第57話 《 》と『 』①
──……ぁ…………。
と。
"それ"は、小さく声を漏らす。
それから、周囲を軽く見渡し、風の強さに耐えきれず一度体をよろけさせた。
なんとか、風の力に耐え、ぐっと足に力を入れてまっすぐに立つ。
そして──目の前の存在。
この場にいる、災害の、一方を。
その瞳に捉え、口を開いた。
「かみ…………さま、ですか?」
それが──最初の、言葉だった。
──ここは、終焉の大陸。
魔物が生まれ、死に。環境が作られ、壊れていく。
過酷という言葉ですら生温い。未だ、世界から孤立し続ける
魔王も、勇者も、竜王も近づかない──
人類未踏、
最大最悪、
人外魔境の──世界。
その大陸で、頭一つ抜けて危険な《大森林》の森で。
その大陸で、最も危険な二つの災害の間で。
呆れるほど危険と危険を、乗数のように掛け合わせた、その場所に。
現れたのは──
※
魔人族 LV27
種族 魔人族
職業 奴隷
スキル
環境適応 LV1
虚弱 LV2
悪食 LV2
ユニークスキル
【 】
※
小さな、一人の────薄汚れた少女だった。
薄汚かった。
お世辞にも、綺麗とはいえなかった。
汚れが目立ちすぎて元が何色なのかわからない髪の毛はボサボサで
服も汚れているのはもちろん、所々破けた場所があるというのに縫い合わせる事すらされていない。
顔には青紫色に滲んだアザが複数。首は、つい今まで何かで縛られていたように、赤い。
栄養が不足しているらしき体は、とても細く、強い風に今にも持って行かれそうで。
そして──
極めつけは、腕と足に残っている──跡。
今までずっと。何かをはめつづけていたような輪の形をした、跡。
とても、こんな年端のいかない少女がはめているべきではない、ものを連装させた。それは例えば──拘束具、なんてものを。
少女はぎゅっと両の手を強く握って。
強い風に晒されながら、何も履いていない裸足の両の足で、細い体を真っ直ぐに支える。
少女は、語りかける。
吹き荒れる風の音にかき消されそうな声で。
その瞳に災害魔獣──《人外》を。真っ直ぐに、捉えて、言葉を紡ぐ。
《人外》の研ぎ澄まされた感覚は、少女の声を正確に一つもこぼさず聞き取った。
「この、ばしょには。かみ、さまが
いるって、いってました……」
たどたどしく。
まるで言葉自体に、人と言葉を交わすこと自体に、馴れていないように話す。
「かみさまは、なん、でもしってる。なんでも、できる、って
そう、いって……いました。
わたしは、しり、たいことが、あります。どうしてもしりたいです」
災害魔獣《人外》はその光景をしっかりと見ていた。
どこまでも正確に、一切の『無駄』なく、捉えていた。
突如少女が現れた事に対する、驚きも。
何故少女が現れたのかという、疑問も。
これから少女がどうなるのかという、想像も無く。
光が現れ、消え去るとそこに少女がいたというありのままを、ありのままで認識していた。
それは坂道を転がる小石や、海の上に漂う海草を見た時と同じようなものだった。
無駄なもの(感情)は一切なにもなかった。
だから《人外》は少女の願いにも、言葉にも。
何も感じず意識する事もない。
意識を傾けるべき存在だって、変わってはいない。
突如現れた少女なんかよりも、そのさらに奥にいる、災害。
《嵐》へ意識を集中させていた。
より重要な方を意識する。ただそれだけの話だった。
『BooooooooooooOOOOOOO──────』
ぼぼぼ、と耳に風の当たる音に、災害魔獣《嵐》の鳴き声がぼんやりと紛れる。
《嵐》はゆっくりと、でも着実に歩を進めて、距離を縮めている。
少女はビクリと身を奮わせ、背後をちらりと振り返る。
そして今その災害の存在に気づいたのか顔を驚きで染め上げ、それでも現実味がないのかぼうっとその存在へ視線を送っていた。
《嵐》の姿は見えない。
《嵐》の纏っている風は埃や塵が混じり、薄暗く濁っていて見通しが悪い。見えるのは嵐の中心部から伸びている長い、ひくひくと動いた、一本の触手のようなものと、風にぼんやりと浮かぶ《嵐》本体の影。
