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灰色の勇者は人外道を歩み続ける  作者: 六羽海千悠
第3章 続々と……テールウォッチにて
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第125話 脱走、バカうさを抱いて



 『テルル=ヒルグリンド』。


 その名前はもう、今は名乗れない。

 立派な家名はなくなって、身分も奴隷へ落ち果てた。親も失って、ただ虐げられる毎日。没落した悪徳貴族には相応しい、辛い日々を順当に送っていた。

 そんな……家名もないただのテルルは、思いがけずそうした日々から解放された。


 その日はとてつもなく劇的で、目まぐるしい一日だった。


 色々あって、なんとか助けてもらえるようになった直後、思わず泣いてしまうとそのまま抱き抱えられてどこかへと連れていかれた。後々考えるとすごい汚れていて恥ずかしかったが、助けてくれた男の人……秋は全く気にした様子はなかった。

 獣車の中にある『ドア』を通り、わけのわからない巨大な『部屋』を通って、最終的に降ろされたのは広い浴場。貴族の屋敷にあるものよりも広く、何人も入れそうなところで、飾り付けは簡素だったが置かれている物はどれも品質が良さそうだった。


 そこで全身を泡で漬けるかのように、じっくり何度も洗われたあと、服を渡されて着替える。奴隷丸出しだった格好が、気づけば普通の女の子らしい格好に変わっていた。

 正直今どこにいて何がおきてるのか、理解は追いついていない。でも久々に着たまともな服の着心地の良さと着飾れる嬉しさに比べれば、そんなことはどうでもよくなっていた。


 着替えを終えると、髪が長い灰色の女の人に手を引かれて別の場所へ移動する。お風呂に入る直前から側にいるのがこの女の人に代わっていた。

 女の人……春に連れられてきたのは『たくさんの本が置かれた部屋』。すごく真面目な雰囲気だ。そこに一人だけ先客がいて、手を引かれてその人のところへ向かっていく。いたのは同じ歳ほどの女の子で、静かに本を読んで座っていた。


「千夏。今日から『部屋』で過ごす子が一人増えました。仲良くしてあげてください」


 女の子が顔を上げて、こちらを向いた。大きくぱっちりした目と合う。それだけでとても可愛らしい子だと思った。少女は獣人族で、灰色の髪から獣耳が生えている。その耳が感情が見えない表情とは裏腹に忙しなく動いていて、初めてみたがなんだか面白かった。


 ──『今うちには、君と同じくらい……か、もう少し下くらいの、魔族の子供がいる』。


「(この子が、そうなんだ……)」


 この場所に受け入れてもらえたのは、ある意味でこの子のおかげといってもいい。

 ただでさえ仲良くなりたいような子だけど、そう思うと一層仲良くなりたいと思う。そのためにもやっぱり第一印象は大事だ。

 そう思って元気よく、その子へ声をかける。


「初めまして、私はテルルっていうの! よろしくね?」

「…………」

「お名前はなんていうの!?」

「…………」

「あっ、そういえば、さっき千夏って呼ばれてたね! 私も千夏ちゃん、でいいかな?」

「…………」


 ……反応がない。

 こっちを向いていたはずの視線も、本に戻ってしまった。さりげなく伸ばした握手の手も、空気を優しく握り続けている。

 だけどなんだか嫌がられてたり、嫌われているような雰囲気ではなかった。それよりも千夏自身が戸惑っていたり、怯えているように感じた。少し顔を覗き込んでみると、不安そうに目が泳いでいる。あれでは本の内容は、見れていないだろう。


 今度は逆に黙って話し出すのを待ってみる。すると気まずい沈黙のあと千夏は小さく言葉を発した。

 

「……それ」

「うん? どうしたの、千夏ちゃん」

「………………首の」

「あ、これ?」


 どうやら首についた紋様が気になったようだ。


「これは、奴隷の証。私ついさっきまで奴隷だったんだ。でも、ここの人たちに運良く助けてもらえたの」

「…………」

「それでね、あのね、その時に歳の近い子がいるって聞いたの。楽しみにしてたんだ、私。それで今初めて会ってみたらすごい可愛らしくて。とっても嬉しいなって。良かったなって思ったの。でも……背は私の方が高いから、お姉さんなのは私の方でいいよね? ね、どう? あっ」


 喋るのに夢中になり、無遠慮に隣に座って顔を近づけ喋っていると、千夏が席から立ち上がって逃げ出してしまった。


「ご、ごめん。待ってよ〜」


 同じように立ち上がり、逃げていく千夏を追っていく。

 でも結局、近づいて逃げられてを繰り返すだけでその日は終わってしまった。仲良くなれる兆しは見えない。

 ただ千夏の部屋の隣に、自分専用の部屋が用意されていた。急だったので本当に使っていいのか狼狽えてしまったが、中にあるベッドに寝転ぶとあまりの良さにそんな気も吹き飛んだ。今日からここが自分の部屋。そう思うとすごく嬉しかった。

 そして眠りにつく直前。ベッドの上で不意に温もりと安心感がとても久しぶりなことに気づく。自分がそれをまた味わえていることに、なぜだか涙が少しだけこぼれ落ちた。


 それからすぐ、泥のように眠った。

 

 次の日。

 リビングで朝食を取ると、また『図書室』へ移動する。千夏も一緒だ。

 どうやら子供はここに集められて勉強などをする時間が多いようだ。貴族の学園みたいだ。

 席に座って千夏と仲良くなる方法を考えていると、一人の大人が部屋に入ってきた。おそらく先生に当たる人だろう。そう思って軽い気持ちで視線を向けると、一気に緊張が走って体が固まる。


