴブリンはこの場所を訪れたのだろう。
自分よりも格上の魔物から狙われ、それでも生き延びるために。強い魔物と強い魔物をぶつけようとした。
結果としてこの場所には魔物がいなくて巡り会ったのは俺たちとだったが。しかしそれでもゴブリンの狙いは、うまくはまったといえるだろう。
この場所にいたのが辿魔より、あまりにも強すぎたことをのぞいて。
「俺もよく、同じ事をやったよ」
思わずそんな言葉をもらしながら、ゴブリンの方へ歩を進める。
辿魔が現れたと同時に、走り始めたゴブリン。だがこの広場を脱出することなく、今こうして這いずっているのは、その直後に起こった猛烈な爆風に吹き飛ばされ木に衝突したからだ。ゴブリンのすぐ傍にある木の、エグれ具合からするとかなりの速度で当たったようだ。別にゴブリンを逃がさないなんて意図は全く無かったから、単純に運が悪かったのだろう。
ゴブリンは吹き飛ばされた途中で落としてしまっただろう自分の荷物へと、這いずって向かおうとしていて、さらに手を伸ばしていた。ボロボロの、袋といえるかも怪しい荷物からはたくさんの草がはみ出していた。ただの雑草にしか見えないが、そんなにこの草が重要なのだろうか。
疑問に思いながら、ゴブリンとの距離を詰めていく。俺の様子に気づいて目のあったゴブリンには、すぐさま恐怖の色が伴いはじめた。
伸ばした手と傷ついた身体は震える。絶望に彩られた瞳は釘付けになったように俺の方へ真っ直ぐむいていた。死と向き合っているというよりも、無理矢理死と向き合わされて目を反らせないといったような様子だった。
「そんなに怖いか?」
あまりな様子に、思わず尋ねる。答えは当然返ってはこない。
この世界にやってきたときは、間違いなく俺が恐怖する側だった。なのにいつの間にか、逆の立場になっていたようだ。その事に少し可笑しさを感じる。過ぎた年月と自分の身に起きた変化をうすぼんやりと感じた。
「うん……?」
さらに距離を詰めていると、ゴブリンに変化が起きる。小さな緑色の光が、ふわふわと浮くように、いくつもゴブリンの周りを漂い始めたのだ。【鑑定】してみると『癒光虫』という、傷を治せる光を出す事のできる【固有スキル】を持った、小さな虫の魔物らしい。なんとも便利そうな虫だった。
「(そういえば虫使いだったか、このゴブリンは……)」
さらに気になってゴブリンが必死に取り戻そうとしている、草の束も【鑑定】してみる。どうやらこっちも傷を治す効果のある、薬草だった。ゴブリンは今も必死に、俺に釘付けになりながらもそれに手を伸ばし続けている。恐怖に塗れているというのに、まだ諦めていないのだろう。この状況でなおも。
──それは当然のことだ。
生きることを諦めないなんて、そんなことは。
「…………」
ゴブリンの姿が一瞬、かつての自分に重なる。『生きるため』にあがいて『生きた』自分自身の姿と。
「千夏の治療のために、最初にきたのがここなのは、ある意味運がいいかもしれぬな。害のある植物も多いが、同じくらい有用な植物も豊富だからの」
「……あぁ、そうだな」
同じようにゴブリンの様子を観察していたティアルから投げられた言葉に、自分の姿がかき消える。
そうだ。俺は今、千夏を助けることを考えなければならない。
怖がるゴブリンを無視して、触れる距離まで近づき、スキルの【治癒魔法】を発動させる。着実に傷を治していくゴブリンは、少ししてすべての傷が治ったというのに地面から起き上がらず、はったまま唖然としていた。
別にこの行為に、意味なんてなかった。運悪く死にかけることがあるなら、逆もある。それがたまたま起こっただけ。これ以上はもう、生きようが死のうが俺の知ったところではない。
「秋、そろそろ行こう。竜木が枯れかけてる」
ゴブリンから意識を離したところで、日暮に声をかけられる。確かにいつの間にか舞っている葉の中に枯れ葉が混じっていた。
「あぁ、でもちょっと待ってくれ。やりたいことができた」
「やりたいこと?」
「ちょっとこの竜木をどうにかできないか、試してみたい」
日暮に答えながら、竜木に触れる距離まで近づく。
背後から興味深そうについてくる二人と、不安そうな一人の気配を感じながら、竜木に手をついた。その行為がこの木にとてつもない負担をかけているのが、手の平の感覚から伝わってくる。しかしそんな事は、急激に枯れていく様子を目で見れば誰でもわかる事だった。
視線を上にむけて、竜木を見上げる。
さっきの爆発で、竜木の下にあった建物のかなりの部分が崩壊した。おかげで遮るものなく、竜木の姿を視界にいれることができた。