そして一瞬、こちらを覗き見る無機質に染まりきった瞳だけだった。
風は時間が経つごとに強くなっていく。
そしてそれに比例して周囲の凄惨さを増していった。
空にいる魔物は身体中を穴だらけにして、血を垂れ流しながら、風に抵抗する力もなくぐるぐると、なされるがままに、塵や埃に混じって嵐の中を回っている。
木は根本から引き抜かれ、あるいは折られ、宙に投げ出される。
それが隕石のように加速して気まぐれに降ってくるものだから、嵐から離れた場所にいる魔物もそれらに当たって、絞り出したような悲鳴を上げて倒れていく。
『──────────………………!?』
《嵐》の側で、地下から顔を出した魔物がいた。
その魔物は《嵐》に気づき、すぐに地下に戻ろうとするが風の力に負けて顔を引っ込められずに、まるで大根を引っこ抜いたかのように、長い体をするすると地下から引っ張りだされ、血をまき散らしながら嵐の一部になった。
凄まじかった。
そうとしか表現できなかった。
何もかもを超越した目の前の存在を。
これが、無機質の果て。
強く、美しく、孤独で、圧倒的な存在。
尊敬や敬意を払ってしまうたくなる気持ちを《人外》は掻き消す。
《人外》は数度だけ《嵐》から逃げ帰った事があった。その時は目の前の存在に圧倒され憧憬すら抱いてしまった。だから負けた。そのときの自分には、生き物としてたくさんの無駄があった。
今はもう、それはない。
どこまでも純粋に澄んでいた。心も思考も。何もかも。
今なら渡り合えることができるという感覚が《人外》にはあった。
──ピキリ、と。
《人外》の顔に黒いヒビが入る。
人という形すらも崩れかねない、不穏な、ヒビが。
「………………ぅぅうう…………」
少女はあまりにも強い風に立ってられず、呻き声を上げていた。
汚い服をぱたぱたとはためかせながら、地面に手を突き、なんとか体を風に持っていかれないよう必死で持ちこたえている。
──《人外》は。
「…………」
そんな少女に向けて、何も言葉を発しない。
手を差し伸べたりは、しない。
ただ無機質に、その姿をただ現象として捉えるだけだった。
そしてそれはきっと、災害魔獣《人外》ではなく
『灰羽秋』だったとしても同じだっただろう。
燃える炎の豹の魔物。『群炎豹』。
その魔物はつい最近、紛れもなく灰羽秋の手で殺した魔物だ。
その魔物には子供がいた。
手にかけたのは、秋ではない。
でも実質その子供が死ぬきっかけになったのは秋だ。
例えばこの子供に手を差し伸べたとして、豹の魔物の子供が死んだ理由は一体なんなのだろうか。灰羽秋はそう考える。
この子供が救われて、群炎豹の子供がつぶされて死ぬ。
その違いはいったい何なのだろうか。
人間だから。魔物だから。
灰羽秋は、そうした基準を持たない。
生きるべき魔物もいれば、死ぬべき人間もいる事を知っている。殺したいという人間もいたことがあるし、生かしたいと思う魔物もいたころがある。秋にとって人間か魔物かという基準は非常に不安定で不明瞭なものだ。そんなのは基準にならないし、なったとしても基準としての役割を果たせない。
なら、安定していて明瞭で、基準としての役割を果たせるもの。
そんなの、『強い』か『弱い』か、それだけだ。
それに任せるべきだし、任されるべきだし。
任せるしかない。
世界はただ、それだけで動いている。
残酷なまでに平等に。子供だからなんて、関係ない。
群炎豹の番もその子供も。
弱いから死んだ。
なら目の前のこの少女も、そうあるべきだ。
この少女にだけ手を差し伸べる意味は、あまりに、何も無さすぎる。
仮に手を差し伸べたとしても、この場を生き残ったとしても。
いつか必ず、世界は問いかけにくる。強いのか、弱いのかを。
試練となって問いかけにくる。少女自身に。
なら。
ならば──。
やはり諦めるべきことこそが、正しい。
この世界で、誰かに手を差しのべるなんてことに、意味も理由も、力も──無さ過ぎるのだから。
どこまでも人は──孤独に生きていく。
