第52話 孤独の旅路
※落ちぶれ冒険者視点
周りには誰もいない。
冒険者も、騎士も、欲深い貴族も──『仲間』も。
ここにいるのはたった一人だ。誰からも助けてもらえず、死んでも誰の心にも残らない。
これが、末路なのだろう。
依頼を投げだし、冒険者としての立場を放棄し、依頼人を見捨てた男の。
こんなにも自分は最低な決断を下す人間だっただろうか。
誰かに尋ねたかったが、それすらもできない。
もはや俺は、『Aランクの冒険者』でも、『ウォンテカグラ調査団』でもない。
何者でもない……。
ただ廃れて消えていくだけの、たった一人の落ちぶれた男だ。
──俺は、死ぬ。
船が燃えた時、そう確信した。疑いようのない現実を、すんなりと受け入れる事が出来た。
もしかしたら、まだ何か手段があるかもしれない。いや、きっとあるのだろう。思い当たるものがあった。だが手段があるから助かるとは限らない。むしろ手段があるからこそ、事態はより悪化するという現象があることを経験でしっている。
だからだろうか。そうした手段を算段に入れても、なお、自分の命がどん詰まりに立たされている感覚を覚えた。肌で熱さや冷たさを感じるように。
それは落ちぶれだろうがなんだろうが、死線をいくつも潜り抜けAランクまでたどり着いた自分自身の勘だった。
ならば、と。
身体が向いたのは『逆』だった。
燃える船から、放心する冒険者から、故郷の待つ海から目を逸らし視界に入れたのは雄大な森。
そこには未だ人が入ることを許さない、未開の世界が広がっている。
目の前の森に引き込まれるように、ゆっくりとその場を離れた。
そこにあるすべてに決別するかのように、背を向けて。
ゆっくりと終焉の大陸の内陸へと入る。止める声をかけられることは、なかった。
とても強い、土のにおいを感じる。
それから草と、樹の幹の匂いも。
低く重厚な振動音が、一定の間隔で森の中に響く。魔物の足音だ。
一度立ち止まり、周囲を伺った。密集するように木の生えた森は見通しが悪い。
目視できる範囲に魔物はいない。しかし足音は着実に大きくなっていた。明らかにこちらへと向かっている。
さて、どうするか。
少し悩んで、音から隠れるように近くの樹の根本に座り込んだ。少し窪んだ木の根元を選んだ。かなりずさんな対処だと思うが、出来ることなんてそもそも限られている。これでなんとか見つからずにやり過ごしたいものだ。
それから数分後。背中を預ける樹のそのさらに背後から、魔物の足音と息づかいを感じていた。
息を殺し、手汗がにじむのを感じながら、静かに空を見上げた。恐怖でつまらないヘマをしないようにと、ある意味逃避じみた行動だった。
葉と葉の隙間から空が見えた。
さすがの終焉の大陸でも、広がる空の景色は変わらない。
空の中では、泳ぐように二羽の魔物が飛んでいた。
番だろうか。こんな大陸でも営みがあることに少し驚く。マードリックパーソンの本には書いてなかったな。そういえばこの大陸の魔物は子供をどうやって守るのだろうか。
そんなどうでもいい疑問がわいた。
魔物の気配が遠ざかっていく。
幸運にもやり過ごすことが出来たらしい。だが俺は、すぐには移動せずにもう少しだけ空の魔物たちを眺めていた。急ぐ理由も無い。
空にいる魔物が見えなくなるまで見届けたあと、膝に手を付きながら立ち上がる。
「さて、行くか」
尻についた土を軽く払い、それからたくさんついているうちの一つのポケットに手を入れた。堅い感触を感じる。三本あった、酒の入った小瓶。一本は欲深い貴族に渡して、一本は襲いくる魔物に投げられた。これが最後の一本だ。
今ここで飲んでしまおうかと一瞬考えたが、手を離してポケットを閉じた。
俺は、死ぬだろう。
だけどまだ。ここではない。ここではまだこれを飲めない。
俺の最後の冒険は、まだ始まったばかりだ。
行くか。
「一人マードリック・パーソンの、始まりだ」
終焉の大陸の森を進む。
奥へ、奥へと。
◇
──『この本は、なに?』
幼い俺は、祖父に一冊の本を持って尋ねた。
厚い本だった。
飾り気もなく、地味な色の表装。本のタイトルと思わしき文字が、無骨に大きく書いてあるだけの表紙だった。でもその無骨さが、逆に目を引いた。
元冒険者だった祖父は、老いてなお覇気があった。
親父が依頼でいない事が多く、幼少期は祖父との記憶のほうが多い。
『表紙の題名は読めるか?』
祖父がゆっくりと、尋ね返す。低く威厳のある声で。
『おわ、しゅう。……読めない』
『これは、"終焉の大陸"と読む』
『しゅうえんの、たいりく』
『そう。冒険王、マードリック・パーソンの本だ』
『どんなことが書いてある?』
『誰も行ったことがない、未知の大陸の冒険記だな』
『冒険記?』
『日記みたいな物だ。これには未開の大陸を冒険したときの日々の記録──日記が書いてある』
『へぇ、面白そう』
『読んでみるか?』
興味を持った俺に、祖父が訊ねる。
『うん。読んでみる』
二つ返事で、頷いた。
『そうか。なら、家に持って帰って読んでみるといい』
『ありがとう。じいちゃん』
『あぁ、感謝しろよ』
そう言いながら、頭を撫でられる。そして少しだけ撫でる勢いをゆるめながら、祖父は「これも血筋か」と呟いた。
『血筋?』
『いや……。それよりも親父には見つからないようにしろ。取り上げられちまうからな。もしそうなったら俺のところに泣きつきに来い』
『俺は男だから泣かない』
祖父の楽しそうな豪快な笑い声が、淡い思い出と共に響く。
船の上では、なぜ俺が冒険者になったのかばかり考えていた。
思えばこの記憶こそが冒険者を目指す一番最初のきっかけだったように思う。
そんな大切な記憶を憧れの本の舞台で、魔物に食われかかって思い出すのがなんとも笑える話だが……。
だから、思った。燃えた船を見た時だ。
──続きをしよう、と。
あの日みた本の続きを。冒険王すらもしらない何かを見て、この命を終えよう。
それが、森へ入ったただ一つの理由だった。
いつの間にか、歩いている地面は斜面になっていた。
山にでも入ったのだろうか。一歩一歩に、強い力をこめて踏み出す。
空が少しずつ夕焼けに染められていく。
森に入ってからもう、どれだけの時間がたっただろうか。
大粒の汗をぬぐう。まだこの斜面の道は終わらないのか?
