第105話 見たことはないが話にはよく聞く幸福
ティアルと出かけた日の夕方。
遊びに行く千夏に付き合って、外に出ていた。
家のすぐ目の前の川沿いにある土手に、広がった空き地で遊んでいるのを遠目から見下ろす。
空き地は少し低い位置だから、川沿いに入る手前の道から見ていると、見渡しがよくて姿をきちんと目に入れることができる。なにより近くによりすぎて遊びに巻き込まれないのがちょうどよかった。川沿いと道の境界にある柵に体重を乗せて、ぼうっと遊んでいる姿を眺めていた。
アウレンくんと千夏。それに他の子供も混じって楽しそうに駆け回って遊んでいる。
もうアウレンくんともだいぶ打ち解けてきたみたいだった。遊んでいる最中に笑顔を見ることも多い。『部屋』では滅多に見ることのない表情だ。俺自身も、その表情を真っ直ぐに向けられたことは、まだなかった。
「……まぁ、当然か」
そんなのは千夏から見た俺だって同じなのだから、当たり前のことだった。
◇
──数日前。
その日は以前また見にいくと約束した『土人形屋』へ、アウレンくんと待ち合わせで合流したあと、訪れていた。
場所は、一番初めに見かけたときの場所だった。
土人形屋は、変わらずにそこにいた。
しかしなぜだか、初めてみたときとは雰囲気が違っている。
人形屋の男は、近づいてくる俺たちの姿に気づき、こちらへ体を向けた。
「お待ちしておりました」
そして──男は芝居がかったお辞儀をこちらにしながら。
待ち構えていたかのように言った。
「え……。あれ……こ、この人……」
男の『顔』を見たアウレンくんが、何かに気づいたのか、困ったように狼狽える。
初日はローブに覆われて見えなかったが、今目の前にいる土人形屋はローブを取って立っていて姿をはっきりと見ることができた。だから雰囲気も大分違って見える。
ローブを脱いだ土人形屋は、若くて顔も整った、美形な男だった。
しかしあまりにも痩せ細っていて、見た目よりも病的な印象の方が強い。
だけどそれすらも男の見た目を儚く際立たせているようにも思えた。
なのに身につけているものは妙に煌びやかで、派手なのが、身を飾るより先にご飯を食べた方がいいんじゃないかと相手からしたら余計なことを考えてしまう。
おそらく何か理由でもあるのだろう。
そしてその理由が、アウレンくんの今の様子と──あれだけ初日は賑わっていた観客が今は俺たちを除いて誰一人としていない理由にも繋がっている。そんな気がした。
「早速ですが、始めましょうか──」
土人形屋は、集まった俺たちを見回して言った。
「ぜひ、楽しんでいってください。
どうやら今日はお客さんたちの『貸切』……のようですからね」
どこか白々しく聞こえる言葉を残して、土人形屋の男は舞台装置の側である定位置についた。
「では、よろしくお願い致します。
これから行わせていただく劇の題名は──『終焉の大陸がやってきた日』」
そうして、劇が……始まった。
そのタイトルを選んだのは、あえてなのかはどうかは分からない。
だが内容自体は、千夏の持っていた本とほぼ変わらなかった。
しかし声と動きがつくだけで感じ方はかなり違う。最初に男に抱いた疑念も、始まれば物語に引き込まれ気にならなくなっている。劇自体の質は前回みたときと同様、高いものだった。
何かを気にした様子だったアウレンくんも、終わってみればご満悦の表情だった。楽しそうに千夏と感想を話しながら、帰路についている。
アウレンくんを送ったあと、俺たちもまた帰路についていた。
口数が少ないものの楽しそうに話していた千夏も、アウレンくんがいなくなるとめっきり話すことがなくなる。
二人して、黙ったまま道を歩いていたときだった。
これから進む道を立ち塞ぐように、一人の男が立っていた。
それはついさっき見かけた人物──『土人形屋』だった。
「さっきはどうも」
そう声をかけて、俺は、会釈をして男の横を通り過ぎようとする。
偶然のようには思えなかった。だが、だからといって何をどうする理由もない。
だから無視して進むつもりでいた。
「──今日も髪の色は『灰色』じゃないんですね?」
「…………。見ての通りですよ」
「確かに……見ての通りだ。見ての通りのなのに、ほんと、何でなんでしょうね。すいません、おかしなこといってしまって。あ、それと──足を止めていただきありがとうございます」
「…………」
足を止めていることに、言われて気づいた。
土人形屋が、おかしそうにくすりと笑った。
「それにしても……こんなにも意味ありげに立ってる人を無視するかな、普通。あぁ……ちょっとまって……。行かないでくれよ……。ははは、全く、噂通りの人物だ」
「『噂』……」
思わずまた足を止めていた。当然の疑問を抱いたからだ。
誰が、どうやって、『噂できる』というのか。
今まで大陸から出ずに、つい最近になってようやく出たばかりの俺のことを。
「知りたくはないかい?