それから最初この広場に感じた地下に巡っている『力』に意識を向ける。その力をこの木に注ぎ込むようなイメージを頭の中で作ると、足下に金色に輝く樹木の模様のようなものが浮き始めた。
「お主……竜脈を……」
心底驚いたようなティアルの声。今は集中したいので返事はしないが、しかしこの地下のものはどうやら竜脈というらしい。
竜といえば……。確かによもぎと初めて出会ったとき、よもぎも同じ色の模様を浮かべていた。
地面にあった金色の模様は、やがて俺自身の身体に集まっていく。それだけで身体が満たされた気分になるが、今度はそれを竜木に当てた手から注ぎ込んでいく。金色の模様が、竜木に入り始めた瞬間から、なぜか竜木が急にまぶしく、輝き始めた。
みるみると枯れかけていた木が、一気に生命力を取り戻していく。すでに萎れかけた部分からは、大量に新しい枝が生え、その枝が木の幹を激しく包み込み……気がつけば竜木は以前よりも太く、高く、逞しい姿になっていた。青々とした葉が、空のように頭上を覆う。
あのゴブリンと俺は、同じだった。
生きるために生きて、そのために何でもしてきた。
だけど今はその時とは状況が違う。生きるため、強くなるため以外の明確な目的がある。
これまでのようには、いられない。
さっき起こった出来事で思う。
魔物を殺して、地形を変えて、竜木をえぐる。それは容易いことだ。しかしその手段ではもしかしたら、目的に近づけることはできないかもしれない。
ティアルが言ったように、そのどれかが千夏を救う手段だったかもしれなかったことを思うと、むしろ遠ざかってすらいる可能性すらもある。
そう思って今ここで、別の手段を講じてみたつもりだった……のだが。
「……これはもはや別種じゃのう」
元の姿より二回りも三回りも巨大になった竜木を仰ぎ見る。見上げる首の角度が前よりも急になった。舞い散る葉の形も若干変わっている気がする。
元に戻すだけのつもりだったのに、どうしてなのかこうなってしまったのだろう。
何よりもおかしいのは『周りの植物を枯らす』のがこの竜木の特徴だったはずなのに、なぜか竜木の周りにうっすらと植物が生え始めていることだ。明らかに根本的な性質が変わっている。
「……やりづらいな」
思わず小さな声で、呟く。微かに胸に広がる苦々しさが、気持ち悪い。
ため息をつきながら、周囲を見渡した。そしてある場所で視線をとめる。それはさっきゴブリンがいた場所だったが、既にその姿はなかった。とうにどこかへ行ってしまったのだろう。
「先へ行くか」
名残惜しそうなティアルの腕を引いて森へすすむ。何がおきたのか好奇心がうずいてしまったらしいが、しかし手をつけてしまったらきっときりがないだろう。
結局、散々なまでに竜木の広場を変わり果てた場所にして、俺たちはその場をあとにしたのだった。
◆
竜魔の木
本来決して交わるはずのない竜の力と魔の力が混ざり合った木
◆
◇◆◇
秋が、変わり果てた森から去って行く。
その姿をずっと、観察している視線があった。
一匹の虫が、竜木の広場を飛んでいる。
その虫は広場から、外に広がる森へと羽音を立てながら入っていき、薄暗い森の中をすすんだ。やがてある木まで近づくと減速して、その根元に座り込んでいる者の手に止まる。
手に止まった虫を見つめて、声を漏らす。
「……ギィ」
──ゴブリンだった。
取るに足らない、樹海の中に数え切れないほどいるだろう一匹の。変わったところなど何もありはしない。そんなゴブリン。
しいて言えば、直前まで死線をさまよい、そしてなんとか生き延びたことだけが、このゴブリン自身の特徴ではあったが、それだってなぜ生き延びれたのかはわかっていない。ただあまりにも激しい濁流の中でもがくこともなく流され、たまたまその出口が、生きていたという結果に繋がっていただけだったような気がした。
それ以外では紛う事なき特徴のない平凡なゴブリンだった。ゴブリン自身もまた、自分のことをそういう風に理解している。特別なことなど、何もありはしない。
──特別とはきっと、あの人物のようなものを指して、いうのだろう。
低い知能でゴブリンは考える。低いからこそ、ほとんどが感覚によるものだったが。しかしそれでも明らかなことがある。
ついさっき起こった出来事の中心にいた人間こそ、特別だ。
男の起こした出来事のすべてが、理解の範疇を越えていた。
──最初は警戒するに値しないと、そう思っていた。
一番最初、その男を目に入れたときの気配は、とても薄く、印象がなかった。まるで強さが感じられない……それこそ周りにいる三人のニンゲンよりも。