傾斜に沿うように、斜め上に視線を向ける。そのとき、初めて水平線からずっと続いていた土と森が消え、光が見えた。暗く長い廊下で、日差しが差し込む窓辺を見つけたかのような気持ちだった。
「頂上か?」
とにかく、その場所を目指して歩き続ける。傾斜のあった地面は、進むたびになだらかになっていく。そしてついに、体感では感じないほどまでになった。その頃にはもう土と木だけだった光景がとぎれ、視界は大きく開いていた。
風が吹いた。
今まであびていた、木と木の間を縫っている間に、土と木の匂いを多分に含んだ湿っぽい風ではない。
自由に泳ぎまわる、乾いた爽やかな風だ。遮蔽物もない場所で、全身でそれを感じた。
今ままで進んできた道を考えると、この場所は少し高い。
小さな山か、あるいは丘のような場所なのだろう。だからこの場所は、ちょっぴり広く、世界を見渡せる。
城の頂上から城下町を見下ろせるように。誰も踏み込んだことがないと言われる、未開の地。『終焉の大陸』の世界を──。
「なんだ、これ……」
口の中が乾いていく。それでも無理矢理、ない唾をごくりと飲み込んだ。
俺は今、とてつもないものを見ている。
確信を持って、そう言えた。この光景は、冒険王ですらみたことのないものだろう。
眼下には、視界を埋め尽くす樹海が広がっていた。所々燃えたり、雪化粧している場所がある。
その場所も、確かに異常だ。燃えながら生えている木なんて聞いたことがない。
だが、さらにそれを越えるものがあった。その樹海を越えたさらに先に。あるそれ。それはこれまで見て来た何もかもが霞むほど、異常なものだった。
「それ」をなんと言葉にして言い表せばいいのだろうか。
大木? 巨木? それだけでは到底足りているとは思えない。
少なくとも俺は今まで生きてきたなかでこんなにも『大きなもの』を見たことがなかった。
そこにあったのは、
──あまりにも巨大な、一本の『樹』だった。
浮かんでいる雲を見下ろし、空気と同化するように少し青みがかかっている巨大な木。
眼下の樹の一本一本も、他の大陸から見ればとても立派なものだ。木の上で生活をする自然を信仰する『森人族』ですら、この生命力溢れる木々の群れに息を飲むだろう。
だが『その樹』は、何千という樹の群れから、たった一本で『雄大』という言葉をもぎとった。あまりにも常識を越えた、スケールによって。
深く息を吐く。それは感嘆の吐息だ。
一体、何の樹なのかまるで想像がつかない。考えてみようとすら思えない。
──これはもう、十分だろう。
「ここか」
崩れるように、座り込む。気が抜けたのか、脱力感に包まれた。
俺は確かに、自分に課した目的を成し得た。
子供の頃に憧れた本の続きを、確かにすることができたのだ。帝国で読んだマンガのように劇的な最後だ。
俺は満足してここで死ぬ。
そのはず、なのに。
心は、達成感よりも虚無感に満ちていた。
「どうして俺はこんなにも『満足』できていないんだろうな……」
目の前の圧倒的な景色を見つめながら、背後の木に体重をのせた。
確かに、とてつもない光景だと思う。だが、それもどこか色あせて見えた。
この期に及んで、一体何を望んでいるというのだろう。求めてももう、どうしようもないのに。
震えた手で、ポケットの中に入っている酒に手を伸ばす。正直な話、内陸へ入ってからの道のりは恐怖でいっぱいいっぱいだった。魔物を隠れてやりすごすときも、大きな魔素溜まりの傍を早歩きで通りすぎるときも。情けない話だ。
震えた手で小瓶の蓋は小さすぎてうまく開けられなかった。グローブを取り、素手で取ろうとするが小瓶の蓋と爪が当たりカチカチと音がなるだけだ。情けない。深呼吸を一度して、再び開けようと力んだとき手から小瓶が飛び抜けた。
しぶしぶ立ち上がり、小瓶を拾いにいく。本当はもう、立ち上がる気なんてなかったのに。
小瓶はすぐ隣の、樹の根に引っかかって止まっていた。この傾斜から落ちなくてよかったとほっと息をつく。少し屈み、小瓶に手を伸ばしたところで、ふと手を止めた。何か引っかかるものがあった。小瓶、ではない。
「この木……」
瓶に伸ばした手を少しずらして、木の根に添える。
それは、見慣れた木だった。
『タテヤヨコジの木』という種類の木。多くの地域で見られる、一般的な樹だ。ここの樹は記憶のよりもかなり太いため、今まで気づかなかった。
特徴的な縦に刻まれたような樹皮は、よくみると確かに見慣れたものだった。
「懐かしいな……」
見慣れたものというのは、落ち着く。樹皮の手触りは、なじみ深い物となんらかわりない。
それもこんな遠く離れた地だ。異国の地で旧友に出会えたような安心感だった。
この樹の皮には特徴がある。繊維にそって縦にナイフを入れると簡単に刺さるが、繊維に逆らうように横にいれるとビクともしない。その丈夫さは目をはるものがあり、魔物の攻撃すらもいなせてしまうほどだ。
だからこの木の樹皮は、盾として加工され売られる。軽さを好む後衛や、金のない新人なんかは手軽で世話になったやつも多い。俺もまた、世話になったクチだった。といっても、盾を使ったという事ではない。
思い出すのは、冒険者に成り立ての頃の日々。この木の皮を剥いで、売って生活していたのだ。魔物を倒す力が足りていなかったから訓練と平行して、ギルドから取りにいかされていた。
早く力をつけて、こんな雑用から抜け出したいと、文句を言いながらパーティーの仲間たちと一緒に毎日取りに行っていた。
ある日、あまりにも雑に樹皮を取って来たため、ギルドから仕事の荒さに注意を受けた事がある。ギルドの職員に後ろから剣を突きつけられながら、自分の取った樹皮が職人の手で盾に加工する様子を見せられた。加工され店頭に並んだ盾が、最終的に弓を使う冒険者が買っていくのを見たとき、なぜだか無性に感動したのを覚えている。後から聞いてみると仲間たちも同じ心境だったそうだ。
「不思議なもんだな……」
当時は何もかもが足りていなかった。
能力も、精神も、金も。周囲に不満ばかりだった。
でも振り返ってみるとその日々は、とても輝かしく見えた。目の前の圧倒的な光景よりも。
何が違う。今と昔。真逆のように思える。
俺は何を得て、何を失った?
