第113話 指輪をあなたに
南大陸にある、ベリエット帝国の飛地。
『転移街』──『ノックボイル・グランデ』。
地図上で見ればぎりぎり点で表せるかどうかしかない、街一つ分のベリエットの国外領土。
許可さえあれば、勇者はそこに『転移』でいつでもいくことができる。
北大陸から中央大陸のさらに奥に位置する南大陸へ、一瞬で。
おそらくベリエット帝国からみれば、そこはかなりの重要拠点だ。
位置的にどうしても手の届きにくい南大陸、そして中央大陸南部へと干渉する足がかりになるから。
でもそんなの気にしないほとんどの勇者にとっては、ただの人気観光地の一つだった。
ちょっとした異国気分やエキゾチックさが味わえる、だけど自分達の馴染みあるルールで過ごせるから便利で割のいい、本土から遠く離れた国内旅行先。そんなことを同期の白崎さんがはしゃぐように言っていた気がする。
十年経っても、未だベリエット本土にすら『異国』を感じている私には分からない話だった。
でも十年どころか、文字通り桁違いに居続ける『44代目』以前の勇者にとっては、それだけですごく貴重なのかも知れない。
どっちにしろ関係がなさそうな話だから、私はその街のことを深く考えたことはなかった。
そんな私が『その日』──その街にいた。
幅音さんとその先達勇者が、転移街で行われる立食パーティーに出席するらしく、私も気晴らしに一緒にいかないかと幅音さんから誘われたからだった。
話を聞いたときは許可が下りないと思って断ろうとしたけど、どうやらそれは既に幅音さんが取りつけてくれていたみたいで、問題ないらしかった。私の一存だけで決めていいらしく、それならばせっかくだからと行くことにした。
……本当は立食パーティーも、異国情緒も、あまり楽しいと感じたことはなかった。
でも幅音さんが、先達勇者の交代など色々あった私を心配していたのは知っていたから、これで心配をかけずに済むのならいいかと思った。苦手なドレスでなく、勇者の制服で居ていいというのも正直、理由の一つだった。
『ご入場のお知らせです』
賑わいを見せる豪華なパーティー会場。
元の世界の料理は食べられないので、みたことない料理を中心に食べていると、上品な声のアナウンスが流れる。
どうやら来賓の紹介みたいだった。
一応パーティーの名目は、南大陸諸国とべリエット帝国による友好と交流を深めるためのもの。
だからアナウンスに流れてくる名前も、たぶん南大陸の有力者なんだろう。
実際、紹介と共に入場してくる人は誰も彼もが、内側から抑えきれず溢れ出したような豪華さを身に纏って、自分を彩っていた。
そんな光景を見ながら、耳に入ってくる聞き慣れない国や長くて覚えられない人名をぼんやりと聞き流す。自分には関係ないと無意識に決めつけてそうしていたし、興味もそれほどなかった。実際、幅音さんや幅音さんの先達勇者の人にも雰囲気と食事を楽しんでいればいいと言われていたので、そうしていた。
『──続けまして』
……だから。
最後に聞いたアナウンスだって、まともに聞いていなかった。
まさかその後に私の人生を最も変えることになるなんて、この時は思ってもみなかったから……。
『この方も、同様の国から参られました。かの恐ろしき、最果ての大陸。そこに最も近き、人の地を収める領主様であります──ディボネス=ヒルグリンド様です』
終焉の大陸へ行って、また戻ってきたとき、すごく勝手にこう考えていた。
これで一区切りだけど、またこれから頑張ろう……みたいなことを。
少なくともその名前を二度と聞くことはない、なんて。心のどこかで根拠もなく思い込んでいた。すべてが終わったことだ……って。世界や、関わった人は、当たり前のように今も引きずっていきていることなんて忘れて。
……そんなのはただの願望でしかないのに。
だから秋がお店の人としている会話の中に、その名前が出てきたときは耳を疑った。
『ヒルグリンド領と呼ばれていた頃は、奴隷趣味の評判が悪い領主で──』
関係の無い、同姓の名前だと思いたかった。
でも話を聞くほど、得られるのは否定じゃなく確信……。
いっそ耳を塞いでしまいたかったけど体が金縛りにあったかのように動かない。
体の表面はやけに熱く感じるのに、体内は冷水が巡ってるのかと思うほど冷たく感じた。
『取り潰された貴族家の末路は──“悲惨”らしいからな』
せめて、どうにか出くわさないようにと。
心の中で願うことしかできなかった。
きっと出会ってしまえば……。
私は自分を動かさないわけにはいかなくなる。
その確信が、どこかにあったから。
でもそう願えば、願うほどに。
手繰り寄せるかのように、引き寄せてしまう。
『最悪なこと』というのは、きっとそういうものだ……今となってはもう、そう思うしかない。
『いいか、弁えろよ……。分かったか!? この日のこと。今この瞬間のことを、忘れるなよ。思い出せッ!! 何度も何度も!! もう貴族でも──"ヒルグリンド"でもッ、何でも無いただの奴隷なんだと意識に刷り込ませろ!! そして一生、噛み締めるんだそれをッ!』
目の前を走る獣車が、奴隷商なことはわかっていた。
だから見えないよう反対を向いていたのに。
その『声』は理不尽な暴力のように、耳に入った。
そして聞いたことのある『名前』までもが、同時に。
まるで見えない何かに顔を掴まれて、無理やり向かせるかのように……。
その『少女』の存在に向き合わざるをえなくなっていた。
──気づけば、反射的に振り向いていた。
視界に入ってきたのは、奴隷商の男が少女を押さえつけている光景だった。
土の道にできた少女自身が作り上げただろう水溜り。そこにまるで汚物を少女に刷り込ませるかのようにして押し付けている。
それを見たときには、もう、私は剣を掴んで走り出していた。
「──それで?」
冷たく、秋は言った。
「どれだけ日暮にとって深刻な理由と関わりがあったとしても、俺にとってはどこまでも無関係な人間だよ、日暮。関わる理由は、どこにもない」
秋の言葉に反応して、ピクリと動きを感じる。
腕の中にいる少女の不安が伝わってきた。
なにかを返さなきゃ……掻き立てられるように、無理やり言葉を紡ぐ。
「……そんな、ことは……」
「そんなことは?」
「…………」
だけど、言葉を続けられない。
全く話に乗るつもりがない秋の意図が、それどころか突き放すように心の底から関わり合いたくない気持ちが、体に針を刺すかのように伝わってくる。
わかってる……。
秋が本当はどこまでも正しい……。
本当に正しい言葉は、全身が縛り付けられて息が詰まるように、言い返すことができない。
でも……諦めることが……できない……。
だから気づけば自然と体が動いていた。
「お願い、します……!」
少女を離し、地面に額をつける。
土下座の姿勢で、縋り付くように秋に頼んだ。
「今は、秋しか頼れる人がいないんだ……だから……っ!