世界とはただそれだけだ。
だから現象を目指す。
幸せを諦める事に『幸せ』を見いだす。
もしかしたらこの少女が現れたのは、そのためなのかもしれない。
灰羽秋が、完全に現象になるための試練としてこの少女は現れたのかもしれない。
この少女を見捨てる判断を下す事で、灰羽秋はさらにより自分自身を純粋にできる。
最後の殻を捨て去ることができる。
災害魔獣《人外》の──『残滓』は。
一瞬だけ、そう考えた。
鋭い痛みが、頬をかすめる。
とてつもない速度で飛来した小石が頬を掠り、血が流れる。
《嵐》との距離が縮まった影響か、多くの小石や、何かの破片が降り注ぐようになっていた。一度だけ手で拭い、すぐにスキルを使って再生する。だけど黒いヒビは治ることなく広がり続ける。
そしてその時と、ほぼ同時の事だった。
悲鳴が耳に届く。すぐ目の前から。
「ッァァァァアアアアアアアア!!」
その一部始終を、《人外》は見ていた。
目をそらすことなく、かといって逆に集中して見つめることなく。
光景の一部として正確に捉えていた。
風に飛ばされてきた木片が少女を貫いた。
木片は背中から刺さり、そして腹の部分から飛び出して、貫通していた。どうみても致命傷だった。
薄汚い少女は木片に貫かれた勢いのまま、地面に踏ん張る力を失って倒れ、強い風に流され、まるで物のようにコロコロと地面を転がっていった。そしてそのまま《人外》の視界から消えていく。後に残ったのは少女の血の跡だけだった。
ゆっくりと《人外》は目を閉じる。
それは目を逸らしてはならない存在が目の前いるこの瞬間においてあまりにも非効率的な行動だった。
感情的な行動だった。
「…………」
──灰羽秋は、思う。
これでいい、と。
これこそがいい、と。
関わるべきではないし、繋がるべきではない。
あちこちで、魔物が死んでいる。
《嵐》の力に翻弄され、死んでいる。
同じことだ。
少女はただ、『剥き出しの世界』を、味わったにすぎない。
──ピキリ。
《人外》の顔に入っている黒いヒビがさらに広がる。
少し肌が崩れ落ちた場所。ヒビの内側はとても黒かった。
ゆっくりと、目を開く。
風が吹き荒れている。
魔物の悲鳴すらも、風の音がかき消し、たくさんの物や死体が、破片が周囲に降り注いでいた。
もはや、逃れられないところまで《嵐》が近づいていた。
ここまできたらもう【部屋創造】の能力すら使う事ができない。
設置した地面がすぐに剥がされドアを開くことができないからだ。
災害魔獣──《人外》は考えない。
だから《人外》はほんの少しだけ視線を逸らす。
それは少女の転がっていった方向。
最後の最後。考えないために。諦めるために。
灰羽秋を構成していた重要な何かをそぎ落とすために《人外》は、その方向を一瞬だけ見た。
──いない。
少女の姿はなかった。ただ転々と血の跡だけが残っていた。
どこか、さらに遠くに飛ばされたのか。それとも逃げたのか。
なんにせよ、あの少女が生き残る事は絶対に、万に一つもない。
それでよかった。
《人外》は、少女を見捨てる事ができた。
それこそが重要な事だった。
最後の最後に、一番大きな何かを削ぎ落として。
──ピキピキピキ……。
《人外》の顔に入った黒いヒビは際限なく大きく広がっていく。
もはや顔のほとんどにヒビが入り、その半分の肌が崩れおちて中の深い黒色が現れていた。
『BoooooooOOOOOOOOOOOOO──────!!!』
警戒するように《嵐》が鳴く。ズシンと音が鳴ったと錯覚するほど、とてつもない威圧感が空気に満ちあふれる。遠くでは巨大な魔物が踵を返して逃げていた。
その中で、《人外》だけが前へ進む。
《人外》は、歩み続ける。
《人外》の道を。現象の道を。幸福の道を。
ただ止まることなく、強く歩み続ける。
『一歩』──
前へ足を踏み出した──
はずだった。
…………ギュッ。
「────?」
ピタリと、踏みだそうとしていた足が宙で止まる。
阻む力を感じた。
歩みだそうとする《人外》の一歩を止める力が。
ギュッ。
