第8話 春はあけぼの
私の一日は、秋様を起こすところから始まります。
本日の部屋の調査を切り上げた私は鏡の前に立ち、身だしなみを整えます。まだまだ部屋が不足しているため現在、鏡は『玄関』にしかありません。『玄関』で身だしなみを整えるのは、女性としてどうかと思うのですが、それでもあるだけましというものです。
「今日もまた、一日が始まります」
私は鏡に映る自分と目を合わせ、小さく気合いを入れます。
♦︎
私にとって秋様を起こすという仕事は、とても大事な仕事です。
大事、というのは仕事として重要という意味ではありません。私の行動の中で、とても優先度が高く欠かせないものという意味の、心にとって大事な仕事なのです。
身だしなみを整えた私は、秋様の寝ている部屋。『寝室』へ向かいます。
現在ある部屋はすべて『リビング』に扉があるため、向かうといっても歩いて数歩の距離です。ですが、一歩一歩進むごとに感じる緊張は大きくなります。
──今日こそは秋様を
そんな決意を心に伴い、私は『寝室』の扉を軽くノックします。
スカッ
しかし、ノックのために振るわれた手が扉の堅い感触を感じることはありませんでした。
手が空気と触れ合うたびに感じる冷たい感触。
そんな空気の冷たさを感じながら、私の心の中では失望の念が浮かびあがります。
──また、ダメでしたか。
なぜ私の手は扉に当たることなく、宙を切ったのか。それは扉が突然、離れていくように開いていったからです。
「春、おはよう」
「秋様、おはようございます。今日もお早いですね」
開かれた扉から出て来たのは、寝起きであるはずなのになぜか完璧に身だしなみを整えた私の主、秋様です。
秋様は私に起こされることなく、時間が来ると一人でに起きてきます。そのため一日の始まりを秋様を起こすことによって迎えようと決意した初日から既に2ヶ月半もの間、一度も目標を達せられたことはありません。
これは主様に仕える者として、屈辱でした。
「じゃあちょっと水場に行ってくるからね」
「わかりました」
秋様はご覧の通り、とてもしっかりとしたお方です。
──それこそ、朝起こさずに一人で起きてこられるくらいに。
前にいた世界とは違って、ここには目覚まし時計もなにもないのに、何故起きられるのか理解に苦しみます。
そんなことを考え込んでいた私に、いつの間にか水場から戻られていた秋様が顔色を覗き込むようにして口をあけました。
「春はまた、朝から不機嫌だな。やっぱり少し、働き過ぎじゃあないのか?」
変な所で察しがいいのもまた、秋様の特徴です。最近、私の内心を悟るのがうまくなってきているのか。心の中を完璧に言い当てられることがあり、ヒヤリとするような場面があります。私はあまり感情的ではないと思うのですが……。
ただし導きだされる結論は全く的外れです。ただでさえ部屋の数も少なく、主様も手がかからないというのに、これ以上仕事を無くされては私の存在意義が揺らぎます。
「いいえ、そんなことはありません秋様」
なので私は少し強めに、否定の言葉を返しました。
「そうか?なら、いいけどな。それじゃあ朝ご飯作るよ」
本当にわかってくれたのかどうか。一抹の不安が残る表情を浮かべた秋様が、リビングの一角にある簡易キッチンへ向かいます。
「……」
私は簡易キッチンへ向かう秋様の後ろ姿を見て、再び自らの力の無さと秋様の無駄に高い能力に恨みの念を感じずにはいられません。
認めたくはないのですが、秋様は料理もとても上手にこなします。他にも色々なことを秋様は完璧にこなすのですが、料理は秋様が一番最初に習得しようと努力したものであり、その腕はまさに別格です。
──本来なら私が。主に尽くすために存在するこの私こそが、秋様のために料理を作るべきなのです。
そんな思いが胸の内からこみ上げてきます。
しかし一方で私は、この現状に仕方ないという気持ちも抱いています。
それは秋様は本来、『人の手を必要としない』お方だからです。
秋様は、自らの手と体を何よりも信頼し、それを使って自らを満たしてきました。
なぜそうなったのか。物事には何事にも理由が存在します。
私の中には秋様の経験と知識がありますが、経験はまさに秋様の行動の歴史であり記憶です。