答えは、簡単だった。
「仲間、か」
ぽつりと呟いた声が、風に乗って消える。
どこまでも澄んだ自然音だけが返事をするように世界に響いていた。
本当に、簡単な話だ。単純で、シンプルで、当たり前の。
冒険王の本を読んで憧れたのは、終焉の大陸ではない。
俺があこがれたのは──仲間との冒険の日々。辛い日々も、代わり映えもない景色も、仲間がいたから輝かしかった。
少し屈んで、落ちている小瓶を拾う。
そして瓶の蓋をあけようとして……やめた。
無いものは、無い。例え俺が本当に望んでいたものが仲間との日々であろうとも。
ここで女々しく酒を飲んで、自分の死に酔っていればひょっこり木の影からあいつらが現れるなんてこともない。
現れたところで、以前のような関係ではもういられない。
目を瞑る。耳に入る風の音と共に、瞼の裏には今までの光景が流れていた。楽しく輝かしい日々。
だけどもう、それは『終わった』ものなのだ。
すとんと、おちる。今まで納得できなかったことが、ようやく納得できた。
ゆっくりと目を開ける。懐かしい光景を切り裂いて入ってくるのは終焉の大陸の圧倒的な光景だった。
「とことん、行くか」
予定を変更だ。
一つの日々の終わりが胸の中に溶けていくのを感じながら、決意した。
どうせなら、いけるところまでいってしまおう。こんなところで、浸って死ぬのはやめだやめ。
あの巨大な樹。あの樹がなんなのか見に行ってやろう。
あの樹をみたら今度は次の、気になるものを見に行こう。
最後の、最後まで。
胸のあたりを漂っていた淀みが、消えていく。
吹いている風のように爽やかな気分だった。不思議なことに手の震えも止まっていた。
手に持っている小瓶を見つめる。本当にとことん飲む機会が無いな、と思いながら小瓶を後ろの坂に投げ捨てた。俺の女々しい気持ちとともに、こいつもここに置いていってしまおう。
放物線を描く小瓶が、地面に落ちるのを見届けることなく、視線を前に戻す。目指すものを見据え、覚悟を決める。
「さあ、いくか」
グローブをはめなおす。かみしめるように一歩、踏み出したときだった。
──パシッ
と、ふいに音が聞こえた。
音がしたのは、『背後』からだった。
不思議な音だ。投げ捨てた瓶の音だろうか。でも、地面に落ちた音ではない。強引に表現をするなら、何かしなやかなものに当たったような音だ。例えば、魔物の肌に当たったような。
ぞくりと嫌な予感が走る。背後に何かがいる。それは間違いない。
ゆっくりと振り返る。後ろにいたそれは、口を開きながら、近づいてきた。
「まだ中身が入ってるな、これ。飲まないのか?」
『灰色の男』は小瓶を片手に持ち、軽く振って中身を確かめながらそう言った。
まさか、ここで会うとは思わず唖然とする。
灰色の男──確か、アキといっただろうか。彼はそのまま、俺の傍までやってきた。そこでまだ自分が返事をしていないことに気づき、慌てて答える。
「それは、捨てたんだ」
「へぇ、もったいないな。もしかして中身腐ってる?」
「いや……」
むしろ熟成されているはずだ。
「ふーん」
灰色の男は相づちを打ちながら、瓶を揺らして再び「もったいないな」と繰り返した。
今俺が会話しているのは、あの『Sランク』の魔物を殺し尽くした男だ。ぞっとするような無機質な瞳を浮かべた、前に会った時は恐怖すらも感じた男。
だが一方で、今の俺は彼に憧憬のようなものを少なからず抱いていた。この大陸の、厳しさを少なからず感じたからだろうか。この大陸を生きぬくことができる強さの結晶のような彼に、弱肉強食に寄り添う一人の生き物として尊敬を感じずにはいられなかった。
「欲しければあんたにやるよ。どうせ捨てるものだ」
そうだ。もう俺にその酒は必要ない。
自分の目的を思い出し、一瞬巨大な樹を目に入れる。力強く手を握りしめる。
「あの場所までいくのは、やめた方がいい」
「え?」
真剣味を帯びた声で灰色の男は唐突に言った。
「あそこの木の根本の周辺は、この大陸でも飛び抜けて近づいてはならない、危険地帯だよ」
灰色の男は、忠告する。さっき沿岸部であったときと同じように。きっとこの忠告も正しいものなのだろう。
目の前に本がある。終焉の大陸と題名の打たれた本だ。祖父に借りた日。俺は自分の部屋に持ち帰って表紙を手に持ってめくった。
「あの木が何か……知ってるのか?」
俺は、尋ねる。表紙のページを開くように。
男は俺の真横に立ち、巨大な木のある方へ体と顔を向けて言った。何かを語るようにというよりは、ただ自分の中にある情報を引き出し、それをそのまま渡すだけの無機質なものだった。
「あれは『魔物』だ」
あれが、魔物……?