────また。
また力が、加わった。
《人外》は足を、戻す。前ではなく、元と同じ場所に。
そして、その力が加えられている場所へ、ゆっくりと顔を向ける。
その場所は、自分の、左手。
左手が────握られていた。
薄汚い、腹を木片に貫かれて消えたはずの少女に。
不覚だった。
こんなにも近づかれて、しかも手を握られるなんて。
ここにきて、ようやく《嵐》や現象の魔物と並び立てる所まできて。
あんまりな……醜態……。
《人外》は、少女を見る。
少し見ない間に、身体中、随分と傷が増えていた。
ボロボロの服は、汚れにまじって血まみれだ。
木片を引き抜いてしまったのか。今もどくどくと、腹から血が広がり続けている。
とても立てるはずがない、歩けるはずがない状態。
なのに、それなのに。
それでも少女は、《人外》の手の平を握っていた。
弱りきった力で、強く。
そして、真っ直ぐに。
ただ《人外》だけを見つめていた。
はらはらと、たくさんの涙を強風に持ってかれながら。
どこかで見たことあるような、何かを思い出してしまいそうな、そんな瞳で。
灰羽秋は、諦める。
少女は、諦めない──
◇◆◇
価値という概念が、この世界に、確かにあるのであれば。
少女は『価値のない命』だった。
暗い、部屋。
何かを殴りつける、鈍い音が響く。
その音が鳴るたびに、悲痛に満ちた声が漏れでた。
「グゥッ……」
お腹。
「ゥゥウッ……」
わき腹。
「アァァァッァァッッ!!!!」
甲高い声が耳に入る。
咄嗟に手で頭を抱え込んだ。
蹴られたばかりのお腹とわき腹が痛かったけど気にする余裕はない。
ドンと。
強い衝撃におそわれる。
口から息を漏らしながら、宙を舞った。
数回地面を跳ねてから、鉄で出来た柵のような壁に背中があたる。
身体中が痛い。
そう、思う。
そう思っていない時なんてないほどに、痛い。ずっと痛い。
だから、痛い事には馴れている。
こんなふうに、蹴り上げられる事に馴れている。
声を上げずに、うずくまってただひたすら耐える。
「フゥ──!フゥ──!」
少女を蹴り上げた存在は、息を荒らげていた。
女、だった。
怒りと、憎しみをこびりつかせた表情で、その女は、少女がいた場所(今は何も無い虚空)をじっと睨みつけている。
歳は結構若いはずなのに、その異様の様子が、年齢よりもずっと老けて見えさせる。
女の、手と足につけた枷がジャラリと音が鳴る。
「ァァアアアアアアアアアア────ッッッッ!!」
暗い部屋に甲高い声が響く。
その音の発生源である、少女を蹴り上げた女は、自分の顔や白い髪をかきむしっていた。
とても正気とは思えない。実際、正気じゃなかった
少女はそんな絶叫の中で、むくりと起き上がり、静かに移動する。
『檻の中』の隅にあたる場所に、座り込んだ。ひざを抱えて、気配を消して押し黙る。
まるで置物のようにしてそこに居るのが、一番適切なのだとこれまでの人生で学んだ生き方だった。
少女は静かな瞳で、目の前の、絶叫する自分を蹴り上げた女を見る。
その女は──少女にとって『母親』と呼ぶべき存在だった。
少女はこの母の腹から生まれ、この母の血を引いて、この母の乳を飲んで育った。
そして生まれてからずっと……。
『母親』と二人。この狭い檻の中で過ごしている。
それは、誰も望んでいない事だった。
この世界で、価値という概念が確かにあるのなら。
少女の命は『価値のない命』だった。
周囲にいるすべてが、少女の存在を疎んだ。
母親も、この場所を管理する奴隷商という存在も。父親は…………誰かわからない。
そして、後に奴隷から解放してくれた『同族』にとってもそうだった。
いるよりもいない方がいい。
いない方が、より多くの人の悩みが消えて、少しだけ皆の心が楽になる。
揺らぎようのない法則のように、少女の命には価値がなかった。
「………」
その事を、少女は、嘆きはしない。
悲しまないし、怒らない。絶望しない。
少女は奴隷だ。
奴隷じゃなかった時間は、生まれてから一度だってない。
カビ臭く、薄暗くてじめじめしている、奴隷の倉庫で生まれて育った。