 そこには魔族の大人がいた。

 子供ではなく大人というだけで、なんだか迫力が増して見える。

 それになんだか、顔に見覚えが……ある、ような。


「なんじゃ小娘。じろじろと」

「え、あ……。えっと先生のこと、どこかで見たことあるような気がして……」

「ふむ。まぁここではそんなのはちんけな事じゃ。先住のわしから忠告しておくが、些細な事はあまり気にするでない。わかったの」

「は、はい。わかりました」

「それにわしから教えが受けられるなぞ、滅多にないからの。黙って光栄に思っておればいい」


 そう言って悪魔族の女性はからからと笑った。


 授業は昼前まで続いて、一度終わる。先生の授業は確かに面白く、無茶な質問にも答えてくれるからのめり込むように質問をした。意外なことに千夏も質問には積極的で、学習意欲の高さを感じる。

 競いあうように交互に質問をしていると、昼前まであっという間だった。


 お昼ご飯にはまだ時間があり、その間は自由時間だ。

 この隙にもう一度、千夏と仲良くなるためにまた挑戦してみようと思う。

 ただ昨日みたいにがつがつとすれば、同じ失敗を繰り返すだろう。なのでここは一旦、遠巻きに千夏を観察してみることにした。どういう人かを分かった上で、それにあった方法を考えてみようと思った。

 そうして部屋を移動する千夏を追って、こそこそと不審に動く。


「(あれ? 千夏ちゃんって、もしかして……)」

 

 そしてふと、気がつくことがあった。

 その気づきを懐刀のように胸に携えながら、千夏に声をかける。

 今度は前よりも、うまくような気がした。


「千夏ちゃん。よければ一緒に、私とお話ししない?」

「…………」

 

 無視。前と同じ反応だ。

 だけど今回は前と同じではない。

 観察の時に得た気づきを、ここで千夏に叩きつける。


「私、今千夏ちゃんが何したいか当ててあげよっか」

「…………」

「もしかして千夏ちゃん。このお部屋から『抜け出したい』って思ってるんじゃない?」

「……!?」


 驚いた千夏が、目を見開く。


「(やっぱりそうだ)」


 その反応を見て、確信に変わる。


「千夏ちゃんは今きっと、悩んでいる事がある。それもすごくすごぉーっく悩んでる」

「…………」

「そうだよね?」


 おろおろしていた千夏は、やがて観念したように口を開く。


「……どうして、わかったの」


 その言葉を聞いて、堪えきれない嬉しさを表情に溢れさせながら答えた。


「実は私も同じように考えたことがあるんだ。お屋敷を抜け出したいって。千夏ちゃんと同じだね。だけどそのまま出てっちゃうと、パパとママにバレてお叱りを受けちゃうの。だからそうならないように、すごく調べたんだ。私のお部屋から、お外につながるまでの道のこととか、お屋敷で働いてる人のこととか。誰が通るかなーいつごろ通るかなーって。さっきの千夏ちゃんみたいに!」


 ちなみに悩みがあるという部分は当てずっぽうだった。だけど悩みがなければ、抜け出したいなんて思わない気がする。それにそういえば奴隷から助けてもらったときに『落ち込んでいる』と千夏のことを言っていたのを咄嗟に思い出したのだ。


「(それに年頃の女の子に悩みがあるなんて、当然のことだし!)」


 ただ理由を聞かれてもうまく答えられなさそうだったので先に押し切ろうと言葉を捲し立てる。


「どう? 千夏ちゃん。私はお姉さんだから、これでも色々とわかるんだよ。それにね! 大人に相談するのもいいけれど、子供のことは子供の方がよくわかると思う! きっと! だからお姉さんとお話ししてみない? ね?」

「……う〜〜ん」


 少し考え込んだ千夏だったが……やがて首をこくりと縦に振った。

 一気に嬉しい雰囲気が体全体から出てしまうテルルは、わくわくしながら考える。


「(きっと悩み事って、男の子の事だと思うんだ! わぁ、楽しみ〜)」 



 そうして、喋り始める千夏の言葉に耳を傾けた。



 ◇




「う、う〜〜〜〜ん」


 眉間に皺を寄せて唸り声をあげる。

 一通り千夏から話を聞くことができたけど、内容は期待していたよりも重くて難しかった。


「(確かに話そのものは男の子の話だったけど……)」


 種族を偽って街に入った話。

 そして仲良くなった男の子を最終的に怖がらせて傷つけてしまった話。

 千夏は話もできずに別れてしまったその子と、もう一度会って話をしたいそうだ。会って話して、謝りたいと。小さく願いを口にした。


「もう一度……挑戦してみればいいって……だから……」


 不満を吐き出すように、千夏が呟く。

 一連の出来事で塞ぎ込んだ千夏を、きっと大人がそう言って励ましたのだろう。だからもう一度、前向きに挑戦しようとした。なのによりによってその大人が今の千夏を阻んでいる。テールウォッチに行きたいと言っても、行かせてもらえなかった。

 それが現状のいきさつで、千夏が抱いている不満で、こそこそ脱走を目論んでいることの真相だった。


 ──たぶんだけど、そういう意味で言ったんじゃないような……。


 それを聞いて、真っ先にそう思う。

 一回失敗したことに固執して塞ぎ込まずに、切り替えて新しいことに挑戦してほしくて言った感じがする。まさか同じ相手にまた挑戦するなんて、思っていなかったんじゃないかな。


「ん〜〜〜〜……」


 やっぱり、悩む。

 正直千夏を嗜める大人が、間違ってるとは思えない。

 それに子供がどうにかできる問題を越えている。実際に文字通り傷つけられた人がいるのもそうだけど、それ以上に千夏が魔族であることの話だ。種族の問題なんて……子供にどうこうできるわけがない。


