第59話 逸れた道は、どこへ続く
ぐるぐる、だった。
縄で。
「…………」
ぐるぐる巻きに、されて。
そして回収を待つ粗大ゴミのように、ラウンジに放置されていた。
柔らかい絨毯が敷き詰められたラウンジの地面の心地良さが逆に物悲しい。
少しでも動くと、身体に縄が食い込んで
あるいは擦り付けられて、痛い。
それでも縄から脱出するために、身を捩る。
「いい加減、懲りぬか」
そんな声が、聞こえてくる。
どこからかラウンジへやってきたティアルだった。
私の姿を目にいれ、あきれ混じりにそういた。
「…………」
無視する。
そして再び、縄を抜けるため、足掻く。
「これはお主のためだと、何故分からぬ」
つまらなさそうに側にしゃがんだティアルは
縄の端をつまんで持ち上げ、侮蔑を籠めた口調と目で、私にそういう。
「…………」
黙る。
押し黙る。
もう何も、言葉でどうこうしようなんて、思わなかった。
あれから──私が、春さんに投げられて気絶してから──
ずっと私は、『外』へ、秋の元へ行こうとこの部屋の中からの脱出を、何度も試みていた。
そのたびに、春さんや、ティアルや、使用人の人たち(主に錦さん)に立ちふさがられ阻止されてしまったのだけど、それでも懲りずに何度も挑戦していると、しつこいと言って、身体をロープでグルグル巻きにされてしまった。
夕飯時だったり、トイレに行きたくなると、ほどいてくれるけど
そのチャンスをさらに利用して外へ行こうとするうちに、縄で縛られている時間が長くなっていって、ついに丸一日縄で縛られたままラウンジで放置されてしまっていたのだ。
秋が出ていってから、十二日。
未だ、秋が帰ってくる気配はない。
春さんだって、本当は秋の事が心配で気が気でないはずだ。
日を重ねるごとに、少しずつ心配そうに青くさせる顔色は
どれだけ取り繕うともごまかせない。
私を心配して、外に出させない。それは分かっている。
でも誰かがいかなきゃいけない。
私が弱いからとそういうのなら。
だったら、実力で、この縄から出て、この部屋からも出てみせる。
そう決断した。だからもうティアルに返す言葉も何もなかった。
必要なのはもう、証明だから──
なんて。
それらしくいってみてるけれど。
出られる算段も見込みも、全く無かった。
「(せめて、『メモリーカード』さえ、あれば……)」
私の能力【セーブ&ロード】の起点である『メモリカード』はとりあげられてしまっていた。
便利な能力だけど、でもメモリーカードの枚数に限りがあるのが、私の能力の欠点だ。
今の能力レベルで出せる最大の枚数──『二枚』ともが、私の手元にはない。
こうなるともう、どうしようもないのが私の能力だ。便利なのか、そうでないのか。未だに、いまいちわからない。
せめてそれさえあれば、何か打開策が開けても良さそうなのに。
「(あれ…………?)」
唐突に、違和感を憶える。
自分の思考に。
最大の枚数のところ──『二枚』のところに、違和感を憶えた。
それは、もっと自分は出きるという確信めいた違和感だった。
「(まさか…………)」
前にも一度、それを感じた事がある。
『メモリーカード』を出せる枚数が、一枚から、二枚に増えた時だ。
私はある一つの予感を持って、心でこう唱える。
──『メモリーカード』。
縛られた手の中。
今までになかった固い感触を抱く。
この大きさ、この形。間違いない。メモリーカードだ。
「(三枚まで、出せるようになっていたのか…………)」
人が成長するなら、スキルや能力も成長をする。
いつのまにか、レベルがあがっていたのだろう。メモリーカードは最大枚数が増えて二枚から三枚になっていた。感じていた違和感は、この事だったんだ。
「(それなら…………)」
これは最大のチャンスだ。
縄から出て、秋の元へいく。
背中で手を縛られているから、直接目には見えない。
でも使うことはできる。このチャンスを絶対に生かす、そうきめたときだった。
「没収ですね」
「えっ」
ティアルではなく、別の声が耳に届く。
そしてひょいと、手の中にあるメモリーカードをつまみ上げて持って行く。
手の中には何もなくなり、寂しくなった感覚が、空しさを誘う。
──全く気配もなく、近づかれた。
というか、メモリーカードを取られた今も全く気配を感じない。
