第50話 無機質な救いの手
切り裂かれた。薪を割ったかのように、真っ二つに。
魔物の体が綺麗に、左右へと分かれていく。
元は一つだった体は徐々に距離が離れていく。結局誰かが止めることもなく、そのまま小さな地響きをならし地面に崩れ落ちた。今にも脈打ちそうな生々しい魔物の臓器が、切断面から空を仰いでいた。
「……っ」
ただの魔物じゃない。『Sランク』の魔物を、たった一人の人間が斬り伏せた。
──『Sランク』。
それは、頂。
強さの頂点。それより高い指標は、存在しない。
それがもし敵に回ったのならば、覚悟しなければならない。
何十人か、あるいは何百人か。もしくは何千人か。その人数がどれくらいかはわからないが、とにかく、犠牲が必要なのだ。力の差を埋めるための代償が。
「(そのはずだよな……)」
視界を埋め尽くしていた魔物の体が切り裂かれ、倒れていくことによって
その背後の光景が少しずつ見えてくる。
体に走る痛みに気づかないまま、少しだけ体を起き上がらせその光景を目に入れた。
それは群だった。
開かれた扉の先に広がっていたのは。夥しい数の、『死体の群』。
この場に現れた『Sランク』の魔物の群れ。それが無惨にも一匹残らず、切り裂かれている。粗雑な絨毯のように死体が敷き詰められた地面は、職業柄、死体を見慣れているはずの俺ですらその血なまぐささに顔をしかめた。
先ほどまで俺の命を左右していた魔物は、今やそんな絨毯の一部分になり、もはやどれか見分けがつかない。
この短時間で、男は文字通りこの場の『Sランク』の魔物を倒していた。
「大丈夫か……!?」
赤い少女が、傍まで走ってくる。
返事をしようとするが、声の変わりに血が飛び出す。あまりの出来事に忘れていたが、思っているよりも俺は重傷なんだ。
「ちょっと待って。──【ロード】」
動けない俺の体に駆け寄って来た少女が手を当て、呟く。
内心で少し諦めかけていたのだが、そんな俺をあざ笑うかのように、ふわりと体が軽くなる。それが痛みと傷が体から一瞬でなくなった感覚だと気づくのに数秒かかった。
驚きと共に、自分の体を見回しなが立ち上がる。
魔法や薬のように、治っていく『過程』の感覚すらもなく、本当に文字通り一瞬で体は元通りになっていた。
「治した、のか?」
あまりの驚愕に、口に出さずにはいられなかった。だからその言葉は、答えを求めたものではなかったのだが、少女は律儀にも答えをくれた。
「正確には『戻した』だけ……ですけど……」
とても簡単に、そして簡潔に、そう言うと少女は灰色の男の方へ顔を向けた。その様子からこれ以上答えるつもりはないのを察した。
正直にいえばまだ疑問はあるが。
それは例えば魔物に破かれた服まで治っている事とか。そうかと思えば、逆に少女が現れる前に魔物からくらった攻撃は治っていないというところとか。
だが問いかけるような事はしない。
今がそれどころじゃないのは誰の目からみても当たり前の事実ってやつだ。
俺と少女の会話が止んだことで、シン、と不気味なまでに静まり返る。
終焉の大陸。沿岸部。
Sランクの群れはもう既に一体も地面に足をつけて立っていない。すべてが死体となり地面に力なく横たわっている。そしてそこで佇む、一人の男。
俺は灰色の髪の男に目を向ける。
その男は、俺よりも若く見えた。
どこに力が詰まっているのかわからない華奢な体付き。汚れることを前提に作られたかのような地味で機能的な服を着ていて、片手には男の格好にはそぐわないほど大きな剣を持っている。
Sランクの魔物を、ただ一人で殺しつくす男は一体どんな顔をしているんだろう?