木を視界にいれる。確かに現実味のない大きさだが、見た目はどうみても木だった。
「木に擬態した馬鹿デカい一匹の、虫の魔物だ。鑑定したらステータスがちゃんと表示される。この大陸で最も長く生きて、最もレベルの高い正真正銘の魔物だ。環境魔獣──あー、大陸の外の言葉でいうと、こういうんだっけか」
環境魔獣という言葉がわからなく、少し首を傾げると男がそれを察した。
「──災獣、《大森林》」
災獣。この言葉が、ここで出てくるとは思いもしなかった。
「つまりあそこにいくと、その災獣とやらに襲われるから危ない、ってことか?」
「いや、あの魔物は動かない」
男はこちらに視線をよこすことなく、災獣《大森林》を見つめた。
「《大森林》はただそこにいるだけだよ。木に擬態するのが得意なだけの魔物で名前も『樹虫』ってそのままな名前だし。見た目も樹とほぼ見分けがつかない。それに性質も木とほぼ変わらない」
見た目も性質も、木と同じって。
それって、ほぼ木なんじゃ。
そうつぶやくと男は頷いた。
「そう。もはや《大森林》はただ周囲を森にするだけのただの『現象』だな……」
その言葉は、男の言葉には珍しく、何か感情がこもっているような気がした。だがその感情を推し量ることはできなかった。
「とにかくあの木の根本はこの大陸でも、とびっきり強い魔物たちの掃き溜めみたいなところだから行くのはお勧めしない。死にたいなら別だが」
確かにそれはやばそうだ。だが──
「といっても、そこ以外行くところないしな……俺……」
「死にたいのか?」
男がじっとこちらを見つめている。
それは行くのを止めて言っているというよりは、単純に質問として言ったのだろう。きっと死にたいと言えば、男はその選択に対して何も言わない。そんな気がした。
「……死にたいわけじゃない」
男の持っている小瓶に一瞬だけ視線を向ける。さっきまでは確かにそんな気持ちもあったが。
「生きたいのか?」
「もし、生きられる道があるならば」
男の目を見て、告げる。
美しい無機質な瞳が、俺の答えをゆっくりと受け入れた。男は一度頷き、ある方向を指差した。
「なら、こっちの方向に行くといい」
指差した方向は《大森林》がいる方向ではない。どちらかと言えば俺が歩いてきた方向に近いが、それでもかなり横にそれていた。
その言葉に、驚き、尋ねる。男がまさか手をさしのべてくれるとは思わなかったから。でもよく考えると俺はこの男に一度、命を救われていたんだ。
「助けて、くれるのか?」
男は、首をふる。
「助けはしない。俺は別にあなたについていくわけじゃないから。今すぐに安全な場所につれていくこともできるけど、それをするつもりもない。そんなことをしてたらキリがない。手助けの無限の連鎖だ」
俺は男が、赤い少女を連れて帰った光景を思い出す。扉が何もないところに突然現れた能力だ。たぶん、それをすれば男の言う事が可能なのだろう。
男は、平淡な声で言った。どうでもいいことのように。
「生きたいなら、勝手に生きればいい。助けるつもりなんか、さらさらない。人は結局のところ、一人で生きていくしか、ないんだから。だから助けるのではなく、これはあなたが勝手に助かるだけ。俺はただ──」
灰色の男……アキの手の中にある小瓶が、消える。
「小瓶一本分の、道案内をしただけさ」
◇
パーティーが解散した。
そのパーティーが俺抜きに再結成されたのを聞いたのは人づてにだった。
それから、あまり時間を置くことはなく周囲からは人が減っていった。
元々俺一人だけ実力が一段階劣っているというのを薄々みんな感じていたのだろう。
追い出す方、追い出される方、悪いのはどちらか。それを決めるのは当事者の俺ではなく、元いたパーティーの仲間でもない。事情の半分も知らないような無関係の周囲が、冗談混じりに天秤を傾ける。俺のときはたまたまそれが、俺の方へ傾いた。
あることないこと混じった憶測とすら呼べない悪評は、少しずつ周囲から人を減らした。解散してからソロで活動していたときも、臨時でパーティーを組んで仕事をうけていたのだが、それすらもできなくなっていく。少しでも怪しいやつに、背中は預けられない。俺でもそうだ。真っ当な判断ってやつさ。
それから、少しずつ俺は落ちぶれていった。
パーティーも組めずソロ中心の活動は簡単なことではなかった。今まで当たり前にできていた事が出来ず、小さな失敗がすぐに命の危機につながる。そうやってなんとか依頼を達成したとしても、苦労に比べればあまりにも低い報酬と評価。
いつの間にか、依頼を終えたあとは浴びるように酒を飲のむのが日課になっていた。
一人になると、色々なことが頭に浮かぶ。それらのすべてをかき消すまで、酒を呑んだ。ただの作業としての、飲酒だった。
薄暗い人のいない酒場。その隅の席だけが、夜の居場所だった。常に埋まることのない正面の席をぼんやりと眺めながら、時折何かの光景が頭にうかんだら、かき消すように酒をあおった。
ある日。突如、今まで埋まったことのない正面の席に一人の男が乱暴に座った。その男は唐突に言った。
『人は、孤独の中で強くなる』
正面に座った男は、馴染み深い先輩冒険者だった。拠点が近かったころはたまに会って雑談──終焉の大陸の話をしたり、稽古をつけてもらったりと交流があったが互いに拠点を移してからは会う機会も減り、ずいぶんと久々の再会だった。
『……あんたか』
彼は店に入ったというのに、注文もせずに。強い意志のこもった目をまっすぐと俺に向けていた。
彼の瞳を見つめ返す気にはならなかった。ぼんやりとグラスの酒を見つめながら耳を傾ける。なぜ彼は俺のところに来たのだろう。こんな落ちぶれた冒険者なんかのところに。
『お前の話は聞いている』
『……』
また、その話か。
歩いても止まっても、どこにいっても同じ話題だ。一体俺が何をやったというのだろう。人を殺したわけでも、物を盗んだわけでもない。強いて言うなら、弱かっただけ。ただそれだけで様々な人が離れていき、多くの物が手からこぼれた。
内心で、あざ笑うように鼻で笑う。
弱かっただけ? それは「だけ」というのはあまりにも致命的だ。死んだときの理由に「心臓を貫かれただけ」と言っているようなものだ。冒険者は強さがすべてなのだから。
──そうだ。
結局のところ、俺は、収まるべきところに収まっているのだ。いるべき場所にいて、進むべき道を進んでいる。今までが、あまりにも俺のあるべきところから離れていたんだ。
実力のたりなさを、それ以外で補おうとした。魔物の知識を仕入れ、同業者から様々な情報を仕入れ、足りない力は道具で補おうとした。少しでもパーティーの役にたちたかった。だがそれも、結局は自己満足でしかなかった。
マイナスの思考の渦にのまれていく。いつもはここで、かきけすように酒を飲むのだが、このときは声が割り込んだ。強い意志のこもった声が。
『お前は強くなる機会を得たんだ』
断言するように、彼は言う。
なるほど、俺を励ましにきてくれたのか。彼のことは尊敬しているし、素直にありがたい事だと思った。だが正直なところ放っておいてほしかった。
