第93話 エピローグ・春夏秋冬
いつものように、一人だった。
三人のゴブリンと別れて、樹海で薬の材料を集めているときも。
集めた材料を元に、『調合室』で薬を作っているときも。
目覚めた千夏と少しだけ会話をして、テレストに会うため歩いていたときも。
その間……。
ずっと、憂鬱さが重りのように心にのしかかっているような感じがしていた。
さらに一人でいる時間は、意識を、思考の中へ沼のように引きずりこんでいく。
──自分の性質が、この『結果』を生んだのだろうか?
考える。
──だとしたら、自分の何かを変えなければならないのだろうか?
考える。
──千夏をどうすれば『救った』ということになるのだろうか?
どれだけ考えても、答えにたどり着くことも、考えが足りてるとも思えない。
その果てに「この考えに意味があるんだろうか」という疑問すら加えて考えてしまえば、思考の沼の極め付きだった。
もはや無駄でしかない。
思考そのものが目的になっている思考なんて。
重要なのは、すべての思考の発端である千夏をどうするのか、であるはずなのに。
「はぁ……」
樹海を歩いている間は、ため息が多かった。
こちらの強さを察知して逃げていく魔物が、もどかしい。
この森では、魔物に襲われることもなければ、急激に環境が変わることもない。
あの大陸ならば、『思考』なんて『余裕』を許さず、消し去ってくれるはずなのに……。
そんな下らないことを考える回数も、時間がたつにつれて増える。
厳しさに溢れかえるだけのあの大陸も、振り返ってみればまるで過ぎ去った季節のように、妙な寂しさと懐かしさを自分が感じているような気がした。
「ここが、別の大陸なんですね」
──現在。
設置したばかりの、『ラウンジ』へつながるドアから出てきた春は不思議そうに周囲を見回しながらそう言った。
隕石の破片が降り注いだり、よもぎが木を折れ曲げたせいで、元の樹海の光景とはかけ離れたものになってしまったからそっくりそのまま『別の大陸の光景』とは言い難いが、とはいえ終焉の大陸との違いは一目瞭然だ。
だから頷きながら答えた。
「『南シープエット大陸』っていうらしい」
「そうなんですか。こうして私が外に出られるだけでも、全然違うみたいですが──」
部屋から一歩でも出てしまえば、春の《ステータス》は俺との同期の効果が発揮されずに、弱くなる。だからこの十年の間、春は部屋の中にほぼ引き篭りっぱなしだ。
なので今のように、『外』に連れ出せる機会があるのは嬉しいと思えた。終焉の大陸に比べれば守る余裕もある。一応『危険地帯』らしいから、今はドアの側を離れないようにしているけど。
「──最も、あんな人の常識を鼻で笑うような場所なんかと比べられるのも可哀想な話ですが」
「……確かに」
そんな会話の最中に、またも巨大な魔物が吹っ飛んできて、落っこちる。少し遠くの方だったため、わざわざ動くほどのことでもなかったが、大きな地響きと共に地面が微かに揺れた。さっきも聞こえた咆哮が、聞こえてくる。
「…………」
「…………」
魔物が落ちた方向へ視線を春と一緒に向けながら、少しの沈黙が起きる。
「……似てるところも、どうやらあるようですね」
「…………そうみたいだな」
さっきから起きているこの現象は、春のいう『常識を鼻で笑っている場所』が原因の出来事だから『似てる』のではなく『それそのもの』なのだが。それを言うと雰囲気が台無しになるような気がして曖昧な相槌をうつことしかできなかった。
「『十年』、かかりましたね……」
ふと、春は感慨深さを言葉にのせて言った。
「……そうだな」
「秋様は、とてもよく頑張りました。私はそう思います」
普段の言葉にありがちな毒がない、真っ直ぐな言葉だった。
正面から受け止めて、頷いて返した。
「……確かに、頑張った──俺も。部屋にいる他の皆も、春も。
頑張って生きて、これからもまだまだ頑張り続けて生きていくんだろうな」
「そうですね。千夏も、いますから」
そして春は話の『本題』へと移るために、その中心となる人物を呼び寄せた。