奴隷の倉庫には、同じように檻がいくつもあって別の檻では別の奴隷がいる。そんなたくさんの檻の中の、一つで、母親と二人入れられて生きてきた。
そしてきっと、これからもそうして生きて行く。
ドタドタと騒がしく歩いてくる音が聞こえ、少女は檻の外に視線を向ける。
「おい、早く薬を射て」
「あぁ」
母親の叫び声を聞いて、檻の外に二人の男がやってきた。
少し言葉を交わすと、片方の男が、檻の外から母親に向かって吹き矢を打つ。針にあたった母親は、バタリと倒れて気絶する。絶叫の音が止み、騒がしさが一転してシンと静まりかえる。いつも、見慣れた光景だった。
「ったく、毎回毎回手間がかかるな、魔人族ってやつぁよ」
カチャカチャと檻の入り口の鍵を開き、檻の中に吹き矢を放った男が入ってくる。
「会長も、ぼやいていた。まさか"心臓"を採取するためにここまで手間がかかるとは。コストがかかりすぎるとな。今使った薬代もばかにならん」
「これで心臓が取れなかったら、大損だな」
「だからこうして丁寧に扱っている」
「ちがいねぇなっ、っと」
ヘラヘラと笑いながら、吹き矢を打った男は母親から針を抜いて、少しだけ容態を確かめた後に、檻の中にある汚く固いベッドに母親を寝かせる。一見、気遣うように。だけど実際は、商品価値を損ねないようにだ。人としてではなく、物としての気遣いだった。
その様子をじっと見つめていた少女はふと、檻の中に入って来た男と目があう。
「気持ちわりぃ目で見んじゃねぇ」
そういって、少女は殴られた。平然と、そうするのが当たり前のように。
男の放った言葉も、激情が込められているわけではなく、極めて平坦なもので、心底、本当に気持ち悪がっているような声だった。
母親には人としての価値はなくとも物としての価値はある。少女には物としての価値すら、なかった。
じんわりと痛む身体を、起き上がらせて、少女は、黙ったまま、檻の隅に座り続ける。
「いてっ…………」
「どうした?」
「手にゴミが刺さった……」
手を軽くさすりながら、吹き矢を打った男は言う。
「あんま、そいつに触れないほうがいいぞ。
なんかそいつは、不吉だって、同僚の皆が言ってるからな」
「……ッチ。先に言えよ」
「テメエが言う間の無くやったんだろうが」
そんな会話をしながら、二人の男は檻を固く閉めて、この場を後にした。
男たちも去り、母親も眠り。
檻の中は、とても静かだった。
そんな中でも、少女は檻の隅で、ただ置物のようにじっとする。
絶望もしない。
悲しむことも、怒ることもしない。
諦めることもしない。
なぜならこれが──当たり前のことだからだ。
『異常』だって『普通』という比較するものがあって、初めて気づくことができる。
少女の世界は『異常』や『普通』という枠組みすらも作れないほど、あまりにも狭いものだった。だから、何も感じず、何も思わず、日々を過ごせた。
──だけど。
一つだけ。
少し、気になっていることもあった。
──ヒソヒソ。
母親の寝息に混じって、微かに喋り声が聞こえてくる。
ゆっくりと、その音の聞こえる方へ、檻の外へ視線を向ける。
通路を挟んで、向こう側にある、一つの檻だ。
その檻の中にいるのも、やはり奴隷だった。
自分と少し違う、頭の上に多きな、耳の生えた奴隷──が、二人。
奇しくも、その檻の中に入っているのも、親子の奴隷だった。
自分と、同じ────。
同じ、なのだろうか……。
同じはずだと、少女は思っている。
でも違和感が拭えない。
やっぱり違うのかもしれない、なんて、思う事もある。
なぜならその親子の奴隷の、子供の方が、時々自分が浮かべない表情を浮かべている事があるからだ。
それは──笑み。
檻の中にいる奴隷が、幸せなはずがないけど、それでも時おり、子供のほうがほんの小さな、今にも壊れそうなものだが、それでも笑みを浮かべているときがある。
少女はその子供が浮かべる表情自体も、それを浮かべることの意味も分からなかった。
だけど前の檻の子供と、自分とでははっきりとした『違い』があることだけは分かる。