気になるがその顔は少し下を向いており、表情を伺うことができない。
「アキ……」
すぐ近くにいる赤い髪の少女が、俺と同じ場所へ視線を向けながら呟く。
アキ。男の名前だろうか。
「一体、何者だ?」
不可思議なのはこの少女も同じだが、それ以上にその男は不可思議だった。
俺はこの少女とあの男は、知り合いなのかと予想し、そう尋ねる。
一度だけ少女はこちらに視線を向けた。少女の瞳が揺らいでいる。何故揺らぐ必要があるのだろう。
それから少女は呟いた。
自分に降り掛かった現実味のない出来事を、信じてもらえないと分かっていながらも、親に話す子供のように。小さな声で。傍にいる俺だけが微かに聞こえるかどうかの声で。
「──世界でたった一人の。終焉の大陸を克服した人」
一瞬、息が止まる。
それは、あまりにも現実味がない答えだった。
ここがもし終焉の大陸でなければ、たとえば街の酒場で聞いたのならば、酔いのままに、笑い飛ばしてしまうような答え。
だがこの場にある、ありとあらゆる要素が、少女の答えを肯定していた。
魔物はすべて死んだ。脅威は過ぎ去ったのにも関わらず、この場所の空気は張りつめていた。気を抜けば、息をするのすら忘れ、窒息死してしまいそうなほどの緊張感。少し遠くにいる冒険者たちも無事を喜ぶこともせずただ緊張に身を包ませている。
確かに、間違いないのだろう。
男はこの大陸を生き抜いているのだろう。
そう思わせる雰囲気が確かにあった。
──しかし俺は目の前の男が終焉の大陸を克服した人間だと納得できても、理解はできずにいた。
終焉の大陸を克服するとは、一体どういうことなのか。
その言葉にどんな意味があるのかはわからない。
だがそれは想像も及ばない、完全に常識から外れたものだ。
そしてそれがわかる人間は、この世に一人もいない。
「アキ」
もう一度、少女は男の名前を呼ぶ。
死体の中でたたずむ、灰色の男がゆっくりと顔をこちらへ向ける。こちらといっても、その視線が捉えているのは俺ではなく声をかけた赤い少女だった。俺のことなど、まるで存在していないかのように。ただただ赤い少女だけをその瞳にとらえていた。
それはこの日一番の、戦慄だった。
『Sランク』の魔物が群れで現れるよりも、それをたった一人の人間が切り伏せるよりも。
より強く感じた戦慄。
誰かが言った。
愛の反対は無関心だと
これは想像でしかないが、きっと多くの人が納得できる言葉だろう。自分に欠片も関心を向けてもらえないのはやっぱり、悲しいからな。
一瞬だけ昔のパーティーが思い浮かんだ。だがそれをすぐに振り払う。
灰色の男の瞳は、まさにそんな瞳をしていた。
無関心。いやそれではまるで、他の何かには関心があるような言い方だ。正確ではないと思った。
もし正確にいうのであれば、もはや感情すらも捨ててしまったかのように。その瞳はあまりにも『無機質』だった。
関心がないという物質が、凝縮され、美しく研ぎ澄まされたような。そんな瞳だった。
そんな無機質な瞳を男は、俺だけにとどまらず、世界すべてに向けている。
明日世界が滅びるとしても、なぜ滅びるのかとか、最後の時間は何してすごそうなどといった、誰しもが考える思考を男は、それすらも一切、関心すらも抱かないのだろう。自分の命すらも含めて。どうすればそんな瞳を浮かべられるのか推測する事すらもできない。
──異常だ。
強さとか、Sランクの魔物を殺したとか、そういうことではなく。
単純にこの男自身の性質に、とてつもない違和感を抱いた。
それと同時に、恐怖も、また。
俺をわざわざ助けにかけつけてくれた、彼女とは『真逆』だ。
赤い少女には申し訳ないが、本当に人なのかすら怪しかった。
「アキ」
もう一度、少女は男の名前を口にする。今度はその後に言葉を続けて。
「その、来てくれて。助けてくれて、ありがとう」
少し狼狽えながら赤い少女は伝える。かなり緊張している様子が、伝わってくる。
わかる気がする。正直俺なら会話しようとすら思う気になれない。
男はゆっくりと赤い少女へ近づく。
同時に俺との距離も縮まり、体は無意識に緊張し強ばっていた。
男は、口を開く。