誰が──『あなたを知っている』のかを」
「………………」
この街にきた初日に買った、『勇者の像』のことを思い出す。
おそらく何かしらの関係が、この男とある。確証はないのに確信を持ってそう感じた。
だとしたらやはりあの像は、俺の手に渡ることを想定して、メッセージも俺を示唆したもので間違いなさそうだ。
そうだとしたらさらに分かることが、現時点でいくつかあるが──。
「僕たちはその『答え』を『用意』している。それで……どうかな……。
もし知りたいのであれば、『取引』を──」
「別に、興味ないんでいいです。
それよりももう行っていいかな? 夕ご飯の準備をしなくちゃいけないんだ」
「へ?」
土人形屋の男は、目を見開いて驚きながら、間の抜けた声をあげた。
気になると言えば気になる。
でも逆に言えば、それだけだ。
知ったところで何をどうするわけでもない。
なので今特に知る必要があるとも思えなかった。
さらに『相手』の出方の方も気になる。やり方が随分と回りくどい。
つまり明確に正面からぶつかることを避けて見える。組織だか何かはわからないが、随分小規模で動いていて、武力的な脅威もそんなに感じない。名前を出してこないことから、有名所でもないと思う。
これだけで、『ベリエット帝国』という考える限り最悪の答えは回避されている。そもそも、そうだったとしたらこの街にいる陸地が動かないはずないし。
一方で、暗躍じみた回りくどいやり方は随分と長けている様子だ。
未だ正体も明かさずに、こそこそと動くのが上手い。こういう相手に、言うことを聞いたとして果たしてそれだけで終わるだろうか。仮に言うことをきいたとしても、さらに弱みを握られて、ずるずると言うことを聞かせ続けるということもこの相手なら可能だと思うし実際、結構上手そうだ。
要するに言うことを聞いてもこっちの願いが叶う保証がそもそもない。信用もあまりできない。なんか白いジジイを思い出す嫌なやり方だ。そうじゃない可能性も当然あるが、そうだったところであまり価値が見出せない取引があるだけ。
だったら今損するのを覚悟で、最初から関わりを避けた方が安くあがるんじゃないだろうか。
こっちの被害で考えられる最大は、ベリエットに情報を明け渡されることだ。けどそれをされたところでベリエットはすぐに情報を鵜呑みにするだろうか? こっちの大陸に来てわかってきたが「『レベル1』の勇者が終焉の大陸に誤転移して十年生き抜いて今になって大陸から出てきた」なんて話は、相当荒唐無稽で信じがたい話だ。おそらく自分の目で確認するまでは完全に信じることはないと思う。かなり怪しまれはするだろうが。
結局どちらが自分に有利で、損害が少なくすむか。
考えて導き出される決断は既に告げた通りだった。
はぁ……と、土人形屋は大きくため息をついて言った。
「本当に……。恐ろしいほど動かすのが難しい人物のようだね……。……わかったよ。今日はこれまでにしておくよ」
呆れたようにように答える土人形屋の横を「それじゃあ」と声をかけて通り過ぎる。
「だけど覚えていてほしいんだ。
『取引』のためなら僕たちはすべてを『代償』として捧げられるというのを……」
その直後、背中から、声をかけられる。
気にせずに進み続けた。
それで言葉が止まるかと思ったが、土人形屋の男もまた気にせずに言葉を続けたため嫌でも言葉が耳に入る。
「例えば僕の住んでいる『ボロい屋敷』も、『魔族に精通した医者』の知り合いも、『領地の運営や組織』についての知識だって差し出せる。それらが、必要になってからでも構わない……。待っている。また会いに来てほしい!」