 でも千夏はそう思えず、納得していない。

 だからこんなにもすれ違っている。


 そしてそのすれ違いは、寸前のところにまで自分にも押し寄せてきているのを感じていた。

 ちらちらと向けられる千夏からの視線には明らかに疑念と不信感が混じっている。まるでどうせ大人と同じことを言うんだと、たかをくくるかのように。

 せっかく仲良くなるために話を聞くことができた。それなのにここで大人と同じようなことを言えば、今すれ違っている大人と同じ枠に入れられるだろう。


 そのことを踏まえて、自分の考えを口にする。


「私は……大人の人たちが言ってる事は間違ってないと思う……」

「…………」

「だけど千夏ちゃんが、嘘だって。間違ってるって思うのなら……。それを自分で確かめてみることは、そんな悪い事じゃ、ないと思う……。自分で疑問に感じて、自分で動いてみないと……それって確かめられないことだと思うから……たぶん」


 話しながらも頭に思い浮かべるのは、両親のことだ。

 領主をしていた両親に、テルルは一度も疑問なんて抱いたことがなかった。それぐらい自分にとっていい両親だと思っていたのだ。

 でも世間からの評価は全く真逆の悪徳貴族。奴隷のときに聞かされた両親の行いは、どれも自分の知ってる普段の両親からはかけ離れたものだった。でもすべてが分かって思い返してみると、確かにおかしなこともあった。だけどそれを気にすることができなかったのは、一度も疑わず疑問に思ったこともなかったからだ。


 一連の経験で、大人が本気になれば子供を騙すことなんてとても容易いんだということを学んだ。


 きっと家が没落せずに大人になっていれば、無邪気なまま人を傷つけて踏み躙るようになっていただろう。両親と同じように。奴隷の経験があまりに辛かったから、どちらがいいとは言えないけど……。でも救い出されて初めて、そうなることは本当に恐ろしいと思えるようになった。


「千夏ちゃんが今、大人に思えてること。私は全く思えなくて、失敗したような気がするの。だから……」


 『部屋』にいる大人は正しくて信頼できると思う。

 でもそれは助けてもらえた経験の中で見つけた自分の答えだ。同じ経験をしていない千夏にその答えだけを押し付けてもたぶん分かってくれないし、分かりたくても分かれない。だって同じ経験を千夏がしているわけではないのだから。

 きっと自分なりの答えを、自分の行動の中で見つけるしかないのだと思う。


 ならば……きっと千夏のことを無理に止めるべきじゃない。

 疑問に思うなら、疑問のまま自分で動いて確かめるべき。そんな気がした。


 拙いながらにそのことを口にする。不安に思い、千夏へ目をむけた。

 おそらく今言ってることは、千夏の欲していた言葉ではない。それが不安だった。

 しかし意外にも千夏は真剣に耳を傾けてくれていた。


 その姿をみて安心するようにほっと息を吐き出す。


「……でもやっぱり、大人にも大人なりの言い分があって、それが全部間違ってたり嘘ってわけでもないと思うんだ。私も……やっぱり一人で何かをしたりするのは危ないって思う……。街って本当に危ないことがたくさんあるから。だから一つだけ約束をしてほしいの、千夏ちゃんに」

「……約束?」

「そう。約束っていうのは、決め事だよ。私と千夏ちゃんだけの決まりを作ってそれを守ってほしいの」

「……何を?」

「これから何をするにしても、千夏ちゃんがしようと思ったことをするとき、私が一緒のときにやるようにしてほしいの。私がいないときは、やっちゃダメ。そっちの方が絶対にいいよ。だって一人よりも二人の方がいいでしょ? 私が一緒なら千夏ちゃんを手伝ってあげるし、守ってあげる。だって私の方がお姉さんだから、ね。それが私が千夏ちゃんにする約束。だから千夏ちゃんも私の約束守ってほしいな」

「…………」


 すぐに答えずに考え込む千夏に、さらに言葉を捲し立てた。


「もし約束してくれるなら、私は千夏ちゃんの味方。ずーっと。大人の人にだって……今の話を黙っててあげるもん。……ちょっと怖いけど。でもダメなら……もしかしたら逆に大人の人に言っちゃうかもしれないよ?」


 千夏の瞳が揺れる。

 もう一息とばかりに、最後に一度尋ねた。


「ね、どうかな。千夏ちゃん」

「……わかった」


 観念をしたように、そう言って頷いた。


「ほんと!? わーやった、嬉しいなー! じゃあ協力して、一緒に抜け出そうね。千夏ちゃん!」

「……うん」


 そのあと、残った時間を作戦会議に費やす。

 テールウォッチに繋がるドアの位置だって教えてもらった。この『ドア』がどういう仕組みで他の場所に移動できるのかはわからないけど。とはいえ、たくさんあるドアの中でも子供が開けられる『ドア』はほんの数カ所しかないみたいだ。なので難しいことは考えないことにした。


 会議はリビングでの昼食にも及んだ(ほぼ雑談だったが)久々に同じような女の子と楽しく会話できてとても満足していたところ、料理を片付けていた春に午後の予定を変えると告げられた。

 確か午後は春のお手伝いを千夏と一緒にする予定だった。だけどその時間がまた午前と同じく授業を受ける時間に変わったらしい。


 なんでも唐突な『お客さん』に対応しなければならないらしい。

 

「(でもずっと一緒にここでお昼ご飯をたべていたはずなのに、どうしてお客さんが来たってわかったんだろう?)」


 不思議に思いながらも、千夏と春を挟んでリビングからラウンジへ移動する。

 その最中でのことだった。


「あ、春の姉御! 悪い! 来ちまったんだよ、例の奴らが……。ったく、まさかこんな早く来るなんて……」

「分かってます。今向かっているところです」

「お、マジか? さすが、話が早くて助かるぜ」


 男の人が春に駆け寄ってくる。サイセというらしい。同じ人間族だ。

 そんなサイセについて歩くと遠巻きに戦う格好をした集団が見えてきた。おそらく冒険者だ。似たような雰囲気の人を何度も街で見た事がある。

 冒険者は全員揃って一人と向き合っていた。女の子だ。背丈も年齢も自分たちよりは上に見えるが、大人というほどではない。そして人数差があれだけあるのに、まったく物怖じすることなく冒険者を睨みつけている。すごい。