出てきたのは言葉ではなかった。
はぁ、と、深い息をはく音。どこか呆れのような感情が含まれている吐息。
初めて人間らしい動作を感じ、俺は目の前の男がようやく人間なのだと感じる。
瞳にも、無機質さが薄れ感情の色がみえるようになっている気がした。
男は、少女の目の前にたつ。そして柔らかく、笑った。
今の今まで、身の毛がよだつような瞳を浮かべていたとは思えないような、自然な笑み。そんな笑みを浮かべる男をみて、少女と俺が同時に、ほっと息をはいた。
──次の瞬間だった。
赤い少女が、男に殴り飛ばされる。たぶん、とてつもない力で。
「えーっ!?」
あまりにも突然のことに、思わず声がでる。
殴られたなんて生やさしい吹っ飛び方じゃない。
まるで獣車にひかれたやつの飛び方だ。
立ち止まっている冒険者たちのほうへと吹っ飛ばされていく少女。
一回、二回と体が地面に当たっては、再び体が宙に浮かび上がる。
「容赦ねえ……」
思わず呟く。
「魔物に喰われるよりはマシだろう」
返ってきた声に、思わずビクリと体が反応する。
そういえば近くにいたんだった。
あまりの出来事に、その事実が頭から飛んでいた。
声の主の灰色の男は、そんな俺に初めて視線を向けて、面白そうに少しだけ笑う。
だがその時間は一瞬で、錯覚だと思うほど表情は引き締められ、男は赤い少女へ向けて歩いていく。
「俺は、言ったはずだよな。外には『決して出るな』と。──なぁ、日暮?」
「っ……」
転がっている最中に切ったのだろう。
顔の所々から血を流しながら、少女はゆっくりと体を起こす。
灰色の男は、そんな満身創痍の少女から目を外し、周囲に視線を配る。
固まっている冒険者たちを目にいれると、ヒッ、という声が小さく上がった。
その声を無視してさらに奥の、作業をしている船員と騎士たち。広がっている地面に目を向け、最後に打ち上げられた船を見て視線を戻した。
「別に、外にでたいのなら、それでいいんだ」
灰色の男は呟く。
「日暮の自由だ。俺がそれを止める理由も必要もない。たとえ絶対に死ぬ事になるとしても、な。
でも……」
ぺらりと一枚の紙がいつのまにか男の指と指の間にはさまれていた。
白い紙だ。そこまで大きくもない。手帳からページだけ切り取っただけのような、普通の紙。
その紙には文字が書いてあった。
帝国文字だ。「人が襲われている。助けてほしい」と、細いペンで書かれている。
少女はその紙を見ると、大きく目を見開いた。
「自由なのは、『自分の意思』までだ。ここに来てから、ずっと与えてばかりだったから、勘違いしちゃったかな? だったら申し訳ないけど、でも人のことをいい様に扱えると思ってるのなら、それは間違いだ」
「私は……」
「私は?」
男は、言葉の詰まった少女に即座に聞き返す。
「……」
少女は何も言えなくなり、沈黙する。男はその少女の様子を見て、深く息を吐いた。
「それにしてもよく生きてここまでこれたな。大方、部屋まで悲鳴が運よく届いて駆けつけたんだろうが……。
でも──に……か?」
男は、言った。微かな声で。少女にも、冒険者にも届かないだろう声で。
瞳を再び、無機質に染めながら。
一番近くにいる俺だけが、唯一その言葉を聞き取った。聞き取ってしまった。
──人にそこまでの価値はあるのか……?
その時赤い少女の漏れ出たような悲鳴が耳に届く。
心に、暗い雲がかかる。
「がっ──」
「動くな」
短い忠告。
灰色の男でも、赤い少女の声でもない。だが、聞き覚えのある声だ。
その声に俺の心にかかる雲は増すばかりだった。
事態を悪化させることに、なぜこの男はことごとく長けているのだろう。
「そのまま押さえてろ」
「はっ!」
ズェゴ=ブーグリゴは騎士に少女をを押さえ込ませる。さらに別に騎士が少女の首もとに剣を添える。ズェゴはそんな騎士たちに満足げな表情を向けながら、一つの道具を取り出していた。
「見ろ……! やはりこの女だ、間違いない!」
光り輝く魔道具。俺たちがこの場所に来ることになったきっかけ。
薄々気づいていて、しかし色々な事情から無視していた事実が、今明らかとなる。
「やったぞ……ッ! こいつを連れて帰れば、手柄だッ!