私にできることなら、なんでもする……。だからどうか……お願いします……」
情けなかった。
でももうこんなことしか、自分にできる手段が思いつかない。
同時に秋の意見がこんなことで変わってくれる、なんてことも、なぜか微塵も想像できなかった。
はぁ……と秋がため息をつく。
「そんなことをされても……何がどうなるわけでもない。
それに後でなんて言われたところで、日暮にできることなんてたかが──」
秋の言葉が、不意に止まる。
少し顔を上げると、秋の視線は私ではなく、少しズレた別のところに向かって釘付けになっていた。
不思議に思って、その視線の先を追って、私も目を向ける。
その場所は、私の少し斜め後ろ。
そこに……私と同じ姿勢をとった奴隷の少女がいた。
「…………ぉ願い、します……っ!」
……まるでかくれんぼで、地面に丸まって隠れているみたいだった。
だけど意味を理解して、少女はその姿勢をとっている。見てそれが分かった。
そうだと分かった瞬間に、瞳に雫が込み上げてくるような感覚があった。
少なからず、少女の意思を無視して話を進めている。その自覚があったから。
頭のどこかで、本当はやらなくていいことをやっているかもしれないと自分を疑っていた。余計なことだって。
でも少女に動きを同じくしてもらって、そうでないことだけは分かった。
それだけでよかった。ただ一人、少女にさえ同じくしてくれるなら、それで。
……分かっている。
それは少女自身の生への『足掻き』で取った行動であって、決して私をどうこうというものじゃない。だから私を『許す』とかとは全く別次元の、無関係な別の話だって。
だからこぼれ落ちる前に涙をすぐに手で拭って拭いた。
話はまだ何も進んではいないから……。
秋は少女を見たあと、再びため息を漏らしていた。
ただ私のときと違ったのは、それで終わらず動きがあったこと。
秋は土下座する少女のそばにまで近づいて、腰を下ろす。
それから少女の体を軽々と持ち上げて立たせた。中学生ぐらいに見える少女はしゃがんだ秋よりも少し背が高く、瞳を不安そうに揺らしながら、見下ろすように秋と向かい合っていた。
「……名前は?」
「テルル=ヒ──『テルル』、です……!」
「そう。じゃあ、テルル。
テルルは俺に、連れていってほしいのか?
今初めて言葉を交わしたばかりの俺に」
「つ、連れていって欲しいです!」
「…………」
テルルと名乗った少女の、高い声からは緊張を感じる。
対して秋は淡々としているけど、微かに、困っている感じがあるような気がした。
「……家族のところに戻りたい、とは思わないのか?」
秋の言葉にテルルは顔を伏せる。
「マ……。お母様は、自分で死んじゃいました。
私もそうしなさいって、言われました。薬を渡されて。
で、でも……こ、怖くてっ、できませんでしたっ!」
「なら他の……親戚とかは?」
「……私は、その人達に、売られました」
「なるほど。それで、どうして連れていってほしいんだ?」
淡々と、秋は話を進めていく。
同情を誘ってもおかしくない話だった。
だけど秋の感情はみられない。声色や視線、動作。どこからも。
対してテルルの方は問いかけられるたびに、表情の陰りは強まり声色の元気はなくなっていく。
秋の言葉に、何かを一瞬堪えるような表情をしたあとテルルは答えた。
「辛くて……苦しくて……痛いのが、嫌で。
逃げ出したい、から、です……」
「それはすごく可哀想な事だ。同情もする。
だけど君のお父さんが持っていたという奴隷も。
同じだったんじゃないかな?」
「……は、い」
「……ならば『耐えるべき』という意見は、世の中から出てきても不思議じゃない。『子供に罪はない』なんて言う人もいるだろうけど……自分の娘が同じ事をされれば、やってきた相手の娘だって同じ目に合わせたくなるかもしれない。そういうのは社会の上辺としてのテーマだけの話か、他人事としての話であって、実際の現実に合った話じゃない。そうじゃなきゃ、実際にさっきまで『罪』が機能していて存在していた理由に説明がつけられない」
そう言ったあと秋は、どこか面倒臭そうに「まぁ別にそんなのどうでもいいけど……」と付け加えた。
「つまり何が言いたいのかというと、すごく助けたくなるほど、同情できる可哀想な境遇だと俺には思えない。それに加えて、正直言ってすごく面倒だから、関わりあいたくも無い」
秋のテルルに諦めさせようとするような話し方に、思わず口を挟みそうになる。
でもそのたびに秋に無機質な視線を向けられる。睨んでいるわけじゃない。なのに睨むよりも冷たい。
今テルルと会話をしているという秋の『譲歩』すら、失うかもしれないと思うほどに。
そう思うと黙って見ているしかなかった。
「私、は……パ……お父様が、そんなことをしていたって、知らなくて……」
「それで?」
「でも、お父様がしてしまったことなら……こ、子供の私が、パパがしたこと、謝りたい……。私が、されてることが、パパのしてきたことなら……我慢したい……。だから、が、我慢してきました……」
父親の評判が嘘だと思うほど、それはしっかりした貴族に見られる、責任感を感じられる言葉だった。
「で、でも……」
だけどそれすらも壊れて崩れるかのように。
堪えてた涙が頬を伝わる中でテルルは言った。
「こ、こんなに。辛いとっ……思って……無くて……ぐすっ。
もう……嫌で。逃げ出してくて……逃げ出したい……」
