第33話 秋心と終焉の空
※秋視点
──すぅ……すぅ……
静かな部屋の中で、呼吸音だけが唯一耳に届いていた。
さっきまで苦しそうに魘されていたなど
この規則正しい音からはきっと、想像できないだろう。
あふれ出る汗は赤い髪の毛にしみこみ、ぴったりと肌に張り付く。
おでこにタオルを乗せながら、時々寝苦しそうに体を捩らせる姿は
どうみても病人そのものだった。
日暮はあの夕食の時から、熱を出して寝込んでいた。
話を聞けば、昼夜かまわず三日間走り通しで追っ手から逃げていたそうだ。
そこからさらに『外』を半日ほど歩くというのは、日暮の実力からするとさすがの俺でも無茶すぎるだろと思ってしまう。
実際に、一度倒れたのがその証拠だ。
思ったよりも早めに起きあがってきたから
そんなでもないのかと思ったが……。
なんてことない。無理をしてるだけだったようだ。
そしてさらに追い打ちをかけるように、決壊してしまった精神的な疲労。
たぶん、ここにくる前からかなり追いつめられていたのだと思う。
日暮の様子から察するに、国から逃げることになった理由だって
彼女が語った事以上にいろいろな事がありそうだった。
「(そこに関してはあまり深く踏み込む事をするつもりはないが……)」
ただ、今の日暮の状態は俺にも責任の一端があった。
なぜなら俺の作った料理が原因で
日暮が抑えていたであろう心の負担があふれでてしまったからだ。
日暮は俺と違い、望んでこの世界にきたのではない。
その可能性を考えず、安易に元の世界の……
日本の料理を振る舞うべきではなかった。
腕の中でぐったりとしながら、どこに向けたわけでもない言葉を、涙と共に漏らす日暮の姿が蘇る。
彼女にとって、とても辛い記憶を呼び起こしてしまったと"少しだけ"罪悪感を感じた。
「……」
日暮の状態は、あまりよくはない。
熱がでていて、体も衰弱している。安静にしていれば治るはずだがその治りもかなりおそい。
その原因は、二つ。
一つ目はちゃんと寝付けていないこと。
先ほどまで寝ていてもうなされ、すぐに起きてしまう。
ただその問題はさっきまで寝かせていた、日暮用に【部屋想像】で作り出した【寝室】から、俺の部屋に日暮を移したときに解決した。
日暮がここにきた初日は俺の部屋ではぐっすりと眠れていたと
冬の言葉を聞いてもしかしたらと場所を移してみたのだが、どうやらそうして正解だったらしい。
数日間占領されてしまうが、まあそれくらいは別にいいだろう。
問題なのは、二つ目の原因だ。
それは、食事が喉を通っていない事。
試しにおかゆを作ってみたけれど、食べられない。
元の世界の料理は、ほぼ厳しい。食べても、喉を通らない。
これは日暮の"心"の問題……。すぐにどうこうできるものじゃない……。
部屋の中だけで調達できる食材は、日本にゆかりのあるものが多い。
米や肉、調味料もそうだ。
俺自身が元の世界しか知らないからなのか。
【部屋想像】という能力で作り出された部屋の多くは
日本を含めたもとの世界を基調としているふしがある。
日暮がまともに食事をするためには
部屋の中じゃない場所で取った食べ物が必要だった。
それならば、選択肢は一つしかない。
ちらりと日暮を一瞥し、安定して寝付けていることを確認した俺は
音を立てないように、そっと部屋を後にしたのだった。
◇
『ラウンジ』の一階部分に置かれたドアは、外へと繋がっている。
外とはどこか。
それはあの魔物の溢れる、『外』のことではない。
たとえば、『牧場』。
たとえば、『魔物園』。
たとえば、『漁場』。
部屋と聞いたときに、首を傾げたくなる……。
室外のような環境が構築されているものの、確かにそこは室内。
そんな部屋へと繋がるドアが集められているのが
ここ、『ラウンジ一階部分』。
靴をいちいち脱いだり穿いたりするのが面倒くさいという理由で作られた場所だが
そんなここにもたった一つだけ
正真正銘の『外』へと繋がるドアがある。
それは、環境がめまぐるしく変わり、魔物があふれかえる、本当の意味での『外』。
『外』へと繋がるドアは、基本的にラウンジの二階より上に置かれている。
螺旋状に続く通路に等間隔に置かれた大量のドア。
それは召喚されてから今日まで、十年という日々を積み重ねて来た年月の結晶……。
それらの、大量のドアを押しのけ
唯一たった一つだけそのドアは『一階部分』に置かれていた。
理由は簡単。よく使うからだ。
じゃあなぜ、よく使うのか。
このドアの先には、"森"が広がっている。
わかるだろうか?