背後から必死にかけられるその言葉を──。
そのときは、そんなに真剣に受け取ってはいなかった。
適当に自分のもっているものを、並べているだけだと思った。
「──きっとどれも、あなたが必要なものになるから」
だからその言葉も軽い気持ちで、聞き流していた。
◇
──『この場所には医者が必要です』。
川沿いで遊ぶ千夏たちを目に入れながら、今朝したテレストとの会話を頭の中で繰り返す。
土人形屋の話は、思わぬ形で繋がっていた。
結論をどうするか……。まだ、そこまでは考えていない。
そもそも『考える必要』があるのかすらも、定かじゃなかった。
少し遠くから聞こえる、子供たちの遊ぶ高い声。
その声が徐々に思考で埋め尽くされていく頭の中を、からっぽにしてくれた。
ただ目の前の穏やかさに身を任している状態だ。ここ最近はこんなことがよくある。
「(『穏やか』、か……)」
思えば、人生で初めてのことかもしれない。それほど無縁だった。前の世界も含めて。
それがここにきて途端に続く『穏やかな日常』。
妙に現実味がなく、心がそわそわとして落ち着かない。
ふと、ティアルの言っていたことを思い出す。大陸を出たティアルがどうなったのか。
……つまるところ、俺は戸惑っているのだろう。
唐突に自分に訪れた、まるで典型的な、幸福を絵に描いたような日々に。
そんなの無いものだと思っていた。
漠然と耳にすることはあっても、実際にそれを体感したことも見たこともない。
みんな何かと戦って生きているから、そうなのだと思っていた。
だがそうじゃないのかもしれない。
世界のどこかに理想的な幸福がある。
もしくは頑張り続けた先に『境界』があって、そこを越えるとその先は幸福が続いている。
それが事実でそこに辿り着いた。
だからこんなにも『見たことはないが話にはよく聞く幸福のカタチ』がこうして毎日続いている。 もし、そうだとしたら……。
……俺のこれまでの考えは……間違いだったのかもしれない。
幸福に『強さ』も『戦い』も『諦め』も『孤独』も必要無く。
端からみれば勝手に難しいことをして、険しいところへ行って、厳しさの中に飛び込む。酔狂で変な人間でしかなかった。だとしたらしなくていい困難をあえて生み出して勝手に不幸になる様は、さぞ馬鹿のように見えていたことだろう。
ただ他の簡単な場所に移るだけで済む、楽な問題でしかなかったのに。
──『終焉の大陸にこだわる理由がわかりません』。
今ならテレストの言葉も、理解できるような気がした。
……何にせよ。
だからといってもう何が変わるわけでも無い。
状況は変わった。それに自分で決めたことだ。
これから時間をかけて慣れて、受け入れて、変わっていくのだろう。
もしかしたら千夏を育てる役目が終えたときの俺は『終焉の大陸』なんて戻らず、穏やかな幸福に包まれながら静かにひっそりとどこかで暮らしているのかもしれない……。そんなことを思った。
「はやく『勇者』になってみろっつってんだよ、ばーか!!」
ふと、言い合いのような声が聞こえてきて意識を戻す。
千夏とアウレンくんが遊んでいた場所からだ。今現在、そこには結構な人数の子供がいる。途中で集団がやってきて人数が一気に増えたのは見ていたが、友達がきたのだと思って黙って眺めていた。
しかし新しくやってきた子供たちは真っ直ぐにアウレンくんを取り囲んで言い合いを始めていた。リーダー格の大柄な男の子が、声を荒らげている。アウレンくんは俯いていて、元々一緒に遊んでいた子供たちが、雰囲気の悪さを悟ったのか散り散りになって逃げるように帰っていた。