魔石どころじゃ、ない。なんせ、終焉の大陸で死んでいるはずの人間を生きて返すのだから。神に等しい所行ッ!」
ズェゴは赤い少女のそばでひとしきり喜んだ後、灰色の男へ視線を向ける。
「そこの不審なお前。お前も一緒に来い。こんな大陸にいる人間なんて、怪しすぎる。
これは『ウォンテカグラ国』に名を連ねる貴族家の一人、ズェゴ=ブーゴリゴの命令だッ!」
シンと静まりかえる。
波の音が、沖から吹く風にのって聞こえてくる。
男の化け物じみた強さを間近でみていた俺や冒険者らは祈る。ただ命があることだけを願って。静かに、行く末を見守っていた。
しかし灰色の男は、ズェゴや押さえつけられた赤い少女とは別の、明後日の方向を見て呟いた。
「地面が広がっているな」
この場のすべてが、どうでもいいかのような声で呟く。
誰かと話しているというよりも、独り言に近い言葉だった。
「魔物の仕業だ。地面のなかで魔物の血を含んだ土を食べ、たくさんの糞を出す。ミミズのような魔物だ」
「……は?」
ズェゴが、間抜けな相づちをうつ。
もし声を出せれば、全員が同じように返しただろう。
まるで想像とは違う答えに、誰しもが戸惑いを感じた。
「一匹ならそう、大した事にはならない。だが何十万匹と大量に現れると陸地の地形がめまぐるしく変わるんだ。目の前の光景のように。俺たちの足下の地面の中には、今大量に魔物が蠢いている。レベルもそう高くはないし、魔石だって米粒ほど小さいのに。引き起こされる現象は、まるで『環境魔獣』みたいに、劇的で、大規模だ」
少しずつ、現状を忘れ男の言葉に聞き入っていく。
冒険者としての好奇心がくすぐられているのがわかる。
だがそんな俺とは違い、苛立った舌打ちが一つたったのが聞こえた。ズェゴからだった。
けれど灰色の男はそんな音を気にも止めない。
「でも、気を付けた方がいい。この魔物は──」
「お前、もしかして無視しているのか?
この俺の、話をッ!」
灰色の男の言葉を遮り、ズェゴは怒鳴りだす。
血が上っているのか、顔が少し赤い。
「や、やめろ。その人を、怒らせないで……。頼むから」
赤い少女が、騎士に押し付けられ、圧迫された状態で苦しそうに言葉を述べる。
「頼む……。あなたたちの為なんだッ!」
少女が声を荒らげて言った。悲痛な叫びだ。
おい、とズェゴが騎士に呼びかける。少女を抑えた騎士が頷き、次の瞬間鈍い音がなった。騎士が少女を黙らせるために蹴り上げたのだ。かなり強くやったのか、がくりとうなだれ少女は意識を失う。
手を強く握る。怒りがわく。
助けにきてくれた少女に対してやることじゃない。
「チッ、お前なんだッ。その目は。これはお前の依頼でもあるんだぞッ。本来なら、お前がやるべき事なのにお前がすっとろいからわざわざ俺が出張って来たんだぞ、この愚図がッ」
理不尽な言葉が浴びせられる。だがそれはどこまでも正しかった。残酷なほどまでに。
俺は冒険者だ。依頼を全うするのが、本来の仕事。少女を捕まえるのは多少依頼の内容が変わってしまうが、依頼主の意向を考えるならばズェゴのようにやるのが本来は正しい。
怒りはいつの間にか空気が抜けるようにしぼんでいた。
代わりに心を満たしたのは、『失望感』だった。
男の言葉を、思い出す。わざわざ恐ろしい終焉の大陸の森を抜けて、助けるためにかけつけた少女。立派だと思う。
でも俺たちに、そんなことをするほどの価値は、無い。
「──この魔物は、魔物の食べ物になる。
この大陸では珍しい部類に入る弱い魔物にとっては、貴重な」
男は、話を続ける。この状況でなおも。そのことに少し、驚いた。