これこそが、このドアの"真価"。
たくさんあるドアのなかで、たった一つだけ。この場所に置かれた揺るぎない"価値"。
ひっきりなしに変わる外の環境。ドアを開けなければ外がどんな環境かなど、わかるはずがない。
だけどこのドアは開けることなく言い当てられる。もちろん絶対じゃないが、基本的にはそうというだけでも大分違う。
多分このドアの価値は、この大陸に住む生き物じゃなければ理解ができないだろう。
水の降らない場所と、水がよく降る場所では"水"に対する意識が違う。
このドアの価値……。
それはきっと、雨の降らない砂漠で見つけたオアシスに似た価値だ。
「それじゃあいってくる」
『ラウンジ一階』の『外』に繋がったドアの前で、準備をする。
作業着のジッパーを締め、斜めがけの鞄を持ったことを確認して
冬の視線に答えるように言葉を発した。
「行ってらっしゃいませ」
ぴっしりと着込んだ執事服に、恥じないほど丁寧なお辞儀で見送りをしてくれる冬。
仰々しすぎるなんて、昔は思っていたが……
最近はずいぶん様になったとしみじみとした気持ちの方が強くなってしまった。もう歳なのだろうか。
ここにきた当時はあんなやさぐれてたのになぁ……。
そんな事を思いながら、見送りを受け取りつつドアへと手を延ばす。
今日の外出の目的は、寝込んだ日暮のために食料の調達。まぁ、いつもとそんなにかわらない。
──ガチャガチャ。
「うん?」
目的を確認しつつドアを開けるようとするが、開かなかった。
もう一度、試してみる。
だが、まるで鍵が反対側からかけられたかのように開く様子がない。
俺は諦めて取っ手から手を放す。
「どうか致しましたか?」
「どうやらドアの向こうで何か起きてるらしい」
安定を掴み取ったドアと意気込んだ矢先の出来事に
肩すかしをくらったような気分になる。
『ドアが開かなくなる』。
この現象は、別に初めてというわけじゃあない。
むしろドアを外に設置して以来、外と繋がるドアでは割と頻繁にあることだ。
「(大体、ドアの向こうで何かしらヤバい事が起こってるときなんだよな……)」
今まであったことでいえば、ドアが丸々土に埋まったり、魔物の攻撃が尋常じゃなく飛び交いドアが防衛のため自動的にロックがかかったりなどがあった。
冬と時間をつぶし十五分ほどたったので、もう一度試みてみる。
とりあえずこれでだめだったら、二階より上にある他のドアから外に出て確かめにいこう。
そう決意をしながら、取っ手に手をかけてみる。
すると、拍子抜けするほどあっさりとドアが開いた。
注意を払いつつ、外へ目を向ける。ドアが開かなくなった原因を確かめる。
「……」
まず目に入ったのは、見慣れた背の高い森の木々──が
すべて同じ方向に根元から倒れている姿だった。
森をアイロンで一定の方向から均等にかけたような光景。
よくみるとそれは、小さな雑草の草まで及んでいる。
外を観察しながらも、ドアから慎重に一歩目を踏み出す。その瞬間から、明らかな異常が五感を通して伝わって来た。
まず足の裏から感じるのは、振動。そしてその振動に合わせて耳に届く、重機で工事しているかのような轟音。
何かがおかしいのは、明白だった。
「あいつか……」
轟音のするほうへ視線を向けてみれば、たやすく異常の元凶の姿を見つける事ができた。本当に、いともたやすく。
なぜ見つける事ができたのか。それはあきれるほど、明確かつ単純な答えだ。
『外の恐ろしさ』とは何か。
魔物がたくさん現れる……環境が変わる……。
『外』といえば、そういった異常な現象にだけ目が行きがちだ。
しかし、目を凝らしてみれば魔物の一体一体もまた非常に厄介で恐ろしい部分がある。
骨の髄まで恐ろしさが刻み込まれている『環境魔獣』を筆頭に
大量に群を作る群生型の魔物。
逆に特別な魔物というわけでもないのに、一体で馬鹿みたいに戦闘力の研ぎ澄まされた魔物なんかもいれば
知恵がやたらと回る人型の魔物も大量にいる。
中には弱い癖にやたらと厄介な特性をもっている魔物なんていうのも。
そんな風にしてあげられる、魔物の恐ろしさ。
無駄に豊富なバリエーションの中の一つにこの光景を生み出した魔物をあてはめることができる。