大方誰なのかをわかっていつつも、苛立ち混じりに、身体に力を入れて、ぐるりと反対側を向く。
こんなにぐるぐる巻きにされたら、振り返るのだって一苦労だ。
そして──身体が硬直する。
「愚か、です。気配の察知が、おざなりすぎます」
メモリーカードをメイド服のポケットに入れる、春さん。
私は呆然と──『その姿』を目に入れる。
その異常を、目に入れる。
「とりあえずこれは回収しておきます。弱いあなたでも、『これ』だけは非常に厄介ですからね」
秋ですら時折気付かない春さんの気配なんか、読めるわけない。
この間、ティアルですら、背後の急にたたれて驚いていたのを目撃していた。この世界の頂上に肩を並べる魔王ですら、なのに私なんかがわかるはずがない──と。
本来ならばそんな、言い訳をのべるところだった。
でもそのことを、口にする余裕が、『無かった』。
あまりにも唐突すぎて、ただ呆然として、身体を硬直していた。
背後にいた、春さんが意外だったから──ではなく、それよりもさらに、『後ろ』にある『それ』に目を向けて。
「なんですか、その呆然とした間抜けで愚かな顔は。
全く…………これだから、大陸の外の人間は……」
「春よ。後ろじゃ」
「…………?」
私と同じものを見て、驚いて押し黙っていたティアルが、未だ気付いていない春さんに声をかける。
「後ろ…………?」
春さんが、ゆっくりと振り返る。
そしてそれを目に入れたとき、ピタリと、身体が硬直した。
──『ドア』。
ラウンジにあるドアは、一定の間隔に、きちんと整理されて置かれている。
でもそのドアはそんな規律から、明らかにはみ出していた。
ドアの置かれた壁際ではなく、今私たちのいる、ラウンジのど真ん中であるこの場所に唐突に──『出来ている』。
3Dで映し出された幻影が、ゆっくりと本物になっていくかのように、唐突に。
「秋様……」
このドアの出来た要因。そんなの一つしかない。
この能力は秋の能力なのだから。
呟かれた春さんの秋を呼ぶ声からは、色々な感情が感じられる。
安堵とか、心配とか、うれしさとか、ちょっとした怒りだとか。
私たちはその直後、息を飲む事になる。
ゆっくりと出来たばかりの、ドアが開かれて行く。
最初の印象は──『黒い』、だった。
黒い何かが、闇の中から這いずって出てきたように。一瞬、敵かと思い、縛られた身体が硬直するほどだった。
やがてドアが開ききり、その黒さが、おびただしい量の『血』だと知り私たちは言葉を失った。
帰ってきた秋は、血だらけだった。
いつも着ている作業服は、焦げていたり、濡れていたり、凍っていたり、腐っていたり。
どこにいたのか、何をしていたのか。全く想像できない。
そんな秋の姿に言葉を失った後、さらにその驚愕を上回る存在に気付く。
秋の黒さに、紛れ込むように、それはいた。
──子供。
秋の腕の中に、小さな、子供が抱かれていたのだ。
性別は……よくわからない。ただとても汚れていて、線が細く、血色が失せている。
その様子に、私は見覚えを感じて目を細める。
何度もみたことがあるから、気付いてしまった。
その少女が、奴隷と、そう呼ばれる存在だということに。
「秋様」
毅然とした態度で、春さんが秋に声をかける。
私と違い、まるで狼狽える様子は全くない。
なのに、次の言葉で春さんは狼狽えた。
「春……部屋を。
──の部屋を頼む」
あえて、そういう言い方をしたのか肝心の部屋の名前が、私には聞き取れなかった。
「ッ……! あの部屋をですか……?」
「それしかない。いそいでくれ」
「……かしこまりました。【部屋創造】」
その場に、一つのドアが突如現れる。
すぐに秋はドアの中に子供を抱いたまま、入っていく。続けて春さんも中へと入り、春さんがドアを閉じた瞬間、秋が最初に現れたドアと一緒にドアが消えていく。
瞬く間に事態が動く中、私はただ呆然と見ているしかなかった。
「何がどうなったんだろう…………」
地面に転がされながら呟く。
続く言葉は無い。
私は自然と、この場に取り残されたもう一人、ティアル・マギザムードの方へ視線を向けた。
そしてティアルの珍しい表情を目にいれた。
悲しそうな、辛そうな。
秋の消えていった場所を見つめて、そんな表情を浮かべていたのだ。
あの魔王が。