それに何より、他に明確に警戒すべき相手が男たちの中にいた。強い力と殺意をむきだしにした存在が。その存在がいたからこそ、男の優先度を低くしてしまった。
ゴブリンの身体が震える。傷は治っていて脅威も去ったというのに。思い出しただけで身の毛がよだつ。
──あの『鳥』……。
男の肩に止まっていた鳥の魔物が、あの集団の中で一番、明確な殺意を持って自分と相対していた。その気になれば、虫を啄むのと同じようにして自分は殺されるだろう。その事が本能的に分かるほど、その鳥は力も殺意も隠すことすらしていなかった。じゃなければ男のように気づくことすらなかったはずなのに。
なぜそんな魔物が、この樹海の中にいるのかわからない……。
今まで出会ったどんな魔物よりも恐怖を感じた。それこそ、まさにその時追いかけてきていた魔物すらも越えて。雰囲気がこの樹海とは全く毛色が違う、そんな何かを感じた。
だから鳥を刺激しないようその時は注意していた。警戒すべきはその鳥だとおもったからだ
しかしすべてが終わった今、考えるべき者が誰なのかは言うにも及ばない。
偵察しにいかせていた、虫から【スキル】で情報をもらう。
どうやら男たちは、広場を出てこの樹海に流れている大きな『川』の方角へむかっているようだ。
「ギィ……」
思わず鳴き声がもれる。その声にこめられたのは果たして悲哀か郷愁か。どちらにせよ、季節を二つほど跨いだだけで、何もかもが大きく変わってしまった。
今いるこの場所から、川の方向。それはゴブリンにとって馴染みが深い場所だった。そこにはかつて過ごしていた集落があったからだ。今はもう跡形もなく無くなってしまったが。それでもこの辺りの地形は本能に刻まれているからわかってしまった。
元々ゴブリンは、群れの中の一匹だった。そこそこ数のいる、大きな規模の群れだ。
人間に見つからず、強い魔物の縄張りから離れた、そんな安定している場所を縄張りとして。厳しい樹海での生活を、群れの中でやり過ごす日々を送っていた。
でもそういった日々が、壊れるときというのは本当に一瞬のことだ。少なくともそのときはそうだった。
──始まりは、たった一輪の花だった。
それが『災い』の始まりだ。
そして、たったそれだけの始まりで群れの仲間が何人も『災い』にのまれ命を落としていった。最悪なことに、集落のすぐ傍で『災い』は広がり続け、群れの数はあっという間に減っていった。それからその縄張りを捨てて、違う場所へ群れ全体で移る決断をするのに時間はかからなかった。
逃げるように、生きる場所を移すため森を群れで移動する。
しかし無秩序に見える自然の環境だって、自然には自然なりの秩序がある。
登りやすく過ごしやすい木の上や、その途中にある木の窪み。水場や木の実がとれる近くの岩陰や穴蔵。少しでも都合のいい場所は決まって別の魔物が住み着いていた。
彼らは自分からすすんで住む場所を明け渡すことをしないだろう。誰でも自分が生きることを優先する。だから手に入れるためには戦いを挑み、勝ち取るしかない。それが自然というものだ。
移動で疲弊し数の減ったゴブリンの群れが。戦いに敗れて縄張りを奪えず、逃げ去るのを繰り返すのもまた。同じように自然なことだった。
それから押し出されるように場所を移していく。最終的にたどり着けた場所は、相性が悪い植物や魔物しか周囲にいないような、さらには人間とまで遭遇しやすいという、あまりにも良くない場所だった。当然、生活は圧倒的に不安定だった。
そんな何もかもが悪い方向にいったゴブリン群れは結局、行き着くところまで行き着いてしまった。それもついこの間の事だ。まだ経って日が浅い出来事なので、記憶はまだ鮮明に残っている。
唐突にやってきた二人の男に、徹底的に群れを壊滅させられ、一つのゴブリンの群れが消え去った。
ここにいる、たった一匹のありふれたゴブリンを除いて。
ゴブリンは自分が壊滅した群れから逃げているとき、なぜ自分だけが生き延びているのか、わからなかった。
わからなかった……が、たまたま運よく逃れ、実際問題としてその瞬間、生きていてしまっていた。生きているならば、やっぱり、もっと生きていたくなってしまう。
喉の乾きや、身体の飢えを満たす欲求に身を任せながら、たった一人。
今日まで樹海をさまよっていた。
その間で、気づいたことがあった。
ずっと生きてきたはずの樹海に、様々な変化が起こっている、ということだ。それも『あまり良くない変化』だ。群れで生きていたはずのゴブリンがたった一匹になっているようなそんな変化ばかりが。
この樹海の中にある、見えない自然の秩序が、あまりにも乱れているような気がした。
なぜか?
