第104話 『穏やかな日』
ふとした拍子に、本から顔をあげると
窓の外が白んでいるのが目についた。
「朝か……」
本を置いて立ち上がり、窓に近づいてカーテンを開けると、途端に大きな川が目に入る。昇ったばかりの、きつい角度から差す日差しが水面をぼんやりと輝かせていた。さらに窓を開くと、少し冷たい風が『家』の中まで入ってきて、洗い流すようで心地がいい。その空気を深呼吸で体の中にまで取り入れてしまえば、体は完全に朝を迎えるに万全の状態だった。
今日も……穏やかで、爽やかで、綺麗な朝だ。
こんな朝を、最近はもう何度も繰り返している。
「サイセは本当にいい家を見つけてくれたな……」
家に移り住んで、今日でもう十日。
あのドラゴンの騒動からは、もう半月近く経ったことになるのか。
白虹鳥の羽を売った資金で買った家は、あまり広くはないが縦に長い、木造の二階建て住宅だった。
渋い焦茶色の色合いと、二階から見える川向こうの街並みまで見える景色が気に入っている。こっち側の街並みとはまた一風違う景色だ。
「さてと……今日も一日の始まりか……」
満足して窓をしめると、文字の勉強道具を片付けた。
家の中は、あまり家具や物がない。
最低限の分しか……いやそれにすら届いてないかもしれない。
これだと素寒貧か、もしくは人間味が無く見えそうだ。少なくとも人がここで生活しているとは思いがたい内装だ。
でも……問題は何もなかった。
家の部屋に置かれた一つの『ドア』に向かい、取手に手をかけて開く。その先にある高級ホテルさながらの、広い『ラウンジ』に足を踏み入れた。さっきまでの何もない家とはかなりの落差だけど、それはもう慣れたものだった。
まばらにいる住人に軽く挨拶をしながらラウンジを進む。
「(少し『ドア』がまた増えてきたな……)」
別大陸に来てからドアをすべてラウンジに設置してるためまた増えてきた。
早めに整理しないと……。また面倒なことになるな……。
そんなことを思いながら、さらに別のドアを開けて中へ入った。
行き先は『リビング』だ。
基本的に、俺と春の生活空間として住人たちには認知されている。
この世界にきて初めて作った『部屋』も、今じゃ【カスタマイズ】で見違えるほど変わった。
『玄関』で靴を脱いで『リビング』に入り、大きな窓の先で庭のように広がっている『水場』を横目に入れる。最近増えてきた千夏用の遊具を思わず見てしまうが、あまり遊んでいる形跡はなかった。
構わずリビングの先へ進んでいく。
奥には『廊下』があり、そこに各自の『私室』へ繋がるドアが置かれている。
全部で『六個』──春、冬、日暮、よもぎ、千夏。そして俺の部屋だ。
一つのドアを選んで、中に入った。
暗い部屋の中にはベッドが置かれており、その上で小さく布団が盛り上がっている。その場所から小さな寝息がきこえた。
布団の盛り上がりに手を当てて、揺すりながら声をかける。
「千夏、朝だ。起きるんだ」
「…………んん……」
寝ぼけ眼の千夏を起こして、一人でリビングへ先に行かせる。
そしてもう一つ、別のドアを選んで中へ入った。
「日暮──はもう起きてたか。……また寝てないのか?」
「…………」
「日暮?」
「あ……秋……。もう、朝……なんだ……。
ごめん、すぐいく……」
「…………」
暗い部屋で明かりもつけずにベッドに腰を掛けていた日暮は立ち上がって、ふらつきながらリビングへと歩いていった。
リビングに戻ると食事を春が並べているところだった。
千夏はすでに座っていて、その隣に腰掛けて、全員が座ったタイミングで挨拶をして食べ始める。
……ちなみによもぎは起こすとすごく怒られるので起こしていない。
それに冬もいないから、大きなテーブルとそれを囲う空席の多さが、なんだか寂しいことになっていた。
ここでは『食事は一緒にする』なんてルールはないから、別に問題があるわけじゃないが。俺自身、あまり気にする方じゃなかった。ただ千夏が増えてから、一緒に食べる機会が自然と最近増えた気がする。
「千夏は今日午後は遊びにいくのですか?」
春が尋ねると、千夏は食べる手を止めて、うなずく。
「出歩く時は秋様や誰かと一緒に出歩くんですよ。一人で遊びにいくことがないように。
あなたはどうするんですか? 坂棟日暮」
「…………」
「……聞いているんですか?」
「え……あっ……わ、私は【トレーニングルーム】にでも……」
「……またですか?」
「だけど……。街をベリエットの勇者が出歩いているなら……これくらいしか今はできることが……」
「確かに、そうですが……」
そう答えながらも春は訝しげに日暮に視線を向ける。
そんな視線に日暮は気づかないまま、心あらずといった様子で食事を進めていた。
日暮は周囲が気がついていないと思っているのだろうか。