涙を拭いながら話すテルルに……向ける秋の視線は変わらない。
「──なら、条件次第で助けてあげようか」
それはその言葉を言った時も。
言葉の意味は救いの手であるはずなのに。
表情は、テルルを諦めさせようとする時と同じだ。
「といっても簡単な条件だ。今後同じような可哀想な人を見かけても、もう二度と俺は手をかさない……ってだけ」
「…………?」
「例えば、助けた君と俺が街を歩く。道端にはご飯が食べられなくて倒れている子や理不尽な暴力にあっている子がいる。俺は、その全員を無視して歩き続ける。なぜならその子たちの代わりに助けた君が、横にいるから。
果たして未来の俺が何人に手を差し伸べるかなんて……知りようが無いけど……。そんなのは想像でいい。とにかくあり得た、似た境遇の子供に差し伸べただろうすべての可能性と引き換えにならば……助けてあげてもいい」
……それは。
聞いていて、あまりにも顔を顰めたくなるような条件だった。
最初は話が分からなさそうにしていたテルルが、意味を飲み込むにつれて顔色を悪くしていく。辛そうに顔を歪めて、止め処がなくなってしまった涙をぽとぽと溢れさせながら。苦しそうに声を漏らした。
「うぅ……」
「今後もずっと可哀想な人をみつける度に助けてなんていられないし、できないし、したくもない。
そんな無限に余裕があるわけじゃないからだ。それに興味があるわけでも、向いてるとも思えないし……。
それでも実際に無視をすると多少は心苦しいかもしれないし、周りからも何か言われる。だからその度に、君が無視をする理由になってくれるのなら、これは俺にも十分なメリットがある話だ。
その条件があっても、連れてってほしいかな?」
……秋の条件をどう思うかは、きっと人によって大きく変わる。
気にしない人にとっては、もしかしたら条件がないのと同じくらいに感じるかもしれない。
でももし私だったら……その条件に耐えられるかわからない……。
例え助けられて平穏無事に日々を送れるようになったとしても、きっと街を歩くだけでも胸が締め付けられて蝕まれそうになるだろう……。
自分よりも恵まれない境遇の人や同じ境遇の人を見るたびに、きっと考えずにはいられなくなるから。果たして、助けられるべきは『どちらだったか』を……そして助けられたのが自分で本当によかったのかを疑問に思ってしまうのだろう。何度も何度も。
常に焦燥や不安や後悔が、日常的につきまとって生きることになる。
そんな光景が簡単に想像ついてしまった。
そんな日々は考えるだけでおぞましく、心が擦り減りそうになる。
言い方は悪いけれど……まるで呪いのような条件だと、私は思った。
「うぅっ……。ううぅぅぅぅぅぅぅぅぅ……ぐすっ」
既にもう、その一歩を踏み始めているかのように。
テルルは葛藤して、悩んで。それでも分からず、苦しそうに。
言葉にもなっていない唸り声をあげて、顔をくしゃくしゃに歪めながら泣いていた。
それが少し長く続いた。
……良かったと、少し思ってしまった。
テルルが、この条件を苦しいと思えることが。
だからこそ、心の底から救われてほしいと思う。
「だ、助けで、ぼじいです!」
やがてテルルは……溺れかけながらも必死に呼吸をするかのように言った。
だけど……そんな様子のテルルに、秋の視線は変わらず冷ややかなものだった。
「そう……。随分、自分が大事で仕方がないんだな」
「…………」
秋の一言で、テルルの顔が暮れたように伏せる。
見て……いられない。
それでも秋の言葉は止まらなかった。
「やっぱり、やめておこうかな。自分本位な人を助けるのは。
そうなって当然な境遇な人なのかもしれないから」
「そんな、秋──」
流石に、思わず、声が出る。
だけどその声はすぐに遮られてしまった。
「ありがとう、ございましたっ!」
「「……え?」」
珍しく……秋と声が被る。
声を上げたテルルをみるとお辞儀の形で頭を下げていた。
「私の、ために、時間を作ってくれて……! でも、迷惑をかけてしまい、すいません……でしたっ! 叩かれる、ので……もう……戻っておきます」
そう言って顔を上げたテルルは、一度もこちらへ顔を向けることのなく、獣車に小走りで戻っていく。表情は見えなかったけど涙が勢いで散っているのだけは、やけにはっきりと目に映った。
その後ろ姿を見て、秋は小さくため息を漏らし、立ち上がりながら言った。
「一つ、聞き忘れてた。
『魔族』が嫌いだったり、会うのに抵抗があったりするか──それだけ、教えてくれないか?」
そう尋ねると、テルルは足を止める。
でも振り返ることはないまま答えた。
「会ったことが、ないので、わからないです……。
でも、だから……嫌でも嫌いでもないです……」
「……今うちには、君と同じくらい……か、もう少し下くらいの、魔族の子供がいる。その子は今、事情があって落ち込んで塞ぎ込んでて……だから同じくらいの友達とか知り合いが誰もいない。もし、その子と仲良くなって、一緒に遊んで、面倒を見てくれるのなら……連れてってあげてもいい」
それを聞いたテルルが、振り返る。
そして縋り付くような勢いで答えた。
「み、みます! その子の奴隷に、なります……!」
「……違う。奴隷としてじゃない。その子も元々は奴隷だったけど、もう今は普通だ。だから同じように……普通の子として、その子のお姉さんになって仲良くしてほしい。できそうか?」
「ず、ずっと妹がほしいって……思ってました!