『でかい』。
目の前にいるその魔物は、圧倒的に巨大だった……。
丸まったダンゴムシを、ビルをなぎ倒せるくらいにまで大きくしたような体。
ゴロゴロと転がりながら木々を押し倒し
魔物を蟻みたいに踏みつぶして森を絨毯のように進んでいく。
そう……。
この木々がすべて押し倒された異様な光景は、ただの魔物の通った跡だった。
ドアが開かなかったときは、ちょうど奴がここを通っていたのだろう。
巨大な魔物から一端視線をはずして回りを見る。
すべてのドアがぴったりとしまっていた。
ゴブリンを含む『住人達』は、ちゃんと避難しているようだ。
再び魔物に視線を戻す。
すると、ゴロゴロと転がっていた魔物がぴったりと止まった。
「なんだ……?」
視線に疑念を込めながら魔物を見続ける。
すると突然巨大な球体の体。その下半分から、黒く太い触手が何本も現れる。
のびている触手は、一本一本がうねりながら地面を目指して進む。
そしてすべての触手が地面につくと、ゆっくりと巨大な球体な体が持ち上がった。
「タコか……」
思わず口にだしてつっこむ。タコを黒くして柔らかさと取り除いたような姿に言わずにはいられなかった。
体が安定しだした魔物はその後、数本の触手で折れた木を掴む。
そして体の上半分にいくつかできた体の切れ目にゆっくりといれていく。
「草食なのか……」
魔物の食事風景を好奇心にかられ、見つめつづける。
食事を終えたのだろうか。
巨大な魔物は触手を体にしまいこむ。そして低いうねるような轟音と共に、ゴロゴロと木々を踏み倒しながら去っていった。
巨大な魔物の後ろ姿を見送りながら
『今日も相変わらず、外は外だな……』と
そんなどうでもいい事を頭に浮かべつつ、目的を果たすために森の奥へと向けて歩き出した。
『外』へ出て、森の中を体感で一時間ぐらい進んだ。
巨大な魔物によって倒された木々は視界から既にない。
日差しが程良く差し込んでくる浅い森のこの場所は、
周りを見渡せば豊富な種類の植物が見てとれる。
今日の外出の目的は、日暮の食べられるものを確保するのが目的だ。
既に何匹か、襲われたついでに食べられる魔物を狩ってはいるものの
日暮の状態からすると肉はまだやめといたほうがいいだろう。
そのため果実や、薬草なんかを重点に採取したいとここまで来ていた。
──そういえば、俺の今まで言っていた『外』って『終焉の大陸』って名前なんだよな……。
背後に行き交う魔物に気配を悟らせないようにしつつ
しゃがんで植物についた実を取っているときに、ふとそんな事を思う。
『外』には特に名前とかつけずにそのまま『外』と言ってたけれど
まさかそんな名前だったなんて……。
「(なんだよ『終焉の大陸』って……。
どう見ても字面から危険な臭いがぷんぷんしてんだろ……)」
「ギャン!」
背後にいた魔物が驚いて飛び上がるように、すばやく離れていく。
脳裏によぎったジジイのせいで、少し殺気が漏れてしまっていたようだ。
安全圏内とはいえ、あまり気を抜きすぎないようにしなければ。
「(でも悪いのは絶対あの白いジジイだろ……)」
悪態を心の中でつく。
この世界に来て十年。
振り返ってみれば長いようで短かいようで……。
色々な出来事があった。良くも、悪くも。
目を閉じればみれば、きっとすぐにでも様々な光景が蘇る。
ただ、そんな日々も日暮という来客者により何かしらの変貌をとげると
そんな予感じみたものを感じていた。
俺はいずれ、この大陸を出るだろう。
その理由は俺がドアから望んで危険な『外』へと歩み出た理由と同じ。
──『捨てた物に対して、あまりにも釣り合わない幸福』。
この大陸に居続ける……。
それはあの、どこまでも生きやすい『ドア』の中に居続けるのと何も変わらない。
気を抜けばまだまだ命の危機があるとはいえ、『外』での活動はかなり自由になった。
ドアを置くことによって活動範囲も大幅に広がり
先へ先へと進み続けついに最近発見したのは──どこまでも広がる青い海。
海……。それはつまり、大陸の端……。
長く、本当に長く続いていた『外』の旅路の終わり。
