第61話 無能エピローグ ①
※1章と2章の間に幕間が4話入ります。番外編のように楽しんでくれるとうれしいです。
ご迷惑をおかけします
『そこ』は何も無い空間だった。
おいしい紅茶も無い。甘いスイーツも無い。
人も、生き物も、自然も、法則も、星の煌めきも無ければ
言葉も生まれず、争いも起こらず、時間も進まず、物も作られない。
何もかもがありはしない。
そんな場所を仮に、『無の空間』とそう呼んでいた。
ぴったり過ぎる名前だ。名前の時点ですでに矛盾を起こしているところなんかがまさにそうだ。
全く何もない『無』であるはずなのに空間と表現してしまっている。それではここには空間があるはずで、その時点で無と呼ぶにはおこがましい。
無のくせに、空間がある。
それに、視界には光がない代わりに闇がある。耳には無音という音がある。『無の空間』なんて、『名前』すらも存在している。
さらに言えば『何もない』ではなく──何もないが『ある』。
ひどい場所だと、そう思う。
無なんて仰々しい名前の割に、全然その条件を満たせていない。
この場所。『無の空間』は──無として存在しながらあまりに多くのものが存在しすぎる矛盾した場所だった。
ずっと一人で、ただ漂っていた。
ゆらゆらと波に揺られ続ける、海の藻屑のように。
藻屑……。言い得て妙だ。
こんな生きてるともいえない状態でずっといる自分は藻屑同然の存在だ。
望んでしていた事だった。
自分から選んだ。でも好きだから選んだ、というわけではない。
しいていえば、それ以外のすべてのことが、嫌いだからだった。
「なにもかもが嫌いだ」
どれだけそうしていたのか。計り知るものも、また存在しなかった
ただ一つあるのは、決意だった。
「二度と召喚などには応えない。契約などしない。
ここに『もう一人』だなんて、もう望みはしない」
──昔のように。
無は、無のまま。
自分もまた、自分のまま漂い続ける。
意味も意義もなく。
『無の空間』の中を──唐突に『爆発』が襲った。
「え……?」
──強いて言えばだからこそ、だった。
何もない、何も起こらない。それこそが、無が無たり得る理由。無の性質。
例え矛盾していたとしてもあからさまにその性質から外れることはしない。よくみれば無じゃなくったって表面上は無として振る舞うはず、という話だ。
だから無の空間に居続けていた自分が無の性質を信じきっていたとして気が抜けていたとしても可笑しい話ではないし、この時唐突に起こったありえない出来事に──尋常じゃないほど動揺したとしても。
まったくもって自分のせいじゃないはずだ。
「えっ、えっ、えっ!? 何!?」
反射的に身体を縮こませて、忙しなく首を動かしていた。
いったい何がどこで起こったのか。要因を探そうとした……わけではなくただ気の動転から出た行動だった。そんな余裕、微塵もなかった。
なので結局、今何が起きたのか。
それは視界ではなく全身で、出来事そのものを"体感"することになる。
──何もないはずの無の空間に唐突に"切れ目"が出来ていた。
自分の身体と同じくらい大きな切れ目だ。
その切れ目からは夥しい量の魔力が流れ込んでいた。理由は分からない。ただ水をため込んだ瓶の底に、切れ目を入れたかのように、とても凄まじいものだった。切れ目の大きさで流れ込める量が決まっているはずなのに、その量すらも越えて、今まさに流れこんでいる魔力を、後ろで控えている魔力が押し込み、無理矢理切れ目をこじ開けるように流れこむ様を凄まじい以外の何といえばいい。
それはあまりにも暴力的で。
体感では爆発のようで。
あるいは濁流のような出来事であった。
後にこの出来事を、自分は何度も思い出すことになる。
しかし何度思い出してもこれが『召喚魔法』だなんて思えなかった。
道具には、キチンとした使い道と使い方というのが存在するのだ。
そしてその使い方と別の使い方をすれば、意図した結果は望めないし、結果の方も望んだ成果をもたらすべきではない。
手順も仕組みも全くもって、ありはしなかった。
あったのはただ莫大な量の力……魔力だけ。
召喚魔法は本来なら自分の意志で、召喚されるかどうかを決められるはずなのに。それすらもない。意志すらも押し流しその魔法は強引に、事を成す。
まさに──『災害』とも言うべき召喚だった。
本当に──。
振り返るたびにまた、何度も思うのだ。
本当にすごく────怖かった、と。
海で溺れもがく獣のように爆発から逃げていた。
とにかく必死だった。
だがその尋常じゃない、魔力の濁流はあざわらうように逃げる自分に一瞬で追いつき、瞬く間に魔力に飲み込まれた。
「何だ……何だこれっ!