自分と同じように、叩かれたり、怒鳴られたりしていいはずなのに。何が違うのだろう。何があの子と自分を分けたのだろう。その事が、ずっと気になっていた。
その親子が前の檻にやってきたのは、最近の事だ。
だから親子と少女に関わりはない。
でも正面の親子も、自分を気味悪がっている様子だった。
だから少女は、頻繁に、でもこっそりと気づかれないように、正面の檻の親子を伺っていた。
この檻にいる自分と、前の檻にいる子供。
その違いを知るために。
あの表情の意味を、知るために。
そんな日々は、ある日唐突に、終りを告げる。
少女は唐突に奴隷という立場から解放された。
自分と同じ種族なのだという、魔人族という存在が
奴隷を解放するために自分のいた場所(奴隷商)を攻撃して解放してくれたらしい。
少女は檻の外へ出る。
空、太陽、街、多くの人々。
初めてみるものばかりだった。
そして流されるまま、少女は魔人族の集団と共に移動する。母親ももちろん、一緒にいた。傍に、という意味ではなく、集団の中にいるという意味で。
傍に近づくことはしない母親の代わりに、母親の知り合いだという男が(たぶん奴隷商を襲ったうちの一人)少女に色々なことを教えてくれた。生活のことや、自分の種族だという魔人族のことや、目に入る様々なもののことを。
そのほとんどは、まだよく、理解できなかったけども。
少女がいたのはウォンテカグラという人間の国の、ある強欲な貴族の領地であることも教えられたけど、やっぱりそれも、話の半分もわからなかった。
そんな風にして、奴隷から解放され、どこかへ向かう日々。
欲深い貴族の領地から移動した数日後の事だった。
「なに? 野営中に魔物が発生した?」
自分たちを解放してくれた人たちが、真剣な顔で話合っていた。
野営している陣の真っ直中に魔物が生まれたという話だった。理解はできないけど、でもぼんやりと耳を傾けていた。
魔物は魔素がある場所なら、どこにでも発生する可能性がある。それは街の中だろうと、野営中の陣の中だろうと対策をしなければかわらないそうだ。だけど、滅多にない事らしかった。
その時現れたのは、陣の中とはいえあまり強い魔物ではなかった。けが人が出ることもなく倒しきり、たまたま運が悪かったのだろうと、全員が納得して話し合いがおわった。
だけどその次の日。すぐに怒声が飛び交った。
「なに!? まただと!?」
その次の日も、また次の日も。
日を跨ぐごとに魔物は強く、数が多くなる。
事態はより深刻になっていく。
「こいつのせいよッ!!!」
けが人も出始め、重い空気が漂いはじめた話合いの場でそんな叫び声があがった。
少女の母親の声だった。ある人物を真っ直ぐに指をさして、救い出されてから少しマシになった表情と瞳も、今この瞬間だけはあの暗い檻の中にいたときと同じに戻っている、と。
そう、指を刺された先にいる少女は思った。
「──!」
少女に色々とついて教えてくれた魔人族の大人が母親の名前を呼ぶ。
「こいつがっ!! 厄災を、引き寄せるのよ!!」
「自分の子供を、そんな風に言うんじゃない」
「トゥマーレッ!! このトゥマーレの子供がッ!!」
男の言葉を無視して、母親が少女に殴りかかる。
三回殴られた時、魔人族の大人が母親を押さえ込んだ。
「やめろッ おまえの子供だろうが!!」
「こんな子供なんて、生みたくて生んだわけじゃないッ!!」
母親はそう叫んだ。
子供のように泣きながら。
心から、魂から、そう叫んだ。
生みたくて生んだわけじゃないと。
「こんな────ニンゲンとの子供なんかッ!」
「なにッ!?」
その一言で、周囲の空気はがらりと変わった。
一瞬にして、少女を見る魔人族の目が全く違うものに変化する。
────「ハーフ」、「ニンゲン」、「オキテ」、「トゥマーレ」。
その言葉にどんな意味があるのか分からなかった。
ただそんな言葉が飛び交う中で、少女は、汚物を見るように遠巻きから扱われた。
そして──
少女はぎゅっと、膝を抱える。