明らかに様子が変わりはじめたのは確か、ちょうど『ドラゴンが出た日』だった。その日からどこか日暮が暗い雰囲気を出すようになり、あまり眠れていないのか目の周りの黒さも日に日に増している気がする。
何かがあったのは、明らかだ。
春も心配そうに尋ねているのを何度も見かけたが、日暮は「大丈夫」としか答えていなかった。
「…………」
そして俺自身も、特に日暮に尋ねたりすることもない。
本人がしたいことをしたいようにするしかない。
誰にも変わらないスタンスを例外なく日暮にも当てはめるだけだった。
だからこれは俺にとっての問題ではなく、『穏やかな日』はその日もまだ途切れることはない。
食事のあと少し休憩をして、千夏と『図書室』に移動した。
午前中はそこで『勉強』をするのが、最近の日課になっていた。
この時間は、基本的に俺が千夏に教えている。
簡単な計算とか常識的なこと、それと『帝国語』と呼ばれる日本語についても。
だが手が空いたときなんかは、こっちの世界の文字を読めるよう、自分の勉強もしていた。
その後昼時には一度切り上げて、休憩がてら『ラウンジ』に戻って昼食を食べる。
そして午後も、もう少しだけ勉強の時間を続けるのだが、先生役はサイセだ。千夏と一緒に俺も世界のことや文字を教わる側にまわって学ぶ。最近はそのおかげか、テールウォッチにある看板も【鑑定】無しに少しだけ読めるようになってきた。
前の世界でおやつを摘みたくなるくらいの時間帯で、長かった勉強の時間は終わりだ。
そのあとは自由時間としているが、ほぼ街にでかけたい千夏についていくことになる。
最近はアウレンくんや他にできた友達と一緒に遊びに行くことが多い。
それが最近の大まかな『一日のリズム』だった。
『外』で『流れ』が出たときや、用事があるときはこの通りにはいかないが、それでも『安定した日々』を送っている。
おそらく今日も、同じような日になるはずだった。
典型的な穏やかな一日を、今日も、つつがなく。
その予定がほんの少しだけ、ズレたのは──。
午前の勉強を終えて、昼前に千夏と『ラウンジ』へ戻ったときのことだった。
昼時だからか住人の数は、朝方よりもそこそこ多い。
だが『ラウンジ』を使うような人型の住人は『部屋』全体でも百もいるかどうかだ。
相当広い 『ラウンジ』のキャパシティに対してまだまだ空席やスペースが目立つのが現状だ。
それは最近、丸々一つの【村】が増えたからといって変わることはなかった。
そもそも『彼ら』の姿をラウンジで見かけることはほぼない。魔物を怖がっているのか、遠慮しているのか。あるいは関わることが好きじゃないのか。そこまではわからないが。『ラウンジ』に繋がる『ドア』がない……なんてことは、もうないはずだ。
そんな状況の中で唯一、一人だけ『ラウンジ』で見かける『花人族』の姿がある。
その日はちょうどたまたま、その姿がラウンジにあったのを見かけた。
テーブルを囲うように置かれた四つの一人がけソファ。
そのうち『二つ』を埋めて、座っている彼らのところに近づいて声をかける。
「ここ、座っていいか?」
「……あなたは。……ええ、どうぞ。ここは『あなたの場所』です。
許可なんていりませんよ。新参者の私に拒否なんてできませんし」
「それでも一応な」
相変わらずな『テレスト』の答えを聞いたあと、千夏と一緒に残ったソファの席を埋めるように座った。
昼食を【アイテムボックス】から出してテーブルに並べ、千夏から向けられた視線にうなずいて答える。千夏は小さな手を合わせて挨拶をすると、啄むように食事を始めた。
そんな千夏をどこか微笑ましげにテレストはみている。
それから浮かべていた表情のすべてを消して、こちらに視線を向けて言った。
「……あなたが、顔見知りとはいえ、そこまで親しいわけでもない人のところにまできて相席をするとは驚きです。そんな性格の方だとは思いませんでした」
テレストはティーカップを傾けながら、言った。
──ラウンジの端にはひっそりとしたテーブルカウンターが設けられている。
カウンターの奥には替えの使用人の服が置かれているが、そこに紛れて【給湯室】に繋がるドアも設置されていて、世話好きな使用人が手の空いているときにコーヒーや紅茶を入れてそこで振る舞っているのがラウンジではよくみられる光景だ。
まぁ主に紅とか錦が、だけど……。
今日も振る舞われている日のようだ。
ちなみにコーヒーや紅茶といっても本物じゃない。【農園】で一応栽培しているものの種が高くて量が振る舞えるほどないから、終焉の大陸で採ったそれっぽいものを片っ端から試して作っている。そのためにほぼ実験となっているときもあり、時々すごく不味いものがあるが……そこらへんはご愛嬌だ。
今日はどうやら大丈夫みたいだ。
「まぁ……これぐらいはな」
思考を戻し、テレストの言葉に返す。
「えぇ、本当によかったです。
会話が続かないから二人きりを避けている……とかではなくて」
「…………はは」