気付けば、新しくやってきた子達を除いて、もともといた子供で残っているのはアウレンくんと千夏だけ。どうしていいかわからない千夏が、狼狽えて動けなくなっている。しかし全員アウレンくんにしか意識が向いておらず、千夏のことは目に入っていないようだった。
「勇者になんか、なれるわけがないのに、まだ言ってるのかよ。女や軟弱者とばっかりつるんでるお前がよー!!」
どん、と。肩を押されるアウレンくんは、体をよろけながらも俯かせた顔をあげない。
その様子をみてリーダー格の体格のいい男の子がフンッと鼻で笑った。
「(……これは……。どうしたらいいんだ……?)」
柵にもたれかかっていた体を起こして考えていた。
首をつっこむべきかどうかの判断に迷った。へたに首を突っ込んでも、後で見えないところで悪化するんじゃないか。そんな不安材料が躊躇させた。
「勇者なんて、無理にきまってる。さっさと諦めちまえばいいのによ!! ……なんだ、お前。まだ残ってたよ」
リーダー格の男の子が、狼狽える千夏に気づいて近づく。
同年代の子よりも大きな歩幅で、大柄な体がぐんぐんと近づいてくる光景に、千夏は怯えを強く表情に浮かべていた。
この時点で、様子が変わってきたのを感じて、俺は子供たちの方へ近づいて歩く。
「お前も! こんな勇者になるなんて、オカシイこと言ってるやつとつるむんじゃないぞ、分かったか! もし次つるんでるのを……こうだぞ!」
そう言ってリーダー格の男の子は、千夏に向けて、腕を振りかぶるように思い切りあげた。
……といっても、それは見るからに『ふかし』だった。脅すことを目的にした『見せかけ』で、本当に千夏に暴力を振るうつもりじゃないのは傍からみてすぐにわかった。そもそも彼らは軽く小突いたりはしてるが直接的な暴力は、ここにきてからまだしていない。
それが分かっていたから、そこまで心配はしていなかった。
「……ひっ……いやっ……」
──それが、『油断』だった。
拳をふるわれると思い、恐怖を感じた千夏が、自分を守るように咄嗟に顔の前を腕で覆った。
それと同時にびちゃびちゃと辺りに血飛沫が飛び散る。その瞬間はまるで時間がとまったように静まっていた。全員が地面に落ちた血と起きた出来事を、呆然とした顔で何度も見比べている。そして理解した子供から、顔が青くなっていた。
後々振り返ってみても、このときのことは後悔しかなかった。
俺はこのとき『千夏に暴力を振るわれないように』ということだけを考えていた。
だから全くその考えが頭に無かった。
『千夏が暴力をふるわないか』なんてことは。
「え……?」
千夏が自分の手の平を信じられないように見つめる
そこには長く鋭利にのびた『爪』が千夏の手から伸びており、触れるものを傷つけるための形をしたそれは、実際、その用途通りに使われたことを示すかのように血がつき、滴り落ちていた。
「ひっ……」
呆然と自分の手をみる千夏が、周りの漏らした声に気づいて視線を逸らす。
逸れた視線の先では、表情を恐怖に染めながら後退りする子供の姿があった。
「爪が……のびて……」
「『魔族』だ……『獣人族』……」
「凶暴で恐ろしい……人食いだ……」
「ち、ちが……」
微かな反論の言葉と共に、取り繕うように爪が短くなる。
だがそんなことで取り繕えるような状況では、もう無かった。
顔がズタズタに切り裂かれたリーダー格の男の子は、切れ目を入れた豆腐のように赤い線が張り巡らされた顔にゆっくりと手をあてる。そしてべったりと血のついた手をみて、涙を滲ませながら、叫び声をあげた。
「いってええ!!! いてえ……いてえよぉぉ!! 血が、血があああ!!!
