第30話 終焉の住人
視点変更
◇◆ 灰羽秋→坂棟日暮
──『人』がいた。
いつもの狩りを終え、『ドア』に帰ったときのことだった。
ひざをかかえ、『ドア』を背もたれのようにしてうずくまる女が一人。
「人間?」
衝撃だった。
数年あるいは数十年。『外』に出る度に魔物としか顔を会わせなかったのだ。その衝撃は計り知れない。
実際、驚きのあまり気配を消しているにも関わらず声を出してしまう。普段なら取り返しのつかない失態だ。
「誰だっ!」
声がもれたことによって気配が出てしまったのだろう。
寝ていた女は休んでいる所を脅かした猫のように飛び起きて、剣をかまえる。
化けた魔物の仕業かとも一瞬思ったが、その心配はなさそうだ。
微かに震えた剣先。瞳から感じられる驚愕や恐怖。
そして、ほんの少しの闘志。
豊かな感情。
これを人と言わずになんというのか。そこには、強い人間味が溢れていた。
「(それに、『外』にいる魔物にしては弱すぎる……)」
だが万が一ということもあるため、スキルの【鑑定】を使う。
そして、俺は再び驚きに包まれることになった。
◆
坂棟日暮 LV499
種族 勇者
称号 赤色の勇者
職業 逃亡者
スキル
鑑定LV17
看破LV9
跳躍LV19
剣術LV22
身体強化LV20
俊敏LV11
活力LV4
逃走LV3
ユニークスキル
無音歩行
固有スキル
勇者のカリスマ
勇者の加護
ポテンシャルアップ
能力
【セーブ&ロード】LV11
◆
俺と同じ……。
「勇者……」
「ッ……!?」
称号の欄に載っている【赤色の勇者】という文字。
確かに勇者は一人なんて一言も言われていない。
むしろ、わざわざ称号に『灰色の』なんてつくくらいなのだから他の勇者がいると考えたほうが自然だ。
「なぜその事を……。お前っ! 私のステータスを覗き見たのかっ!」
纏っている感情にさらに怒りを加えて、言葉の語気を強める赤色の勇者。
かなり頭に血が上っている。
この調子じゃ、質問に答えた所でまともな会話にはならない気がした。
正直、俺自身も彼女に質問したい事が山ほどあるがぐっとこらえ静観を続ける。
「答えろ……っ!
そもそもなぜ、この『大陸』にいるっ! こんな誰も近づかない大陸に!
それにこの大量の『ドア』も……。
お前は一体何者なんだ!」
まくし立てるように疑問を吐き出す赤色の勇者の言葉を静かに聞く。
なるほど。
今俺のいる場所は、どうやら大陸らしい。それも誰も近づかない、前人未踏の……。
とりあえず俺一人しかいない世界なんて事が無くて、ほっとする。
しかし安心したら、なんか逆に腹立って来た。
……なんて所に誤転移させてんだ。あのクソジジイ。
久々にわきあがる怒りを目の前の勇者に悟られないように押さえる。
「質問に答えろって……言ってるだろっ!」
考え事をしているうちに、赤色の勇者が剣を握る力を強めていた。
体をより攻撃に移しやすい姿勢にしているのを見ると、大分しびれをきらしているようだ。
はぁ……。
内心でため息を吐く。
こんな警戒をされていては部屋の中に招きいれることはできない。強い警戒は『害意』として認識されかねないから、入る事が出来ないのだ。
俺が来る前に部屋の中に入れずに、この場所で座っていたのもきっと同じ理由だろう。
じっと目の前の勇者を見据え、これから取るべき対応を考える。
「(まぁ少し頭、冷やしてもらうか……)」
対応を決めた俺は何も言葉を発することなく、目の前の勇者の横を通り抜けドアへと進む。
「お前っ……!」
俺がどういう対応をするのかに気づいたのか、血が頭に上った状態で斬りかかってくる勇者。
一応、殺傷ではなく気絶を目的とした一撃だった。
勇者の攻撃を適当にいなして、ドアを開ける。
「ピヨピヨ」
彗がどこからか飛んできて「置いていくな」とでも言うように肩にとまる。
そういえば今までどこに行っていたんだ?