「──千夏」
しん、と場が静まり返る。
この場のどこにも千夏の姿は見えない。
「千夏」
なのに再び春が名前を呼んだ。
声が届いていることを疑っていないように。
すぐそこにいるテレストと花人族の長が不思議そうな視線を向けていた。
「ほら、千夏。いい加減、出てきなさい」
そうして、ようやく動きが起き始める兆候が見られた。
それが起きたのは──春の『メイド服の中』だった。
メイド服のスカート部分がひとりでにもぞもぞと動いている。
焦れた春が、メイド服の裾を掴んで軽く持ち上げるとそこから四本の足が覗けられた。
服の中で動いてる場所を春が、軽くぽんぽんとしつこく叩いていると、ようやくスカートをくぐって小さな少女が姿を現す。しかしすぐに春の背後に回って、陰に隠れてしまった。
「千夏」
そんな様子の、少女の名前を、口に出して呼ぶ。
千夏は春の背後からこちらを覗くように顔を半分だけ出した。
短い時間の間に、随分と懐かれている春とは対照的に、警戒しているようだった。
「こっちにきて、少し話をしよう」
それでも出てくることのない千夏を、背後に回った春が千夏の背中を押してようやく、半ば無理やりだが正面から向き合う。正面にたった千夏は、視線を泳がせて落ち着かない様子だったが、それでもちゃんと向かい合うように立ってくれた。
姿勢を低くして、視線の高さを合わせると、不安を浮かべた目と合う。
ふと、この距離でも、以前まであったきつい臭いが消えていることに達成感を感じた。汚水まみれのドブから拾ってきたものを長年倉庫の奥で放置したような臭いをとるのには、なかなか苦労したが、今朝『浴場』で念入りに身体を洗った甲斐があったといえるだろう。生まれて一度もお風呂に入ったことがないことが分かるほどこびりついていた汚れも、すべて洗い流した。
おかげで、初めてあった時の薄汚さは完全になくなっている。治療の時に消毒をしたり、寝込んでいるときは春に身体を拭いてもらうのを頼んだりと色々やってはいたが、やはり根本的にどうにかしたいとずっと思っていたので、意識を取り戻して様子を軽く確認してからすぐに実行したが、やってよかった。
服も小さい鞠のサイズが合いそうだったので、少し手入れをしてそれを着させている。メイド服ではない普通の服だ。これでだいぶ子供らしい子供のような容姿になった。
白い髪に、腰にすら届いていない低い身長、子供らしい大きな瞳。
栄養がたりていなかったからか身体や顔が痩けていて、髪も痛みすぎていたのか癖っ毛のようになっているものの、それでも出会ったころと比べれば見違えるような変化だった。
「今朝ぶりだが、俺の名前は、覚えているか?」
低い姿勢のまま、千夏に向けて尋ねた。
絵本を両手で抱えるように握り締めた千夏が頷く。
「秋……」
呟くように、小さな声で千夏は答えた。
すでに済ませた軽い会話を覚えていてくれてたようだった。
「あぁ、そうだ……。よく覚えてたな、千夏」
こくりと、千夏は軽く頷いた。
「…………」
「…………」
少し、沈黙が流れる。
言葉を躊躇してしまったために生まれた沈黙だった。
憂鬱さが、また少し、心にのしかかる。
今の気分は風残花という花の対処をしたあとのものと同じ。だから躊躇している。
自分自身のしでかした『失敗』の話を、これからしなければならないから。
「千夏は、前にどんなところにいたのか、覚えているか?」
そう尋ねると、千夏は躊躇いがちに、春が出てきたドアを指差した。
「…………。
そこにいた前の場所は?」
「…………」
首を横に振る。
傍に人が寄ってくる気配を感じて視線を向けると、テレストが真剣な表情をして立っていた。
気にせず、話を続ける。
「お母さんやお父さん、家族とか友達とか。
誰か知ってる人のことについて話せることはある?」
首を横に振る。
「それじゃあ、何か、起きた出来事でいい。
自分の知ってる前に起きた出来事を、何か教えてくれないか?」
首を横に振る。
ここまでくれば違和感は、もはや決定的なものに変わる。
「……全く何も思い出せない?」