一人だったから……」
「そう……」
秋は少し考えながら、だけどすぐに何かを決心して──呟いた。
「なら、『奪って』しまおうかな……」
ため息をつくかのように、秋はそう言った。
そうして今度は秋からテルルに近づき、そばでしゃがむ。
テルルの手や足や首についた枷を一通り見た後、手枷に秋が触れた。
「【物質転移】」
なんてことがないように手枷が外れる。足枷も同じだった。
一瞬で消えたと思ったら、全く別の場所に現れて地面に転がる。
「首輪は爆発するんだったか」
他の枷と違い首輪は自分の手に転移させていた。そして虹色に輝きだすそれを、まるで気にすることなく投げ捨てる。フリスビーのようにどこかへ飛んでいき、見えなくなって少し経った頃、空砲のような爆発音が遠くから聞こえた。
「……これは。俺には消せないな……どういうのなのかよくわからないけど……」
テルルの首には、首輪の下に隠れて肌に直接刻まれた紋様があった。
首を一周。もう一つの首輪のように、それは刻まれている。
秋は紋様を指でなぞりながら、残念そうに言った。
「冬がいれば、どうにかできたんだろうけどな……。
今はそのままにしておくことしかできなさそうだ……」
「うっ……うぅ……ぐすっ」
「……?」
テルルが側にいる秋の服を摘んで、堰を切ったように泣いていた。
どうしてかわからないけど……とても共感を覚える涙だった。秋に追い詰められていたときの涙とそれは、全く違う。何がと聞かれれば、うまく言葉にできる自信はないけど……。でも見ていて、自分まで泣きそうになる。それは確かだった。
秋は困ったように視線を泳がせていた。
だけどそうして少し迷いをみせながらも、やがて秋がテルルを両腕の中に収める。
テルルはさらに遠慮が消えたように、秋の腕の中で声をあげて泣いた。
そのまま秋は、テルルを抱っこして獣車へ移動している。
『部屋』へ連れていくのだろう。
──結局、また。
気づけば、私にできたことなんて、何もなかった。
願った通りの結末になったはずなのに。
それすら少女が……テルル自身が。
自分でもがいて、あがいて、勝ち取った結果だった。
本当に……何もできない……。
どうして、こんなに……私は……。
「──日暮」
いつの間にか戻ってきていた秋に声をかけられる。
側にテルルの姿はなかった。
「それじゃあ、話の続きをしようか」
「……話?」
「まだ話は終わってないからな……何も。
とりあえず……はい、これ──」
受け取るのを待たずに、秋が私に向けて何かを手放す。
慌てて両手で掬うように受け取った。感覚的に、小さくて硬い物だ。
手の中の物を目に入れる。
それは見覚えのある……いやそれどころじゃない。それは『私の物』だった。
少しずつ、首が締め付けられるかのように、呼吸が詰まっていく。
「……どう、して」
以前預けた、私の『指輪』。
『……わかった。この『指輪』は預かっておく。
ついてくるかこないかは、好きにすればいい。
離れるとき、言ってくれればこれは返すから』
それをどうして今、渡したのか。
その理由が、分からない……。
……いや。そんなわけがなかった。
そんなに複雑で難しい答えじゃ、きっとない。
ただ私が思考を巡らせながらも、肝心な答えを避けている。
それだけの……ことだった……。
「俺たちはたぶん、もう一緒にいないほうがいい」
答えはすぐに淡々と、でも叩きつけられるように示された。
でも思考は今も、答えを探してぐるぐると巡り続けている。
示された答えを受け入れられずに……ぐるぐると……。
陸に上がった魚のように、口を開くが、言葉が出てこない。
ただ肌を伝う汗がやけに冷たく感じるだけだった。
「思ってるよりもずっと……俺は他人のことがどうでもいい人間なんだと思う」
「…………」
「だから今回と同じことを求められたとしても、次からはできない。でも日暮はこれからもずっと、同じように動いていくんだと思う。今回でそれを実感した。それは好きにすればいい。ただ俺はそれにもう、これ以上ついていけないし、はっきり言葉にすれば迷惑なんだ。
それに以前忠告しなかったか? 人のことを『いいように扱えると思わないほうがいい』って」
……息が、苦しい。
「ただ日暮から見ても、悪い話ってわけでもないはずだ。むしろお互いに都合がいいと思う。日暮も、わざわざ起きる意見の食い違いをいちいち気にする必要がなくなるんだから」
……めまいで、視界が揺れる。
「好きなだけ、好きなところで、好きにしたらいい……。
俺たちの関係のないところで……」
……そんなのは、全部『錯覚』だった。
現実を受け止めたくない、自分の、都合のいい錯覚。
──どさり。
秋が荷物を取り出して、目の前に置いた。
それはどこかで見たことがある袋だった。
シープエットの騎士たちが置いていった容量の大きな袋だ。
「これにお金とか食料とか当面の分……よりも多めに入れておいたから。持っていっていいよ。まぁ急に言い出したことのお詫びか……もしくは餞別か。好きに受け取ればいい。袋も返さなくていいし、嫌なら別に受け取らなくても構わない」
その荷物が、急激に……秋の話を実感の伴う生々しい現実へと息づかせる。
そこでようやく私は、言葉を発することができた。
「本、当……に……」
「あぁ……『本当』だよ」
「…………」
なんとか動揺を押し込んで、秋の言葉を受け入れようとするがうまく頭が働かない。
そんな私の耳元で、秋は囁くように言った。
「──別にこれまで通りについてきたいのなら、ついてきてもいい」
「え……」
驚いて声が漏れる。
だけどすぐに何かの予感を抱いて……尋ねた。
「そうしたら……テルルは……」
「──叩き出す。今、すぐに」
「…………」
真っ直ぐに、無機質な瞳で強く断言する秋。
望めば、躊躇いなくやる……。そんな気がした。これまで見てきた秋なら充分考えられることだった。
そして当然……そんなことできるわけがなかった。
秋の腕の中で泣いていたテルルを見て、今更、さらに結果を引き裂くようなことなんてできるはずがない……。
むしろその腕の中に抱いていたはずの本人が、その直後に『追い出す』と言えることがどこか信じられなかった。
わざとらしく、秋がため息をつく。
「……むしろ、日暮から言い出してくれるんじゃないかって、俺は思っていたけど。テルルを助けたい、そのために俺の協力を得る必要がある。それを対等に『取引』するつもりがあったなら、日暮が差し出せる唯一のものが『それ』なんだからな」
……血の気が引いていく。
その言葉でようやく……自分がどれだけ自然に人任せにしていたのかを実感した。
思考のどこかで自分の身を削ってでも『支払う』こと。私はそれを考えることすらできていなかった。
あまりにも秋に──甘えている。
それが分かれば……こんなのはどう考えても『当たり前の結末』だった。
「はぁ……はぁ……」
そうして認めてしまえば……。
心の底から、今の状況に納得してしまえば……。
──もう……『免れられない』、と。
一瞬これからのことを考えるだけで、断崖に自分から進んでいる気分になる。
冷や汗が頬を伝い、恐怖で体が震えて、思考も感情もぐちゃぐちゃだった。