頭を横に傾げるが、考えても仕方ないのですぐに考えるのをやめる。
勇者に対して選んだ対応は『とりあえず放置』だった。
『外』とはいえ、あそこなら死ぬことはない。
もちろん『外』に絶対なんてないし、あの場所以外にいかれたら正直もう会うことはないだろうけれど。
まぁ、死んだら死んだで仕方がない。『外』とはそういう場所なのだから。彼女の判断力と運次第といったところだろう。後で見に行って落ち着いてたら回収しよう。
少しずつしまっていく『ドア』の隙間から、赤色の勇者が呆然とした眼差しを向けているのを感じた。
その事に気づかない振りをして、俺は部屋の中への帰宅を果たした。
◇◆
一瞥すらも向けられなかった。
結局一言も会話をすることなく、男が消えてしまったドアから眼がそらせなくなる。
バタンと扉が閉じる音が、頭に冷や水をかけるかのように冷静にさせる。
──なぜ私はあんな態度を取ってしまったのだろう。
今更ながらに後悔の気持ちが湧く。
なんで警戒をとかなかったのだろう。
近づいてきた気配に剣を構えてしまったのは仕方ない。
けれど、そのあと剣をおろせなかった。
下ろすきっかけがなかったというのもある。けれど、いつもなら切り替えられるはずだったのに。
再び無音になったこの場が、私の頭の思考をぐるぐるとかき乱す。
そして、私は置かれている現状に気づきハッとした。
誰も頼る人がいないという、この現状に。
ゾワリと体が震える。
ここに辿り着くまでの出来事がフラッシュバックのように脳裏に再生された。
もし、これからもこのままなら私は……。
「すいませんでした!
非礼な態度を取って本当に! どうか、どうかここをあけてもらえないでしょうか!」
まだ取り返しはつくはず。そんな淡い希望を抱いてしまう。
私はすがりつくように、扉に声をかける。
だが私の取った行動は、失敗というのは得てして取り返しのつかなくなったときに気づくものなのだという事実を脳裏に刻み込んだだけだった。
何度か扉を叩いても無反応のドア。
私は諦めてその場に腰を下ろす。
もしかしたらまた、出てきてくれるかもしれない。
とにかく、ここを動かずにしてればきっと……。
この場所から離れるという考えは少しも沸かなかった。
終焉の大陸は、私の手におえるものではない。
私にはもう、ドアの中へと消えていった男に頼るしか道は残されてないのだ……。
「何者なんだろう、彼は」
先ほど男へむけた敵対心を篭めた質問ではなく、純粋に湧いた疑問だった。
誰も存在しないと言われる『終焉の大陸』において、唯一の住人らしき灰色の髪の男。
彼が無視してドアへと向かっていったとき、カッとなって攻撃をしかけてしまったけれど
それも軽くあしらわれてしまった。それも、武器すらも出さずに。
これでも、冒険者のAランク並の実力はあるんだけどな……。
少しだけ、自信がなくなる。
さっきみた、男の見事な体裁きが頭に浮かぶ。
灰色の髪をなびかせながら、全く苦もなく攻撃をいなす姿を。
「灰色の髪、か」
なんとなく気になっていた事柄に、思考がずれる。
珍しい髪の毛の色だ。
異世界の人はいろんな髪の色があるけれど、灰色というのはその中でも珍しい部類。いないわけではないけれど。
もう見慣れてしまった、自分の赤い髪の毛を思い出す。
勇者は自分の司る色と同じ髪の毛の色になる。
そういえば、勇者にも灰色があったけ……。
勇者の色は全部で12色。
どういう基準で、その色が選ばれたのかはわからないけれどとにかく12色の色がある。
赤、青、黄、橙、緑、紫、桃、黒、白、灰、金、銀。
私の代である、44代目の勇者は全員で11色だ。
1色、灰色が欠けているためなおさら珍しいと感じてしまったのかもしれない。
いや……。そういえば、私たちの代にも灰色の勇者がいたんだっけ……。
不意に、一度だけ聞いた話を思い出す。
私たちの代には行方不明の灰色の勇者がいると聞かされたことがある。まだ召喚されて間もない頃の話だ。
そのときは生きるのと、異世界へきた動転でまともに考えることができなかったから今の今まで忘れていたけれど。
行方不明の勇者か……。
これまで一度も気にした事もなかった。でも厳しいだろうなと思う。
召喚されたと同時に、ベリエット帝国のバックアップなしでこの世界に放り出されることを自分に置き換えて考えると、やはりそういった結論になってしまうのだ。
一通り思考を巡らせると、まだ疲れが残っているのかぼんやりと地面の草を見つめていた。
『終焉の大陸にいる謎の男』。
『異質なドアの群れ』。
草を眺めるのに、早々と飽きる。
そしてポツリポツリと、降り始めた雨のようにさっきまで考えていた思考の断片が頭に浮かぶ。
『灰色の髪の毛』。
『行方不明の灰色の勇者』。
──『元の世界で見慣れた作業着』。
体に電流がはしったかと思うほどの衝撃に、顔を勢いよくあげる。
がっちりと、パズルのピースがはまったような、そんな感覚。
もしかして。もしかすると……!