手厳しいな……。
「そっちも随分と珍しい組み合わせだな」
空いていた席は、『四つ』のうち『二つ』。半分は初めから埋まっていた。
つまりテレストには連れがいて、俺たちが来る前からそこにいたことになる。
今もまだいるもう一人に目を向けると、少し狼狽えていたが、持ち直して口を開いた。
最初からいたテレストの連れは──『ゴブリン』だった。
「え、えと……ご無沙汰してます。秋様。おら、『勘八』です」
「あぁ」
【村】に住むゴブリンの一人だろう。あまり面識はない。
俺はゴブリンの全員を完璧に覚えてるというわけではない。
顔を合わせることも多いが、とにかく『入れ替わり』が激しく、数が多くて顔も見分けるのが少し難しい。だからだ。
ただ勘八は、村のゴブリンの中では少し特徴的な方だった。
体の線が他よりも細く、目つきが異様に悪い。
なのに物腰や言動が柔らかいのが妙にギャップのあるゴブリンだった。
だから……不思議だった。
「その名前は、たぶんだが、俺が名付けたゴブリンで……合ってるよな?」
「えと、はい。そうです、秋様」
「やっぱりそうか。曖昧で、悪いな。皆名付けたときから様子がどんどん変わっていくから、印象が一致しないんだ」
「えと、無理はないと思います。はい。なんせ、ものすごい数の名前を、つけておられますから、秋様は。はい」
「…………そうか」
話をすればするほど、不思議な気持ちは強くなる一方だった。
その理由は、明確だ。
「こんなに特徴的で、流暢に話せるゴブリンなら、一度会ってさえいれば覚えてないはずがないけどな」
そう、こんなにちゃんと言葉を話せるゴブリンはわずかだ。赤黒青の三人と、剛くらいだろう。若干赤と青が怪しいが。
それに比べて勘八の話す能力は迷わずこのゴブリンたちと並べていい能力の高さがある。
だから俺が存在も知らず、名前を覚えていなかったことが、単純に不思議だった。
「えと……それは……」
ばつが悪そうに口籠もる。
なんだろう……? 思わず首を傾げると、テレストが言葉を続けた。
「あまり『村』から出ることがなかったそうです。彼は、村人全員で『匿われていた』そうですから。だから会う機会もなかったのでしょう」
かなり驚きの言葉だった。
「……匿う? そんな必要、あるとは思えないけど。なんのためにだ?」
「えと、それはその……。おらが、『弱い』からで……。はい……」
「『弱い』……」
「彼は終焉の大陸の──ここだとみなさん『外』と言っていますが。そこで毎日行われてる戦いに混じれずにいたようです」
「え、えと……。おら、目があまり見えなくて、レベルも皆より低いし、何にも戦う能力がないから皆の足引っ張っちゃうので……」
「この場所ではどうやら『弱い人』の居場所があまりないようですね。だからゴブリンさんたちは彼を村からあまり出さず、あなたや他の方々に会わせなかったようですよ」
「…………」
会わせなかった、か……。
──結局のところ世界は強者が生きて、弱者が淘汰される。
それが明確な事実だ。
何が『強さ』なのかに問題はあるものの、構造自体に変化はなく。
そこに不満や文句があって言葉にしたところで、世界が何か配慮してくれるわけでもない。
終焉の大陸で生まれる魔物のレベルも、刻一刻と変化する環境も、変わらない。
俺はそう考えている。
だがそれを『部屋』にまであてはめようとは思っていない。
思っていない……が、俺自身の考えが『部屋』の雰囲気に影響を与えていて、そういう状況を作っていると指摘された場合、否定できる根拠を何一つ持っていない。それも確かだった。
「最近私は、ここでも『薬師』として活動をさせてもらっています」
それは聞いている。
『調合室』を使っていいかどうかの許可をこの前求められた。一応千の管轄に入るが、決められた人しか使っちゃいけない『部屋』なんて無い。入っちゃいけない『部屋』はあるけれど。それ以外なら好きに使えばいいと思うし、許可なんて本来は必要ない。
「この場所で自分は何ができるのかを考える過程で、色々と見て回りました。その中にゴブリンの方々の生活も含まれていましたが……。日々身を削って、凄まじい生と死の間で鬼気迫りながら生きる彼らをみて、確実に今、私の『薬』を一番必要としている人たちだと真っ先に感じましたよ……」
テーブルにかちゃりとカップを置いてため息をつきながらテレストはいった。
「彼らの状態は薬師として見過ごせるものではありませんでした。凍傷、熱傷、外傷、魔傷。さまざまな傷を負って帰ってくるものの、彼らの治療方法はあまりにも力任せで、ずさんです。生命力や再生スキルを頼って治すにしても知識と技術はあるべきです。そうでないと『傷は治った、体は動かない』なんてことになりかねません。私は薬師としての使命と……自分の価値を示す打算で、ここ最近はゴブリンの村に通っていました。最初はかなり強めに煙たがられていましたね……」