不思議に思い、視線を向けていると、ティアルは私の方へ少し視線を向けまた、元に戻しながら言葉を発した。
「あの子供は、『供物』じゃの」
静かに、ティアルはそう言った。
「終焉の大陸の恐ろしさは鮮烈じゃ。
未だ孤立した地。そのはずなのに、異質さだけは、全世界に浸透しておる」
黙ってその言葉を、耳に入れる。
「恐ろしさは、怯えを生むのはもちろんじゃ。
だが度を越えると──そこには『信仰』が生まれる」
「信仰……」
「その絶大な力を、崇め始めるのじゃ。
終焉の大陸は世界一高く濃い魔素に満ちておる。だから例えば『魔』に適正の高い種族……『魔人族』、『悪魔族』、『天使族』なんかはこの大陸を神聖視しておるのじゃ。『神の地』と、そう言っての」
どれも強力な力を持つ魔族だ。
でも私は──その中に『悪魔族』があるのが気になった。
ティアル・マギザムードは──悪魔族だ。
終焉の大陸の出身者と、ティアルはそう呼ばれている。
なぜ、そう呼ばれる事になったのか。
そもそもこの大陸は──あたり前だが、子供なんて、やってくる場所でも、これる場所でもない。
それなのに、そう呼ばれている。
その経緯。気にならなかったといえば──嘘になる。
でもそんなの、簡単に聞けることじゃない。
私の方には目もくれず、でも私の思ったことには気付いていたのかもしれない。
ティアルは少女のいなくなった場所に目をやりながら、自嘲するように笑った。
「その終焉の大陸を神聖視する、主な三つの種族にはある、面白い『慣習』が出来た。
終焉の大陸に、罪人を転移させるという慣習がの。『神の審判』と言って、終焉の大陸に罪人を送り、無事帰ってこれればその罪は神の判断で許された、という事になる」
それはたぶん、島流し──流刑という事なのだろう。
でも、終焉の大陸に送られるなんて。
ほぼ、死刑と変わらなさそうに思えた。
「それで生きて帰った人は…………?」
そう尋ねると、ティアルは楽しそうに笑う。
本当に、楽しそうに。でもどこか、獰猛に。魔王としての凶暴さや粗暴さを滲みだしながら。
「わし一人じゃ」
そう、さらりと言ってのけた。
自分もまた、その慣習で流刑を受けた一人だと、平然と、淡々と。
言ってのけた。
「まあもう、随分古い慣習じゃがの。未だにそんな事をやっておるなんての。
あの少女は随分辺鄙な部族に生まれてしまったのであろう。大方、南の方であろうが」
「あんな、子供が、そんな重い罪に?」
「ふっ、そんなもの簡単に予想がつくわ。
異種族の血が入っておるのであろう。そんな古い慣習に今もなおこだわる部族となれば、純血に対するこだわりも、かなりのものであろう」
なんて、どうしようもない話なのだろう。
こういうのを聞くたびに、なぜだろう。身体が、熱くなる。
漠然とした、怒りを感じる。
私は一度首を振って、まだある疑問を、尋ねた。
「その流刑を受けた少女が、偶然、秋と終焉の大陸で出会ったのか?」
「そこまではわからぬよ。
といっても事実を逆算すればそれが一番適切な答えにはなりそうじゃの」
それは、一体、どれほどの確率なのだろうか。
この広い終焉の大陸で、そんな、秋と流刑を受けた少女が偶然出会うなんて。
「何にせよ、あの子供には、助かってほしいがの。
随分と、ひどい傷じゃった……」
「…………」
私はいぶかしむように魔王を見つめる。
魔王のくせに。
そんな一見いい人そうな、そんな事。
言わないでほしい。
そう思った。でも口には出さなかった。
なにがどうあれ、私もまた同じ思いだったから。
◇
そして、さらに二日後。
私たちは、ラウンジに集まっていた。
あんま人数がいるわけではない。
いるわけではないんだけど──でもなんというか、集結、という感じだった。
春さん、冬さん。
使用人の驃さんと千さん。
ティアルと、私、私のベッドを奪ったあの緑色の女の人はいなかった。
もちろん、秋もいる。
それに──。
「無事だったか」
秋が、声を掛ける。
声を掛けられた人物は、ため息をつきながら答えた。
「…………これが無事とは、とても思えないけどな」
冒険者のサイセ・モズ──サイセさんが松葉杖と包帯をおかしそうに秋に見せる。
ラウンジの椅子に座っている秋はその姿を見て、ふっと笑い、「想像よりは、ずっと無事さ」と呟いた。
「おかげさまでな」