男は、行方不明の……
44代目灰色の──
「ヒトーーーーッ!!」
「ひゃっ!?」
思考に没頭してしまっていたとき、突如謎の声をかけられる。
完全に気を抜いていた。思わず変な声をあげてしまった……。
いくら居心地がいいとはいえ、ここはあの『終焉の大陸』だ。気を引き締めなければ。
それより、まだ人がいたのだろうか?
疑問に感じながらも声があげられたほうへ顔を向ける。
「ヒト……ダッ!」
「ギィー」
「ヒト」
3体のゴブリンがいた。
「ゴブリンッ!」
すぐに剣を取り、臨戦態勢になる。
ゴブリンは、私たち人間にとって常時駆除対象の魔物。私も今まで何体も倒してきた。
一体の討伐難度は少し訓練した子供のパーティーだってできるほどだ。
──でもこのゴブリンは……。
ごくりと唾を飲み込む。
信じられないことだが、私はゴブリン相手に萎縮していた。
原因は今まで狩ってきたゴブリンとは似ても似つかない、Eというランクからはかけ離れた目の前のゴブリン達の姿。
ギラリと強い光が宿る瞳。
四肢の筋肉は生き残るために培われたのだとわかるほど、美しいしなやかさがあり、この大陸の厳しさも同時に伺える。
纏う空気は鋭く、感じる威圧は強い。
私は臨戦態勢をとっているのに、まるで動じる様子がない。
それが私とこのゴブリン達の間にある格の違いをまざまざと現していた。
「オナジ? アキトオナジ、ゾク?」
「シュゾク」
「ヒト」
「オナジッポサ、アリ」
「ギィー」
私をチラチラと盗み見ながら内緒話をするように会話しているゴブリンに
意識を向けつつ【鑑定】をかける。
◆
鮪 LV484
種族 ゴブリン族
◆
484レベル……。ほぼ私と変わらないレベルだ。
そんなゴブリンが、この場所に置かれたドアの一つからゾロゾロとでてくる。
きっと端から見れば私の顔はひきつっていることだろう。
「(落ち着け。落ち着くんだ。
さっきと同じ間違いを犯さないように)」
構えていた剣を少しずつ下ろす。
構えを解くまでの遅さが、取ろうとしている選択肢に必要な勇気の量の多さを物語る。
ゴブリンたちは、(信じられないことだが)全員が言語で会話をしている。
つまり、意志の疎通はできるということ。
そしてこの異質なドアの一つからでてきたということは
灰色の髪の男と関係がある可能性が高いと考える。
戦ってもどうせ勝てないのなら
いっそ戦闘態勢を解いてコミュニケーションをとったほうがいい……。
「あー……あなたたちはさっきまでここにいた男と知り合いか?