多過ぎて消せないっ! 何……自分は、何に遭っているんだっ……??
待っ……どうなっ、これ……怖いっ!!! 助け……ごぼば」
魔力の濁流の中でもみくちゃになりながら流される。
自分は、今自分がどんな事態に巻き込まれているのかすらわからないまま──。
結局事態は行き着くところまで行き着いた。
行き着くところとは。
こんなでたらめな、魔法という体裁すらも保てていない、魔力のごり押しのようなものでも。
『ごり押し』のようなものでも。
召喚魔法は召喚魔法なのだ。
つまりこのとき自分は、正体不明の何かに無理矢理、無の空間から押し出され
『召喚』──されたのだった。
◇◇◇
「──ぶか?」
声が聞こえる。
「う……ん」
「おい、大丈夫か?」
また声。
ペシペシと顔が何かで叩かれている。
声。それに何か。そんなもの無の空間にありはしない。
そのことに気づき、目を開いた。
「うっ」
だがすぐにまた閉じる。
無の空間の闇に、馴れきっていた目には少し強い刺激に眼が痛む。光だ。光がある。
つまりここは──無の空間では無い……?
「やっぱこの魔法、ろくなことがないな。
一回目も二回目もそうだし、今回も……。はぁ……やらかしたな。
どうしたものかなぁ」
人の気配。それにぼそぼそと独り言を漏らす男の声が聞こえる。
何を言っているのかまではわからない。
でも何となく幻滅している感情だけはわかった。
幻滅──また、それか……。
眼をあけると人がいた。
高い位置から見下ろすようにしている。
一瞬、見下されているのかと勘ぐったが見下すよりも、さらに下すぎた。もはやのぞき込むの方が近い姿勢。
どうやら自分が寝かされていて低すぎるだけだったらしい。
体を半分起こしながら周囲の様子を伺う。
久々の無以外の光景は何もない荒野だった。
何もなさ過ぎて、逆に不自然な、人為的な何かを感じる荒野。
「大丈夫か?」
すぐ傍にいる──三人のうちの一人が身を屈めて、身体を半分だけ起こした状態の自分と目線を合わせるようにして声をかけてきた。気遣うような声色だった。その声は、さっきから自分に向けて放たれていた声と同じことに気付く。
灰色の髪の男だった。
この場にいる自分以外の三人のうち二人が灰色の髪をしている。残りの一人は黄色い髪をした女だ。自分の側にいる、灰色の男の少し後ろで、同じような衣服を身に纏いながら二人の女は控えるように立っていた。
男と瓜二つの顔をした灰色の髪をした方は無感情に。
黄色の髪をした方は好奇心を滲ませながら。
それぞれが、ぞれぞれとも自分の方へ視線を向けている。
そんな視線の中で、自分は、ゆっくりと口を開いて行く。
「な、何が──起きたんだ……」
擦れるほど小さな声だった。
目をあけたときからずっと頭を支配しているのは、混乱、だった。
見慣れた無の空間ではない別の場所。
人がいて、光があって、景色が広がっている。
そこまでは見ればわかる。問題なのは、混乱するのは、なぜ自分がそうなっているのかだ。
はっきりいって現状のすべてが理解できなかった。
あまりにも不足している情報。さらにはさきほど巻き込まれた衝撃的な出来事が心の余裕を根こそぎ刈り取っていた。
そんな不安と焦燥にまみれた、心の底からの言葉に、気まずそうな声で男が答えた。
「あー……混乱しているようだから、一から現状を話すよ」
灰色の男の方へ、ゆっくりと視線を向ける(この時向けていた視線は、まるで部屋の隅で震えている子猫のようだったそうだ)。
「実は【召喚魔法】を、使ったんだ」
召喚魔法、その言葉のおかげですぐにピンと来た。
……なるほど。
現状がどんな状態か、ある程度の予想がつき、ようやく身体に活力が戻る。
精霊の召喚は【召喚魔法】の基本的な使い方の一つだ。精霊を召喚して、契約を結んで力を得る。そうした手法は弱いくせにどこまでも傲慢で強欲な人間が好むやり方だった。