私はその中でもとても古い記憶を掘り起こします。
秋様がまだ幼く、秋様のご両親も仕事と子育てに忙しい日々を歩んでいるときの記憶を。
秋様の母君は、看護師の仕事をしており、とてもしっかりしたお方でした。
容姿は端麗で朝は毎日同じ時間に起き、家事は完璧にこなす。秋様の教育にも熱心で、ときおり長期の休暇を取っては秋様に礼儀や文字などを自らの手で教えたりもしていました。職場でも人望が厚く、頼りにされる存在。まさに完璧といってもいいお方です。
そんな完璧な秋様の母君ですが、彼女にはある一つの『些細な欠点』がありました。
人によっては、本当に気にはならないほどの些細な欠点。彼女の周りにいる人がその欠点を知ったとしても、彼女の評価は下がることがないであろう。そんな『些細な欠点』が『たった一つだけ』あったのです。
それは料理が『とてつもなく微妙』という欠点でした。『微妙』なのです。おいしいわけでも、まずいわけでもない。ただその料理を食べて満足することは決して無い『微妙』という味。いっそ不味ければ、秋様もまずいと最初から突っぱねることができたかもしれません。
秋様は良く、そのご飯を無表情で食べては、部屋でこっそりと「おいしい料理がたべたい」と呟いていました。
秋様の母親は既に言った通り、とてもしっかりしたお人です。なので彼女は、息子を外食へは連れて行かず、三食きっちりと息子に作って上げていました。それが皮肉なことに、さらに秋様を追いつめていきます。末期の秋様は「このまま一生、おいしいものを食べずに死んでいくのだろうか」と部屋の隅で頭を抱えながら悩んでいたほどです。
ある日の食卓のことでした。とうとう秋様は耐えきれず母君に告げてしまいます。自らの内に秘める料理に対しての思いを。
──料理が微妙。おいしいものが食べたい。
その時、和やかだった食卓は氷河期を迎えたかのように氷つきました。秋様の母君も、さすがに強かな人なため泣きはしませんでしたが、息子の言葉を噛み締めるかのように俯いてじっと動きません。
そして突然、顔をあげた秋様の母君は秋様の頬を平手で叩き、息子にこう告げました。
──『嫌なら自分で作りなさい』。
普通の子供なら、この時点で泣いて謝りながら、許しを請うでしょう。親からご飯をもらえないというのは、親が生命線である子にとっては恐怖でしかありません。
しかし、秋様は普通の子供ではありませんでした。それは母君の微妙な料理が、秋様を普通では居させてくれなかったのかもしれません。
そのときの秋様はどうしていたのでしょうか。泣いていたのか。逆に母君に怒り狂っていたのか。
否です。
秋様は笑っていました。まるで、ほしいものが手に入った子供のように、満面の笑みを浮かべていたのです。
そして秋様は独り言のようにつぶやきました。
──その手があった、と
この出来事以来、秋様は何かに憑かれたかのように、熱心に料理を学びはじめます。秋様の父君も母君の料理には思う所があったのか、秋様へ目一杯エールを送りました。
そして、気がつけば食卓とキッチンは秋様の支配下です。母君も複雑そうにしていた表情を、いつからか全く浮かべることがなくなり、テキパキと箸をすすめては豪快にご飯をいただくようになります。そのあまりの変化に末恐ろしさすら感じるほどです。
他にも様々な要因がありますが、秋様が人の手を借りずに自ら何かを成すようになったのはこのときからでしょう。服やゲーム、好きな野菜まで秋様はほしいと思った物はすべて自らの手で作り上げました。
『自分の望むものは自分で作り、手に入れる』
それこそが灰羽秋という人間の習性です。
だから秋様は、人の手を必要としません。どれだけ大変でも、手間がかかっても、すべて自分の手でやろうとします。
本来なら、この事を聞いても「ああ、すごい人なんですね」で話は終わりです。
しかし、私は違います。なぜなら私は、秋様に仕えている従者だから。
秋様のために尽くすこと、それこそが私にとっての生き甲斐。ですから私にとって秋様の自らの手で産み出すという習性は、りんごが好きで好きで仕方ない人からりんごを取り上げる行為に等しい行いなのです。
秋様にもっと尽くしたい。
お世話をしたい。
そんな欲望が私の中に渦巻きます。