……えっ? あれ?」
「……大丈夫か?」
リーダー格の男に声をかけると、不思議そうにこちらを見たあと、再び自分の様子を確かめて呟く。
「え、どうして、傷が……」
「今【回復魔法】を使って治したんだ。傷はもうないと思うけど……大丈夫そうか?」
「え、あ……。ほ、ほんとだ。傷が……すげえ……ありがとうございます!!」
「いや──」
「あ、そうだ!! それよりも大変です、街に『魔族』が入り込んでるんです!! こいつ!! 早く捕まえて殺さないと!!」
そう言って、リーダー格の男の子は千夏のことを指さした。
真っ直ぐにこっちを見る瞳は、恐怖を感じながらも勇気を振り絞ったものだ。本当に心の底からこの場にいる子供達を助けるために言ってる。そのことが、目をみて分かった。
向けられた指の先にいる千夏は、真っ青な顔で震えながら立ち尽くしている。
「……俺が、この子の保護者なんだ。
痛い思いをさせて、申し訳ない。できればこの子と一緒に謝らさせてくれないかな?」
そう答えた途端、男の子の表情は絶望に染まった。
一度恐怖の目で千夏に視線を向けたあと、同じ視線で俺を見た。
そしてほどなくして、男の子は立ち上がり、踵を返して走り出した。
「「うわぁ〜〜〜〜〜!!」」
それをきっかけに残っていた子供たちも、全員が半泣きで逃げ去っていく。
まるで化け物にでも遭遇したかのような有様に、ため息を吐き出したくなる。
もはやこの場に残っているのは、千夏を除いてアウレンくんのみとなっていた。
「アウレンくん──」
「ひっ……」
俺が声をかけると、アウレンくんは怯えたように声を漏らす。
そして、その直後……。
ぱたぱたと音を立てて、アウレンくんもまた、この場を走って立ち去ったのだった。
「……はぁ」
たまらず、堪えていた息を吐き出す。
「うぅぅぅ…………」
千夏から小さな声が聞こえて、振り返る。
ぽたり、ぽたりと。滴が地面にこぼれ落ちていた。
雨は降っていない……。
それなのに千夏の顔の下の地面だけが落ちた滴で濡れていた。
「ぅぅぅぅぁ……ぁぁぁぁぁ……」
立ち尽くしながら、千夏は泣いていた。
まるで凍えたように体を震わせている。
そして体温を奪われてしまったかのように、肌も真っ白になっていた。
「一度帰ろう……千夏。落ち着いたら、また今度、一緒に謝りにいってみよう」
千夏からの返事は一向に返ってこなかった。
いつまでも泣き止まない千夏を、俺は背負って連れて帰った。
でも結局その後──千夏に言った『今度』が訪れることは、無かった。
数日経ってもそのチャンスはない。それどころか日々状況は悪化している。
「はぁ……」
一人で家の椅子に座りながら、息を吐き出した。
家の中で俺の他に人気はない。最近はあまり来てほしくなかったので、『部屋』の連中には来させないように言っていた。
コン、コンコンと。
家の中を石が転がっていく。
窓の外から投げられた石を遮る窓はもうとっくにない。だから大抵が、直接壁や床を何回か跳ねて、床で散乱している石や割れたガラスの破片に同化するように混ざる。もはや掃除をする気にもなれなかった。
……この数日の間に、何度か謝りに行こうとしたが、一度として取り合ってもらえることはなく。それどころか、住んでいるこのあたりの地区では噂が広まっているのか、外を出歩いても忌避する目をむけられ、文句を言われる始末だった。隣の家からも引っ越してくれないかと言われている。
しかし非が一方的にあるのはこちらなのだから、仕方がない話だった。
一応建前として魔族じゃないとは言い張っているが、俺たちを責め立てる彼らの言葉に間違いは何一つない。人間の子供を傷つけた魔族。それは紛れもない真実だ。
だから黙って、すべてを受け入れるしかない。
「……それにしても、ここまでひどいとは思わなかったが」
家の壁が魔族を罵倒する言葉の落書きで埋まったのもあっという間だった。
最近学んだ知識がこんなとこで発揮するのは、なんだかなと微妙な気分だ。
ふと、香ばしい匂いが漂う。
それは一瞬、いい匂いに思えた。でも最初のほんの数秒だけだ。