グラスの中で揺れる、酒の水面。そこに時々浮かぶ、懐かしい何かを、一人で静かにみていたい気分だった。
『俺にはわからない』
だからといって無視するわけにもいかず、適当に相づちをうった。実際に何の話をしているのか理解できなかった。
強くなる機会を得ただって……? 今更、強くなれるわけがない。強くなれるなら、パーティーにいたときに、必死でやった訓練のときにもう強くなっている。俺の強さはもう、頭打ちなんだよ。
『人には、たった一人だけで歩まねばならない道のりがあるという事だ』
彼は店員に酒を頼む。愛想のない店員が返事もせずに厨房のほうへと消えていった。
『お前は俺や元の仲間たちにどれだけ手をさしのべられる?』
『……どういうことだ?』
『具体的にいうなら、例えば再起不能になって動けない仲間の、今後の生活を支える金を生涯だすことができるか?』
不吉な話をしているように思えるが、冒険者には魔物の攻撃で再起不能になり体の一部がなくなったり、動かなくなってしまう人もざらにいる。少し記憶を掘れば、いくつか名前を思い出すことだって出来た。
『出来る』
迷わずに、そう断言する。もちろんいきなり今組んだパーティーとかには無理だが、今まで仲間だった彼らには迷うことなくそれを選択することができる。事実、そうした事態に備えた金は常に隠しもっていた。この金は本当にギリギリまで使うことはないだろう。
俺の答えに、目の前の彼は愉快そうに笑った。
『それがすべてにおいて正しいとは思わないが、それでもそう断言できるところがきっとお前のいいところなのだろう。だが──』
目の前の彼は、一度話を止めて酒を飲み干した。再び、話を始める。
『支えるにしても、限界がある。金がいつか無くなるとかそういう事ではない。もっとわかりやすい物理的な限界だ。壁の先に手を伸ばすことはできないのと同じようにな。例えばその再起不能になった仲間が、絶望してこの世界を諦め、すべての物に関心を示さなくなったとしたら、お前は一体どれだけの事をしてやれる?』
『それは』
少し考えるが、答えは出ない。いくつか考えてみたが、そもそも俺自身にすら関心を示さないのであれば、その方法すらも試したところで意味があるとは思えなかった。関心をもってもらうための動きすらも、関心をもってはくれない。それではもうどうにもしようがない。
『人には"孤独の道のり"がある』
目の前の彼は、言った。強く、確信を持って。
『その道のりに近づけば近づくほど、他人が出来ることというのは凄まじく減っていく。そして、最後にはたった一人だけになる。そこが、孤独の道のりだ』
『つまり、何が言いたいんだあんたは』
『一人で歩まねばならない、道のりがあるということだ』
彼は、最初に言った言葉を再び述べた。だが今回は、続く言葉があった。
『強さとはその道で育まれるものなのだ。人が強くなるときというのは、いつだって孤独だ。──人は、孤独の中で強くなる』
俺には、やっぱりわからない。
結局のところ強い人が強く、弱い人が弱いのだろう。彼は強く、俺は弱いのだ。そう結論づけて、思考をかきけすために酒に口をつけようとしたときだった。阻むように、彼が強く俺の腕を握りしめた。
驚いて彼を見る。とても強い意志に満ちた目が、俺を射抜いていた。
彼が俺の名前を呼ぶ。続く言葉は、やっぱり確信に満ちあふれていた。
『強くなれ』
──思えば、これまでの道のりは孤独なものだった。
終焉の大陸にやってくるまでも、やってきてしまった今も、その道のりは続いている。
薄暗くなってきた森に、魔物の咆哮が響く。
『GYAaaaaaaaaa!』
耳よりも先に振動を肌で感じる。つまりその声を発した魔物はそれくらいすぐ近くにいる、ということだ。探らなくてもわかる。位置で言うと大体背後だ。
なぜわかるのかって? 簡単な話さ。今まさに俺がその魔物に追われているという事実から逆算しただけだ。
「はぁ、はぁ……」
魔物に追われながら、細い路地のような木と木の間をくぐるように駆け抜けた。
灰色の男に示された方向を、辿っていく。俺は道を変えた。巨大な木の方へいくのをやめ、男の指指した方向へ。
なぜ、俺は進路を変えたのだろうか。
生きたいから、という理由はもちろんそうなのだがそれだけでは十分でないような気がする。例えば俺が今ここで死んだとしたら、結局、災獣《大森林》の方へいったのと変わらない結果になっただろう。ただその結果を、丘の上にいる俺に伝えたとしてもきっととった選択は変わらない。つまりその道には何か、確かな違いがある。
『GYAaaaaaaaaa!!!』
苛立った様子の魔物の声と共に木の数本がなぎ倒される。雨のようにふる木の破片の中を魔物に追いつかれないように必死で進み続ける。
追ってきている魔物は四足歩行で、大きなしっぽが特徴の魔物だ。今もしっぽで木をなぎはらっていた。偶然はち合わせてしまってから、しつこく付き纏われている。魔物の飢えた目が恐怖に呼びかける。
それから、どれだけ逃げ続けただろう。
純粋な速さは、魔物のほうが上だ。だが、地形に恵まれていた。木の密集する森は、魔物にとってはあまり動き易い環境ではないようだ。わざとせまい木と木の間を選んで、走り抜けた。しかし途中違う魔物の方へと誘導して争わせたりなど色々試してみたが、距離を稼いだだけで未だ振り切るまでには至っていない。
「(まじいな、このままじゃ……)」
懸念があった。
木の間隔が、少しずつ広くなってきている。
今は稼いだ距離があるが、いずれ辿りつく前に追いつかれる。
本当にこの先に、灰色の男のいう生きるための何かがあるのだろうか。疑っているわけではないが、不安が募ってしまう。既に木と木の間隔は広がっていて、地形の有利がなくなってく。
その時だった。視線の先に、あるものがみえた。もう一度目をこらしてその場所を見るが、確かにそれはあった。それは森のなかでは異質で、ひどく浮いてみえた。だから見つけられた。
「扉……」
灰色の男の能力を思い出す。森の先に、少し開いた空間。そこに開いたままの扉が、ぽつりと置かれていた。中の様子は見えないが、淡いオレンジ色の光が手をまねくように薄暗い森の中へ漏れ出ている。
あそこまでこのまま、走り抜ければ。
『──』
「ッ!」
身の毛のよだつような殺気を感じ、横に飛ぶ。空気の塊が頭上で動くのを感じながら、土の上を転がり、這い蹲りながら近くの木の陰へと隠れた。その直後、魔物の咆哮と衝撃音が響き渡る。木からゆっくりと顔をだし、様子を伺うとしつこく追ってきていた魔物が、暴れていた。魔物はついさっき見たときよりも傷跡が増え、片方の目がつぶれていた。はちあわせさせた魔物がやったのだろうか。
状況は、変わった。目指すべき扉を見つめる。距離はまだ、かなりある。
魔物を見つめる。すでに魔物は落ち着きを取り戻し、鼻をひくつかせながら俺の位置を探っていた。にじりよるように近づいてきていることから、残された時間は少ない。
このまま、走り抜けられるだろうか。木と木の間を縫うように走ってきたこれまでと違い、ここからはほぼ直線だ。単純な早さならば、確実に向こうのほうが早い。
──お前らなら、どうする?