ゴブリンといえば、体躯は立派でも中身は好奇心旺盛な子供のようなものだ。
少なくとも俺はそう思い、日暮もティアルもすぐに受け入れられたのをみて、花人族とも勝手にうまくやると思っていた。
だが実際はそんなこともなく、テレストの語るゴブリンは俺の知らない側面だった。
「そうして数日間毎日顔を出して薬を処方していると、ほんの少し警戒は解けてきたように思いました。それと同時にゴブリンの長らしき方が、私のところにやってきたのです。彼は一人のゴブリンを連れて、私に告げました」
──『こいつを使ってやってくれねえか。手足のように、好きに使ってくれていいからよ』
それがどうやら勘八だったようだ。
「その申し出は、正直に言ってありがたいものでした。治療薬の作成、ゴブリンの体に対しての資料作り、素材の受け取りと効力の調査、試薬の実験などやることは湯水のように湧いて出てきます。私は彼を受け入れ、現在彼は助手ということで手伝ってもらっています」
まだつい先日のことですが……とテレストは最後に付け足した。
「そう……。剛が、か……。なんだか意外だな」
「おらみたいな『戦えないゴブリン』は、昔からいました。少しだけど……」
勘八の言葉に耳を傾ける。
「おらみたいなやつに、みんな、優しくしてくれます。無理して戦わなくていいって、食べ物持ってきて、分け与えてくれます。分けてくれる仲間が死んじゃったら、別の仲間がやってきて同じようにしてくれます」
そうして毎日のように分けてくれるゴブリンが代わることもあると勘八は淡々と言った。
「そんな日が続いていくうちに、みんな段々耐えきれなくなって、外に戦いに行きます。皆止めてくれるけど……無理やりついていくか、一人で勝手に出ていきます、はい。それで戻ってきた人、誰もいません。おら以外の人みんなそうやっていなくなりました」
「…………」
「…………」
「でもおら、戦いにいった皆の気持ち、よくわかります。食べ物をわけてくれる優しい皆が、外で戦って傷つき死んだ結果、おらみたいな能無しが生き残る理由、わからないです。はい。皆の命引き換えにするには、割りに合っているとは、すごく思えない。だから頑張っておら、役に立ちたくて言葉の勉強とか、やってました。それでも『限界』が近いと思っていたとき、親父が最近『部屋』の雰囲気が変わってきた、お前にも何かできることがあるかもしれないって、テレさんのところ、連れて行ってくれました」
雰囲気がかわったのは、『花人族』がやってきたからか。
あるいはそれよりも『前』からなのか。
「……私も、初めはゴブリンをみたときは驚きましたが、まともなことがわかると別の意味で驚きましたよ。時折見かける他の魔物はまだ怖くてあまり近づけてないですが、きっと同じなのでしょうね……。
もしですが、彼らと『交流』して互いに『協力』ができれば、花人族の苦しい現状も変わり、もっとたくさんの何かが切り拓ける予感がします。ですが私以外の方達は、怯えて村から出てこず、他の方々とも距離があるのが現状でして……。せめて……私たちにも何か『戦う力』があれば……横並びになれると思うのですが……」
どこか憂うようにテレストは言葉を続けた。
「ここに来て、終焉の大陸の凄まじさを目の当たりにしました。こんなにも厳しい世界がこの世界に存在するなんて想像できませんでしたよ。そこで懸命に生きる、住人の方々の力も計り知れません。ですが結局、そんな方達の命の中核にいるのはあなたです。樹海では得体の知れなかったあなたのことが、ようやくわかったような気がしますよ。この能力もあなたの力も、すべてが次元が違う」
「…………」
「ですが私みたいな弱者は考えてしまうのですよ。『もっと楽なやり方』を。本当に終焉の大陸に接して、そこにこだわって生きる必要はあるのかと。未開で豊かで、でもここより楽な場所なんて腐るほど世界にはあります。そこに拠点を移せば日々の生活は楽になる……なんてことをですね。意味のない考えかもしれませんが、皆あなたみたいに強くはなれませんから……」
それから少しの間、沈黙が続いた。食事の手を進めて食べ終える。
その少しあとに、テレストが再び喋りかけてきた。
「そういえば今人間の街で生活をしているようですね。
それは千夏さんもご一緒に……ですか?」
「あぁ、そうだよ」
「私はあまり人間の子と魔族の子を一緒に過ごさせるべきじゃ無いと思います」
「…………」
「あまりにも違いすぎるからです。さらにそのうえお互いに違いについて知らず、しかし知るために割く時間も余裕も意思も互いにない。離れることはとても『最適な解決法』です。これは魔族ではなく『薬師』としての意見です。出過ぎた意見なのは承知ですが……」
「……とりあえず聞かせてくれるのは助かる。ひとまず頭に入れておくよ」
ありがとうございます、とテレストは言った。