あ、知り合いですか?」
戸惑いながら、声をかけてみる。
魔物に声をかけるなんて経験、一度もしたことがないからどうすれば正しいのかがわからない……。
「オトコ?」
「タシカ、セイベツ」
「アキ、オトコ」
「ハル、オンナ」
互いに顔を見あわせるゴブリン達。
いまいち答えが定まらない。
「灰色の髪の毛をした作業着を着た人で
さっきまでここにいたんだけれど……」
「ソトデルノ、アキ」
「ハイイロ、ヘアー、アキ」
「アキサマ」
「オジキ」
「ギィー」
さっきの灰色の髪の男はどうやら、"アキ"というらしい。
「よければ、その、アキ……さんを呼んでもらえないでしょうか」
「アキ、ヨブ?」
「オジキ、ヨブ」
「ノックノック?」
「ノックノック!?」
「「「「「ノックノック!」」」」」
未だにドアから出てくるゴブリン達も合わさって
"ノックノック"という言葉をいきなり全員で合唱しはじめた。
正直、手に負えない魔物たちが興奮したように言葉を連呼する様子はみててかなり怖い。
そんなことを思いながらゴブリンをみていると合唱はピタリと止まって、1体のゴブリンが集団からはずれて歩き出した。その表情は、かなり緊張に満ちている。
何だろう。そんな、難しい事だったのだろうか。
ゴブリン達の様子を見て、そんな不安にかられる。
緊張に表情を包ませたゴブリンは、一つのドアの前に立ちどまった。
それは、先ほどアキさんとやらが入っていったドアだった。
ゴブリンは、ピリピリとした雰囲気を纏ったまま手をのばす。
ごくりと唾を飲み込む。
これから一体何が起きるのか。頼んだ人間として見届けなければならない。
"コンコン"
軽く2回、ドアを叩くゴブリン。
緊張に染まっていた表情は今や満足感に包まれており、スキップに近い足取りでゴブリンの集団の中へと戻っていった。
……ノックノックは、ドアを2回ノックするってことか。
なにかを損したような気分に、深いため息を漏らす。
「アキ、ヨンダ」
「アキトカ、ハルトカ、トウトカ、ソコラヘンデテクルマデマツ」
満足げによってくるゴブリン達にお礼を言うと、「キニスルナ」といってうなずいていた。
彼らは、そんな悪いゴブリンではないのかもしれない。
それにしても、さっき私が取り乱してしまったときも結構ドアを叩いたけれど
それではダメだったんだろうか。
ゴブリン達が言っていた言葉にアキ以外にもハルやトウという人の名前が出てたのも、気になった。
「うおぉぉぉ!!!人だ!!」
デジャブを感じる反応に顔を向ける。ただし、さっきよりも声は数倍でかい。
ゴブリン達がでてきていたドアから、最後に現れた巨体のゴブリンだった。
体は傷だらけで、特に左腕についた大きな傷が目に付く。
ゴブリンは、集団になると長が生まれる。
この巨体のゴブリンがこのゴブリンたちの長だろう。私でもわかる、圧倒的な力を感じた。
◆
剛 LV観測不可
種族 ゴブリン族
◆
「たまげたなぁ。本当に人間っていうのはいるのか……」
大柄なゴブリンは近づいてくる。
まじまじと私の姿を興味深げに観察する巨体のゴブリン。話し方が他のゴブリンに比べて流暢だ。
私より格上の存在に気圧されてしまい、半歩ほど後ろへ下がってしまう。
「おっと、悪いな。
アキと同じ人間ってやつが珍しくてな」
「いえ……」
そういって、視線を逸らしゴブリンの集団のほうへと戻っていくゴブリンの長。
その気遣いに内心で驚く。ゴブリンに変装した人間じゃないかと一瞬思ってしまうほどに。
まだこのゴブリンたちやドアの謎は多いものの、とりあえず戦いにはならずにすみそうだと内心ほっとする。
そのときだった。
「オヤジ、デタ!」
叫ぶように、ゴブリンの声があがる。
その声にはさっきの会話にはなかった焦燥の色が強くのっていて
その色がこの場にいる者達へと伝播していく。
私も、尋常じゃない力の奔流を感じ息を詰まらせる。
一瞬にして緊張の雰囲気に満たされた空間。
なにがあったのかを知るため自然とゴブリンたちの視線を追った。
そして、それを目にしたとき私は腰を抜かしたように倒れ込んだ。
「え……、あ……」
そこに浮いているのは、煌々と輝く魔素溜まりだった。
尋常じゃないほどに、巨大な……。
私が恐怖によって逃げだした、Sランクの魔素溜まりより一回りも二回りも、大きい。
目の前にあるそれの存在を、私はこの目で見てなお信じられずにいた。
本当に、魔素溜まりなのか。
こんな魔素溜まりなんてあるはずない。
なにかこの大陸にしかない魔力現象なんじゃないか……とそれ以外の可能性を必死で探していた。
それくらい信じ難く、それでいてバカげているとおもう程の巨大な魔素溜まり。
現実味がなさすぎて恐怖すら沸かない私を現実に引き戻したのは
体に突然感じたまとわりつくような感覚だった。
地面についている手足が、ぬぷり、ぬぷりと土の中に少しずつ沈んでいた。
慌てて立ち上がり、逃れようと足を上げるが地面に着地したときより深く沈んでいくのをみて焦りを感じる。
「"沼"だ! お前等"待て"だぞ!」
ゴブリンの長の言葉が耳に届く。
沼? 今ここは、沼になっているということ? 何が原因で?