それが見えてきたときに日暮が俺の場所へと訪れたのは、偶然か運命か。まぁ、どちらでもいい。
初めて海が見えたとき、俺は思った。
船なんか作って大航海なんていうのもいいかもしれない──と。
『外』で生き続けて、辿り着いた『外』の終わり。その場所で望んだのは、更なる『外』へ向けて歩み出すことだった。
だから俺は、いずれこの大陸を出るだろう。
白い世界で異世界へ行くことを望んだように。
体の半分を失って、死にかけてなおドアの外に出ることを望んだように。
その点では、俺と日暮の目的は一致しているとみていい。
「(問題なのは、出る"時期"か……)」
だからといって、俺と日暮の目的がすべて同じかと言われればそうではない。
それはこの大陸を出る時期だ。
日暮は、たぶん少しでも早くこの大陸を出ることを望んでいる。
直接本人からそう聞いたわけではないが、日暮の状況から考えるともし外にでる手段があるとわかれば是が非でもそれを実行しようとするのは想像にたやすい。
対して俺の方はそこまで切羽詰まって大陸を出たいわけじゃない。
正直に言えば、いつでもいい。
半年後でも、一年後でも、さらにいえば十年後でも。今更時間なんて気にするほどのことではない。
そこが、俺と日暮の明確な目的の違いだった。
「……」
頭上に果実が実っているのを見つけ、石を投げ枝の根元から切り取る。
落ちて来た枝が地面につくまえにつかみ取って、何個かついている果実をもぎ取り【アイテムボックス】へと放り込んだ。
──俺は一つ、日暮に対して嘘をついていた。
その嘘に、日暮が少なからず落胆した様子を浮かべていたのを思い出す。
『この大陸を出る手段を、持ち合わせていない』
いいや、違う……。
俺はそれを持ち合わせている。
この大陸を出られるであろう手段を。
だが俺は日暮に対してその事を言うことはなかった。
それはその手段をもっていながらも、今までそれをせずにこの大陸に居続けている理由と同じ。
突然だが、俺がこの世界……この化け物じみた『外』で生きてこれたのは【部屋創造】という能力のおかげだ。
【部屋創造】の万能性。それは、何も持たずにこの世界へと放り出された俺にとってなくてはならないものだ。
だが【部屋創造】という能力は、『無限』じゃない。『RP』という確かな『代償』を求められる。
『RP』──【部屋】という世界を産みだし、維持し、そして豊かにする。
『RP』は、文字通り"生命線"だ。
『外』で緊急事態に陥ったとしても、『RP』がなければ【部屋】に繋がるドアも設置することができない。
それは危険なんて言葉を鼻で笑いたくなるような『外』において、文字通り命綱を捨てるに等しい。
なぜ今その話をしたのか。それは、俺の考えている"手段"には『RP』の消費が伴うからだ。
生命線といえる『RP』をどれほど使うかも見通しがつかない"手段"。それは俺に取ってためらわさせるのには十分だった。
『RP』の消費をしてまで今出る必要はない。
ゆっくり時間をかけてのんびり船を作って、それででればいいと思っている。
「(それにその"手段"には自分以外の力を頼らなきゃいけなくなる……。
他者に頼るという手段は、個人的な感情で言えばあまり好きじゃあない……)」
漏れてしまった、本音を再び心の奥底へしまいこむ。
俺は、日暮の過去を思い出させてしまったことには罪悪感を感じてはいても、手段がないと嘘をついたことに罪悪感を感じてはいない。
つまるところ、俺はそういう生き物なのだ。
倒れた人を運ぶのもいい。眠れない人に部屋を貸してあげるのもいい。
いくところがないのなら、部屋に住むのだって好きにすればいい。
だが自分自身の生命線を消費してまで今日昨日出会ったばかりの人の願いをかなえてあげようとは思わない。
残念だが俺は自分自身を犠牲にしてまでふりまく優しさなど
持ち合わせてはいない。
必要ならば自分の『幸せ』のために、人の『幸せ』を犠牲にできる。
幸福には、常に『犠牲』が伴う。
すべての生き物が『幸福』になることなど、絶対にありはしない。
そんな俺のことを他の人はなんというだろうか。
傲慢? 自己中心? 血も涙もない人?