「だから、たくさんの魔物が食べ物を求めて集まる。でも恐ろしいのは次だ。さらにその魔物を食料として求めるより強い魔物が集まる」
俺は最初に現れた魔物。そして次に現れた『Sランク』の魔物を思い浮かべる。
つまりこれが、そうだったわけか。
背筋に寒気が走る。男がこなければ、今頃どうなっていたのか。
「……これ以上、俺の話を無視するようなら。この女を殺すぞ」
怒りが等々限界を越えたのか、低く、脅すような声でそう言い放つズェゴ。
「無関心を装ってはいるが、この女が大事じゃないはずがないよな。お前ッ。だから、きたんだろう、この場所に。お前にとってこの女はなんだ。家族……にしては顔が似てない。恋人か? とにかく俺の言うことを聞かなければ、この女の首に剣を突き刺すぞ」
その言葉に、ようやくだった。
この場に来て初めて灰色の男はズェゴへ顔を向けた。
「別に、無視してたわけじゃない。あなた方のためを思って説明したんだ。わざわざ」
「なに?」
「無事にこの大陸を出る確率を少しでもあげたいのなら、船を下ろすのをやめたほうがいい。船を引きずって常に地面と海の境目を維持して、限界まで広がりきったときに船を下ろすんだ」
男は広がる大地に目を向けながら言った。
まだこれ以上、何かが起きるというのだろうか。だが『Sランク』の魔物が群でやってくるよりも危機的な状況というのは、そうそうない。一番危機的な場面を、灰色の男のおかげで乗り越えられたのは幸運だったかもしれない。
ズェゴは答える。
「ふんッ。こんなおかしな大陸でそんなダラダラしていられるかッ!」
「そう。まあ、自由にすればいい。彼女のように」
気を失った、赤い少女に一度目を向ける。俺たちもまた少女のようになると遠回しに指摘されてるようにも思えたが、ズェゴは気づかなかったのかその言葉には触れなかった。
海から風が吹く。少しずつ強くなっているのか、時折水滴が顔に当たる。
「それより後ろ大丈夫か?」
男はズェゴの後ろを指さしてそう告げた。
「あ、なんだ。後ろ?
いた、いたたたたた。目が」
海のほうから吹く風にのって、何かが舞っていた。海を背にしていたズェゴは後ろを振り向いた瞬間、目を抑えうめき声をあげる。
咄嗟に顔を手で覆う。だがそれでも覆いきれなかった口の中に、小さな堅い何かが入り込む。感触からそれが砂だと分かった。理由はわからないが、砂が風にのっている。
俺は灰色の男に目を向ける。男が何かを仕掛けたのだという直感がそうさせた。そしてそれは間違いではなく、いつのまにか灰色の男の両手の中には砂があった。何もない空間から突如、砂が現れ、男の両手の中で消えていく。そしてどういうわけか海から吹く風にのって、ズェゴの目を襲っていた。
何か【スキル】を使っている。しかも複数だ。
『砂を出現させる』スキルと、『砂を移動させる』スキル。
ズェゴが情けなくうめき声をあげている間に、男は意識のない少女の方へ向かって歩く。その少女を抑えていた騎士は悪意を感じるほど、重点的に大量の砂が降り掛かっていた。砂が混じる風の中でもがく騎士を、男は適当に片手で掴んでそのまま投げ捨てる。そしてあいた片方の手で軽々と少女を持ち上げた。
「それじゃあ、頑張って。
【部屋創造】」
男がそういうと何もない空間に、何の前触れもなく。
家とか、建物に繋がっているわけじゃない。ただの扉が。むき出しの扉が、現れる。
これもまた何かの能力なのだろう。ただしその能力の詳細は、スキルと違い、全く予想がつかない。赤い少女の能力よりも、こちらのほうが一段と不可解だった。