そう、問いかけたい衝動に駆られる。パーティーを組んでいたころの癖だ。仲間との会話は、問いかけるようにして意見や考えを聞いて相互理解をする。そしてその意見をまとめて、結論を出す。それが俺のやり方だった。
だがもう、それをする必要も無い。ここには誰もいない。
傍にある木に手をつく。その手の感触からは、やはり安心感と懐かしさが感じられる。それから剣を抜いて、強く握りしめた。魔物を睨むように見据える。
落ちぶれは、果たしてどこにいくのだろうか。
魔物に食われるのか。海におぼれるのか。土に埋もれるのか。どうなるかはわからないが、共通しているのは人知れず、消え去っていくのだということ。
それしかない。
果たして、そうなのだろうか。
落ちぶれた俺は、そうして消え去っていくしかないのだろうか。
誰かに問いかけたい。
だがここには誰もいない。一人だ。
たった一人。──孤独の旅路。
ならば、どうするか。
「自分で決めるしか、ねえよな」
剣を両手で強く握り、意を決して走り出す。扉の方へと向かって魔物の横を全速力で通りすぎる。
すぐ側まで近づいてきていた魔物が、俺が走り抜けることに気づいて小さな声をあげた。すぐさま追いかけようとする気配が背中から感じられた。
その気配を感じた俺は、体を『反転』させる。
心臓の鼓動が、自然音よりも大きく聞こえる。
『前』にいるのは『魔物』だ。俺は今、『ドア』を『背』にして立っている。
「『前』は、どっちだ?」
改めて正面に立つと感じる。魔物の大きさと、恐ろしさを。
だが魔物から走って逃げきれる自信がないのなら、もうこれしかない。
剣を突き出すように構え、魔物と正面から対峙する。
「俺にとっての『前』は、お前だ。かかってこいデカブツ」
自分を奮い立たせるように、悪態をつく。
魔物の視線と交差する。つぶれた黒い瞳と、血走ったもう一つの瞳がこちらをみていた。
一瞬、時間が止まる。風もとまり、葉のさざめきも消える。
魔物の目から一滴、血が落ちた。涙のように零れおちたその血が地面についたその瞬間、魔物の背後に一瞬何かがブレたのが見えた。
くる。しっぽの攻撃だ。──横なぎの一撃。
剣の柄を、強く握る。この魔物は、俺が何十人いても勝てるかどうかわからない魔物だ。こんな剣一本で、落ちぶれたった一人で斬り合うことなんて出来るわけがない。
だからそう、これは剣じゃねえ。
構えているこの剣は、『盾』だ。
剣の柄を強く握る。
そして体を前のめりにし、剣に刺さっている分厚い『タテヤヨコジ』の樹皮に押し付けた。
尻尾の攻撃は予想していた。尻尾という性質上、縦の攻撃は考えにくい。体が邪魔になるからな。
横からの攻撃なら、木の樹皮を剥いで剣を刺したこの即席の盾でも衝撃をやわらげることができるはずだ。そうすれば──
このあたりの木は大きく、幹が太い。
木だってこの大陸の魔物に、ただなぎ倒されるのを待っているわけではない。太く、丈夫になることで魔物からの攻撃から身を守っている。
この魔物は見ているだろうか?
背後にある『扉』と『俺』が、『重なっている』のを。
「(魔物の攻撃をわざとくらうなんて、どうかしている)」
勇気を振り絞り、目を開く。
窮地こそ、刮目せねばならない。それが生死をわけることを、経験で知っている。
尻尾の攻撃を受け止めるため、微妙に盾をずらす。その直後凄まじい速度で爆発に巻き込まれたかのような衝撃を感じた。
その衝撃は一瞬で意識がもっていかれそうなものだった。身体中が悲鳴をあげるように軋み、肺の空気は居場所が無くなったように無理矢理吐き出される。背後の空気にすら一瞬、押し付けられたような感触を感じた。
これでいい。
走って逃げ切ることができないのなら、魔物の力で逃がしてもらえばいい。背後にある扉。幸いなのは、『開いている』ということだ。開ける手間がない。ただ入れれば、それでいい。
ならばこのまま魔物にあの扉まで吹っ飛ばされてしまおう。
視界が周る。何が起きているのか、思考を巡らせることができない。 一回、二回と地面に衝突し再び宙に投げ出されるたびに、視界が白濁にそまっていく。自分が意識を保っているのかどうかすらわからない。
だが、意識だけは保たねばならない。扉の枠は偶然入るには、あまりにも小さい。だから、ほんの数秒だけでも意識を保って這い蹲ってでも扉の中へ入るんだ。
──ダメ、か?