「(ふん……なるほど……。男もまたそういった人間か……)」
過去に召喚された経験が三度ある自分は、すぐに男が同じようなパターンだと気づいた。
男は自分と契約を結びたくて、その為に召喚魔法を使い自分を呼んだのだという事に。
前に応えたことのある【召喚魔法】とは、若干、似ても似つかないところが気になるところではあるが……。でもあの出来事を考えると、声が震えてしまいそうになるので、無理矢理頭からはじきだす。
……しかしまさか自分の状態が分からないというのがこんなにも怖いことだったとは。無の空間を漂っていた自分は地面があるという当たり前のありがたさを理解できないが、現状が理解できるというのは、きっと地面があるありがたさに似ているだろう。
「(そうと分かれば、話が早い……)」
「それで──」
男の続きの言葉を遮り、半分は寝ていた身体を完全に起こして、立ち上がった。未だ低い姿勢でいる灰色の男を、高い姿勢から見下ろし──見下し。
強く、威厳をこめて言葉を放った。
「自分と契約を、したいんだな……?」
言葉と同時に魔力を放出する。精霊にとっては普通でも人間にとっては膨大な魔力だ。今男は空気がまるで重量を伴ったかのように、重くのし掛かるプレッシャーを感じているだろう。人と精霊の格の違いを感じているだろう。
精霊は──世界において上位の種族だ。
竜族に並び、あるいは神とも……とすら言われている。場所や種族によっては神と同じように崇められたり、称えられたりする存在。
その存在を召喚しあまつさえ契約を結んで、こき使おうなぞ。思い上がりが過ぎるぞ人間め。
キリッと。
視線に力を篭め、灰色の男と視線を合わせる。
「(どうだ、感じているか……? 精霊の格を……)」
「その契約っていうのは、何だ?」
灰色の男は立ち上がりながら、自分と同じ高さまで視線をあげて言った。
…………?
「え?」
「うん?」
互いに首を傾げる。
「契約を……知らない、のか?」
「あぁ。よければ教えてくれないかな」
「あれ……? いや、それだと、話がおかしいだろう」
「……話? 話って、何の話がだ?」
「お前は契約がしたくて自分を召還したんじゃないのか?」
「いや、違う」
男は首を振って応える。
え……違う、のか?
じゃあ…………。
「じゃあ、なんで自分はここにいるんだ……?」
また意味がわからなくなってきて不安になる。
威圧のために出していた魔力も、もうすでに忘れていることをこのときの自分は知らない(そして後にこのとき向けていた視線が餌を取り上げられた子猫のようだったらしいことを知る)。
「そうそう。それでさっきの話に戻るんだが──」
さきほど自分が遮ってしまったであろう話の続きを、今度はしっかりと、耳を傾けて聞く。
◇
男はある日魔法のスキルを手に入れた。
その中の一つの魔法の名前は──【召喚魔法】。
道具は正しく使うべきだ。
だがそれが手に入れたばかりのものであるならば、まずは使ってみなければ、使い方も、使い道も、得られる成果も、想像し辛い。だから男がまずはその魔法を使って試してみたのも、道理だろう。
男は【召喚魔法】を使った。二回、使った。
一回目は、巨大な化け物のようなタコの魔物が。
二回目は、同じく化け物のようなカブトムシの魔物が。
が結果的に現れたそうだ。
一回目に現れた魔物は暴れ狂い、最終的には男と戦闘して倒された。二回目に現れた魔物はそのままどっかへ飛んでいってしまったそうだ。
その後、男はこの魔法が使えない事を考え始める。当然だ。二回やって、現れたのが二回とも化け物だったのだから。
だが男は、最後に一回だけ、最終確認の意味も込めて【召喚魔法】を使った。安全な場所で、今までよりも多くの魔力を込めて。三回目の【召喚魔法】を。
その結果現れたのは──無の空間を漂う、一人のしがない精霊だった。
…………。
これは、つまりそういうことか?