「それともう一つ。この場所には『医者』が必要です」
「医者……」
「私の専門はあくまで『調薬』です。きちんと体の支障に向き合うならば、医者の存在はかかせない。特に魔族の体への知識を持った人が必要です。それだけで複数の種族に精通していることは間違いないですから。あなたにも必要なんじゃないですか?」
「俺に?」
「彼女のために、です」
そう言って千夏へテレストは視線を向けた。
そうだ。今のところ目立った問題はないが、千夏に起きてることは前例がない。それはいつなにが起きてもおかしくないということだ。ならば対処として医者を抱えるというのは必要だ。テレストの言葉は正しい助言だった。
「……確かに。分かった。少しどうするか考えておくよ」
……医者、か……。
…………。
……これは幸か不幸か。
ちょうど『魔族に精通した医者』には心当たりがあった。
まさかここで話が出てくるとは思わなかったが……。
しかし幸か不幸かと言っても、前者であるとはなぜだか思い難かった。
それから少しの時間真面目な話がテレストと続いてしまった。
ゴブリンの勘八は目を細くして睨みつけるように書類と睨めっこしている。
千夏はご飯も食べ終わり、退屈そうに足をぷらぷらとしていた。
そんなあまり聞いてて面白くはない会話を、明るい声が遮った。
「おっ、おったの! 秋よ、わしじゃ!」
「……ティアルか」
かけられた声に振り向くと、小走りに手を振って近づいてくるティアルがいた。
なんだか心なしか、いつもよりテンションが高い。
「秋、この後の時間は空いてるかの?」
「とりあえずいつも通りに過ごそうかと思ってたから、時間があるといえばあるけど。何かあるのか?」
「約束したであろう? 人間の街へわしも行くと。今日がそのときじゃ。ほれ、これから繰り出すぞ!」
そういえば、確かにそんな約束をしていたっけ。
最近あんま会ってなかったから、少し忘れかけていた。
とりあえず、行くのはいいけど……。
「さすがにその格好のままだと、きついと思う。そこらへんは大丈夫なのか?」
「問題ないの。少し着替えてくるから待っておれ。
テレスト、申し訳ないが秋はわしが借りていく。よいかの」
「大丈夫です、ティアル様」
テレストは立ち上がり、丁寧にお辞儀しながら答えた。
「千夏も、すまぬが遊びに行く前には返すからの」
そういうと千夏はこくりとうなずく。
それをみて微笑ましい笑みを浮かべながら千夏の頭をティアルは優しく撫でた。
「それじゃあ少ししたら戻ってくるから待っておるんじゃ」
「あぁ──俺も少し準備するか」
そしてテレストとの会話も自然と切り上げ、千夏を【図書室】に連れて行ってサイセに預けた。午後の授業には俺が出ないことを伝えたあと、念の為春にも予定を伝えて、着替え終わったティアルと合流し──
『リビング』から再び素朴な家へと戻った俺たちは、街へと繰り出した。
◇
「ほう……これが人間の街かの……」
興味深そうに、街を見回すティアルの横を歩きながら思う。
結構うまく誤魔化せるものだ──と。
今すれ違った人が魔王だと気づかずに進んでいく人を傍目に見ていて感じた。
ティアルの格好へふと、目を向ける。
ゆるいシンプルなワンピース。
普段ティアルがそんな服をきているのを見たことがない。
背中にはリュックを背負っているが、背中側がくり抜かれているためリュックとしての機能はない。代わりに、悪魔族の特徴的な翼はすっぽり覆われて見えなくなっている。
もう一つの特徴である角は帽子を被って、はみ出した部分を帽子につけられた花や羽といった飾りがうまいこと覆い、ほんの少し見える部分がまるで飾りの一部みたいになっている。
いつも結んでいる片側の髪もほどいていて。
そこにメガネをかけているためか、普段と人相と雰囲気も、がらりと違う。よくも悪くも、出かけている普通な格好をした女性の一人……という感じだ。いつもの刺激的な格好よりも幾分落ち着いていているように思う。
確かに見た目はかなりごまかせていた。
だけど、なんだか随分と『手慣れている』のが……少し気になった。
「そんな心配な顔をせずとも、純粋な人間の国に行ったのは『一回』だけじゃ」
「……一回だけといわれても。やっぱりやってるし」
「ほんのちょっとだけじゃぞ? 碌に街にも出ておらぬ。それに目的を達成したからすぐ退散したからの。そのときはあまり好奇心を満たせんかった」
「何をしにいったんだ?」
そう尋ねると、ティアルは優しそうに笑う。
そして耳に顔を近づけられて、ひそひそ声で小さく答えた。
耳にかかる吐息が少しくすぐったかった。
「『魔術』をちと──盗みにの」
「…………」
物騒なことだった。
耳元で囁くことじゃない。だが往来で言うことでもないし尋ねた俺が悪かったな……。
黙りこくった反応を面白がってか、くつくつとティアルが笑っていた。
「……それで街にきた感想は、どうなんだ?