意識を保てる自信がない。
だが、やれることはやった。これで死ぬなら満足はできる。
そうだ。きっと俺がこの道を選んだのはそれだ。満足できる一歩。それを《大森林》へ行くよりも、灰色の男に言われた道に感じた。だからこの道を選んだのだ。
『──孤独な道を歩み終えたなら』
数本の瓶を飲み干し、いい加減頭が回らなくなってきた頃。店主もそろそろ店仕舞いをしようとしているとき、彼は先ほどの続きの言葉を紡ぎ始めた。
『また、仲間を探せ。一からまた始ればいい』
仲間なんてもう、うんざりだ。
確かその時は、そう、言葉を返した気がする。
それもいいかもしれない。
もし俺がこれで生きていたら。また仲間を探すのも。
もう俺は冒険者ではいられない。だからそれ以外の、何でも良い。
新しい、仲間を。
視界に、闇が混じっていく。
『なんだったら、俺のところでもいいぞ』
酒を片手に彼は言った。
いや、あんたのところはちょっとな……。
当時の俺もそんな顔をしてたのか、彼は笑う。
そして顔を引き締め、彼は俺の肩を強く掴み、こういった。
『強くなるためには、孤独の道のりを歩まねばならない。だがこれだけは忘れるな。孤独の道のりは、ずっと続くものではないということを。そうなるくらいならば、俺のところにこい。たまにいるんだ。孤独なまま、道の"果て"まで生ききれてしまう、あまりにも強く孤独な人間が』
それは思い出す必要のない言葉だった。
俺には関係のない。なぜならこんな短い道のりですら、俺には辛いものだったのだから。その道の果てになんて、到底行けるとは思えない。
だが彼の言葉の後、ふと灰色の男の姿が浮かんだ。
とても無機質な瞳を浮かべる、あまりにも強い、一人のアキという名の灰色の男が。
爽やかな風が吹く、丘の上で。
『おい、そっちにいくのか?』
俺に道を示したアキという男は言いたいことを言ったのか、ゆっくりとその場を離れはじめた。
その向かう先を見て、俺は思わず男の後ろ姿に声をかけた。
なぜなら、彼はたった一人で、この大陸で一番危険だという災獣《大森林》へ向かっていたからだ。
男はそのまま溶けるように、森の中へ消えていった。
後ろ姿からは絶対的な強さと、同じくらいの孤独を感じた。
彼は、孤独の道の果てに行こうとしているのだろうか。
もしそうなら──
意識は、とっくに闇に呑まれていた。
◇◆
一人の男が、凄まじい勢いで転がっていた。
地面に当たり、跳ねるたびに男が服の中に入れていただろう様々なものがばらけるようにあちらこちらへ飛んで消えていく。手足が、あらぬ方向に曲がっているのが少し痛ましい。意識は魔物の攻撃とほぼ同時に失っていた。
少し遅れて、失態に気づいた魔物が転がっていく男を追っていく。
魔物が真っ直ぐに前へ見下ろすように目を向けると、飛んでいく男と、その先にある奇妙な立体物がちょうど縦に並んで目に入った。
それは、扉だった。
建物についているわけでもなく、かといって壊れて破棄されているわけでもない。あまりにも不確かで、無意味に思えるのに、まるで自分が意味を持っていることを一片も疑っていないように、その扉は力強く、毅然にそこに立っていた。
扉は、無機質だ。
その扉を目指して、決死の覚悟で必死で転がっている男に対して何も感じないし、何もしない。転がっている男の軌道と、扉の位置に少しずつズレが生じていようと、入りやすいように位置を調節するなんてことはしない。
元から、あまりにも勝算が低すぎる賭けだった。
魔物は見ていた。
重なっていた男と扉に少しずつズレができているのを。
そのまま行けば扉の横を通りすぎ、そのはるか後方へ飛んでいくだろう。そのときゆっくりと男を貪るのもいいかもしれないと魔物は思う。
しかし扉の横を通り過ぎる直前。再び、転がる男に衝撃が襲った。その衝撃は、ただでさえ重傷の男の体をさらに追いつめる。口から血を吐き出し、骨が何本かおれる音。あまりにも悲痛な光景だ。
だがその衝撃は、出会うことのなかった男と、ドアを再び重なりあわせた。
減速していた速度を、再び加速させながら凄まじいスピードでドアに接近する転がる男。そしてそのまま、吸い込まれるようにドアの中へと入っていった。数秒遅れて、何かに当たるような物音。それに掠れたカエルの鳴き声のような音が薄暗い森の中に微かに響いた。
大きい尻尾が特徴の魔物が、その光景を最後まで見ることは出来なかったが。
「容赦ないですね」
重厚な音が、森に響く。大きな尻尾が特徴の魔物が、命の灯火を消して崩れた音だ。亡骸の上には男が立っていた。男は未開の地であまりにも場違いな、黒いスーツを着ている。袖に着いているボタンには、よく見ると文字がかかれていた。『驃』という文字だった。
魔物の上に立ち、片手に血を滴らせながら、呆れたような声を出す男。
「自衛ですっ」
ドアの側に立っていた一人の女が返事をした。笑顔を浮かべた、可愛らしい女だった。魔物の上にいる男と同じように、場違いなメイド服を着ている。機能性よりも、見た目の可愛さを重視した服だった。ただスーツの男と同じように、袖につけられたボタンには文字が書かれている。『千』という文字。
「確かに転がってきて、危険でしたけど。なにも蹴り返す事は無かったんじゃないですか? せっかく、ここまで頑張って来た様子だったのですから」
「自衛ですっ」
「可愛そうに、彼、貴女の蹴りで血を吐いてましたよ。この魔物よりも強く攻撃が入ってたんじゃないですか?」
「自衛ですっ」
『千』の女が終始ニコニコとした、笑顔を絶やさずに答える。『驃』の男は、深いため息を漏らし指についた魔物の血を舐めた。それから、何かを探すように周囲を伺う。
「……間に合わなかったようですね」
少し声の質を低くしながら、『驃』の男は呟いた。日が傾き、闇が深まる森の中を見つめた。
『千』の女は、『驃』の男の言葉を受けて初めて笑みを崩した。浮かべる表情は、とても悲しげなものだった。
「秋様は、帰ってきますか?」
不安そうに、『千』の女は問いかける。
「……当たり前です。あの場所には、春様がいるのですから」
『驃』の男は答える。だが最初に開いてしまった間が、『千』の女と同じ不安を持っている表れだった。
◇◆