初めて千夏は、首を縦に振った。
「確かに、本当に記憶が無くなっているようですね……。どうして……? 薬は……悔しいですがとてもよく出来ています。症状が消えて、容態も前に診た時に比べ格段に安定しているのがその証拠のはずです」
独り言のようにテレストが、会話に割り込む。
そうして欲しいと、先に頼んでおいていた。そのためにこの場所に来たのだから。
千夏の違和感に気づいて、テレストの見識を求めて……。俺の処置が何も問題がなければもう顔を合わせることすらなかったはずだろうに。
だけどそうはならず、結果的に変なことに巻き込まれてしまい、妙なことになってしまったが。
「そもそも千夏さんに起きた出来事はすべて『魔力』に由来するものです。『記憶』に関わる要素があるはずがないんですよ。薬だって体内の魔力の流れを調整したり、異なる魔力同士の緩衝の役割があるだけのもの。なのに……こんなこと起きるはずが……」
そういって考え込むように、黙り込む。
「(起きるはずがなくとも、記憶がなくなってるのは『事実』だ。
疑う余地のない『現象』そのもので、俺がした行いの『結果』だ)」
これが【運命の放浪者】の効果による偶然──。
……そう思えたら楽だった。
だが『原因』に心当たりがあるせいで、そう思うことすらできもない。
そもそも発端は、最初に千夏を完全に治しきれなかったことが原因だ。
一人でできなかった。だから人を頼るしかなくなって大陸を出ることになった。
しかし結局断られて、自分でやるしかなくなり、やった結果が『これ』だ。
──最悪な気分だった。
自分でやって、自分で満たして、自分で結果を背負って生きる。
そして無理なら、諦める。それが一番何者にも依存しない『強さ』だ。
それは他人への考えもそうだ。
使用人や、ゴブリンや、住人たち。
勝手に部屋に居着こうが、どうしようが、それは本人が決めることだ。
その結果、外の戦闘で死んだとしても、それは本人が弱かっただけ。
俺にはどうすることもできない……。
実際に……できなかった…………。
どれだけ強くなろうが、何かが何かを『守る』なんてことは、命において烏滸がましい考えだと、世界で決められているのだと思い知らされる……。その人自身の強さ、それ無く生きることを許された構造を、そもそも世界はしていない。それが事実でなくとも、そう強く思い込ませる何かが少なくとも確かにある。
ずっとそう考えて生きてきて、今回も同じように考えて、行動した。
それが俺自身の『性質』だから。千夏も結局、『一人』で対処した。
──だから『失敗を繰り返した』。
俺自身にこびり着いた『性質』が千夏をこうしてしまったんじゃないか。
そんな『心当たり』のせいで、【運命の放浪者】のせいにするのもままならない。
最初に『他者に施せる手段』が『自分自身を満たす手段』に比べて、致命的に欠如していると自覚していたのにも関わらず……だ。
もっとどうにかできる手段はいくらでもあった。
テレストに断られたとき、もっと粘り強く交渉をすることもできただろう。
今こうして【村】をあげることになっているのだから、最初からそれを対価とすればテレストだって力や知恵を借してくれたかもしれない。二人で協力してやれば今とは違う結果に辿り着ける可能性は、ずっとあった。
だけどそれをやらなかったのは、結局のところは『人に頼る』という慣れない手段を嫌って、無意識に遠ざけて、自分なら出来ると都合よく思い込んでいたからなのだと思う。
いや……。
出来なくていいとすら考えていたかもしれない……。
『自分でやった結果を自分で背負えばいい』と……そんな、これまでと同じ、完結した考えでいた。失敗したら、その結果を全て受け止めて、未熟な自分を納得して背負って生きるだけだと……。
だが実際に失敗して、今まさに結果を背負っているのは──千夏だ。
この最悪な気分を、どう表していいのかわからない。
終焉の大陸で『災害』に身体の半身を無くされながら、血塗れで地面を横たわっていたときの方がまだマシだった。