やっぱり種族が違うと、結構変わったりするものなのかな」
気を取り直して、話を変える。
若干変えることが目的に思えなくもないが、気になっていたことでもあった。
「……いや。むしろあまり変わらぬの。種族が違えど……人の生活というのは同じなのかもしれぬ。無論文化や生活様式なんかの細かいところは、変わっておるが」
「そんなものか」
確かにいつものティアルなら気になってあっちこっちへふらつきそうなもんだけど、今日は思ってるよりも落ち着いている。あまり興味を引くものではなかったようだ。
「ある意味、それが人間の特徴なのかもしれぬ。悪魔族や天使族なら飛べる、巨人族なら体が大きくなる。それぞれの種族にある特性に合わせ、大なり小なり街の構造も変わるというものだが、一方どんな種族であろうと欠かせぬものというのも当然あり、それらは共通する種族が多いほど自然と形が似通ってくるものじゃ。人間の街は、そういう意味では魔族すべての『共通するもの』だけを抽出したような街並みという感じかの。良くも悪くも『普通』じゃな」
「……なるほど」
要するに魔族のティアルからしてみると、人間の街はプレーンすぎるのだろう。
それならつまらなく感じるのも、理解できる話だ。
「結局、『種族』の隔たりは大きいということじゃの」
そんなふうに会話をしながら、街を歩いていた。
テールウォッチは下を向いた『くの字型』の形をしていて、街自体が樹海に食い込むように出っ張っている。
そして街を横で二つに分けるように真ん中には大きな川が流れていて、我が家もこの川沿いにあるわけだが、俺はこの先に行ったことがなかった。
だから今日は行ったことがない川向こうの街をティアルとぶらぶらと歩くことにした。
街を案内できるほど知識がなかった、というのもあるけれど。
歩行者用の橋をティアルと歩いて渡る。
「だいぶ景色が変わったの」
ティアルが辺りを見回しながら呟く。確かに景色がだいぶ変わった。
この川もまた、おそらく危険地帯に対する防波堤の一つなのだろう。
分厚い壁が川沿いになぞってあったり、兵舎があったり、武器が置かれていたりと物々しい雰囲気だった。渡る前にはあまり見かけなかった『兵士』の姿も多くみかける。
さらに先の街並みも結構変わっていた。
木造の建物ばかりだった川向こうに対して、石造りの建物が増え始めた。
むきだしの土だった道も、石で舗装されている。
一本、川を挟むだけで随分変わるんだな。
雑多としながらも活気があった向こうの雰囲気と違い、上品で落ち着いた空気が心なしか漂っている。
「ティアルは最近姿を見なかったが、何をしてるんだ?」
「色々との。ま、簡単にいえば『探し物』じゃ」
「探し物か……」
何を……と尋ねそうになった。
しかし直前にさっきの二の舞になりそうな妙な直感が働き、言葉に詰まる。
ティアルはくすりと笑って言った。
「もう少し目星をつけたら、お主にも話す。お主にも関係あることじゃからの」
「…………」
あんま聞きたくないな……。
世間話をしながら、かなりのんびりとしたペースで並んで歩いていた。
こういう時間もたまにはいいかもしれない。そうだ。今度千夏の勉強をティアルに頼むのもいいかもしれない。それならばついでに俺も混ざりたいな。
そんなことを話していたときだった。
ふと、声をかけられる。
しかし最初、それが俺に向けられたものだとは思わなかった。
たまたま歩いていたのが俺とティアルぐらいだったから自然と視線を向けてしまった形だった。
「あ、この間の『人でなし』くんだ!」
「ちょっとマルちゃん、いきなり人にそんなこと言っちゃだめよ?」
買い物をしていたのか荷物を持った二人組がそこにいた。
そのうち片方が小走りで近づいてくる。
それが誰なのかは、姿をみたときには思い出していた。
「……誰じゃ?」
「確か……『パーソン』っていうすごい冒険者の……妹、だったかな」
「……ほう。歴史で初めて終焉の大陸から生きて帰った『英雄』の末裔とはの。……面白い奇縁じゃの」
ティアルは俺を見て、そう言った。
初耳だ。すごいすごいとは聞いていたがそういう功績があったのか。
それが本当だとしたら確かに妙な縁だな。
あんまり、関心はないけど。
「しかし随分な挨拶じゃの、人のことを人でなし呼ばわりとはの」
「そうよ、マルちゃん。いきなりそんなこと言ったら失礼でしょ?」
「うぅ……。ごめんなさーい。でも名前が分からなかったからー」
そのあと流れでお互いに名乗り合う。一応冒険者同士だからランクも言い合った。最初は勝手が分からず、相手に催促されてしまったが、登録したばかりといって謝ると驚かれた。いきなりBランクということはすごいことらしい。どう考えても『Sランク』のこの人たちの方がすごいだろうし軽く受け止めて話を流した。
ティアルも名前をうまいこと誤魔化していた。
「ん〜」
そんな会話の最中、ジロジロと俺は見られていた。
角度や見る場所を変えて、いろいろなところから見つめられる。
「ちょっとマルちゃん。ごめんなさいね、普段は変わっているといってもここまでじゃないのよ?」
「はあ」
『Sランク』ともなるとかなり個性的なのか、フォローが弱い。
それにしてもこの『マルベリーク・パーソン』と名乗った人。
よく見ると目がなんだか、不思議だ。色と模様が刻まれていて、少し光ってもいる。
「『精霊視』かの」
「えぇ、良くわかるわね。彼女、『精霊使い』なのよ」
どうやら精霊が見えるらしい。
それも一番小さな、意思もないに等しい『精霊素』を見ているらしかった。
「……それで今俺は、ついてる精霊を見られてるのか……?」
「そうみたいじゃの」
「でもなんか不思議なつき方してる。いろんな色がごちゃごちゃしててー。それっていろんな精霊がいるってことなんだけどー」
「水を扱って育てば水の精霊が、火を扱えば火の精霊が、土を扱えば土の精霊が。幼少期の生活で接してきたものとゆかりのある精霊に、自然と好かれるようになると言われておるの」
「あら、よくしってるわね」
「この程度は嗜みじゃよ」
「でもほんとうに、ごっっちゃごちゃ! 火も風も、土も水も、毒も光も、闇も氷も!! こんなのみたことないよ! 前みたときからすっごい気になってたんだよね、これ。どうして? こんなに全部の精霊がいるって、一体どんな場所ですごしていたの? なのに精霊に好かれてると思ったらそうでもないし……。なんか近づこうとする精霊が、途中で何かに気づいて引き返してるみたい。だから体に薄い透明な膜? みたいなのがあるような……。これって──あっ」
いきなり体がぐいっと引っ張られる。
「もう行っていいかの?」
特に抵抗しなかったためか、引かれた勢いで、俺の体を引いたティアルに体が密着する。
その姿を見せつけるようにしながら、ティアルはマルベリークたちに言った。
「えっ、なんで!! もっと見たい……なんならこの後も!」
「男と女。一緒に歩いておるのを見て、察せぬものかのぉ?