「意図的にではなく、【召喚魔法】を使ったらたまたま自分が……?」
「そう」
「な、なるほどぉ、ねぇ……」
重苦しい空気が漂う。
突っ込みどころが多すぎて、返す言葉が見つからなかった。
空を仰ぎみれば、見た事もない会ったこともない、自分より前に召喚された化け物二体の幻影が自分に同情しているように感じた。あんなのに巻き込まれてお互い大変だったな……と想像の化け物と互いに慰めあった。
いや、本当に。
頭を、抱えたくなる。
全く制御できていない、いや男の話と実際に巻き込まれた現象から考えるに、制御する気すらもない強引で無茶な【召喚魔法】。そんな無茶苦茶なのに召喚されてる自分って一体何なのだろうと、そう思わずにはいられない。
でもその気持ちを必死に押さえ込んで、顎に手を当てながら、ふむふむとしたり顔で話を聞いていた。精霊としての威厳が損なわれてしまうからだ(だが実際は声が震えていたことを後に知る)。
とにかく──。
いろいろ言いたいことはあるものの。
男の話を聞いて、思ったこと。
そして今抱いている切実な願いをまとめれば、一言で言い表すことができた。
「(帰りたい…………)」
男が気まずそうなまま、口を開いた。
「本当に、申し訳ない。
まさか人が出てくるなんて思わなくて……」
「人ではない。自分は精霊だっ!」
男の言葉に感情的に返す。かなり八つ当たり的行動だった。
「えっ、精霊なのかっ?」
男が今気づいた、とでもいうように目を見開いて自分を見る。
なんだ、精霊と分かっていなかったのか。魔力をあんなに放出したのに、それすらも気づかなかったのか? 鈍いやつだな。
でも男の態度を見て少し気分がよくなったので、悠々と言葉を返した。
「そうだとも」
そう、自信を込めてに答えると「異世界っぽいな」と男が神妙に一人で呟く。思っている反応とは微妙に違くて、少し落胆する。
「へぇ、すごい。初めてみるな、当たり前だけど。なんか普通に人間みたいなんだなぁ。
精霊って火の精霊とか、風の精霊とか、そういう属性というか分類みたいなのあるのか?」
「……あるにはあるが」
少し言葉を詰まらせる。嫌な流れの会話だった。
「あるのか。ちなみに……あなたは何の精霊で?」
「何だっていいだろう」
「うん? 聞いちゃ駄目だったかな。それじゃ、悪いことしたな」
「別にいい」
会話の最中、灰色の男の後ろでは、二人いるうちの黄色い方が自分をいまだ人だと思って、さっきからずっとはしゃいでいた。精霊だと何度言っても聞きはしない。いやその前に──仮に人だったとしても、人が唐突に現れたことに、何をはしゃぐ要素があるのだろう。おかしな女だ。
灰色の髪の女も、精霊という言葉には何のリアクションもせずに、黄色い方を窘めている。「あなたのせいでこんな事態になっているのですよ、夏」という風に。気になって聞き耳を立てていると、どうやら黄色い髪の女が【召喚魔法】を使うよう灰色の男にせがんだらしかった……って、おい。
自分がこんなおかしな事態に巻き込まれたのはもしかしてそいつのせいじゃないだろうな…………。
「それでどうする? というか、どうすればいい?
悪いがスキルや能力は全部手探り手探りなんだ。知っていることと知らないこと、出来ることと出来ないことがある。とりあえず単純だけど、【召喚魔法】で【召喚】とは逆に【送還】っていうのは出来るのか?」
「【召喚魔法】での【送還】は、こちら側で少し操作が必要だが出来なくはない」
出来なければ、召還されてからずっと自分は無の空間には戻れない。無の空間は世界にあって世界にない、かなり特殊な場所だ。他の精霊ならば、最悪【送還】されなくても自力で元の場所に戻ることができるだろうが。自分はそうはいかない。
でもそれは魔力の扱いに長けて、召喚になれた精霊だからこそできる芸当だ。他の生き物──たとえばさっき男がいった魔物なんかはきっと【送還】できないだろう。精霊という種族はそれだけ偉大なのだ。
「なら、よかった。
じゃあ【召喚魔法】で【送還】すれば戻れるわけだ」
……確かに。
言われてみれば帰ろうと思えば、すぐに帰れる。なんせ召喚で呼び出されたのだから。
良かった。事態もこれで一件落着かと、ほっとしながら、男の言葉に答える。
「そうだな。自分を【召喚】したのと同じようにすればあとは──」
──ゾワリ、と。
自分の言葉に寒気を感じた。
【召喚】と同じように……?
あの──濁流のような、爆発のような。魔力の流れの中に。
もう一度?
ガタガタガタガタ。
「どうした? 身体がふるえ──」
「なんでもないっ!! 自分は精霊だぞっ!」
「それは知ってるけど……」
深く呼吸をして、恐怖を鎮めさせる。
自分は精霊だ。格下の人間の前でうろたえて調子づかせてはならない(しかしこの時の姿が、寒空の下で凍える子猫のようだったことを後に知る)。
とりあえず一旦、落ち着く。
よし、今の状態でなら、あの【召喚】にも…………。
ガタガタガタガタ。
「身体が」
「言うなっ!!」
やっぱだめだ。どう考えてもだめだろう。
あれを『もう一度』っていうのは、耐えられない。
生きた、命あるものが接していいような現象では、とてもではないがなかった。海を渡るために津波にのる奴がどこの世界にいる。
あんな化け物のような……。
……いや。ちょっと待て。重要なことに気づきかけてきた。
灰色の男へ視線を向ける。
「……?」
不思議そうに首を傾げる男と、目が合う。
あの災害のような魔法を、『使った』?