なぜか息を切らしながら、置かれた荷物を手に取った。
「そういえば、ちょうどここは、話に聞いていた『分かれ道』みたいだな」
辺りを見回しながら、秋が言った。
そうして移動する秋についていくと、これまで道の脇の草藪としか思えなかった先に、道が続いている場所がある。確かによく見れば、その場所だけ綺麗に木が途切れているし草藪だって少し長い雑草程度のものだった。
「ちょうどいいから、ここで別れようか。片方は『貨幣都市』。片方は……確か『中央大陸』に続いてるなんとか街道って言ってたけど……まぁいいか。どちらへ行くか、先に日暮が決めればいい。俺は自動的にその反対へ行くから」
「反対に……って……依頼、は?」
「あぁ……まぁ、気にしなくていい。依頼は反故することになるけど、元はといえば千夏を診てくれたり相談にのってくれる『医者探し』が目的だ。ここまできてしまったならもう、魔族の国にでもいって医者を探すのだって変わらないと思うから」
「…………」
そんなわけがなかった。
気にしなくていいと言われても、気にしないわけにはいかない。
これ以上、迷惑はかけられないから……。
私は、古道の方を選んだ。秋は「そう、わかった」とこたえた。
今もまだ……心のどこかで。
秋が「冗談だ」と言ってくれることを望んでいる自分がいた。
あまり長い時間というわけじゃなかった。秋と出会ってからの時間は。
でもそう思ってもおかしくないほど、とても濃いものだったと今になって思う。
その思い出が一つずつ蘇り、込み上げてきそうになる涙を堪えながら、口を開く。
「ここまで、連れてきて、くれて……」
……情けなく、声が震えていた。
同じ状況になって、テルルがどれだけすごいことをしていたのかがよく分かる。
「ありがとう、ございまし、た……」
「…………」
最初から最後まで、私を射抜く秋の瞳は変わらなかった。
──……。
「……?」
何かの音が、微かに聞こえてくる。
少し、場違いな音にも聞こえた。
何か、硬い物が……『ひび割れる』かのような……。
──パキッ……。
──パリンッ。
あまりにも、突然だった。
私と、秋……その間にある『何もない空中の景色』が割れたのは。
小さな破片となった景色が、ガラスの破片のように飛び交う。
そうして出来た空気中の穴から、男が顔だけ出して様子を伺うように姿を現した。
真っ先に秋の方を向いた顔から声があがる。
「さて、どれどれ……。おっ? おぉっ!? ……おいおい。流石の俺すぎるな。我ながら、やばい直感をしていて震えるぜ。まさか、ここまでドンピシャなところに出くわすなんてな。マイフレンド、秋。久しぶりだな」
「……ご無沙汰してます」
秋が少し困ったように笑いながら、敬語で返す。
「あぁ。それと──」
そして秋へ向けられた視線が反対方向の私へと、向けられる。
そのときには秋に向けてた柔らかな雰囲気の一切が、男から抜け落ちていた。
声も低く、表情も固く、動きも戦闘を考慮した剣呑なものに変わる。
最悪だった。
最悪なときに、最悪の人が──『勇者』が現れた。
「いや──本当に。ぴったりすぎて末恐ろしいな、本当によ……。
どえらい状況の、どえらい瞬間にきちまったみたいだ。
運命の女神にでも導かれちまったか?
まさか……こんなところで『脱國者』に会えるなんてなぁ──『坂棟日暮』」
……『陸地』。
テールウォッチにいるということは知っていた。
でもまさか今こんなときに現れるなんて思いもしなかった。
「人の領域にいくなら『テールウォッチ』は避けられない。現れないなら、魔族方向へ行ったのは確定できる。だからあの街で張っていたが、既に『越えてる』ていうのは、考慮してなかったな……。どうやった?」
「…………」
「……ったく、聞きたいことが多すぎるな」
陸地は困ったように頭をかきながら呟く。
「なぁ……どういうことか教えてくれないか、アキ。友達だろう、俺たちは。それともこっちの女の子ちゃんのほうが、秋は『仲がいい』っていうのか?」
「……質問に質問を返して、悪いんですけど、どういうことか……っていうのはどういうことですか? 話がちょっと見えなくて……。彼女は陸地さんの知り合いなんですか?」
「あぁ、まずはそこからか……。ふ〜、確かに、そりゃそうだよな。何もしらなきゃ話はそこからになる。……本当に何も知らなきゃ、な」
どこか訝しみながらも、陸地は話を続ける。
「俺はアキ……お前のあとを追っていた。少し気になることがあって、一度会いたくてな。ギルドでお前の依頼のことを尋ねたあと、時間かけながら街で聞き込みつつって感じにだ。そんでようやく今無事会えたってときに、なぜか全くの別件であるはずの超重要人物がアキと一緒にいたってわけだ。それが不思議でしょうがないんだよ。混乱しそうなほどにな。
……だからアキ。気分悪いだろうが、俺は少しお前のことを怪しんでいる」
「あぁ、そうなんですか。そういう事情なんですね。わかりました。
といっても彼女はたまたま、テールウォッチでお願いされて、獣車に乗せただけですよ」
「……本当か?」
「えぇ」
「なら俺が、これからこいつを連れていく……と言っても、お前はそれでいいわけか? アキ」
「全然構いませんよ。そもそもちょうどたった今、お別れしようとしていたところなんで」
「……お別れ?」
「つい先ほど、問題をおこされて困ったところだったんです」
そういって秋は未だ放置されている、獣車と商会の人が転がってる場所へ目を向けると、陸地も疑うように視線を向けたが、すぐに何かを納得したように頷いた。
「チークテック商会……『奴隷』か……。ふっ、なるほどな……。
ちらほら話は耳にしていたもんだが、人間根本は変わらないもんだな……。
そこらへんの話は納得がいったが……それで秋は確か、ギルドの依頼だったか?」
「そうですね。今も『貨幣都市』へ配送を急遽依頼されたので、向かっていたところですよ」
「秋の仲間は……そっちのイカしたにいちゃんだけか……?」
少し体を乗り出して、秋よりも奥へ視線を向ける。
その奥にいるサイセさんは黙って向けられる視線を受けていた。
「そうですね──二人だけだとやっぱり、道中に不安があったんで。
人手を少し入れる意味で、彼女の提案を受け入れて乗せました」
「(あ……れ……?)」
……少し疑問に思うことがあった。
でもそんなのは余計な思考だ……すぐに頭から切り捨てて考えるのをやめる。
「前にいた、ちっこい女の子はどうした?」
「あぁ……。獣車の中で、寝てますよ。起こしてきましょうか?」
「……いや。そこまではしなくていい。
かわりに悪いが、そっちの……ギルドカードを見せてくれないか」
「ん、俺か? いいぜ、ほらよ」
それから陸地はサイセさんからだけでなく、秋からもギルドカードをもらい、うんうん唸りながら睨むようにカードをみていた。随分悩んでいるみたいだった。
やっぱり私と秋の関係を、相当怪しんでいるんだと思う。
妙に勘が鋭いと評判の人だから、なおさら気になるのかもしれない。
でも誰だってこんな状況だったら怪しむ。そもそも秋を追っていた時点で何かの疑念があったのは間違いないのに。