「あ……。足」


 その女の子が机の上に足を乗っけているのを見て、思わず口に出てしまう。腐っても貴族だったからか、所作に驚いてしまったのだ。それ以外に他意はなかった。

 だけど口にした瞬間、ピシリとひび割れた音があがったのかと思うほど張り詰めた空気を感じて、隣をみると春の表情が凍りついていた。


「あ、姉御。これはだな……」

「千夏とテルルはここで待っていなさい。いいですね」


 サイセの声を遮って、春が女の子のところへ向かっていく。

 誰も異論なんて言える雰囲気じゃなかった。

 

「──そいじゃあ、お嬢たちはこっちへ行こうか」


 色々あったものの一緒にいる相手が春からサイセに替わり、手を引かれて再び移動する。午後の授業はサイセが先生のようだ。

 後ろ髪を引かれたように背後の冒険者たちを見ている千夏に、ヒソヒソと声をかけた。


「……チャンスだよ、千夏ちゃん」


 以前屋敷を抜け出せたときもこんなふうに多くの人が出入りする慌ただしい日だった。そういう時は隙が多くなって抜け出しやすくなるのだ。

 その話に、千夏はこちらを向いてこくりと頷いた。


 ……しかし予想に反してその日に機会は訪れなかった。

 むしろなんだかずっとピリピリしていて、気楽にラウンジを歩ける雰囲気ですらなかった。


 その次の日。

 一転して静まり返るラウンジ。

 人影もなければ、未だ慣れていない魔物たちの姿も見かけない。

 間違いなく、一番の好機だ。


 図書室のドアから顔を出して周囲を見回した後、千夏と顔を見合わせる。

 ついにやってきた時に、どこか興奮するかのように。


「今なら誰もいないよ。大丈夫……ほら千夏ちゃん、いこっ」

「う、うん……」


 そして小走りで移動する。

 目指すのはテールウォッチ。『エステルの屋敷』へ繋がるドアはすぐそこだ。


「きゅっ」

「わっ!?」


 しかしそんな短い道のりを、何かが飛び込んで遮ってきたため足を止める。


「ま、魔物……」


 飛び込んできたのは、小型の魔物。

 ここが『そういう場所』なのだとはなんとなく分かってきている。だけど一夜を明かした程度で慣れるはずもなく、咄嗟に恐怖心で身構えてしまう。たとえどんなに愛らしい見た目をしていたとしてもだ。

 つぶらな瞳に、柔らかそうな短い毛並み。頭から生えた長い両耳は頭の上で輪っかを作っていて、背中から生えた小さな羽はずっとぴょこぴょこ動いている。


 どれをとっても愛くるしい。抱きしめたくなる。匂いをかいでみたくなる。

 だけど侮ってはならない。それが魔物なのだと、人間なら誰しもが子供のころから叩き込まれる。


「きゅ〜」


 こんな鳴き声までもが、すごく愛くるしくて、可愛らしかったとしても。

 撫でて、抱っこしたいなんて思ってはいけない。決して、罷り間違っても。

 あの耳を触りたいなんて思っては……。決して……。

 

 …………。


「──うさ」


 欲望と理性の間で揺れている横で、千夏がひょいっと魔物を抱き抱えた。

 我に帰り、強張る体を解きながら千夏に尋ねる。 


「……うさって。千夏ちゃん。この子の名前なの?」

「…………」


 千夏は一瞬考える。



 ──『この……愚かなバカウサギモドキが……。何度家具を壊せば気が済むのですか。次何かを壊したらあなたの体をズタズタにしたあと家具の形にして代用します。いいですね』



「うん。……バカうさ」

「そうなんだ。バカうさちゃん、可愛いね。私も触ってもいい?」

「へいき」

「やったー! わぁ、柔らかい。よろしくね、バカうさちゃん。なんか葉隠兎にちょっと似てるね」

「……きゅっ」


 何か言いたげなバカうさ(?)の鳴き声に気づかず、会話が続く。


「ねぇ千夏ちゃん。この子も連れていったらどうかな。やっぱり私たちだけじゃ、ちょっと不安だから……」

「うさ?」

「うん。私が千夏ちゃんの力になるのはもちろんそうだけど、でもそれで本当にどうにかできるかは……その、また別だから。戦うのとか私、まだやったことなくて……。でもこの子は魔物だからたぶん戦えると思うんだ。ね、バカうさちゃん。何かあったら千夏ちゃんのこと守ってくれるよね?」

「きゅ〜」

「わかった。連れてく」


 千夏が腕の中のバカうさとテルルを交互に見比べて頷いた。


「ありがとう、千夏ちゃん。じゃあ、いこっか!」


 そうして二人と一匹は『ドア』を通って『部屋』から姿を消した。数分かからずしてエステルの屋敷からも出ていく。家主が不在となれば難しいことではない。

 ただ二人はそうとは知らず音と気配を消して、こそこそ移動した。それは悪巧みの高揚感の中で成り切ってのことだったのかもしれない。

 しかしそのおかげで、幸運にも人形に紛れて寝ている小人を起こさずに済んだのだった。


「とりあえず……ここまではこれたね、千夏ちゃん」


 背後の遠ざかっていく屋敷を振り返りつつ言うと、手を繋いでいる千夏が頷いた。


「このまま作戦通り『冒険者ギルド』を目指すよ! うまく会えるといいね、千夏ちゃん!」

「うん」

「あ、私にもバカうさちゃん触らせて!」


 話に出ていた男の子は冒険者ギルドに所属している。つまり幸いなことにギルドに行けば会えないことはないということ。そう見当をつけてすでに相談していたので、順当にまずはそこを目指すことにした。