そしてそれと同時に湧いてくる恐怖。それは、いつか秋様に捨てられるのではないかという疑念。
この部屋の能力が、秋様にとって必要ではなくなり、ずっと帰ってこなくなるのではないか。考えるだけでぞっとする、そんな疑念が心の中からどろりと湧いてくるのです。
「──。──…る……春!」
思考の渦の中を何かが遮ります。そして、それが何かに気づいた私は慌てて意識を現実へ戻しました。
「……はい。秋様、どうかなさいましたか?」
「朝ご飯できたけど、大丈夫か?本当に働き過ぎじゃないのか?」
秋様が心配そうに私を見つめてきます。いけません。秋様のお世話をしたいあまり秋様に心配されるなど本末転倒です。愚かです。愚かさは正さなければ。
「いえ……大丈夫です。少しぼうっとしていただけですので」
「……そうか。じゃあ春は先、椅子に座ってなさい。俺は水場から水を汲んでくるから」
そう言い残し、水場へ行こうとする秋様の腕を、私は反射で掴み取ります。もの凄い形相を私がしていたのか、秋様が「うおっ」という声を、小さくあげました。
しかし気にする必要ありません。
なぜならそれよりも大事なこと(お世話)があるからです。
「私が水を汲んで参ります」
「いや、でも春疲れ──」
「私が、水を、汲んで参ります」
秋様の言葉を遮り、語気を強めながら言った事が功を成したのか。秋様はしぶしぶ椅子へ座り、水汲みを私へ譲ってくれました。
──そうです。主とはそうして私を使いっ走りにして、椅子にふんぞり返って座ってればいいのです。
水場へ向かう足取りはいつもより重めでした。私の中にある理想と今起こっている現実が足に重く乗りかかってくるのです。
──いつかはもっとちゃんとしたお世話を
そんな思いを抱きながら、『水場』の扉を私は開けました。
♦︎
それはある日の夕方のことでした。
秋様の訓練を見守り、秋様の寝室のベッドメイクを終えリビングに戻って来たときのことです。
「──スゥ……すぅ……」
秋様がソファーで寝ていました。
──これはチャンスです。
毎朝秋様を起こすチャンスを逃している私にとってこれほどのチャンスはありません。
今こそ秋様にたまっているお世話したい欲を存分に発散させるときでした。
私は秋様に少しずつ近づきます。
そして眠っている秋様の顔が見えてくるにつれて私の足は重くなり、浮いていた気持ちが沈んでいきます。
──私は愚かです。
秋様は現在、とても苛烈な鍛錬をし続けています。
鍛錬といっても、こんな環境です。指導者もいなければ、教材もない。あるのは『トレーニングルーム』で出現させられる敵のみです。
そうなると鍛錬の方法は必然と実践になります。ひたすら相手と闘い、ボロボロになってはまた相手と闘う。見ているこちらのほうがハラハラとしてしまいます。
その過酷さのおかげか最近は状況次第では敵のゴブリンに攻撃を当てられることも増えてきましが、それでも秋様は満身創痍なのは変わりありません。
そんな秋様が取られている休息を、自らの欲望のために奪い取るなど従者としてありえないことです。そんな気持ちを抱いてしまったことにすら、愚かだと嘆きたくなるほどに。
私は寝ている秋様へ向かっていた足を反転させ、そのまま寝室へ向かいます。そして予備の毛布を取り出して再び秋様の寝ているソファーへ近づきます。
「──すぅ……すぅ……」
秋様の凛々しい寝顔を見て、思わず口元が緩みます。秋様は少し女顔なため、こうしてみると毎日過酷な鍛錬を積んでるとは思えないほどその寝顔は安らかに見えました。
毛布を、そっと秋様にかけます。
すると、秋様はかかった毛布を掴み、小さく丸まるような姿勢になりました。一瞬起こしたのかと思い、冷や汗を流しましたがどうやら寝る姿勢を変えただけのようです。
「ふふっ…」
こうしてみると、秋様はとても猫のようです。丸まって寝ている姿がとても愛おしく思えます。
私は名残惜しいですが部屋の管理をするため、その場を離れることにしました。
私が日頃望んでいた、秋様を起こすという思いが叶うことはありませんでした。
しかし、何故か私の心にはそれ以上の充足感で満ち足りています。
重りが乗っていたような足取りも、いつの間にか軽くなっていました。
私の今日は、これからも明日になることなく続いて行くのでしょう。