あまり邪魔せんでほしいものだが」
そう言って俺の手を取り、腕を組むティアルにマルベリークは「う……」と口籠る。
「そうね。マルちゃん、私たち今邪魔になってるしもう行きましょ?」
「はーい……」
「あなた達、もしよければ今度うちの冒険者パーティーに遊びに来なさいな。新人さんなら学べることもあると思うわ。ギルドにいえばすぐ連絡つくようにしておくわね」
そういって二人は歩いて行った。
チラチラとマルベリークがこちらを見てきたが、最後に一回ため息をついてそのあと振り返ることはなかった。
「わしらも行こうかの」
そういって再び街を歩き始める。
それからある程度石作りの街を回り、市場に用事があったのを思い出し、ティアルの了承を取って川を再び渡り木の街並みに戻った。
市場に向かう途中で、ティアルに尋ねる。
「……いつまでこの状態で歩くんだ?」
あれからずっと、腕を組んで、体の片側を密着させたままだった。
「男と女という体で追い払ったからには、格好くらいはつけておかねばの」
そう言って悪戯をするような笑みでティアルは笑った。
結局市場で買い物を終えるまで、長いことその状態は続いた。
「結構買ったの。喜んでもらえるといいの?」
「……喜ぶかどうかはどうでもいいけど。とりあえず有効に使ってくれるならそれにこしたことはないな」
「冷めてるのう……。む、あれは……」
ティアルが何かを見つけたように声をあげる。
視線の先には見たことのある『大道芸』が行われていた。
「興味深いことをしておるの……。土の魔法で作った人形を操作しての演劇とは。人間は時折、面白いことを考える。派手ではないが繊細で上質な魔力操作じゃ。いい腕じゃの」
行われていたのは『土人形屋』だった。
叙情的に芝居をする、箱の中の土人形たちは遠目にみていても物語に意識を引き込む。
「……面白いの」
ティアルが小さく呟いていた。
だからこそだろう。不思議そうに、言葉を続けた。
「その割に、客には寄りつかれておらぬな」
「…………」
初めて見た時には、結構な賑わいを見せていた観客が今は誰一人としていない。
道行く人も気になって視線を向けているが、すぐに見てみぬふりして立ち去ってしまっている。
……どうやら数日前に千夏とアウレンくんとちゃんと見に行った『あの日』から。
客足は遠のいたまま、戻っていないようだ。
演技の質が変わったわけではない。
むしろ客がいないのにも関わらず、いるときのように行われている。
全く変わらない、同じ熱量で。
初日に見かけたときと、『あの日』とも変わらない。
そして『ローブ』を脱いでいるのも『あの日』と同じだった。初めてみたときに姿をみせないように顔から体まで覆っていたローブはなくなり、土人形屋本人の姿が衆目に晒されている。
土人形に目を引かれ立ち止まった人も、やる人物を目に入れて足早に立ち去っていた。
「……ティアル、どこかでお茶をして帰ろうか」
「む……。もうそんな時間か。千夏も遊びたい盛りじゃ。仕方ないの。なら、川が見える場所で少し落ち着きたいの」
「あぁ、そうしよう」
そうして俺たちもまた行き交う人々と同じように、土人形屋の芝居の声を背にしてその場を立ち去った。
川沿いの喫茶店らしき店に入った。
落ち着いた雰囲気の店だ。
天気がよかったからテラス席にしたら、大きく川が目に入る眺めのいい景色の場所だった。風もほどよい温度で心地よく、良い店なのは言うまでもなかった。
「今日は、楽しかったの。少しの時間ではあったが、時間が取れてよかった」
いつものように祈りを捧げたあと。
一口だけ飲み物に口をつけたティアルが、カップを置きながら言った。
いつもよりも声が柔らかく感じる。
「まさか、こんな日が来るとは思ってもおらぬかった。人間の街で、心穏やかに過ごす日が来るなんての。口に出してみても、違和感に笑ってしまいそうじゃ」
「特別に何か出来た気はしなかったけど、喜んでくれたのなら、俺も嬉しいよ」
「ふっ。特別じゃないところが、逆によかったの」
声質を変えず、ティアルはそう言って微笑んだ。
「…………」
「…………」
少しだけ沈黙があった。
だが今日でティアルとなら沈黙も気まずくない。
そう思えるようになった気がした。