 ちなみに冒険者ギルドの位置は分からない。しかし貴族だった頃に何度かこの街を訪れたことがある。そんなに難しい作りの街ではないので基準となる大通りにさえ辿り着けば、あとは冒険者の流れに沿って自然と着けるだろう。


 そんな見込みでいたのに──それが甘いと気づくのに時間は掛からなかった。

 

「…………」

「…………」


 楽しく会話ができていたのは、エステルの屋敷が背後に見えてた頃までだった。

 まだ昼前なのに薄暗い道。舗装もされず、両脇の建物は古くて建て付けが悪い。また排水溝からは毒々しい色の草が伸びており、その茂みの中でたまにゴミを抱いて寝ている人がいた。

 あとなんだかさっきから知らない男の人が、用もないのについてきているような……。


「(この街に、こんな場所があるなんて知らなかった……)」


 物々しい雰囲気があまりにも場違いで、心細さに繋いだ手が震えていた。

 どちらかでなく、どちらともが。




 ──千夏もまた、心細さを感じていた。


 手を繋いでいるテルルが震えていてそれにつられているところもある。だけど大人がついてこないで出掛けることも、そういえば初めてだったことに気がついた。大人が一緒にいないだけでこんなに心細くなるなんて、思いもしなかった。


 あまりの不安に、勝手に出てきてしまったことを後悔しそうになる。

 そんなとき……ギュッっと、不意に繋いだ手に力がこめられた。

 顔を上げるとテルルがこちらを見て笑っていた。


「大丈夫、千夏ちゃん。何があっても……私が守ってあげるからね。私が、お姉さんだもん。絶対に手を離しちゃだめ……だけど何かあったら離して逃げていいからね。バカうさちゃんも頼りにしてるよ」


 そういって、テルルは一歩分先へ体を移動させた。

 繋いだ手は離していないため、少しだけ引っ張られる形で歩き続ける。


 見やすくなった繋いだ手に視線を向ける。

 その手はやっぱりまだ震えている。だけど同時に強い力がこもったままだった。

 ふと……繋いだ手に何か見覚えがあるような気がした。でもどれだけ考えてもそれが何かは思い出せない。


 ただ考えているうちに不思議と、不安な気持ちと震えがおさまっていた。




 ◇◆◇◇◆◇




「やぁッ!」


 掛け声と共に突き出した武器が魔物の喉を貫いて絶命させる。


 ──ケルラ・マ・グランデ、表層域。


 そこは世界でも類稀な、子供でも入れる危険地帯だ。

 あくまでいくつかの条件を満たせば、だが。


「しっかり処理できたみたいだね、アウレン」

「はい、師匠」


 例えば『一定以上の実力をもつ師範の同伴』なんかは、その条件の一つだった。

 戦闘を側で見守っていた『ヨクン・シーベル』は労うように弟子の『アウレン・リーングラッセ』に声をかける。


「傷がついているね、ここ」


 ヨクンは淡々とそう言う。普段から接しているので、どこか声に厳しさが滲みでていることに気づいた。おっかなびっくりに視線を指摘された場所へ向けると、確かに切り傷がついていた。

 

「君くらいの歳なら、こんな魔物の一体や二体なんて無傷で捻り殺せるようでないと戦闘で食べていけない。『どんな状態』であってもね。それこそ『考え事の最中』なんかでも」

「あ…………」


 戦闘中に集中しきれていなかったことを言い当てられて、思わず声が漏れる。


「そもそも言わせてもらうと、戦闘すらも必要のない相手だった。分かっているかな、アウレン。不用意に気づかれた結果として余計な体力の浪費と傷を負ってしまったんだ。街の近くだからいいものの、遠征で街が近くになければこういうのが致命的なことに繋がる。今回はそんな傷で済んだかもしれないけど、その傷がいつ命にとって変わるかは誰にもわからない。だから気をつけなければならないんだよ」

「…………」

「返事がないね、アウレン」

「はい……ごめんなさい、師匠」


 失態をことごとく正確に言い当てられ、どんどん沈んでいく気持ちの中で、返事をするのは苦しかった。それでも絞り出すように返事をすると、ヨクンはそれを聞いて頷いた。


「それじゃあ死体の処理と魔石の回収をしっかりやるように」


 指示通りに動く。それを終えると今日の活動を切り上げれてしまった。まだ昼時でいつもよりも大分早い。原因は間違いなく自分のせいで、テールウォッチに戻ってくると大きく肩を落としてため息を吐いた。


「(師匠に見透かされてたんだ……)」



 ──『あの日』の出来事をずっと引きずり続けていることを。 



『よく教えていた通りに動くことができたね。"魔族と会ったらすぐに逃げるように"。ちゃんと素直に言うことをきけるのは、立派な取り柄だよ。アウレン』


 千夏のことを報告すると、まず真っ先にヨクンはそう言った。 


『はい、ありがとうございます……。師匠……』

『……どうかしたのかい? アウレン、何だか納得ができていないみたいだね』


 表に出したつもりはなかったのに見抜かれてしまった。

 観察力のあるヨクンに、隠し事や嘘をつくのはとても難しい。


『これで……本当によかったのかなって……』

『……どうやらとても"良い子"だったみたいだね。その魔族は』


 答えに迷う。

 魔族をいい子なんて言ってしまったら裏切りになったりしないだろうか。

 それに喋りすぎたら喋りすぎたで、こっちもまた相手を裏切っているかのように感じる。もう今になっては、裏切るも何もないのに……。

 答えあぐねているうちに、ヨクンは「そうか」と勝手に納得してしまった。


『当然だけど魔族にもいい魔族と悪い魔族がいる。だから今回の魔族がいい魔族だったなら、無闇に傷つけてしまっただけの結果だといえる。ならアウレンが抱く罪悪感は間違いじゃないだろうね』