このただ一人の人間が?
莫大な魔力を持つ精霊ですら怯える、魔力の濁流をただ一人の人間が起こしたというのか?
ここで初めて自分は、起こった出来事や、【召還魔法】のことではなく、自分を召喚したであろう、その主のことについて思考を傾ける。そして至った結論はとてもシンプルなものだった。
──この男ももしかして化け物なんじゃ……。
一度気づくと、その考えが正しいと思われる根拠が次々と思い浮かぶ。
そうだ。さっき自分は魔力を解放して威圧を向けたが男どころかこの場にいる三人ともが平然と振る舞っていた。怯えたり、畏怖することなく、変わらないままだった。そのことを鈍感だと思っていたが、あの濁流ような魔力を考えれば自分の出した魔力なんて子供に木の棒を向けられたものだろう。
なんてことだ……。
空を仰ぎみながら、思う。
「(とんでもないものに召喚されてしまった……)」
【召喚魔法】も化け物ならば、この男も化け物だ。なぜもっと早く気づかなかった。
とにかく一刻も早くここから離れよう。こんな怖いものと一緒にいたくない。
そうだ、それだ。
なんて名案なんだ。離れればいいんだ。
そうすれば他の人間を頼って、その人間に【召還魔法】を使ってもらい無の空間にかえしてもらうことができる。これならあんな災害に巻き込まれずに済むじゃないか。
よし、そうしよう。
「それで、今すぐ【召喚魔法】を使うか?」
「結構ッ! 別の人間を頼らせてもらう。お前では力不足だっ!」
「他の人間? いや、ここに他の人間は──」
「とりあえずこれで失礼させてもらうっ! それと、もう【召喚魔法】は使うなよっ!」
「待──」
急いで会話を終わらせる。精霊の威厳を保つのを忘れない。それと一応釘を刺すのも。
会話を打ち切った自分は、荒野を見渡す。そういえばこの場所も少々、おかしいとは思っていたが、そんなことより一刻も早く離れたかった自分は、そこにあった一つのトビラを開いて、とりあえず中へ入った。
入って一歩目で一度、動きが止まる。目に入ってきたのは赤を基調とした広い空間とそこにある膨大な数のドア。若干その光景に気圧されながら思う。
「(なんだ、なんなんだここは、なんてところに召還されてしまったんだ……)」
焦燥と不安を抱きながら、中へずかずかと入り、赤い柔らかいカーペットの上を急ぎ足で歩く。
あまりにも異様な光景に、もう本当に早く離れてしまいたかった。
「なぁ、ちょっと」
「──!?」
灰色の男が、またすぐ傍にいた。
もしかして自分を追ってきたのか!?
無視して歩く。
「待ってって」
「待たない!」
「重要な話があるんだ」
「自分にはない!」
どうにかなる前に一刻も早く離れなければ。
そんな気持ちから、たくさんあるうちのドアの一つを、やけくそ気味に開いて中へ逃げ込んだ。
くしゃり、と。
草を踏む。
草。つまり、外だ。
なのに──景色は赤かった。
赤黒くて──そして不自然に光を反射していた。
ぬるりとした液体が全体に広がっているからだった。
「……?
なんなんだこれ──うおっ!」
ゆっくり現状を把握しようとした途端、後ろから何かに掴まれ、引っ張られる。
その直後──
ガチン!!