ティアル・マギザムードは、見下ろしていた。地面に転がっている物体を見ながら、不思議そうに呟いた。
「なんじゃこれは」
『ラウンジ』の二階。
開かれたままの扉から、突如一人の男が凄まじい勢いで転がり込んできた。転落防止のためにあるだろう柵を半壊にして、片手をぶらぶらと宙に投げ出しながら気絶している。
人間、だろうか。
すぐには手を伸ばすことはせず、少し様子を伺う。見た限りは人間。風貌から、冒険者だと推測した。終焉の大陸の内部であるこの場所で人間の、それも冒険者がこんなところに? あまりにも奇妙な事態に好奇心がうずく。
だがそこで、ふと思い当たるものがあった。この場所にくる途中でみた人間の国の船だ。もしや、その生き残りだろうか。
ならば惜しいことをした。ティアルは後悔する。こんな面白そうな事態になるのであればもっとよく見ておけばよかった。ここまで来る様子を、観察することができたというのに。
そこでふと、凄まじい寒気を隣から感じて思考を打ち切る。
ゆっくりと寒気の感じる方へ顔を向けると、一緒にここまで来ていた春が、壊れた柵を凝視していた。あまりにも無表情すぎて逆に怖かった。
「全く。どうしてこう、大陸の外の人間は愚かなのでしょう。それともこれが大陸の外の人間のドアの入り方なのでしょうか。あまりにも愚かすぎて想定していませんでしたが、それならば、ラウンジの柵をもっと丈夫にしなければならないかもしれません」
「いや、これを大陸の外の標準にはしてほしくないの……」
やれやれと頭を振りながら、春の淡々とした言葉に返す。扉に入るたびにこんな重傷になっては体がいくつあっても足りない。それに、普通の扉ならまだしも、終焉の大陸の内陸へとつながる扉を、礼儀正しくくぐってこいというのもそれはそれで無茶な話だ。
「それにしても、こやつ。よくここまでこれたのう。あまり強そうには見えぬが」
「かなりの怪我です。すぐに治療室へ運んで、治療しましょう。こんな愚かさの塊のような人物でも、施しを与えるのが秋様の懐の深さにほかなりません。さすが秋様です。もう少ししたら、異常を感じて冬がやってくると思うので冬に運ばせますか。……ティアル、なにをしているのですか?」
「こやつはたぶん、人間の冒険者じゃ。ならば、それを証明するものがあると思っての」
土と血がこびりついた防具や服を引き剥がし、男の身につけてるものを探る。壊れた懐中時計、薬品の入ったひび割れた瓶、折れた小型のナイフや見慣れない魔道具。色々なものが出てくる。やたらと何かを持ちたがるタイプなのだろうか。いちいち量が多い。
ティアルが探っている間。男をまたいで向かい側では、メイド服の長いスカートを折り畳んでちょこんと座る春が、男が手に握り続けている剣の柄を不思議そうに取り上げた。剣の刀身はここに来るまでに折れたのか根本までない。
「これは何ですか?」
春がティアルに尋ねた。
手の平を差しだし、その上に乗っているものを見せるように。
ティアルは一度男から目を離し、春の手のひらに視線を向けると、一度頷き疑問に答えた。
「それは金貨じゃな。『共通金貨』といって世界中で標準的に使われる貨幣じゃ。なんじゃ。この男、金貨を剣の柄に隠し入れていたのか。おかしな奴じゃのう」
手の平の金貨から、春の足元で細かい部品と分解された剣の柄へ視線を移し、呆れた声を漏らした。ふと思い立って先ほど見つけた壊れた懐中時計を開くと、同じように中から金貨が一枚でてきた。呆れ混じりに再びため息を漏らす。それから再び気絶した男の装備を引きはがしにかかった。
ティアルが夢中になっている間、春は手の平の金貨をじっと見つめていた。それから金貨を包みこむように、ゆっくりと手を握る。再び手の平を開けたとき、そこに金貨は無かった。ティアルはその事に気づかず、春もそれを悟らせることはしなかった。
「お、あったの。これじゃこれ」
一枚のカードのようなものを見つけ、声を弾ませるティアル。
「なんですか、それは」
「これはギルドカードじゃ。冒険者ギルドの身分証明書じゃの。やはり持っておったか」
春はティアルの持つカードをのぞきこむ。
「読めません」
「パルサ文字じゃの。人族の使う文字は大きく分けるとパルサ文字と帝国文字の二つじゃ。わしは帝国文字のほうが馴染みあるが、一応文字はほぼすべて頭にいれておるからの。ふむ、どれ」
ティアルは手元のギルドカードを目に入れる。
そして、その名前の欄に書かれた文字を読み上げた。
「──『サイセ・モズ』という名前じゃな。この男は」
「名前を言われても知るわけがありません」
「わしも知らぬ。まぁ、普通のどこにでもいる冒険者なのであろうの。ランクはAでレベルは『562』。微妙じゃ。よくここまでこれたの」
ティアルはそれからもう少しギルドカードを読み込むが特筆すべきところはなにもなかった。ふと視線をあげると、春が開いたままのドアをじっと見つめていた。
ここにやってきたのは、秋を追いかけるためだった。気絶した日暮を置いた秋は、すぐにまた『外』へと出て行ってしまった。結局追いつくことなく、秋はいってしまったが。
秋が行ってしまった『外』へ向ける春の視線。その視線には、どんな意味があるのか。まだ秋の事も、この部屋の事も深くは知らない新参者のティアルは、その横顔にかける言葉が見つからなかった。ただその横顔を見つめ続けた。
それから十分ほどたち。結局、冬はやってこず瀕死のサイセ・モズを春は手荒に運ぶ。
その後、春に辛辣な言葉で文句を言われる冬の姿を見たティアルは、春にだけは逆らわないようにしようと、この部屋の法則をまた一つ学ぶのだった。
【新着topic(new!)】
パラメーター
S……ほんとにやばすぎる
A……やばい
B……すごい
C……なかなかできる
D……頑張ってる
E……普通
F……うーん
G……赤子
【人名】
サイセ・モズ 強さ:C〜C+(推定)
パーティーを実質追い出された落ちぶれAランクの冒険者。十年ほど前の一時期はベリエット帝国で活動をしていた。趣味は休みの日に時計屋にいくことと本と漫画を読むこと。好きな食べ物はパスタ。宿屋の娘のような素朴で働き者の女性が好み。モズは代々冒険者の家系で先祖には終焉の大陸に挑戦した名高い冒険者もいるようだ。(参照・第20話 始まりの街『アインツガルド』①)