 その言葉に少しだけ心が楽になる気がした。だけどヨクンの言葉はそれだけでは終わらなかった。


『問題なのは良いか悪いかじゃない。強いか弱いか、そういう話なんだ。魔族は総じて人間より強い。一方的に傷ついて失うのは常に弱い方だ。だから僕も、僕以外の大人も、魔族と会ったら逃げるようにと子供には教えている。それが選択として一番間違いがないからだ。もちろん相手が良い人なら何も問題がないだろうね。でもいいかい、アウレン。他人が"良い人"であることに賭けるのは、世の中を知れば知るほど、危険で無謀な賭けだと思い知ることになる。特に賭けるものが大きいほど、その傾向は高くなる。命ならばなおさらにね。だから子供に教えるような選択肢には、なり得ないんだ絶対に。君ならそれが分かるだろう?』

『…………』

『だいぶ分かりやすく噛み砕いて言ったつもりだけどね……』


 どんな表情を自分がしていたのかはわからないが、ヨクンは困ったように笑った。


『確かにそんなこと必要ない世の中なのが一番だ。魔族と人間に隔たりも争いもない世界。そんな世界に、アウレンが大人になった頃にはなっているといいね。まぁ僕も祖父に同じことを言われたけれど。"お前の代には争いが終わっているといいな"ってね』


 最後にはどこか投げやりで冷笑混じりにそう言われた。

 あまり気分はよくなかったが言ってることの意味はわかる。正しいことも、子供の自分を思って言ってることも。

 なのになぜだか、もやもやとした気持ちは消えなかった。 

 同時にうまく丸め込まれているようにも感じてしまうからだ。それがなんだかすっきりしない。



「あら、あなた」


 テールウォッチに戻りギルドへ向かって歩いていると、ばったりとヨクンの家族に出くわした。ヨクンの奥さんと息子の二人は、食事をしに出掛けているところのようだ。

 軽くヨクンと会話をした奥さんがこちらを見て言った。


「よければ、アウレンたちも一緒にどう? お昼、まだよね?」


 そう声をかけられた途端に、奥さんの横からあがる大声によって会話が遮られる。


「えーッ!? なんでぇ!? なんでなんでなんで!! やだー! こいつと一緒やだーーーッッッ!!」

「ちょっと、こら! やめなさい!!」

「やだーーーーッッ!!!!」


 駄々をこねる息子を嗜めるが、止まる様子はない。

 ヨクンの息子は父親のヨクンが家に長く帰ってこないのをアウレンが取ったからだと思ってる。実際は樹海の調査で忙しいだけだが、それを理解してくれる様子はない。この子にとってアウレンはヨクンを取る敵で、ヨクンは息子ではなく他人の子を選んだ敵だ。

 

 そんな子をヨクンが困ったように見ていた。危険地帯では平然としていても、息子の前で同じとはいかないみたいだ。

 実際ここでヨクンが止めてしまえば、ヨクンの息子は不貞腐れ、むすっとしたままずっと喋らなくなるだろう。もう何度も同じことがあった。これから食事をしにいく家族の雰囲気を、いちいち悪いものにするのも大変だろう。


 しかしこのままではいずれヨクンはその選択をとる。そうて息子にもっと嫌われる。いつもと同じ流れだ。

 なのでそうなる前に、一人で走り出した。


「師匠、ギルドへの報告は僕がしておくから! 師匠は行って大丈夫だよ!」

「あっ、アウレン……」


 返事も聞かず、振り返りもせず、そのまま街を駆け抜ける。

 そして背後からヨクン一家の気配が消えた頃だった。


「あっ、あいつ」

「なんだよ、また帰ってきたのかよ。贄っ子のくせに」

「贄っ子贄っ子」


 走っていると道の端から、露骨に野次を飛ばされた。

 それが見覚えのあるいじめっ子たちのものであることは、目を向けなくても分かる。

 危ないからと街の出口にも冒険者ギルドにも近づけてもらえない、冒険者に憧れた子たちは、冒険者がよく通るこの道でたむろしていることが多い。だから活動を終えるたびに通るこの道がいつも憂鬱だ。


 師匠のヨクンと一緒にいるときは言う勇気がないくせに、一人でいるといつも聞こえるように言ってくる。


「また魔族と密会かよ、人間の敵が」

「もう勇者になれっこないのにな」

「いいなー俺も師匠ほしー」


 聞こえていないふりをして、速度をあげて駆け抜ける。


 ──『そういえば千夏ちゃんは、苗字はなんて言うの?』

 ──『……わかんない』


 苗字がないって聞いたとき、最初は驚いた。

 そして可哀想だなって思ったんだ。それってきっと一人ってことだと思うから。


 でも……。


「(僕も……同じだ……)」


 唯一の家族だった父親が死んで以来、ずっと一人だ。

 だから……初めて会ったときから。

 なんだかとてもお互いに分かり合えるような……そんな気がしていたんだ。

 



 冒険者ギルドに近づくにつれて、一気に雰囲気が慣れ親しんだものに変わって落ち着く。

 今ではギルドが、一番ほっとできる場所だ。


「おうアウレン。元気か?」

「ヨクンのパシリは、相変わらず大変そうね」


 すれ違う知り合いの冒険者たちと挨拶を交わす。

 昼時という時間帯でギルドは余裕のある雰囲気だ。混んではいるが、ひどい時はもっともみくちゃになる。今は外部の人が多い時間なのだろう。


「ん、レン坊来たか。ちょうどいいな、お前にお客さんが来ているみたいだぞ」

「お客さん?」


 誰だろう。

 首を傾げながらその冒険者の指す方へ目を向けると、縮こまるようにして受付にいる二人の女の子がいた。

 そのうちの片方に見覚えがありそれが誰かわかると、思わず声をあげた。


「え……あ、うぇっ!? ち、千夏ちゃん!?」


 なんで……どうして!?

 もう会うことなんてないと思っていたのに……。

 しかもよりによってこんな敵の本拠地みたいな所に来るなんて。正体がバレたら八つ裂きにされちゃうよ!