知ったことじゃない。人から見た印象なんて。
俺……。
つまり灰羽秋とは、元来そういう人間なのだ。
◇
あらかた採取を終えた俺は、帰るためにドアの置いてある方向へ歩みを進める。
巨大な魔物によって折れた木は、既に森の環境魔獣である『緑』の影響によって新しくはえた木にのまれるように覆われていた。
そんな風に周囲を窺いつつ、割といろいろなものがとれたと満足感を感じていた時だった。
──ブン、ブン
空気をさくような音がいくつも重なっているのが聞こえ、足をとめる。
音の正体に、ある程度の予測をたてながら音のする方へ視線を向けた。
蠢く、灰色。
視線の先には、自然の溢れるこの森であまりにも似つかわしくない灰色が空中にういていた。
一瞬霧のように見えるそれは木々の間をぬうように、空中を進む。
その霧は、よくみると同じ種類の虫が空中で何千匹と蠢いているように見えるだろう。
その見方は、大分正しい。だが逆にいえば少し違う。
それは空中で蠢くその生き物は『虫』ではなく、『兎』だということ。
空気を蹴るようにして進む、灰色の兎の群。
跳躍したときに発せられる空気をさく音が、灰色を蠢かせながらいくつも重なりあって、森の中に鳴り響く。
「ワオォ────」
蠢く兎群れの近くを通りかかったワーウルフの集団が、威嚇するようにほえる。
兎──『千羽兎』はワーウルフたちに気づくと、空中でぶちまけた灰色の絵の具のような全体図を歪ませながら、じわじわとワーウルフへと近づいていく。
ワーウルフは『千羽兎』の害意に気づくと、集団で固まり一斉に氷の壁をつくる魔法をつかった。
『千羽兎』と、ワーウルフの間に立ちはだかるようにして現れる厚みのある巨大な氷の壁。銃弾なんて容易く止めてしまうだろうほどの壁。あれだけの壁を突破するには、並大抵の攻撃じゃ通らない……。
その事を理解しているのか、していないのか。蠢きながら距離を詰める兎の群は止まらない。
じわじわとワーウルフの氷の壁に近付く『千羽兎』。
やがて完全に氷の壁と接触する、そのときだった。
──ガン、ブシャリ
堅いものと堅い物がぶつかったような大きな音が、森の中に響く。
水を含んだような音も、なぜか同時に。
──ガン、ブシャリ
再び、音が響く。
──ガン、ブシャリ、ガン、ブシャリ
何度も途絶えることなく、響く音。途絶えるどころか、むしろ勢いが増してすらいる。
音とともに氷の表面は、『赤色』によってコーティングされる。ブシャリ、と鳴る水の含んだ音がなるたびに、氷を覆う赤はよりその面積を広げていくのだ。
微かにある氷の透明の部分からワーウルフたちの様子を覗き見る。
その横顔、ワーウルフの顔は尋常じゃないほどの恐怖の色に塗られていた。『千羽兎』の恐ろしい突進に。
きっとあのワーウルフたちはまるで自分の命がつきるまでの砂時計を眺めているかのように感じているだろう。
灰色の群れの兎は一匹ずつ、空気を思いっきり蹴って氷の壁に突進をする。
その尋常じゃないほどの突進は、氷の壁にとてつもない衝撃を走らせるとともに、突進した兎自身の体を内側から破裂させる。
保身などは毛ほども考えない、文字通り捨て身の突進を繰り広げる兎。
俺はそんな『千羽兎』を内心で狂気の兎と呼んでいた。
集団の先頭の兎から、氷の壁につっこんで潰れて死んでいく。また一匹、また一匹と突進しては潰れる。異常で、強い攻撃力を持つその突進は、今日見たあの巨大な魔物ですら補食の対象とする。
そんな攻撃に、氷の壁ごときがたえられるはずもなく……。
やがて、その時は来た。