「まて、まて」と目をこすりながら男がいる場所とはぜんぜん違う方を向きながら言っているズェゴ。さすがに騎士は早めに回復しており、男に攻撃しようとしたが、簡単にけりとばされて吹き飛んでいった。
直感的に、男がこの場からいなくなるのを感じた俺は、思わず男に声をかける。
「な、なんで殺さないんだ?」
自分でもなんでそう声をかけたのかわからなかった。だが言った後に、確かに俺はその疑問はずっと抱いていたと思った。
男ならこの場にいる全員を皆殺しにして、少女を助ける。そんなことSランクの魔物を相手にやるよりもずっと楽なはずなのに。どうして。
少なくとも俺が男なら。そういった行動をとってしまうかもしれない。
だって……。
「そっちのほうが楽だろう」
男は振り返らない。
答えはもらえない、そう思ったときだった。
「別にどっちでもいいからな」
背を向けたまま男は、答える。
確かにどっちでもいいのだろう。生きていようが、死んでいようが。
無機質な瞳を思い出す。今男はその瞳を浮かべているだろうか。その背中から想像することしかできない。
でも、と男は続ける。
「どっちでもいいのなら、報われないよりは、報われたほうがいいと思っただけだ」
何が、とは言わなかった。
それは肩に背負った少女の行動の事を言ってのだろうか。男は多くを語らない。
ドアの取っ手に手をかけ扉を開く。
俺はこの後、男がいなくなってからのことを考える。そして少し、焦燥感がわいた。
ズェゴはまぁ、男の忠告をきかないだろう。その時、一体俺たちはどうなるのだろうか? まるで想像ができない。
だが一つだけわかることがある。
それはどんな事が起ころうと。最後にたどりつくのは死であることだ。
「(今この男に助けをこえば、助かるんじゃないのか……?)」
そんな考えがわく。
俺もあの扉の中に連れてってもらえれば……。
「ま、待ってくれ!」
声をかける。
口を開けて、声を出そうとする。でも喉が思っているよりも乾いていて、声がでなかった。
唾を飲み込むため一回口を閉じ、さらにもう一度口を開けて声をかける。
「なにか?」
淡々とした声。感情がまるで篭って無く、俺の命など、どうでもよさそうに男は聞く。
「お礼を、言っておいてくれないか。その少女に。俺の命は彼女に助けられた、だから礼を言っておいてほしいんだ。ありがとう、って。それからあんたにも、命を助けられた。ありがとう」
表情は見えない。背中に纏う空気は少し、柔らかくなったような気がする。
「あぁ」
伝えておくよ、と、振り向かずに言い残して男は扉の中に消えていく。
扉が閉じてから数秒後、消えた男の後を追うように、その扉は溶けるように消えていった。
後に残ったのは、未だ目を痛そうにこするズェゴと騎士のうめき声だけ。
「チッ……。くそっこの役立たず共がッ!」
回復したズェゴは周りに当たり散らかす。大体予想ができていたことだ。
「もういいッ。全員で船をおろせ。さっさとしろッ!」
耳に入ってくる怒鳴り声にため息をつきながら、ダメ元で男の忠告通りにしたらどうかと提案をする。まぁ、案の定却下されたわけだが。
おかげでズェゴの鬱憤のはけ口となった俺は、ズェゴに怒鳴られながら横目で船を下ろす作業を眺めていた。時々飛び散ってくるズェゴの唾が不快だった。
「(もはや俺にできることは、祈ることだけだ)」
さすがに全員で作業をすると、作業ははかどっていた。全員がこの大陸の恐怖を目の当たりにしたのも、その一つの要因だろうか。鬼のような形相で、全員が必死に船を押していた。
広がっていく地面に取り残されていた船が、再び海の傍まで近づいく。
「ん?」
一度船体を点検するといい、その間警護のために辺りを見回していた時だった。