と、サイセさんがからからと笑う。
サイセさんは、私が悲鳴を聞いて駆けつけにいった、集団の一人だ。
残念ながら、その集団はサイセさん以外は全滅してしまったそうだ。
その事を、一応耳にしていた。残念だと思う。
サイセさんだけは、秋に、何か助けてもらったようだけど。
気絶していた私は、二人の間に何かあったのかは知らない。
「それであの子は、無事なのかの?」
ティアルが、本題だと言うように、秋に声をかける。
「あぁ……。命の方は──大丈夫だ」
「それは良かったの」
ティアルはほっと、胸をなで下ろす。
この中で少女の事を一番気に止んでいたのは、ティアルだったかもしれない。
「いや、安心するのは、まだ早い。問題があるんだ」
秋は続けて、毅然と言い放つ。
どうでもよさそうに。
「あの少女に?」
私は、聞く。
「あぁ。アレは──」
アレ──と。
秋は少女をさして、そう言った。
思わず顔をしかめる。
同じ事を、思ったのだろう。
ティアルが口を開く。直接には言わずに。求める形ように。
「名前を決めぬか?」
「…………名前?」
「あの、少女の名前をじゃ。【鑑定】には名前があったかの?」
「いや……魔人族としか、書かれていなかった。
でもぼんやりと『トゥマーレ』って言葉を。そういえば、口に出してたな」
「それは──」
その言葉に反応したのは、私と、サイセさんと、ティアル。
大陸の外の人たちだ。
全員、浮かべた表情は、良いものではなかった。
「それは名前では、ない」
疲れたように、あるいは悲しむように。
ティアルは言葉を搾りだした。
『トゥマーレ』。
それは象徴だ。
醜いものや、災いや、悪の、世界のあらゆる負の象徴。
前の世界では例えば悪い人を指して『悪魔』と言ったり
良い人を指して『天使』と表現することができた。
象徴として悪魔と天使があった。
でもこの世界には実際に、悪魔族と天使族がいる。
そしてある程度種族としての傾向はあるものの、二つの種族とも良い人がいれば悪い人がいる。
当たり前のことだ。
つまりこの世界で悪魔や天使とはそうした象徴的な言葉では使われない。
代わりに使われる言葉の片方が、『トゥマーレ』だ。
災いの神として、負の象徴として、侮蔑の手段としてその言葉は使われる。
とてもじゃないけど、あんな小さな子供に、かける言葉ではない。
かなり相当な、環境で育ったことは、この事で簡単に想像できてしまった。
「名前がないのであれば、話より先に、そちらを決めてしまわぬか?
そちらのほうが話すのも楽であろう」
「──名前、ね」
秋の反応は、少女の話に入ってから。
いまいち、悪い。
「あの少女は、かつてのわしじゃ……」
遠くを見るように、ティアルは言う。
「わしも同じだった。
父が異種族と不義を働き──当時は、そういうのがとても許されない時代だったからの。異種族の血が混じっている事を疑われ、父親と共にこの大陸に送られた。腹を痛めて生んだはずの母親にすら、擁護すらされなかった。侮蔑を籠めた目で、子供のわしと父親もろとも、見送られたの。あまりにもしょうもない父親の、その血すらもが許容できなかったのであろうがの」
「…………」
「父親が魔物に食われ、必死に逃げ惑っているとき、マギザムードに拾われた。
どうもわしは──少女に自分を重ねてしまう。名前が無いのが、不憫で、ならぬ」
「なら、ティアルが──」
決めれば、と。
そう言いかけたとき。
「なりません」
ピシャリ、と割って入る声。
私にとって意外だった。なぜならその人は秋のことを、すべて、問答無用で、肯定するイメージがあったから。
「秋様が──秋様自身が、決めるべきです。
これは秋様が自分で選び、自分で行ったこと。
ならば、最後まで自分で果たすべきです。違いますか?」
「そう、だな」
厳しい春さんの言葉。
でも秋もそう言われるのを分かっていたかのように、素直にうなずいた。
それから、数秒間、ラウンジが沈黙に満たされる。
みんなが、秋に視線を向けていた。
秋はどこか疲れた様子で、片手で頭を抱えながら、少女の名を考えていた。
いつもとても強くまるで隙が見えない秋とは、この時ばかりは、かけ離れてみえた。
だから私は、口を挟んでしまった。
「──『夏』っていうのは?」
ゆっくりと、秋の視線が私に向けられる。
「ほ、ほら!