いや、本当はわかっている。あの巨大な魔素溜まりが現れてから、歯車が狂い始めたかのように周囲が変わりだしたのだと。
けれど、そんなのはもう魔物の持っている力を越えている。周囲の環境を変えてしまうなんて、高位の竜や精霊と同レベルに等しい。
──『災獣』
そんな魔物が魔素溜まりからうまれる。そんなのはもう、異常なんてちゃちな言葉じゃ片づかない……。
周りを見ると木が自重を支えきれなくなり、傾いていた。
ゴブリンたちも私と同じように少しずつだが沼へと沈んでいく。
だが不思議な事にゴブリン達が私のように焦っている様子はなかった。
その横顔からは、燃えるような戦意となにかをじっと信じて待っているかのような意志が浮かんでいた。
「ウォ───ォォン」
背後のほうから、響き渡る狼のような遠吠え。
大きい音というわけでもない。それなのに、心臓まで振動する錯覚を覚えるほどその遠吠えは森の中に響いていた。
パキ……。
直後、耳に届く音。最初は小さな音だった。
パキパキ……パキ……。
その音はどんどんと大きくなり、沼を凍りつかせていく。
遠吠えとともに、白がじわじわと広がっていく。土の茶色を浸食していくかのように。
その光景が、この世界に来て初めて能力を見たときの事を少し思い出させる。
私は、巨大な魔素溜まりから目を逸らして背後へと視線をむける。
凍った地面を、凍った木々をパキリと音を立てて踏みつぶしながら歩いてくるのは
巨大な白い狼の魔物だった。
ゆらりと漂ってくる冷気にあてられ、ぞくりと体が震える。その震えには、目の前の強大な存在への恐怖もあるような気がした。
恐ろしい事に、今この場所は2体の災獣にはさまれている。
前には今にも生まれ落ちようとしている巨大な魔素溜まり。まだ魔素溜まりにすぎないのに与える周囲への影響は、ただ過ぎ去るのを待つしかないという災獣の名にふさわしいものだった。
そして、同様に背後には狼の災獣がゆっくりと歩を進めている。
逃げ場が、ない。
「よしっ! 足場にあがるぞ!」
2体の災獣に焦燥を感じている私とは違い、ゴブリンたちは冷静だった。
ゴブリンの長の声に従い、沼の部分を歩いて氷の地面にあがるゴブリン達。
私もそれに続いて、一番近くに張ってる氷の上へと体をあげた。
足場を確保したゴブリンたちは、持ってる武器を構えはじめた。
ゴブリン達はどうやら、この恐ろしい魔物と戦うらしい。
ただ、体の向きと視線は全員が巨大な魔素溜まりへと向けていた。背後にいる狼の魔物はどうするのだろう。
「あの魔物は、いいのか?」
剣を抜きながら、ゴブリンの長へと問いかける。
こんな私でも勇者だ。戦うのなら、多少の力にはなれるはず。
「ん? あぁ、あの魔物は……”雹”さんっていうんだが
雹さんは味方だから気にしなくていい。
それと、お前さんは『ドア』の中へと入っていてくれ
……っと急いでくれ」
ゴブリンの長は強くなりつづける魔素溜まりの気配に意識を向けながら
急かすように一つのドアを指さした。
さっきゴブリン達がゾロゾロと出てきた時のドアだ。扉が開きっぱなしのまま放置されていた。
「私も戦えるのだが……」
「すまないが……お前さんはちと、"弱すぎる"。
あのドアの中はそれなりに安全だから入っとってくれ。アキのお客さんを死なせるわけにはイカン」
そういって私はゴブリンの長に押し込むように『ドア』の中へと連れていかれる。
──弱すぎる? 私が?