だから俺は、花人族を部屋の中に迎えたのだろう……。
また同じ失敗を繰り返すのを避けるためには、『別の誰か』の助けを借りなければならない。そんな予感じみた思考がそうさせた。
これまでと同じじゃ……うまくいかないから……。
状況が変わり、そして勝手もまた違う……。
もはや今までのようにはいられない……。
──憂鬱だった。
大陸を出てからというもの、自分がとことん終焉の大陸という環境に『馴染んだ生き物』なのだと身に染みるように感じていた。
弱い魔物や、過ごしやすい変わらない環境は、命を脅かされる日々からの『解放』のはずが、時間が経つにつれて、研ぎ澄まされた感覚が抜け落ちていくような感覚を抱くようになった。タイヤに穴が空いて、空気が抜けていくかのように。それは不安と焦燥を煽り、終焉の大陸で一日や二日過ごすくらいなら、今のほうが大変に感じていた。
──『研ぎ澄まさなければならない』。
心の奥底から、掻き立てられる。
呪文のように、何度も繰り返される言葉。
そのせいか明らかに面倒くさそうな鎧をつけた『人間』たちも逃してしまった。
別に彼らの命を、よもぎから守りたかったわけじゃない。
ただ彼らが生きて帰れば、もっと強い人を連れて、襲ってきてくれるような気がしたからやっただけのことだった。
そうすれば終焉の大陸の環境に、少しは近づけるかもしれない……なんてことを思いながら。
……だが千夏の安全を確実に優先するなら、殺しておくべきだったと思う。
一応人間に見える俺にすらあそこまでしつこかった相手が、魔族で様々な事情を抱える千夏という存在を許容することなんて想像できないから。必ず殺しにくるか面倒を起こす。
それを頭の片隅に入れておきながら、俺は千夏のことよりも自分のことを優先した──。
………………。
ああ……そうだ…………。
…………分かりきっていたことだ。
俺が、何かを『育む』なんて……。
ましてや『人の親』なんてものに向いていないことは。
──『私たちに預けて見ませんか?』
テレストは、俺自身がどういう人間なのかを短い時間でよく理解していた。
だからその提案は、間違いなく『全員が得をする』ものだった。
テレストは家族を得られる。
千夏もよりまともで、マシな人の元にいられることができるだろう
そして俺は──千夏から離れて、元の環境に戻れる。
だからテレストの提案は、とてもありがたいと思った。
そして……断られたときには、心底がっかりした。
ずっと、離れられる方法を考えていた。
千夏を追放した集落へつれていくことも一つの案として考えた。終焉の大陸へ罪人として島流しの刑にあった可能性が高い千夏だが、もし生きて戻れたならばその罪も許される。むしろ神の子として崇められることすらあると、この大陸にくる道中でティアルが話していた。
千夏の症状を完全に治し、まともな里親へ引き渡せば
それで俺は、『千夏を救った』と思える。
そこが『救った』と『救わない』の境界線だった。
「…………?」
長い沈黙に不安になったのか。
千夏は、おどおどしながら、ぱっちりとした目で不安そうにこちらを伺っていた。
「…………」
正直な気持ちとして、千夏に
そこまで強い思い入れや、親しみを、俺は抱いていない。
……それは、当然の話だ。
そもそも元々、一度、見捨てようとした人間だ。
手を取られて、導かれるように大陸を出されてしまったからといって、その思考が急激に変わるわけじゃない。
今こうして一緒にいる理由も愛や親しみ同情といった『感情』ではなく、『義務感』や『責任感』に近いものだ。
感情での話になれば、千夏をかわいいと思わないでもないが、しかしそれは一瞬の話だ。そのために今後何年、何十年と面倒を見なければならないとなったとき、自ら進んで、喜んでしようと思うほど、殊勝な人間じゃない。むしろ他人の子供だったり、街で一瞬すれ違ったりした程度のほうが、親しみが湧いたかもしれない。自分とは関係のない他人だからだ。
……こんな思考をしているやつの元で、人がまともに育つことがあるのだろうか?