それでも……私と秋の決定的な証拠を見つけるのは、おそらく難しい。
それを秋も分かっている。だからすぐにシラをきるようなスタンスをとっていた。
唐突なことだったのに、とてつもない機転だと思う。
反対に私は……会話に入ることすらできていなかった……。
でもきっとその方がいい……。今の私は、何を口走るかわからないから。
中途半端に考えて、機転をきかせようとして、秋たちの足を引っ張らない自信がなかった……。
「(──陸地を『答え』に、たどり着かせるわけにはいかない……)」
ベリエットに秋の事がバレるとか……それも重大だけど……。
もっと、即物的な。今この瞬間を乗り切るという意味で。
おそらく……陸地は気づいていない。
想像以上に、ずっと、秋が『臨戦態勢』なことに。
秋が何かの『騙すスキル』を使ってるからだ。
でも私は元々ある秋への知識のおかげか、持っているスキルの【看破】おかげか。
一瞬だけ、目に映る秋とは『違う秋』が見えた。
何も持っていないように見える、片手には『大剣』が。
黒髪に見える髪の毛は……『灰色』に。
目も笑みの形をしているのに、瞳の奥は終焉の大陸で魔物と戦うときの『無機質な瞳』そのものだ。
そうした事実の一つ一つが、もし陸地が『答え』にたどり着いたときに秋がどうするのかをはっきりと物語っている。
あるいは……もし私が陸地に秋のことを話そうとしたらそのときも……。
起きることは、たぶん同じだ……。
それを牽制するためにあえて私にだけ見せた……。考えたくなかったけど、しっくり思えてしまった。
そこまで秋との距離が離れてしまったんだ……。
でも何かが縮まっていたと勝手に思っていたのは私だけで、本当はずっとこんなものだったのかもしれない……。
少し泣きそうになった。でもそれすらもできない。
私と秋は、会って数日の、ただ獣車に乗り合わせた他人だからだ。
「…………どうせなら、『貨幣都市』まで一緒に行きますか?
むしろ商会へ説明と謝罪へ行くのに、陸地さん──『勇者』の口添えがあれば心強いと思うんですけど」
「いや……。ん〜確かにそうするのが筋……か。だが、すまん。叶えてやりたいところだが、急を要する緊急的な案件だ。一つ貸しにしておいてくれ」
「そうですか……残念だけど、わかりました。
なら、俺たちは先を急がないといけないので、そろそろ行きます。
あの人たちの介抱もしておかないといけないし」
「…………。そう、だな。長々と引き留めて悪かったな」
すぐにでも陸地と別れたいはずの秋が、一緒にいくなんて逆の発言をした時は少し驚いたけど、結果的にその言葉が会話を切り上げるきっかけになっていた。陸地も結局、最後まで決定的なものを見つけられず、秋の言葉で折れている。
「……そういえば、何か俺のことを別の要件で探していたみたいですけど」
「あぁ……。いや、いい。それももう勝手に解決した」
「それなら、よかった。なら、行きますね。
それじゃあ今度こそ……お元気で──さようなら」
「あぁ、じゃあな」
「…………」
そうして秋が背を向けて、自分の獣車の方へ歩いていく。
「お前も、こっちに来い」
陸地に強く腕を掴まれ、乱暴に引っ張られる。
秋とは逆の古道の方へ歩かされた。
背後で、秋の背中が、離れていく。
無意識に何度か視線を向けてしまっていた。
背中が見える、最後まで……。
それから秋が見えなくなって、顔を戻すとき、涙が一筋だけ出てしまってなんとか陸地にバレないよう顔を背けた。
こうして私は──秋たちと別れた。
掴まれた腕の痛み。
強引に踏み出される足。
これが……私のしたことの『代償』だった。
あるいは、まだ……これからも……。
「やっぱり……アキは違う、のか?
もし本当に『勇者』なら、こんな簡単に坂棟を手放すと思えないな……」
ぼそぼそと隣で陸地がつぶやいている。
何を言っているのかはよくわからなかった。
「そうなると……。行方が知れてない方の『脱國勇者』の可能性がもっとも高い……か。確か幌との面識も無かったはずだ……。奴も『灰色の勇者』……。神出鬼没の行動の読めないやつだ。南大陸にいたという情報もあるし、樹海にいてもおかしくはない」
◇◆◇◇◆◇
……色々あったが。
その数時間後には、目的の『貨幣都市』とやらが目前に迫っていた。
こんなに早くつくとは思っていなかった。連れてきていた魔獣の強さを見誤っていたみたいだ。全力疾走を指示したら、かなり速く体力もあって、やけくそのように走り抜けていた。
乗り心地は最悪だったけど、おかげで奴隷商がチークテック商会に報告へいく前に先手を打って話に行けそうだ。
ちなみに獣車の魔物がすれ違えなかった問題は、俺が陸地と相対した時点で種族を『勇者』に変えてたのをそのままにしていたら、どちらの魔物も大人しくなって普通に通れた。
もっと早く試しておけば、『あんなこと』にならずに済んだのにな……とぼんやり街を見ながら思う。なってしまったのだから、考えても仕方がないけど。
「(大きいな……)」
もはやあまりの規模に、街をちゃんとした城郭で囲えておらず、隣り合う別々のアパートの隙間を無理やり埋めて繋げては「城郭です」とでも言いたげな『城郭モドキ』をなんとか街中に張り巡らせている巨大な街。遠目でも視界に入りきらず、横を見れば、テールウォッチを出る時のような行列が、ここ以外にもいくつかできている。
ふと、ちらちらと視線をすぐ隣から感じる。
どこか気を遣うような、あるいは「本当にこれでいいのか」と迷っているような、そんな視線。
同じ御者台に隣り合って乗っているサイセからのものだった。
「やっぱり人がすごいな。これだけ物や人が色々なところから集まってくるなら、『貨幣都市』なんて名前も頷けるな」
どこか誤魔化すように、話題を振った。
今はお互い、色々と深く考えない方がいいだろう。
「ん、あぁ、いや──『貨幣都市』っていうのはそういう意味じゃあないんだよ、旦那」
「え……そうなのか?」
「あぁ。人が集まった結果『貨幣都市』になったと、旦那は思ってるだろ? だがそうじゃなくて、まず先にここが『貨幣都市』になった。だからここに人が集まって、ここに向けた道もたくさん造られ、今みたいになってる。順番で言えば、そんな感じだな」
最初『貨幣都市』と聞いたとき俺はなんとなく、こっちの世界なりの、東京のような『経済都市』のことだろうと勝手に想像していた。
だけどどそうではなく、順番も逆らしい。
つまり……元々『貨幣都市』と呼ばれる条件が別にあるっていうことだ。
「ならどうして『貨幣都市』なんだっつー話になるんだが、その理由はあれだ。見えるか、旦那。ちょいと遠いが……」
サイセは街の中に向けて、指を差した先にあるのは『塔』だった。
空気で霞んでいて、ぼんやりとしか見えないくらい遠くにあった。だから大きさも高さも分かりづらいが、少なくとも街の中でそれより高く大きな建物は見当たらない。なのでおそらく、結構な巨大建造物だと思って良さそうだった。
「あれが『貨幣都市』と、この街を呼ぶ理由だ。『貨幣ダンジョン』っつって、中で魔物を倒すとお金を落とすんだ」
「へ〜。………え、お金ってそうやって出来てるのか?