粉々に砕けて割れる氷。すでにコーティングされていた兎の血液も同時にはじけとび、あたりには赤い氷がきらきらと舞った。
おぞましい断末魔をあげるワーウルフの群は、瞬く間に灰色に覆われる。
数秒後、その灰色が過ぎ去った頃にはその場所には何ものこっていなかった。
──ブン、ブン、ブン
次の獲物を求めて狂気の兎蠢いていた。
「(なぜかこっちに来ているのは気のせいだろうか)」
いや、気のせいじゃなさそうだ。
気配を消していても、こうして見つかりおそわれることはよくある。外の魔物も、馬鹿じゃない。俺が気配を消すことを学んだように、魔物もまた気配を探ることを学ぶ。生き抜いた年月が長ければ長いほど、『外』の魔物は厄介だ。
蠢く灰色と対峙する。
正面からその群れを見ると、蠢く灰色の中に赤い瞳がいくつもありかなり不気味だ。
俺は【アイテムボックス】から大剣を取り出し、『一応』構える。
空気を蹴る音を出しながら、徐々に加速し距離をつめてくる千羽兎を見つめた。
獲物に食らいつこうと、一番先頭の兎が赤い不気味な目を見開く。
そして──
ガン、という音が森に響いた。
先頭の兎がその狂気を誇示するかのように体を破裂するほどの勢いで、突進をした。
『地面』に。
衝撃によって、軽く揺れる地面に少しだけ足にいれる力を強くする。
それからの光景は、先ほどのワーウルフと繰り広げた戦闘よりも異様だった。
先頭の兎に続くように、一匹、また一匹と『千羽兎』が地面に突っ込んでその命を自ら散らしていく。無意味に。
兎が突っ込むたびに、えぐれる地面。気がつけば兎の赤い血がえぐれた地面にたまり、赤い小さな池ができていた。
それでも突っ込むのをやめない兎の群。
兎の一匹が突っ込むたびに、赤い血の池の水が跳ね上がる。
千羽兎は、先頭の兎についていくという習性がある。
先頭の兎が突進をしかければ、巨大な魔物だろうが環境魔獣だろうが、その場所に突進するのをやめない。
たとえそれが、『地面』でも。
その習性を利用すれば、『千羽兎』を狩ることができる。
つまり、先頭の兎を【ペテン神】で騙し地面に突撃させればあとは後ろの兎が勝手に自滅していくのだ。
「ただこれをやると、兎の体の中にある魔石も粉々に潰れちゃうんだよな……」
未だ鳴り止まない突進でおこる轟音に、声をかきけされながら呟く。
『千羽兎』は割と楽に狩れる魔物だがその分うまみが少ない魔物だ。兎と言えば、異世界で食べる魔物の定番なのに、せいぜいレベルが増えるぐらいしか収穫がない。
まぁ、危険を回避できたのが一番の収穫か……。
あの兎は、下手に逃げると逆に危険だ。対峙するならするで真っ正面から戦った方が楽で安全なのだ。
最後の一匹が地面に突っ込むのを見届け、俺は再びドアへと向けて歩みを進めた。
◇
──コンコン
ノックの後、少しの間を空けてからドアを開く。
少し待って返事がないことを確認すると
少し開いたドアの隙間から様子を伺うために部屋の中を覗いた。
薄暗い部屋。
何かが動いているという気配もないもない。
少しだけ盛り上がった布団が呼吸によってゆっくりと上下している以外には、部屋の中は時がとまったように静かだった。
中の様子を確認し終え、ドアを全開まで開ける。
俺はあまり気にしないが、ここで眠っている日暮は一応女性。
見られて嫌なものもあるだろうと注意を払っていた。
ベッドに近づき日暮の顔色をのぞき込む。
大分顔に血色が戻ってきてはいる。
だが汗がまだでているあたり熱はあまり引いていないようだ。
「ぅ……」
人が居ることに気づいたのか、日暮がゆっくりと目をあける。
寝起きだからだろう。時間をかけて状況を把握するとゆっくりと上半身だけ起きあがった。