徐々に限度を超えた、物が焼ける臭いへと変わっていく。
すでに何が起きているのかは、想像するまでもなかった。
パチ……パチ……と、どこからか音が立ち始める。それと同時に床の木と木の間から、漏れるように煙が立ち昇りはじめた。徐々に床の木は黒ずみ、侵食するようにゆらゆらと火が現れ、揺れだす。その火はあちこちに燃え移り、侵食し、勢力を強めて広げていっていた。
家が燃えている。冗談でもなんでもなくそのままの意味で。
木造だからか、火の着きも悪くなく、よく燃えていた。
ここまでするのかという驚きと、くるところまできたという納得が、同時に感情として胸の中にあった。
……やっぱり誤算だったのは、《ステータス》だけで魔族をわかった気でいたことだろうか。
あるいは人間がここまで魔族に対して忌避感が強いことも予想だにしていなかった。
「(そもそもぽっと出に現れた人間が、唐突に社会の恩恵を得ようなんて考えが、ムシのいい話だったかな……)」
そう思いながら椅子に座って、眺めていた。内側から見る機会はなかなか無い。
静かだけど幸福を感じさせた『穏やかな日々』の象徴だった家が、燃えていく。
煙で肺を満たすだけの呼吸は苦しい。
熱が肌を炙ることに痛みを覚え、あちこちで起きる破裂音と視界を覆う炎は恐怖感を強く煽った。
──それなのに、なぜなのか。
こんなにもこの状況が『心地がいい』のは……。
まるで故郷に戻ったかのように、心が落ち着いて澄んでいくのを感じる。
『穏やかな日常』──なんてときよりも。
「…………は、は……」
無意識に口から声が漏れ出ていた。
しかしそのことに気づくことは最後までなかった。
◇◆◇◇◆◇
煌びやかで格式ばった正装の男が道を歩いている。
その格好はテールウォッチの一般的な庶民街では少し浮いていた。
しかし男のさらに後ろでは鎧を身に纏った人影がぞろぞろと続いているのを見ると、初めから馴染む気など毛頭なさそうだった。道行く人を無言のうちに威圧し、自然と開かれていく道を堂々と進んでいた。
「『レベル1の男』。居場所はこの辺りだと言っていたが……本当の情報なのだろうな……。冒険者ギルドの奴らはいまいち信用ならん。情報も出し渋っていた! 魔族の繋がりが噂になって、ついぞ折れたが──誰が我らの目に疑いを持っているというのか! 噂などなくとも、素早く情報をよこせばよいのだッ! 全く……。
…………。ところで貴殿はなぜ、ここまでついてきているのだ?」
隣でニコニコとしている女に、正装男は話かけた。
正装男と鎧集団が街から浮いているとすれば、その女はむさ苦しい男たちの集団から浮いている。見た目の麗しさも、柔らかく神秘さを感じる装いも、連れている二人の女性従者も。何一つ正装男の集団とは噛み合っていない。一つの集団というよりも、二つの別の集団が一緒にいるだろうことは、他所から見ても簡単に予想できそうだった。
「お気になさらず」
女はそう言って微笑む。
「…………」
その返答に、正装男の怪訝な顔は晴れなかった。
「我々『シープエット』は、貴国から要請を受けて、我が国の保有する『転移の神器』による『南シープエット大陸』への転移にあなた方を『同行許可』しました。ですが!! 転移先での行動はお互いに別行動だと!! ……話はそんな風に伺っていたのでありますが?」
「…………」
「むっ……」
にこりと微笑んだまま、返ってこない返事に戸惑う。
ごほんと、仕切り直すように咳払いをして、正装男は女に告げた。
「そもそも我らの目的と、貴殿らの目的は全くの別! 我らについてきたとて、『厄災の子』の手がかりも得られず、意味もなく、役にも立たないと思うが! それでもついてきたいのですか!」
「えぇ、わかっています。構いません、それで」
「ふむ……。もしや曖昧な任務ゆえに当てが無いのですか。それは大変ですね!」
同情気味にそういうと、女はふふふ、と笑った。
「確実に、近づいているような、気がしてますよ」
「……ならば、ついてきても構わないことにしましょう!! 我々『シープエット』と貴殿ら『ニア・ヘイヴ』は同じ『人間国家同盟』の仲間!! ですが!! いいですか!! くれぐれも邪魔だけにはならないよう、お気をつけください」