なんか、それ、すごい話だな……」
さらっと言われたけど、かなり衝撃的だった。
元々色々と特殊に感じるお金ではあった。重ねてたり、半分に割ったり。それに世界中で使えるお金っていうだけでも、結構な違和感があったけど、この世界特有なんだろうと思って受け入れていた。
だけどこれは、そんなのを平気で上回る事実だった。
まさかこの世界じゃ魔物を倒して、貨幣を生産しているとは思わなかった。
まるで本当にゲームみたいだな。ここまで突き抜けて変だったなんて。
「……そうか? でも確かに終焉の大陸にはなかったから、旦那からしてみたらそうかもな。こっちじゃどの国に行ったって、大きな国だろうが、小さな国だろうが、魔族の国にだって最低一本は国のどこかに必ずあるんだよ。だから俺にしてみれば無い方が珍しく感じちまうがな」
確かにずっとこの世界で生まれて生きてきたサイセには、そっちの感覚が普通か。
それに話を聞いて妙に納得できる部分も確かにある。
それはどこの国にでも、貨幣ダンジョンがあるという部分だ。
様々な国が同じ方法で生産した同じ貨幣を使っているならば、例え魔族だろうが、世界中で共通した硬貨を使っている事実には納得がいく。
「『ダンジョン』か……。普通のダンジョンとは様子が少し違いそうだな……。『冒険者』は行こうと思えば行けるのかな? ちょっと覗いてみたいけど……サイセは行ったことある?」
「あぁ、あるぜ。旦那」
そのあとサイセから『貨幣ダンジョン』の話を色々と聞いた。
中は普通に迷宮になっていて、魔物が徘徊していること。
たまに宝箱が出ること。中からは魔石とか素材が出てくるそうだが、たまに神器なんかも出るという。
そして一定の階数ごと主部屋……というかボス部屋があり、そこを超えると一気に魔物の落とす金額があがる──など。
話を聞けば聞くほど、本当にゲームみたいだな……。
なんなら聞いていて、少し面白そうだなって思ってしまった。
しかしサイセが言うには、最初は新鮮味があって面白いが徐々に単純作業化してくるのでずっとやるには才能がいるそうだ。炭坑夫と変わらなくなってくるらしい。
「『貨幣ダンジョン』は国によって、扱い方がまるで違うんだよ。本当に自由に出入りできるのなんて、小国か都市国家くらいなもんで、国の兵士だけのみとか、契約した冒険者だけとか、入っても金と物はすべて回収されるとか、色々条件が厳しいんだよなぁ〜。ベリエットみたいな大国じゃあ、探索後すぐに全部硬貨を回収させられて『円』っていうその国独自の通貨なんてイロモノに変えられちまうからな」
「……『円』」
「そいや前に旦那、金に単位がどうとか、言ってたな。
あれってベリエットの独自通貨みたいなことを言ってたのか?」
サイセの言葉に答えて会話を進めながら街に入っていく。
円か……。
異世界にまであると思わなかった……せっかく別の世界に来たのに、前の世界と同じ単位のお金を稼ぐために働くのって、なんか嫌だな……。
思わないところで誤転移に感謝しそうになったのだった。
そして街に入る。
サイセと一緒に、獣車と魔物を預けられるところへ一旦寄った。
状況を考えると一人でさっさと行った方がいい。でもさすがにサイセ一人に獣車すべてを任せるのは大変だし問題がおきると対処できなくなるので一緒に行くことにした。
指定された小屋に、獣車と魔物を入れて外に出る。
手続きの方を任せているサイセはまだ来ていなかった。
待っている間、少し通りの向こう側にずらりと並んでいる飲食屋をぶらぶらとみていた。
庶民のための店だから、店先にはこれ見よがしに売り物がごちゃごちゃと派手に並べられている。屋台のように買って持ち歩くみたいだが、一応店の中にも机と椅子が並べられているので頼めば使えそうだった。
「(色々変なのがあるな……)」
精巧な威嚇する魔獣の顔をした果物。
火の魔法で丸々一頭の魔獣を体内から焼いてる肉料理。
蛇のような細長い魔物がウロボロスのように自分の尾を噛んで、五芒星の形でタレをつけられ焼かれた串焼きみたいなのもあった。
今は時間がないがもし余裕があれば、怖い物みたさに少し食べてみたい気もするな……。でもそれなら千夏とテルルを連れてきたほうがいいかもしれない。
そんなことを五芒星ウロボロス串焼き(仮)を見て思っていると、ふと店の中で怒声が起きた。
「金を払わんことを、そんな堂々と言う奴に『はいそうですか』と返して商売になるか!! 何が『ぼう──」
どうやら揉め事のようだった。
ウロボロスの五芒星の隙間から、店内に少し視線を向ける。
だが中を見たときにはもう、怒声を発していた店の主人らしき人の頭が弾け飛んでいた。
「──え……」
唐突に白昼堂々と行われた殺人事件に、思わず声が漏れる。
店の中は血が一定の方向に飛び散り、料理の匂いに混じってむわりと血の臭いを感じる。
「また衝突しちまったじゃねえか……。『自由』と『自由』が。そうなったら最後、どちらかが勝ってどちらかが負けるしかないというのに。そうならないために弱者は強者の言うことを聞くんだろ? なのにどうして人間というのはこうも強気なんだ? こんな弱いっていうのに……」
おそらく店主を殺した男が、頭部の無い立ったままの死体に向けてブツブツと言っていた。
ただその姿は、ちょうど展示された商品に隠れてよく見えない。
「でもこうしてちょっと殴っただけで頭が破裂するのは、はっきり言って、すかっとした気持ちになる……。別にスキルも使ってないのに人間はなんでこうなるんだ? 弱すぎてそうなっちまうのか? なんにせよ人間の、唯一の魅力的なところだよな……正直にいって、やみつきになるよ……」
だから店の中がさらによく見えるよう、深く覗き込んだ。
五芒星ウロボロス串焼きの隙間から。
そして店主を殺した男の姿が、ようやく目に入ろうとする。
だが瞬間に、残像のようにその姿は消えてしまった。
──まずい……。
何が起きたのか、一瞬で悟って、体を動かそうとする。
だけど……。
──避けるのは、間に合わないな……。
男が近づいてくる速度を見て、そう判断した。
油断……?