その言葉に、若干の不満を感じつつも、意地になって邪魔するわけにもいかずおとなしくドアの中へと入る。
ドアの中をくぐると、広がっているのは穏やかそうな草原だった。
広々とした草原。そこにぽつぽつと家がいくつか建っている。
……。
普通、ドアをくぐった先には部屋とかが広がってるはずだと思うんだけれど。
でも『終焉の大陸』にむき出しにして置かれているドアの中が、まともなはずないか……。
私はそういって扉の中の景色を半ば強引に納得させた。
「──くるぞっ!」
開きっぱなしの扉の外で、ゴブリンの長の声が響く。
扉に近づき、外をのぞくとそこには魔素溜まりから産まれたであろう魔物──
災獣が佇んでいた。
少し離れているこの場所にまで届くほどの、重圧。
しかしそれを発しているのが、一体どちらなのかは私には分からなかった。
「グルゥウウウ────!」
雹さんと呼ばれていた、狼の災獣もまた牙をむき出しに唸り声をあげる。
私に向けられているわけではないのに、思わず足がすくみそうになる。
このドアの中が本当に安全なのかという疑問が頭をよぎった。
尋常じゃない爆発音が扉の外から聞こえる。
戦いが、幕を開けた。
◇
森だった痕跡は、既にどこにもない。
あるのは一面の白。
体の芯にまで冷たさが届きそうな氷が、沼の魔物の繰り出す攻撃すらも凍りつかせ、ある種のオブジェとして白銀の世界を形作っていた。
戦いの最中に降り始めた雪は既に降り止んでおり、雲一つない空からは
もうすぐ沈みきりそうなオレンジ色の日差しが降り注いでいる。
オレンジ色の光に染まった雹さんという狼の魔物とゴブリン達は、今の戦闘で息絶えたゴブリンの死体を集めて何をするわけでもなくただ佇んでいた。その姿が、私にはとてつもなく悲しい光景に思えた。
ぎゅっと唇をかむ。
胸に悔しさと無力さが沸き上がる。
私はこの感情をどれだけ感じれば気が済むのだろう。
この大陸に転移したとき、この異常な大陸において私の存在などEランクのゴブリンでしかないと思った。
それが、どれだけ愚かしい考えだったのだろう。私は、彼らにあらゆる点でその足下にも及んでいない。
力も、精神も、覚悟も。
もっとちっぽけな、虫けらのような存在なのだと悟った。
今目の前で起こった光景のすべてに悟らされたのだ。
「緑」
外から聞こえてきた声に、俯いていた顔をあげる。
いつから外にでていたのか。灰色の髪の男、アキさんと呼ばれた人が氷の地面の上を歩いていた。
灰色の男の声が聞こえてから、数秒後。
ずるり、ずるりと這い寄って近づいてくる音が耳に届く。
背中に苔をはやした、白色の蛇が視界の隅から氷の上を這い寄るように灰色の髪の男へと近づく。
蛇の通った場所は、緑色に染まっていた。
そのまま眺め続けていると、ドアのすぐそばの場所からパキパキと氷の割れる音がきこえてきたので
その場所に視線を合わせて、目を凝らした。
パキ……パキ……バキッ。
ヒョコリ。
氷を押し上げるように割り、その隙間から顔を出したのは植物の新芽だった。
同じように一つ、また一つと植物が氷の大地から顔を現す。
姿を現した新芽は、その生命の力強さを主張するかのように急激に育って大きくなる。
ある場所には木が、ある場所には草が、ある場所には花が。
気がつけば急激に扉の『外』の環境が変わっていた。
その光景はまるで急速に冬があけていくかのようで……。
思わず息をのんだ。
あの蛇の魔物も……災獣……。
再び"緑"と呼ばれた蛇の魔物に目をやると、チロチロと舌を出しながら灰色の髪の男にまきついていた。じゃれている感じだ。
負けじと狼の魔物も頭を男に押しつけ、じゃれはじめる。
ゴブリンたちもそれを見ながらガヤガヤとにぎやかに話し始めた。
その光景を目にした私は
──あぁ、再びあの穏やかな空間が帰って来たのだ、と
不思議な事に、安堵を感じていたのだった。
それからしばらく、私はこの終焉の大陸で築かれた小さな楽園の様子を眺め続けていた。