「──時々、こういう人生もあったのかと。
ふと、思うときがあるのじゃ」
少しだけ、ティアルの声が重くなる。
ティアルの顔へ目を向けると、視線は合わなかった。
若干下に目を向けたまま、ティアルは話を続ける。
「しかしそれは『ありえぬ話』じゃ。終焉の大陸から出て流れ着いたのは、今はもう『大樹海』に成り果て滅びた──世界で唯一の『魔族と人間による国』。そこでの暮らしは、終焉の大陸で築いた常識の違いに戸惑い、疲弊するだけの日々でしかなかった」
少しだけ自嘲するような口ぶりだった。
「集団と常識が違うとき、『自らの常識を変えるか』、『力で屈服させて周囲の常識を変えるか』、『変えずに一人で生きるか』しか選択肢はない。わしはそのすべてを試し、気付けば一人、知識を渇望し知識を貪るように生きていた。それだけが唯一楽しく、没頭できたからの。そしてずっと『はぐれもの』として生きる。そう思っておったし、それも悪くはないと思っていたが……」
ティアルはそこで言葉を止めて、顔をあげた。
自然と目があう。
「最近は、すごく、毎日が楽しい」
ふわりと柔らかい笑みを浮かべて言った。
背景の川が日差しでキラキラと輝いているのが偶然にもとても合っていた。
まるで飾り立てているかのように見えたから。
「お主への興味で元はといえばはじまった。しかし今はあの部屋での生活が楽しい。だからお主が扉をわしの屋敷に繋げてくれてくれたときは、嬉しかった。まさかこの期に及んで『居場所』なんてものが、わしにできるとはの。わしが勝手にそう、思ってるだけかもしれぬがな」
ティアルが住人に知識を教えたり、戦闘の方法を改善させて少しだけ生存しやすくしたりと色々動いているのを、俺は知っている。今更他人行儀になんてみんなしないだろう。そう伝えると、照れたように「そうかの」と言った。
「同胞に追放されて『同族』に愛着はなく、親族の醜態から『異種族』にも忌避感がぬぐえない。だが終焉の大陸で生きてこうして大陸を出た『秋』と、同じように追放された『千夏』の境遇は……わしには他人と思えぬ」
なんて答えていいか分からず「そうか」とだけ答えてしまった。
気が利かない俺の答えにも、ティアルはふっと笑ってくれた。
「わしは春に尋ねられていた。『何をするのか』、と。
このまま酒を貪るように知識を貪っていきるだけなのかと」
「…………どうするのか、決めたのか?」
なんとなくそう感じて尋ねると、ティアルは頷いた。
「最近は、自然に頭に思い浮かぶ考えがある。そしてわし自身、その考えに逆らわず行動していたのじゃ。それが──『守りたい』じゃ。ようやく現れた『居場所』を、わしは大切にしたい」
「……春にいえば、すごく喜んでくれると思うよ」
ティアルはうなずく。そこから軽く笑って言った。
「誘われた『使用人』は……断ってしまったがの。
わしなりの方法で、できればいいと思っておる。それで……よいかの?」
不安そうに見てくるティアルに、頷いて返すと、ほっと息を吐いていた。
そこから少しずつ、また軽い話題に戻っていく。
「しかしお主がまさかわしと『同族』になれるとは、思わなかったがの」
この間、樹海でティアルの住処に移動するとき、初めて【種族変更】で『悪魔族』になって移動した。そのときのことを言っているのだろう。
「今日のお礼に、今度はわしが『空』へ連れていこう、秋よ。お主の『飛翔』はまだまだじゃからの」
「……確かに、あのときは失敗しちゃったからな」
「そうじゃ。しかしわしが教えればすぐに自由自在になれる。わしに任せよ。なんせわしは……」
ティアルは身を乗り出して、こちらに顔を近づけて、耳元で小さく呟いた。
「『悪魔族』の魔王じゃからの──」
そしてまた、いたずらをしたあとのように、笑う。
「あぁ……頼むよ」
そう答えた。
少しして『部屋』へ戻り、ティアルとは別れる。
一人になったあと、ふと顔の力が抜けるのを感じて、そこで自分が笑みを浮かべていたことに気づいた。
本当にうそのように『穏やかな時間』だった。
「…………」
だけど俺は何に笑っていたのだろう?
どっちに笑っていたのだろう?
ティアルと一緒にいた『穏やかな時間』が楽しくて、笑っていたのか。
それとも──
思考を続けながら、千夏の元へと歩いた。