確かにこんな場所で、こんな唐突に、なんの脈絡もなくだなんて、予想はしてなかった。かなり不意を打たれたのは間違いない。
しかしそれ以上に、男の動く速度はとてつもなかった。
即座に取ろうとした回避行動を諦めざるを得ないほどに。
そして顔の位置に起きる衝撃。
近づいてきた男に、唐突に理由もわからず殴られ、体がいた場所からぐんぐん離される。
ものすごい速度で背後に吹き飛び、建物に思い切り叩きつけられながらその中へと入ってしまった。
「……あ? なんだ……? 今の手応え……違うじゃねえかよ……。そこは顔が弾け飛ぶところだろ、パァンって……。はぁ、昂ったからもう一度気持ちよくなろうと思ったのに、白けるな……。空気読めよ……。ッチ、むかつくから殺して──いや、そういえば行かなきゃだったな、俺。仕方ねえなぁ……」
辺りには、土煙や埃やらが立ち込めていた。
入ってしまった建物の内部。
そこですぐに着地して、気配を殺しながら、大剣を持って煙に紛れていた。
もし、このまま追って来るのであれば……。
そう思って、待っていたが予想に反して遠ざかっていく気配。
……こない、のか?
……いや、だとしたら、一体本当になんだったんだ?
ただ本当に気まぐれで、偶然選ばれて、殴られたのか?
「とんだ災難だな……」
剣をしまいながらため息混じりに呟くと、サイセが「旦那!」と声をあげて駆け寄ってくる。
「平気か!?」
「防御はしたから傷はない……けど……速すぎて避けられなかったな……」
そう言うと、サイセは驚いたように目を見開いていた。
何か驚くようなこと、あっただろうか?
「……《暴虐王》に殴られたのに、傷ひとつないのか……。
なんつーか、旦那はやっぱ流石だな」
「《暴虐王》……?」
「今のあいつ……『魔王』だ……。しかもかなりタチが悪くて、凶暴で手に負えないヤバい方のだ」
「そんなのがなんで人間の街に平然といるんだ……?」
「……とりあえず移動しようぜ、旦那。このままだと事情聴取とかで長いこと拘束されちまうからな」
「それもそうだな……」
そして群がりかけていた人混みを抜けて『チークテック商会』の本部に向かいがてら、サイセから話を聞いていた。
《暴虐王》。
敵対する種族の街だろうがなんだろうが、行きたいところに行き、やりたいことをやり、欲しいものを手に入れる。
まさに自分勝手の権化、巨人族のお手本みたいな男だそうだ。
嘘か本当か、金すら持ち歩いていないなんて、噂が出回っているという。
要求のすべてを暴力で押し通す──まさに『暴虐の王』。
要求を拒めば即戦闘。絡まれた時点で手放すか、戦って勝つしか無い。
だが当然のように、周りなんて気にする奴じゃ無いために、街中だと下手に戦ったところでかえって被害が広がる。だから一般人は出来るだけ要求を飲むように、なんて対応の指南が出回ってる始末だそうだ。
食べ物、女、物、サービス。
なんだろうがひとまず要求さえ飲めば、暴れられることはない。
ならば従った方が被害は、結果的に減らせるということなのだろう。正直街に入られた時点で最善の打つ手はかなり限られてしまうらしい。
「『冒険者ギルド総本山』、『ベリエット帝国』、『魔竜王国』、『最古の魔王国』。人間だけじゃなく魔族だろうが、構わずなんだ、コイツは。単独でどこでも姿を現しては横暴に振る舞う。そんでどっかの街が被害を顧みず勇ましく戦ったところで、なまじ『2000』を超えた世界最高峰クラスのレベルなもんだから、撤退させるくらいが関の山で、ぴんぴんと生き残りやがる。逆にこっちは生半可なレベルじゃかえって殺されちまうからな……。こんなだから、どこもかしこも手を焼きまくってるんだ。七面倒な、正真正銘のイカれ野郎だっていうのが冒険者での評判だったな」
「なるほど……」
──『レベル2000』か……。
頭に浮かぶのは、やはり、『避けられなかったこと』だ。
つまり『ここらへん』なのだろう。
今の俺の……人間の『レベル1』での状況、実力は。
冷静に状況を判断して、事実を飲み込む。
特に何か感情が沸き立つ、ということはなかった。
もし必要ならここからまた『研ぎ澄ます』。それだけのシンプルな話だからだ。
これまでと何かが変わる……そんな話じゃない。
むしろ『終焉の大陸』に誤転移したときの『レベル1』に比べれば、こっちの『レベル1』はまだマシなように思えた。
「(それよりも治安悪いな、異世界……)」
そして随分と久しぶりに、日本人らしく、そんなことを思うのだった。