波際で水しぶきがあがっているのに気づいた。細かい水しぶきが、たくさんあがっている。波が当たってるにしては、不自然だった。
他の冒険者たちに周囲を警戒するように伝える。が、まともな返事は一つもかえってこなかった。たぶんもう奴らのなかで俺はリーダーではないのだろう。普通なら正さなければならないのだが、正直もう、どうでもよかった。
俺は様子が気になったその場所に、海と地面の境界線にむけて、歩いていく。
海と接する地面というのは、波によって、削れていくしかない。
本来、地面とはそういうものだ。
だがその場所では、おかしなことに地面が海を浸食していた。
ゆっくりと。でも地形が変わるという観点で言えばとてつもない早さで。
内側で増え続ける土に押されて。盛り上がっていくように、地面が広がり続けている。
まるで海に大地が負けることなど、断じて許さないかのような光景。
俺は警戒と好奇心の両方を抱きながらその光景を見つめていた。
観察していると、どうやらどの場所も同じペースで、足並みを揃えて広がっているわけではないようだ。時々一部だけ勢いよく広がりすぎてしまった箇所は、不自然に出っ張ってしまう。するとバランスが悪くなり、崩れ、海の中へと土が沈んでいく。
そして俺が気になった不自然な細かい水しぶきは、そういった場所で起こっていた。
今まさに土が崩れそうになっている場所に近づく。生まれたばかりの柔らかい土は、一歩踏み出すたびに足が沈んでいく。
波打ち際までくるとちょうど、ぼろぼろと土が崩れる様子が目に入る。すぐ真下で、飛沫をあげる波と共に隅々まで観察することができた。
崩れた地面の断面。
そこから大量の、少し太めの紐のような黒い魔物が勢いよく出てくる。何十匹も、大量に。体を気色悪くくねらせながら、泳げもしない海へ向けて土から飛び出していた。
これが、男が言っていた地面を広げている魔物だろうか……?
まだまだ土が続いている。それを信じて疑っていないかのように。馬鹿みたいに海に飛び出しては、落ちていく魔物。当然泳げることなどなく、海に飲まれ消えていく。
──ポチャン。
音を立てて水がはねる。
ちょうど魔物が海に落ちたあたりのところで。
目を向けたときには、すでに何かが起こったあとの余韻らしき水滴が宙を舞っているだけだった。
それから何度も、音を立てて水がはねる。
水中に向けて目をこらす。だけどそんな事必要なかった。
なぜなら、その後その現象は、大量に見られたからだ。
俺は気づく。濁っている海なのでわかりづらかったが、気がつけば大量の魔物が水面下に集まっていることに。土から飛び出る魔物を補食するためにはねた水しぶきをみて、疑問に思っていた正体が何かを知る。
「魔物が集まってきているのか?」
冷や汗を流しながら、その光景を眺める。
なんせ、現れた魔物はあの酒好きの魔物と同じくらいに強い魔物だからだ。
海中だからまともに相手することはないとはいえ、船を襲われたらひとたまりもないだろう。
酒好きの魔物と同じくらいに強い魔物……?
どこか引っかかりを感じて、首をひねる。胸の内に妙な不安を感じた。
『この魔物は、魔物の食べ物になる』。
「よし、いいぞッ。船を下ろせ。早くしろ! また襲われたくなければなぁ!!」
ズェゴの号令が、耳に届く。
だが、頭にまでは届かなかった。
ズェゴの言葉を押しのけ、この場にはいない、灰色の男の言葉が頭の中で再生される。
『やがて、たくさんの魔物がエサを求めて集まる』
水面下では、すでに視界を覆うほどの数が集まっていた。
あまりの数に、圧倒され言葉がでない。異様な光景だ。
でも気のせいだろうか?