その答えに行き着くのは簡単だった。
思いあたることなど一つしかない。
『災い』だ。群れを壊滅するまで至らせた『災い』が、同じように様々な樹海のものを変化させているのだ。そして変化したものがさらに変化を起こし……と、連鎖的にその狂いが激しく、大きくなっている。
普段縄張りから出てこないはずの、樹海の中でも群をぬいて強靱な魔物である『ディガディンディル』に遭遇したのも、その影響であることは間違いない話だった。
「…………」
ゴブリンは考える。
その出来事だって、本来なら、生き延びれるような出来事ではなかった。背中に傷を負った時点でもうかなり追い詰められていた。それでも微かに生き残る糸をたぐりよせるため見えた竜木にむかって出会ったのは、さらに度を越した力を持つ存在だ。これだけの出来事、特別でもなんでもないゴブリンが、本来ならどれだけの死という代償を払えば越えることができるというのか。
──だが生きている。
なぜなのだろうか?
誰だって、疑問に思う。知能が低いと言われるゴブリンですらもそうだ。
これだけ不自然なまでに生き延びていると、ただそれが偶然だったとしても、考えずにはいられなかった。
生き延びた理由や、そこにいたるまでの経緯じゃない。
『意味』を、考えずにはいられなかった。
──あの男は、『川』の方角へと向かった。
奇しくもそれは、自分の元あった集落のある方向だ。
それはつまり、同時に意味することがある。それは『災い』のある方向へ向かっているということだ。
ゴブリンは広場で起こったとてつも無い変化を思い出す。
それから確信を持って結論を導き出した。
──男ならきっと、どうにかしてしまうだろう。
『災い』を。自分をここまで追い詰めた『元凶』を。いやそれすらも越えて、この樹海を狂わせる『異変の大元』をきっと、どうにかしてくれるはずだ。
ふと、ある考えが浮かぶ。
『見届けるべきだ』。
あの男のあとを、こっそりとつけて。
消え去った集落のあるその場所の、結末を見届ける。一番『災い』に振り回された、自分こそがそれをするべきだし、その資格があるのは自分のはずだ。
すべての歯車がかみ合っていくような感覚があった。
このために今日まで生き抜いてきたのだろうか? もしかしたらそうなのかもしれない。少なくとも今この瞬間はそのことを確信している。
ゴブリンは立ち上がってその場所をあとにした。
姿が消えたのは、秋の姿が消えた場所と同じだった。
◇◆◇
ひらひらと、たった一枚だけ花びらが舞っていた。
森の奥から風に運ばれてきたのだろうか?
辺りにその花らしきものは見かけられないのに不思議だ。
竜木の広場を抜けて、さらに樹海の先へと進んでいたときの事だった。
少し先にいたティアルが、少し真剣な様子で言った。
「止まるのじゃ」
「どうかしたのか?」
何かあったのかと尋ねるが。ティアルは返事をせずに膝をつき、ちょうど俺がさっきみていた一枚の花びらをじっと見つめていた。
「ふむ……」
そういって、ティアルは何かを理解したのか立ち上がる。
「かなり気になってる様子だが、何かあったのか?」
「まああったといえば、あったがの。まさかもう既にこんなところまで広がっておるとは……」
「あの花びらのことか?」
「まあ、そんな所じゃ。もう少し歩けば見えてくるから、詳細を含めてそこでまとめて話でもするかの。少し対処せねばならない面倒なこともあるしの」
「そうか、じゃあとりあえず進むか」
会話を終え再び先へ進む。
進めば進むほど、さっき見た『花びら』を見かける頻度が上がっていくのは気のせいじゃないだろう。少し不自然なのが、木のかげや草藪の中から見える魔物の姿が全くピクリとも動いている様子がなかったことだった。最初のうちはたまたまを疑ったがさすがに頻発すればすぐに異変であることに気づく。
「わぁ……美しいですっ」
千がうっとりとしながら呟く。
それを視界に入れたのは、ティアルの言うとおり進んで、割とすぐのことだった。
俺たちは森をすすみ、ちょうど地形が段差になっている場所にでた。崖という程でもない高さだ。ただその地形のおかげで、視界の端に嫌でも映っていた木々が途切れて、視野が一気に横いっぱいに広がる。さらに少し上から見下ろすのが見晴らしのよさにいっそう拍車をかけた。
そんな視界のほぼすべてに余すことなく、入ってきた光景は。
千も言葉を失うほど美しく、圧倒的に広がる一面の花畑と──
その花畑の中でピクリとも動かず、まるで銅像のように佇んでいる魔物達が何十体といる光景だった。