少女の生活は、すぐに元に戻った。
あまりにも短い、自由な時間だった。
少女は魔人族に拘束されて檻の中に入れられる。
今までと違うのは、檻の中に母親はおらず、目の前に親子の奴隷が入った檻もない。一人だということ。
少女はこれまでそうしてきたように、置物のように一人檻の中で過ごす。
その間、考えるのは、あの親子のことだ。
ぼんやりと檻の中から外を眺めていると、ふと目の前に檻が現れ、その中に親子の姿が見えてしまうのだ。だから、考えざるをえなかった。
子供のほうは、自分と同じように、汚い格好で、汚く不味い物を食べている。
なのに。なのに、だ。
ほんの少しの小さな笑みを浮かべているのだ。
そんなときは決まって『母親』が────子供の頭を撫でたり、身体に寄り添ったり、手を握ったり、ご飯を分けたりしている。
少女は、思う。
自分とその子供は同じだ。
でもあえて言えば。
そこが違う。
撫でたり、手を握ったり、身体を寄り添わせている事が、自分とは違う。
もしかしたら、そこにあるのかもしれない。
あの子供の表情を変える『力』が、そこに。
一人──。
檻の中に入れられた少女は、思う。
「しり、たい…………」
その力はどんな力なのか。
そこにいるのがどんな感覚なのか。知りたい。
少女が考えているのは、それだけだった。
何故か、一人になってから、その事が知りたいという思いがましているような気がした。
あの親子の、奴隷の行方を、少女は知らない。
流される事態についていくだけで背一杯だったから。
でもなんとなく、どんな場所にいようと、どんな状況だろうと、親子は寄り添って生きている。そんな風に思ったし、そう思えることがやはり、『力』の証明なのだと少女はぼんやりと思った。
それから移動中も、何度か魔物に襲われる。
やはり、少女の存在が何か、悪影響を与えているらしかった。
少女のいる檻を乗せた獣車だけがやたら多くの魔物に襲われたり、進化した魔物、『辿魔』に襲われたりした。魔人族も、ここまで続くと、確かにあの少女は何かおかしい──そう考えた。
檻の中にいた少女も、その意識の変化を実感していた。
耳にする言葉に「トゥマーレ」という単語が増えているのだ。
それから魔人族の村という場所に着き、少女はやっぱり、檻に入れられる。
さらに数日経って、少女の処遇が決まったと、豪華な服を着た人たちが少女の元を訪れた。
後ろには色々な事を教えてくれたり、殴るのを止めてくれた、男も連れ添うように一緒にいる。
「掟に従い、君を『神の地』に送り届ける」
オキテ、シタガイ、カミノチ、オクリトドケル……。
やっぱり、わからない言葉が、多い。
でもどこかに行くのだというのは言葉の断片と、雰囲気でぼんやりと分かった。
「かみ、のち………………」
小さな、微かな声で呟く。
独り言だったのだけど、目の前の豪華な服を着た、魔人族は頷く。
「神は何でも知っている。君が生きるべき命なのか、そうでないのか。
私たちは掟に従い、神に問うことにした」
かみは、なんでもしっている。
何でも、知っている。
頭の中で反復する。
何でも知っているのなら、あの力の事も……。
そう、考えた。
「長。やはり、こんな子供を『神の地』へ送るのは……」
少女を助けてくれた男が、豪華な服を着た男を『長』と呼び、意見をのべる。
「これも掟だ」
「ですが……」
哀れみをこめた目で、男は少女を見つめる。
「俺の娘と同じくらいだ。こんな小さな子を──『終焉の大陸』に……」
「終焉の大陸ではない。神の地だ」
「…………かわいそうに」
男は首を数度振り、そして少女にゆっくりと近づき腕を広げる。
そしてその腕で少女を包み込もうとした。
「────……」
少女はハッとする。
きっとたぶん、この力だ。この力が、自分の知りたいものだ。
そう、直感した。
もしかしたら、今、それが知れるかもしれない。
少女はそう思った。
でも少女がその腕に包まれることはなかった。
──バタン!
突如部屋のドアが開き、若い男が入り込んでくる。
「大変ですッ! 村に魔物が……!!