だから千夏から見ても、俺から離れたほうがいいはずだ。
もっとまともな普通の人、普通の家で暮らしていったほうが。
その方が健やかで、のびのびと、子供らしく生きられる。互いに利益のある話だ。
──『子供を育てるのは想像以上にとても大変です』。
きっと、間違いなく、そうなのだろう。
今の俺がそれを想像したとしても、決して想像しきれないくらいそうなのだろう。
「(──なんて……)」
長々とした思考も、もはやすべて何の意味もなく、無駄だった。
俺が千夏をどうするか。そこに『選択肢』なんてものは、すでに残っていないのだから。
積み重ねた『失敗』は、逃れられる道を一つずつ丁寧に潰していった。
記憶を失い、千夏がいた集落へいく手がかりはなく
テレストは、土壇場で引き取りたいという提案を取り下げた。
そして取り下げた理由は、おそらく【運命の放浪者】のスキルが原因だ。
あまりいいスキルではないことだけは察していたが、ここまで疎まれているとは思ってもいなかった。
そんなスキルを持つ千夏を、『普通の人』に受け入れてもらえると思うのは、希望的観測が強すぎる。『普通のいい人』であるテレストですら、無理だったのに。
……もういい加減に、分かっている。
俺はやらなければならない……。
この少女を育てる……。一人で生きられるようになるまで。
冗談のような響きだった。なのにあまりにも笑えない。
まるで何かに導かれるかのように、繋がりがないはずの少女と強引に結び付けられる。
気がつけば、すでに逃れられないくらい、深くまで。
「……本当に、申し訳ありません……。お役に立てなくて。
私ではなく、師匠なら……きっとなんとかしてくれたかもしれませんが……」
あまりにも空いた沈黙に耐えきれなかったか、テレストは俺に声をかけてきた。
いや、本当に申し訳なく思っているのか、表情が苦渋に満ちている。
「……別に、気にしなくていい」
そう……気にすることなど、何もない。
これは──『終焉の大陸の戦い』だ。
手を取られた時点で、『何が強さ』なのかという答えはもう、決められている。
もし千夏を救い切れず、死んだとして、その理由を『千夏が弱かったせい』と言うことはできない。それを言うのなら終焉の大陸で手をとられた瞬間に、それでもなお千夏を見捨てるべきだ。それだけがこの選択における『強さ』だった。
だがその選択は、取れなかった。
ならば答えはもう決まっている。だから覚悟を決めよう。
一人の少女が育つまで。それが『救う』ことだ。
そこまでやり遂げなければならない。
そうしなければ、たかが一人の少女すら救いきれない『脆弱な生き物』が終焉の大陸で生き延びられるはずもない。
いつの日か、再び──終焉の大陸へ戻る。
そのために、やり遂げよう。今までやってきた戦いと、何も変わりはしない。
そう決めた途端に、心が凪いでいく。
研ぎ澄まされたように、無駄な憂鬱さや、思考や、感情が消え去っていく
まるで終焉の大陸にいるかのように、自分自身が切り替わるのを感じた。
不安そうに向けられた千夏の瞳には、自分の瞳が映っている。
それは──見慣れた『無機質』なものだった。
「秋様、千夏に、そんな──」
「千夏はこれから、どうしたい?」
春の言葉を遮って、そのままの態度で千夏に尋ねた。
もはや起きてしまったことは仕方がない。
できることは今のところ何もなく、だからといって急がなければ命を落とすというわけでもない。
ならば『次』のことを考えるべきだ。このあとどうするべきか。
それを考えるためには、千夏自身の意志の確認が必要だったためにそれを尋ねる。
千夏は、少し怯えている様子だった。
「ずっと安全なところで過ごしたいか。あるいは遊んで過ごしたいか、ひたすらおいしいものだけ食べて過ごしたいか。ちょっと気になっていることでも構わない。あとで別のやりたいことができたら、変えたっていい。だから今、千夏が思う、やりたいことを素直な気持ちで教えて欲しい。何か、あるか?」
千夏を怯えさせているのは、瞳に映った、向けられている無機質な瞳だ。
そうとわかっていながら、態度を変える気にはならなかった。
「…………?」
しかし、ふと、見つめ返してくる瞳に力が宿り始めた。
その変化に不思議に思っていると、瞳の色を変えずに千夏は口を開いた。
「──知りたいことが、あります」
一瞬、初めて会ったときを思い出して驚く。
しかしすぐにかき消して、尋ねる。
「千夏は、何がしりたいんだ?」
「……この本……」
握り締めていた絵本に視線を落として、呟く。
それはテレストの家から拝借してきたものだった。
千夏が目を覚ましたら多少の暇つぶしにはなるんじゃないかと思って、勝手に持ち出してきたのだが、想像以上に気に入られてしまったのか、千夏はその絵本をずっと手放さなかった。
だから薬の本だけしかまだテレストに返せていない。
ここで話している間も、絵本は唯一心の拠り所だとでもいうかのように、握り締め続けている。そんな千夏から、どういう風に絵本を渡してもらい、持ち主に返せばいいのか。わからずに若干悩むほどの執着をみせていた。
「……その本が、どうかしたのか?」
言葉が途切れ、続きが出てこない千夏に尋ねる。
千夏は戸惑っている様子だった。
続きを言いたくないというよりも、どう伝えればいいか分からないのかもしれない。
「少しその本を、貸してくれないか?」
そう聞くと、拒絶するような表情を浮かべる。
あとで必ず返すと約束すると、渋々渡してもらえた。
絵本の内容については、何が書かれているのか知らない。
ただ表紙の絵が子供向けにデフォルメされたものだったから、子供向きなのかと思って借りてきただけだ。
表紙をめくり、内容を見る。
一ページ目には、表紙と絵と文字が書かれていた。
おそらくタイトルなのだろう。だけど日本語ではない別の文字だったため、意味は分からなかった。お世話になっている、【鑑定】のスキルを使う。春もこうして読み聞かせたのだと思うと手間をかけたと少し申し訳なくなった。
現れた【鑑定】の結果に、書かれた文字の意味が書かれている。
──『終焉の大陸がやってきた日』。
「………………」
偶然、なのか……?