この部屋には秋がいて、春さんがいて、冬さんがいる。
でもずっと思ってたんだ。夏って名前は、いないのかなって。だからどうかな……って」
言っているうちに、気付く。秋の視線にばかり気を取られていた。
秋以外のほとんどの人は、私に目もくれてなかった。それどころか意識的に視線を逸らしているかのように。重い空気を放ちながら、私の言葉を、まるで無かったかのようにしようとしているかのように。
「…………察さぬか、馬鹿者」
小さく、ティアルが、窘めるように言った。
察する……?
ティアルの言葉がわからなくて、うろたえる。
側までやってきたティアルが、耳元で、小さく言った。
「春からこの間、秋の話を聞いたであろう」
秋の話──。
秋の、亡くなった妹の……。
そこで、気付く。
そうだ……。
秋がいて、春がいて、冬がいて、夏がいない。
そのことを、偶然だと、どうして思ったのだろう。
夏という名前がいないのなら、何故いないのか、その理由があってしかるべきで
そのことを私はもっと深く考えなければいけなかった。
なのに私はでしゃばって、深く考えもせずに、余計な言葉を口走ってしまった。
身体全体が、冷えたような感覚だった。
「……ごめんなさい。
軽い、気持ちで、余計な事を、言ってしまって」
心の底から、後悔した。罪悪感でいっぱいだった。
秋の方を見られなかった。
「夏──か……」
秋は、呟く。
独り言のように。
ゆっくりと顔をあげて、秋の方を見る。
全員が、秋に視線を集めていた。
「『千夏』」
きっぱりと、いつもの秋のように。
強く、毅然と、秋は言った。
「あの少女は。
今日から。今この瞬間から。
千の夏と書いて『千夏』という名前だ」
千夏。
私の失言から、秋は少女の名前を決めた。
そこに、どんな意味があるのだろう。どんな意図があるのだろう
私には推し量ることはできない。
でもいい名前だと、心の底から、そう思った。
春さんも冬さんも、使用人の人たちも、どこかほっとするように秋のことを眺めていた。ティアルも、ほほえみを浮かべている。
「それで、千夏に何か問題でもあるのかの?」
ティアルは話を戻して、秋に尋ねる。
「あぁ……」
そして話は、一番最初の、本題へと戻る。
「身体の傷は治癒していっているんだが、何故か熱が出て引かない。
それに髪が時折虹色に光ったりする。傷の関係じゃないと思うんだが……」
「髪が虹色に…………?」
私は呟く。よく分からない症状だった。
異種族特有の病気なのだろうか。
「魔力関係の器官に異常があるのかも知れぬな」
この中で一番博識のティアルが、口を出す。
「魔人族は魔力の操作に最も高い適性を持つ種族。
だからこそ、子供の頃は逆に些細な変化で異常をきたしやすい」
「なるほど……」
苦々しそうな顔で、秋は呟く。
この世界にはいろんな種族がいて、大まかな身体の構成は同じでも、ある一つの部分が違ったりする。悪魔族は羽と角が生えているし、獣人は耳としっぽが、魔人族は白髪と白い肌と、魔力を使ったときに目にほんのりと虹色が浮かぶのが特徴だ。
「なんにせよわしは医者ではないからの。
詳しいことは、やはり専門家に聞くしかあるまい」
専門家に聞く。簡単に言うけど、ここは『終焉の大陸』だ。
歴史上、一度も他の大陸と繋がったことのない、永久人類未到大陸。
そんな場所に専門家なんているはずがない。
大陸を、出なければ……の話だけれど。
秋へ視線を向ける。
この場にいる誰もが、同じ思いで。
「それで、どうするのじゃ?」
ティアルが、訪ねる。
秋は、椅子から立ち上がり、迷わず言う。
「出るよ」
それだけだった。それだけの言葉だった。
「当然」と、最後にそう付け足して。