と固いものと固いものが強くぶつかった音が響きわたる。
ちょうどさっきまで自分がいたところを中心に。
後ろ向きのまま部屋の中に戻された勢いで、バランスを保てずに尻餅をつく。そのまま視線を見上げるように上に動かし、自分がさっきまでいたであろう『扉』の外を見つめた。
ギョロリ。
血走った目玉が動く。
あまりにも大きな顔と身体と。──それに口。扉を丸ごと飲み込んでしまえそうな、それ。尋常じゃない様子の魔物と目が合う
魔物は口をもごもごと咀嚼するように動かしている。
しかしその口に何も入っていないことに気付いたのか。眼を細め苛立たしげに鼻を鳴らした。
そして──すぅと息を吸って。
ガタガタガタガタガタ。
『GYAAAAAAAAAAAA──────!!!!!』
「ギャアアアアアアアアアアアアアアアアアアァァァァァァァ──!!!!!」
震える身体で恐怖にとらわれながら叫んだ。
「……すごいな。
魔物の咆哮にも負けてないぞ」
側から灰色の男の、暢気な声が聞こえる。続く二人の女たちも呑気に話してるのが聞こえてくる。黄色い方の女なんぞこちらをみて笑ってすらいる。だがそんな会話に反応する余裕は、爪の隙間ほどもなかった。
「はっ、はっ、……はっ……はわっ……」
恐怖で呼吸すらもまともにできないまま、少しでも魔物と距離を取るため、地面を震える身体で這いずらせた。魔物から視線を離せなくて、進む方向に対して逆向きに。ただでさえ身体が言うことを聞かない中だったので、地面をとらえられず手を滑らせ、顔を思いっきり地面に打った。
「うっ……」
じんわりと痛む顔を手で押さえる。そのままなし崩し的に、おでこを地面に押しつけて、蹲った姿勢になった。赤い絨毯が自分の影で覆われる姿が、至近距離で目に映っていた。
「うっ、うぅぅぅ。なんだぁ、あの魔物……。あんな化け物……。
自分の知っている世界には、いなかったぞぉ……ぐす」
怒濤のように押し寄せてくる、恐怖とパニックに耐えきれず、蹲った姿勢のままでいると涙が少しずつ出てくる。現状が理解できないこともまた拍車をかけていた。
あんな、あんな──力を持った魔物、世界にはいない。前に召還されたとき、魔物を見たり、戦ったこともあったが、少なくともそんな魔物とは比べものにならない力を感じた。まさに格が違かった。精霊という種族すらも容易く凌ぐ魔物なんて、ありえない。
確かに召喚は三度ほどしかされたことない。召喚されたのも結構、昔の話だ。無の空間にいたから、どれだけの時間が経っているか分からないから、もしかしたらとても長い時間が経っているのかもしれないが。
でもまさか自分が無に引きこもっている間に、こんな魔物が世界にのさばるようになっていたなんて……。もう生きていけない……。
もしかして別の世界に召還されたんじゃ……、なんてバカな事を思うほどだった。
蹲ったまま、ぐずついていると、側に誰かがよってくる気配を感じた。
「あー……。
部屋の中までは魔物も入ってこないから、大丈夫だから。
泣くなよ。な?」
「ほ、本当か……?」
「あぁ、安心しろ。本当に入ってこないさ…………たぶん」
背中にぽんぽんと、当たる感触。
黄色い女と灰色の男の二人にそれから、根気よく慰められた。安心付ける言葉にたぶんとか、ほぼとか、きっととか、そんな言葉がいちいち混じっているのが気になったけど、おかげで少しずつ心が落ち着いてきた。
「全く、情けないですね。デカイ図体で丸まって、女々しくぐずついて。先ほどの偉そうな態度など見る影もありませんね。本当にこれが、精霊なのでしょうか。弱虫を司る精霊というなら、あながち間違いでもなさそうですが」
「はっ!?」
回復し掛けてきた心に、再び、亀裂が入る。
灰色の女の声。心無い言葉で、気づく。
自分が今、どんな醜態を晒してしまっているのかという事に。
今まで積み上げた精霊としての威厳が、今まさに崩れ去ったのだ。
せっかくここまでバレずに来たのに。
──『無能が』
──『役立たず』
──『精霊のくせに』
今まで浴びて来た言葉が蘇る。
……これだから自分は、『無能』なんだ。
流れる涙の意味が、少しずつ、恐怖から自己嫌悪に移ろっていく。
あぁ、本当になんでいつもこうなるのだろう。
「自分はいっつも、こうだ…………。
精霊なのに、使えないやつ、無能なんだ。『無の精霊』だから」
「なんだ、お前、ダメな奴だったのか」
灰色の男に、声をかけられる。
もう恥も外聞も捨てて頷いた。そんな自分がまた情けなかった。
「そうだ……さっきまで隠していたから気付いてなかったかもしれないが、自分は本当はとても、駄目な精霊なんだ……無能で臆病な精霊なんだ……」
認めてしまえば、それからはもう、雪崩のように吐き出すだけだった。今まで自分がひたかくしにしていたもの、ごまかしていたものを全部──
「(なんとなく分かったけど)」
実は三人とも、最初から気付いていた事を後に知る。