「ちょ、ちょっと待ってて! 報告を済ませてくるから!!」


 大きく声を上げて、依頼を報告する受付の列に並ぶ。

 そわそわしながら待っていると、端でたむろする冒険者の気になる会話が聞こえてきた。


「お前さん、あの可愛らしい嬢ちゃんらを連れてきたんだって? あんな武器も持ったことないような子どうするんだよったく。怪我する前に家に帰してやりゃいいのによ」

「ちっ……次から次に、うっさいわね……。怪我をするって、どっちがよ。バカな冒険者や浮浪者が怪我する前に、連れてきてあげたのよ。あのまま不安そうな顔であぶない所うろちょろさせてたら、格好の餌食だと勘違いしたゴミクズ共に周りが巻き込まれちゃうじゃない。抱えてる魔物がどれだけ恐ろしいからも知らずにね……。あんたもガタガタ他人に言う前に、相手の実力の一つや二つ、測れるようになったらどうなのよ」

「なっ! ちょっと言っただけで、なんでそこまで言われにゃ──」


 付き添いの大人が見当たらないのにどうやってきたのかと思ったけど、親切に案内をしてくれた人がいたみたいだ。

 あともう一度千夏に目を向けるてみると、確かに両腕には可愛らしい魔物が抱かれていた。ヤークテのビョン・エーのような魔物を、千夏も育てていて連れてきたのだろうか。


 依頼の報告を済ませて千夏の元へ向かうと、何よりもまず冒険者ギルドを離れた。最低限の会話で二人を連れて、逃げ出すように少し離れた空き地に移動する。ここでなら少し落ち着いて会話もできるだろう。


「一言だけでも……謝りたくて……。今日は、会いにきました」


 向き合った千夏は、すぐにそう言った。


「騙すつもりじゃなくて……。傷つけるつもりでもなくて……。悪いことだって、分からなくて……。だから……ごめんなさい……」

「…………」


 言葉が出ない。危険を承知で会いにきてくれた千夏に。

 千夏と分かりあえると思ったのも本当だ。でもやっぱり……怖いと思ったことも紛れもなく本当だ。向かい合うだけで『あの瞬間』が嫌でも頭に思い浮かぶ、それが情けなくて、言葉が出せなかった。


 そんなふうに答えあぐねていたときだった。


「もし……」


 横から割り込むように声をかけられる。


「……はい?」


 声をかけてきたのは、知らない大人の女の人だった。

 誰もいないと思ってたのにいつのまにか知らない人が加わっている。


「とても初心で美しい所に、横から割り込むのは……大変心苦しいのですが。大事な用があってお声をかけさせてもらいました。問題がなければすぐに済みますので、少しよろしいでしょうか」


 綺麗な人だ。声は透き通っていて、言葉も丁寧で、物腰も柔らかい。

 何一つ欠点なんてないのに……なぜかとても不吉な予感を抱いた。

 そしてそれから続く言葉はその予感通りのものだった。


「実は──『魔族』がいるという通報を受けて参ったのです」

「え……?」

「そういえば名乗り遅れてしまい申し訳ありません。私は──『ニア・へイヴ第17位勇者』のミシェル=アグニアイハと申します。どうか、お見知り置きを」


 ──『勇者になりたいなら、ニア・へイヴはやめときな』。


 陸地の言葉を咄嗟に思い起こす。今、目の前にいるのがその勇者だ。

 ずっと夢見て憧れていた勇者……。もっと感動したっておかしくないのに、なぜか今は嫌な動悸が止まらない。

 驚きを表情に出さず、声すらあげなかった自分を褒めてあげたかった。千夏にだって視線を向けていない。


「子供の通報なので、あまり信憑性があるとも思えませんが。勇者という立場上、そういうわけにもいきませんので、お許しくださいね。とはいえ見たところ、あなたとあなたは間違いなく人間族のようです。あなたも……ほぼ問題ないかと思いますが。その可愛らしい大きな帽子だけ、一度取ってもらってもよろしいでしょうか?」


 勇者がそう言ったのは……千夏だった。

 全員の体が固まる。誰も返事できない。拒否をしてどうにかできるだろうか。

 何を言っても、これから起こる嫌な出来事を避けられない。そう思うと、体を動かせなかった。他の二人も同じだ。


「…………? では、失礼いたしますね」


 全員が固まって返事をしない状況に首を傾げつつ、勇者が千夏に近づいて帽子に手を伸ばす。


「あ……ま、待って……」


 千夏と一緒にいた女の子が、弱々しく制止の言葉を放つも、勇者は聞き入れない。

 誰も止められない。そう思った。だけど実際には、その手は帽子に届かずに止まった。


 ──『攻撃』が勇者の頬を掠める。


 咄嗟に勇者が避けたものの、もし避けていなければ、顔は消し飛んで今浮かべた厳しく強張った表情も無かったかもしれない。

 距離をとった勇者に笑顔はもう無く、膨れ上がるように緊張感が場を覆う。


「な、なんで……」


 唐突な出来事に狼狽えて、攻撃をしかけた原因にめをむける。


「きゅ?」


 千夏の腕の中にいる魔物がつぶらな瞳で首を傾げながら、可愛らしく鳴いた。

 勇者はもう武器を取り出して、完全に臨戦態勢だ。おそらく言葉で何を言っても、もう止まらない。


「千夏ちゃん、逃げよう!」

「千夏ちゃん、こっちだ! ついてきて!」


 ほぼ同時に、アウレンとテルルの声が上がる。

 テルルが千夏の手を掴み、それを先導するように走り出した。

 テールウォッチのことなら目を瞑っても分かる。


「逃しはしま……ッ!?」


 勇者の言葉と足が止まる。そして釘付けになったように何かを見ていた。

 それは千夏の頭の上で鎮座する魔物だった。テルルが千夏の手を掴んだときに解き放たれた魔物は千夏の頭までよじ登っていた。そしてじっとしているように見えたが……よくみると小さな羽に『虹色の粒子』が集まっており、それが頭の上に注がれるようにして、耳の輪の中心が『虹色』に強く光輝いていく。