「調子はどうだ?」
部屋に置かれてる椅子に、腰をかけながら日暮に声をかける。
日暮は布団に落ちた、タオルに気づき手に取りながら申し訳なさそうに口を開いた。
「大丈夫。
少しだけ、よくなってきた」
「まだこんな熱をだしといて、よくそんなこといえるな」
質問の答えを発する前に、日暮の額に当てていた手。
その手からじりじりとした熱さを感じているにもかかわらず、とぼけた答えを言う日暮に罰としてペシリと額を軽くたたく。
「う……」
「布団とシーツを変えるから、ここに座ってろ。
水分補給もしておいたほうがいい。ジュースを持ってきたから……。
栄養もあるし、しっかりと飲めよ」
よろよろと立ち上がり、位置を交代するように俺の座っていた椅子に日暮がすわる。
机に置かれたジュースを飲む日暮を横目に、【アイテムボックス】にいれていた布団とシーツを出して取り替える。
そして一通りベッドメイキングを終わらせたところで振り返ると日暮が空になったコップを名残惜しそうにじっと眺めていた。
「おかわりなら、机の上にあるから好きなだけ飲めばいい」
「え、あ、いや……」
元々熱で赤くなっていた日暮の顔がさらに赤みを帯びる。
そしてあたふたとしている様子を、じっと見つめ続けていたら
観念したようにおかわりの分に口をつけはじめた。
居候の身だから日暮はまだ色々な事に対して遠慮気味だ。
その気持ちは分からなくもない。
だが取るべきものを取らずにいれば、いつまでたっても回復が見込めない。
ごくり、ごくりと飲み干していく音が耳に届く。
そして、一息ついたところでぽつりと言葉をもらした。
「おいしい……。
ベリエットでもこのジュースは飲んだことがない……」
「『オレットの実』ってやつを絞ったジュースだ。
知ってるか?」
その言葉に少し驚いた様子を浮かべる日暮。
「高級果実をジュースに……」
飲み終わったコップを目を見開いて見つめる日暮。
『オレットの実』はどうやらかなり貴重な果実らしい。
外の森でなら吐いて捨てるほどみかけるんだけどな。
空になったコップや布団などを【アイテムボックス】へとしまっていると
興味の色をのせた視線を日暮から向けられていることに気づく。
何か興味を浮かべる物があったかと内心で首をかかげ、その視線が【アイテムボックス】の中へと消えていく物を見ていることから納得する。
そういえば今まで考えた事もなかったが俺は他の勇者と比べて多めにスキルをもらっているんだった。
まぁ、他の奴が同じ事をやってないとも限らないが……。
日暮の視線を無視しながら片づけを進めていると、独り言のような日暮の言葉が耳に届く。
「秋なら、一人で『終焉の大陸』を出られそうだな」
手を止めることなく、ちらりと日暮に視線を移す。
顔を熱で真っ赤にしながらも、ジュースを飲んだおかげですっきりとした顔をしている日暮。
その日暮の発した言葉の、真意をばれないように探った。
もしかして、気づいているのだろうか?
「泳いでとか……」
……。
思いついたことを、そのまま口に出してるだけだったらしい。
「……。
泳いではさすがに無理だな……」
「そうか……」
「方角とか距離がわからないしな……」
「そ、そうか……」
少し動揺したように言葉を詰まらせる日暮に、違う話題の言葉を投げ掛けた.
「食事は取れそうか?」
「いや……まだちょっと……」
そういって、申し訳なさそうな表情を浮かべる。
次起きたときは少しでも食事を取った方がいい事を伝え
着替えを置いて部屋をでた。
『終焉の大陸』を出る予定は、まだ当分は立ちそうにない。