「はい、わかりました。──ところで、あの……どこかで火事が起きているようなのですが」
「む……。ほう?」
女が指差した方を見る。
その先のでは確かに、何かが大規模で燃えているようだった。
不自然に夜の暗い空を明るく照らし、もうもうと煙が大きく立ち昇っている。
「あの辺りは……我らの『目的』の場所ではないか!? 急ぐぞ!!」
急ぎ移動して、正装男たちの目に飛び込んできたのは、冒険者ギルドに提供された情報に載っていた家屋。それが炎に覆われている様子だった。
周囲には野次馬がいるが、誰も助けを呼びに行ったり心配している様子はない。
その光景に正装の男はフンッと鼻をならした。
「魔族を匿っていた噂が事実なら、当然の結果。人間に対して、仇をなすからだ!! ……しかしこれでは目的の相手が生きてるかどうかわからないな。対象が本当にレベル1なら、これで死んでる可能性も……」
「──今、中から『笑い声』が聞こえました」
「……なんですか?」
「中へ入りましょう。生き残りがいるかもしれません」
「……なんだって? この火事の中を? ちょっと待ちなさい……ちょっと! 全く!! 『勇者』だからと婦女子がむやみに炎の中に飛び込むなど! しかし──ここで一人でいかせては『騎士』と『勇者』の称号に傷がつくというもの!! お前たちはそこで待機してろ!」
そうして中へ入っていく女に続き、正装男も燃え盛る家の中へ飛び込む。
中に入り、真っ先に口と鼻を覆った。呼吸に紛れこむ熱と煙が苦しい。
どれだけレベルをあげようが人の体の構造すら変わるわけじゃない。対応するスキルがない限りはレベルがいかに高かろうと人は人だ。種族としての脆弱さを、こういうときにもどかしく感じる。
とはいえ服に覆われた部分が全くの無事なのは人間の技術と金の力のたまものだ。
そういう意味では人間の進歩もまた同時に感じられた。
「ひどい有様だ」
中へ入った正装男はつぶやいた。
一階の部屋はゴミが散乱し、それに火がついてか腐臭を撒き散らしている。
綺麗な場所と汚い場所がちぐはぐで、おそらく位置的に、外から投げられたゴミのようだった。
「どこへいく!」
二階へあがっている途中の女を見かけ、声をあげる。
「見ての通りです」
こちらを意に介さず二階へ登る女を「全く!」と文句をたれながら追っていく。
階段をもう少しで登り切るという場所で、声をかけられた。
「私は奥の部屋をみてきます。あなたは隣の部屋をお願いします」
そういうと女はこちらが返事をする間もなく、ずけずけと奥へ進んでいってしまう。ため息をつきながら階段を登りきると、その場で女が戻るのを待ち続けた。
「……誰もいませんでした。物すらも全然ありません。本当に人が住んでたのでしょうか。隣の部屋はどうでしたか?」
女の尋ねに、正装男は狼狽えながら答えた。
「隣の部屋とはなんのことだ?」
「……なんのって、隣の部屋は隣の部屋です。それ以外に言いようがありますか?」
「隣の部屋など、ここにはない。あるのは、貴殿の進んだ奥の部屋だけだ」
「……ですが、確かにそこに『扉』が」
そう言って女は視線を向けるが、そこに扉は、無かった。
女は「……ない、ですね」と言葉を詰まらせながら言葉を返した。
「そもそもそんなところに扉があっては、建物の大きさ的につながる場所は外。いくらなんでもそんなことあるまい」
「……そうですね」
「それよりもいい加減、建物が崩れる。速やかに脱出するべきだ」
そう言って、二階から直接二人は外へ飛び出して脱出した。
数分後。
燃えて崩れる建物を目に入れながら、女はつぶやいた。
「見間違え……。
いや、確かにありました。あそこには、『扉』が……」
誰に言うでもなく、自分に言い聞かせるような言葉だった。
だが結局その日の任務は誰も進展をせずに終わりを迎えた。
燃えた家の瓦礫には誰も近づかなかった。だから長いこと撤去されずに瓦礫は残り続けていたそうだが、そのことを彼らが知ることはなかった。
 