「本気ですか……こんな街中で、そんな威力の魔法を放てば……くッ……」


 勇者は表情を苦渋に歪めながら、両脇にある建物の片方に向かってその場から跳躍した。その建物の壁でさらに跳躍して、反対にある建物の壁で着地しまた跳躍すると、建物を行き来するように跳躍を繰り返した。跳躍を繰り返すにつれて勇者は上へと昇っていき、限界まで登り切ると今度はより速度を早めて建物の行き来を繰り返す。その速さは凄まじく、ブレた勇者の残像しか目で捉えられないほどだ。


「きゅ〜〜〜〜ッッッ!!!」


 そんな勇者に向かって、逃走する千夏の頭の上から魔物の魔法が発動した。

 その魔法は小さな体に見合わないほど巨大で、光り輝く円柱のような魔法が飛んでいく。とんでもない威力であることは見ただけでわかり、通る場所にあるものをすべて破壊して突き進む。建物の屋根の一部が削り取られていて、よく見ると遠くの白街と石街を隔てる『巨大な壁』にも見慣れない大きな穴が空いていた。街のあちこちから悲鳴とざわつきが上がり始める。


「(だ、大丈夫かな……襲われてるのはこっちなのに、なんかこっちの方が悪いことしてるような……)」


 背後に視線を向けると、空から勢いよく何かが落ちてきてごろごろと地面を転がる。すぐさまそれはなんてことがないようにして立ち上がった。勇者だ。


「こんな凶暴な魔物を、平然と街中に連れて歩いている……。辺境とはいえ、秩序があまりにおろそかにされているようです。少し提言をする必要があるかもしれませんね」


 そういう勇者は、顔の半分を隠すように手で覆っていた。だがその覆っている手も爛れるような痛々しい傷がついている。攻撃を避けきれなかったのだ。

 しかし勇者は何かの容器を取り出してそこから何かを飲み込むと、その傷がみるみると治っていった。万全になった勇者は狙いを定めるようにこちらへ視線を向ける。


「キュ〜!」

「あ、うさっ」

「止まっちゃだめだ! 走り続けて!」


 魔物が千夏から飛び降りて勇者に向かっていく。それを千夏が追いかけようとするが、咄嗟に制止させて走り続けた。大通りまでなんとかくると、見覚えのある獣車の前に飛び出す。獣車が驚いたように急停止した。


「あぶっ……なんだ、レン坊じゃねえか。気をつけろよ、お前」

「おじさん! 獣車乗せて! 壁の向こうまで連れてってほしいんだ! この子達も一緒に!」

「なんだ、お前。面倒ごとか? ……いいじゃねぇか。子供は、大人に迷惑をかけて育つってもんだぜ。それにお前がいれば俺も早く向こうにいけるしな。いいぜ、早くのりな」

「ありがとう!」


 三人で獣車に乗り込みつつ少し後ろを確認すると、ぎょっとする。恐ろしい勇者が、ものすごい速さでこちらに走ってきていた。

 魔物はどうしたのかと一瞬探すけど、勇者の後ろで勇者を追って走っていた。魔物を無視した勇者がこっちを全力で追いかけてきたらしい。


 でもそれなら魔物の魔法がまた背後から放たれるはずだ。

 実際、魔物は走りながらも魔法の準備をしていて、準備万端そうに頭上の輪っかが虹色に輝いている。

 そう思っていたが……急に霧散するように虹色の光は消えた。弱々しく「きゅ〜……」と魔物が鳴く。


「やはり撃てないようですね。魔物なのに随分高い知能と涙ぐましい情をお持ちです。獣車と被る私に撃てば凄まじい魔法は子供達をも巻き込みます。情に足を引っ張られる人の世の辛さを少しでも味わっていただければ幸いですね」


 背後を確認しながらそう呟く勇者は、次の瞬間狙いを定めるようにこちらを見てきた。


「おじさん! 早く行って、早く!」

「な、なんか急にこいつが怖がっちまってよぉ……」

「行かせません」


 ──追いつかれる。

 実際すでに会話が成り立つところまで、もう迫られていた。

 ダメだ、と思った瞬間。勇者の攻撃が何かに受け止められ、甲高い音が上がる。唐突な出来事に驚いていると、攻撃を受け止めた人が声をかけてきた。


「アウレンくん。とりあえず急いで獣車を出すんだ」

「アキさん……!?」

「細かい話は後にしよう。千夏とテルルを守ってくれてありがとう。ついでに……後少しだけ任せてもいいかな」

「え……!? あ、はい! わかりました」


 勇者の攻撃を受けながらもどこか余裕のある秋が、その答えにこちらを見て頷いた。 


「ありがとう。こっちも……なるべくすぐ合流できるようにしておいたから。だから二人を頼むよ」

「はい!」

「こいつ、手間取らせやがって! よし、出すぞ!」


 御者の合図とともに、獣車が動き出す。

 そして今も鍔迫り合いをしている秋と勇者の姿は、徐々に遠くなり見えなくなっていった。



 



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― 新着の感想 ―
この続きが気になり過ぎて体重が3キロ増えてしまいました。 暑いので体調に気をつけてください!
説教回かと思ったら仲直り回だったWW。前テルルが連れ出してる感じだったからテルルに何かあるのかなと思ったけど千夏ちゃんの気持ち察してって事かWW。そういや仲直りしたかったら会いたいよねWWすっかり忘れ…
ずっと追いかけてるこの作品。久久に読もうを開いて読んでみたら更新されてて嬉しかった! また、今度開いた時に更新されてたいいなあー
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