あまりにもあっさりと決まった。
終焉の大陸を──出る事が。
秋は小さな、一人の少女のために、大陸を出ることを決断した。
「それじゃあ、いくか」
そう言って秋は平然と立ち上がった。
私は不思議になって聞く。
大陸を出るって決めたばかりなのに。
「今から、どこかへ出かけるのか?」
だからバカみたいにそう尋ねてしまった。
秋は呆れ混じりに、答える。
「いや、行くって言ったばかりだろ」
「え?」
「大陸の外」
でもだって。
こんな、今すぐに出発だなんて。
思わなかったから……。
◇◆◇
曇り空。
少し冷えた風が、肌をなでる。
ポケットに手を入れながら、ぼんやりと、水平線を見つめていた。
考えているのは、自分が千夏と名付けた、少女のこと。
その少女の上げる、悲鳴が。
耳の奥にこびりついたまま、今も聞こえ続けている。
問題は──同時に、複数起こった。
傷だらけで、もはや死に体に近い少女を救う手段は、限られている。
そもそも俺は、別に医者ではないのだから。
少し自分の身体を、弄くり回したことがあるだけの、ただの化け物でしかないのだから。
それでもなるべく、異常の起こらないように。
適切に、処置した、つもりだった。
だが最悪とも言うべきタイミングで、少女の持つ、ユニークスキルが発動した。
そもそも、おかしな話だったのだ。
あんな人がいないはずの、終焉の大陸の奥地で。
偶然俺の前に、少女が現れるだなんて。
それでも、溜め息をつきたくなる気持ちを、必死で押さえる。
──まさか、ユニークスキルが、あのスキルだったなんてな……。
目に浮かぶ、いつか見た、スキルの数々。
その中の一つを頭に思い浮かべて、心底、『取らなくてよかった』と他人事のように思った。
なんにせよ、だ。
はっきりとしているのは少女を救った
その行動の動機に、かわいそうだからなんて同情や
ましてや愛なんてものは、さらさらないということ。
じゃあ、何でと聞かれれば、はっきりと言葉にはしがたかった。
どちらかと言うと、少女のためというよりは、自分のために近いとは思うけれど。
ただ俺は、取ってしまったのだ。
少女の手を。
それが例え、取らされてしまったのだとしても、選択は覆らない。
どれだけ間違えようと、後悔しようと人は選択を背負って生きていく。
二度と手を取りはしないと、背負いはしないとそう決めていたとしても。
救ったのならば。
救ってしまったのならば。
少女を最後まで救いきる。ただそれだけだ。
大陸の外へ出なければならないのであれば、躊躇なく出てみせる。
「それじゃあ、行くかな」
誰に言うわけでもなく、ぽつりと呟いた。
ぽつぽつと、雪が降り始める。
少し肌寒い門出だった。
前へ『一歩』進む。
自分の、足で。
──灰羽秋は、大陸を出る。
様々な記憶と思いがあるはずの終焉の大陸を。
振り返ることなどせずに。
『十年』──それは秋がこの世界に来てから、この大陸で過ごした年月。
いや。
『地球』の『年数』に合わせていえばおよそ──『十三年』の歳月を過ごした場所を。
道は、ほんの少し逸れたのかもしれない。
あるいは今もなお、続いているのかもしれない。
果たしてどこへ辿り着くのか。答えは誰にもわからない。
ただ、舞台はうつろう。
季節が巡るように。人が変化するように。
海を越えて、終焉の大陸でない別の場所へ。
事実なのは灰羽秋は歩み続けるということだ。
止まることなく、躊躇なく。
一歩を踏みだし続ける。
大陸を出た、その日。
奇しくも、ある月の、始まりの日だった。
この世界の一年──『十六ヶ月』あるうちの一つの月。
『ル・コクア』。
秋の、始まり。
という意味の月だった。