そのうちの数匹が力なく水面に浮かんでいるのは。
ごくりと、唾を飲み込む。
なぜ男が、俺たちに忠告したのか。それがようやく、わかりかけてきた。
『でも本当に恐ろしいのは、その"次"だ』。
「次……」
心の内に沸いていた不安は、すでに形を変えていた。
『Sランク』の魔物が現れたときのような、絶望感に。
「──めろ」
はぁ、はぁ、と。自分の息が荒くなっていくのがわかる。
泡が、浮かんで来ていた。魔物と魔物の間を縫って、大きな空気の塊が。海の深いところから。
やがてその泡は水面にまでたどり着くと、空気に触れて弾ける。
『視界が歪む』。
それから、また魔物が数匹、仰向けになって死んだ。
なんだ、これ……。
まるで何が起こっているのかわからない。
目の前で起こったその現象に、絶望はより深く、色濃いものになる。
まさか。
俺は終わったと思っていたんだ。灰色の男が来てくれたおかげで運よく、逃れられたと、そう思っていた。
だが、それは終わっていなかった。
全く、何もかもが。
──『さらにその魔物を食料として求めるより強い魔物が集まる』
ボコボコと、浮かぶ泡。その泡が弾けるたびに視界は歪み、海の魔物が数体死に絶える。
まさか、『海』もそうだったなんて。
俺は叫ぶ。
「おい、とめろ!!
船を下ろすのを、今すぐに止めろぉぉぉぉお!!」
だが声は作業をしている奴らには届かない。
唯一届いた、ズェゴだけが不快そうに俺のほうへ視線を向けていた。
船は、着水する。大きく水しぶきを上げながら。
作業をしていた者たちが、達成感のこもった表情を浮かべた。
だがその顔はすぐに歪む。
「あつ、あつつつ、なんだこれ熱いィ!」
水しぶきのかかった、冒険者の一人が叫ぶ。似たような声がいくつも上がった。
全員が訝しげに海を見つめた。そして次の瞬間、全員がぽかりと口をあけた。
泡がまた一つ、浮かんでは弾けた。視界が歪み、水面に浮かぶ死体が増える。
「おい、なんで急に海から白い煙が上がってるんだ?」
誰かがそう声をあげた。でも答えはない。みんな唖然としていた。
泡が浮かんでくる。最初はぽつぽつと、降り始めたばかりの雨のように浮かんできたそれは、本降りになったようにあちらこちらで、いくつも浮かんできていた。いくつも、いくつも。
その泡は弾ける。すると泡の弾けた場所から高さ何メートルもある『火柱』が上がる。
熱せられた空気で『視界が歪む』。熱さに耐えきれなかった魔物が絶命する。
何が正しく、何が間違っているかすらわからない。
未知の宝庫、終焉の大陸。
それでもまさか、思わない。思うはずがない。
「もしかしたら海が燃えるかもしれないから気をつけないと」、なんて。俺には、到底思えない。
どれだけ危機感を募らせようとも。
泡が弾ける度に、火柱がいくつもあがる。泡は炭酸水のようにとどまることなく、現れ続ける。
目の前の光景は、まさに燃えさかる海だった。
あまりの光景に、どこか幻想的ですらあるような気がした。
突如、水面が大きく盛り上がる。急激に海の底から山が現れたかのように。
盛り上がっていく山には切れ目らしき場所があり、そこにむかって水面に浮かんでいた魔物の死骸が海ごとながれていく。数秒してからそれが補食の光景なのだとわかった。
食料を求めて魔物が現れ、さらに強い魔物が現れる。
その循環は、陸地にとどまらず、海までもがそうだったんだ。
あの男は、このことを忠告していたんだ。
『Sランク』の群れに当たる、一匹の巨大な魔物。馬鹿でかく、体には炎を纏っていた。
帝国の勇者ならばそいつを『クジラ』と表現しただろうが、海へ出る依頼すらまともに受けたことがなかったちっぽけな冒険者の俺にわかったことはたった『一つ』だけだった。
それは──
「『災獣』」
そう呟いた声は震えていた。
現れた災獣を俺たちはただ唖然と見守っていた。
一体、何ができるというのだろう。俺たちのような目先の欲望しか目に入らないちっぽけな人間たちが。
ただ過ぎ去るのを待つしかないといわれる、災害の魔物に対して。
だから俺たちは、『その光景』をただ唖然と見ていることしかできなかった。
「あ……」
間抜けな声がぽつりと上がる。俺の声なのか、それとも別の声なのか。
口をぽかんと開けて、魂が抜けたかのように、ここにいる全員が同じようにしてその光景を眺めていた。
とても幻想的な紙芝居を見ているように──炎を纏った巨大な災獣と、
燃え盛る船をただぼんやりと、見つめ続けていた。