おまえの家にいきなり……!おまえの娘がッ!」
「なにッ!」
少女に哀れみの目を向けていた男は、少女を抱くことなく真っ直ぐに立ち上がる。
そして、ゆっくりと少女に視線を向ける。
その瞳は母親が少女に向ける瞳と同じ物だった。
「長。早く、一秒でも早く…………ッ。
その少女を『神の地』へ送ってください。
『トゥマーレの子供』を……。『厄災の神の子供』をッ!!」
そう怒鳴りつけ、男は部屋から慌てて出て行く。
少女は、男の言葉を黙って受け止め、静かに後ろ姿を見つめていた。
残された少女と、長と呼ばれた魔人族の男。
長はゆっくりと溜め息をつき、少女のほうに目を向ける。
「さて、たぶんもう、これがきっと最後だ。何か言いたいことはあるかね?」
言いたいこと。特に何も、思い浮かばなかった。
だから、少女は一つ、気になってることを口に出した。
「…………かみは、なんでも、しって、ますか……」
「……知っている。知っているとも。
神とは、神さまとは、そういった存在だ。
何でも知り、何でもできる。そういった、存在だ」
「これから、いくとこに、かみさまが……いる、いるので、すか?」
「…………御座すとも。
魔の原初にして魔人の始祖たる、崇高な神が」
少し間が空いたが、長はそう、答えた。
「さて、そろそろ──」
バタン、と。
先ほど慌てて開いた扉が、また同じように開く。
長が開かれた扉の先に立つ人物の名前を呼ぶ。
少女もその人物を、黙って見つめた。自分の、母親を。
母親は、長の言葉に耳を傾けず、ずかずかと部屋に入って、少女の目の前に立った。
「…………ぁ……」
少女の声が漏れる。驚きでもれたものだった。
突如、差し伸べられる手。まるで触れろと言わんばかりに、少女の目の前に出されている。
母親にちらりと目をむける。母親は、にこりと笑った。
初めて見た、母親の笑みだった。なぜだから知らなけど、とても目の奥があつかった。
これもまた、あの『力』の一つなのだろうか。
少女は、ゆっくりと、手をのばす。
母親は、口を開いた。
「違う、そうじゃない」
「…………え?」
一瞬で冷えかえる空気。
いや…………一度だって。
たった一度だって冷えていなかった時なんてなかった。
今もそれは変わらない。ただ、それだけだった。
「首よ」
きゅっ、と。
首が絞まる。
絞められる。
実の、母親に。自分の触れたいと思った、両手で絞められる。
息が、できない。
「か……っ……ぁ……っ!!」
「首よ、首、首首首ッ!!
温いのよ。温過ぎる。神の地へ送るなんて。そんなんじゃ示しがつかない。
私のこれまでの人生の悲惨に、恨みに、苦しみに、示しがつかない!!
だから、最後だから。
血を分けた子供だから。私が、その首を絞め殺してあげる。
この醜い首を握り潰してあげる。このトゥマーレめッ!」
「かっ…………はっ……」
錯乱したような様子で言葉を捲し立て、少女は首を絞められていた。
絞められながら、少女は、思っていた。
知りたい。
あの『力』が。
なぜだろう。今までだって、限度は違えど、されてきたことは同じだった。
でも今は、絞められる首の力が強くなるたびに。
母親の恐ろしいその瞳を見るたびに。
知りたい──と。その思いが強くなっていく。
「やめんかっ! こらっ」
「離して、離してよっ!!」
母親が長に押さえられ、部屋の外に連れ出される。
少女はぼとりと地面に落ち、嘔吐くように必死で息を整えた。
「やれやれ、どうやら君を早く神の地へ送った方がよさそうだ」
もはや餓えにも似た感覚だった。
知りたくて、知りたくて、仕方が無いのだ。
「あぁ、神よ。
今あなた様の地に、罪深き者が訪れます。
願わくば、彼の者を救いたまえ」
そういって長は杖を取り出し、そしてその杖を少女にコツリと当てた。
とても強い光に包まれる。目が開けてられないほど強い光だった。
それから数秒後。
目を開けるよりもはやく、気づいたのは風だった。
とても強い風の中に少女はいた。
身体がよろける。それでも真っ直ぐにたつ。
少女の厄災を惹きよせる力。
それは、本物なのだろう。
だから──出会えた。
《人外》と『名も無き少女』は。
少なくともその場所は、最も強大で、巨大な厄災が『二つ』も存在する
今この瞬間、世界で最も危険な場所だったから。
少女は、目の前に立つ人を目に入れて、口を開く。
「かみ…………さま、ですか?」