あまりにも狙ったような絵本のタイトルだ。
続きを【鑑定】しながら、読み進めていく。
内容はよくある勇者と魔王の物語だった。
終焉の大陸からやってきた魔王が世界を支配しようとして、それを止めようとする勇者の話。
変わったところはない、普通の内容だった。
ありきたりすぎて、もう少しひねりが欲しくなるほどだ。
終焉の大陸も実際のものとはかけ離れた、名前だけ同じのほぼ別物だった。
テレストから借りたのに視点が人間側なことだけだが唯一気になったが、それ以外に思うところはなかった。千夏はこのありきたりな物語で、何を知りたいと思ったのだろう。そんなことを考えていると、視界の端から手が伸びてきた。
「この、魔王は──」
いつの間にか横に並んで、絵本を覗きこんでいた千夏が、開かれたページに指をさした。少し位置が高いからか、無理な姿勢になっていたため、絵本の位置をゆっくり下げると姿勢が自然なものになる。本に夢中になっている千夏は、そのことに気が付く様子はなかった。
千夏が指さした場所には『魔王』が描かれている。
子供向けに絵柄が崩れているせいで、余計に不気味さが増した怖い絵だった。
「『セカイ』を『しはい』しようとしてる」
絵があえて抱かせようとしている恐怖や怯えを、千夏は感じていない様子だった。
「『しはい』って、なに……?」
こちらを向いて尋ねられる。
知りたいのは、それだろうか?
「……無理やり言うことを聞かせて、自分のものにしようとすること、かな」
そう答えると、千夏はコクリと頷いた。
分からないところを聞いたというより、すでに知っていることを確認したという感じだった。春に同じことを尋ねていたのだろう。だとすると、知りたいことは違うことのようだ。
「『魔王』はどうして──」
絵本のことを語る千夏は、すでに怯える様子がない。むしろ雰囲気に無邪気さが出ていた。きっと
好きな物を人に話すのが楽しいのだろう。その様子を端から見ているテレストたちから、柔らかな空気が漂っているのを肌で感じていた。
「そんなに『セカイ』を自分のものにしたくなったの……?」
真っ直ぐに、目を見て尋ねられる。
ぴくり、と顔の筋肉が勝手に動くのを感じた。
「…………」
「すごく『セカイ』が良いものだから……。
だから全部自分のものにしたくなって……。
『セカイ』を『しはい』したくなったの、かな……?」
「…………」
「そんなに良い『セカイ』ってどんなの……なんだろう……?」
……こんな気持ち……だったのだろうか……。
──『どうして俺を生んだの?』。
されたくない質問を、されるというのは。
心の底から疑問に思ったことを、純粋な気持ちで真っ直ぐ尋ねられる。
それが耐えがたいほど、辛かった。
思わず向けられたその瞳から逃げたくなる。
そこに映った無機質でもなんでもない、感情にまみれた自分自身の瞳を見たくなかった。
これまで目を背け続けて膨れ上がってしまった致命的な問題と、強引に向き合わされたような感覚があった。
だから答えようと口を開いているのに、何も答えられず口を何度も閉じている。
何を言っても、自分を支えてきた重心がずれて、倒れてしまうんじゃないかと思って何も言葉をつむぐことができなかった。
「……わから、ない……」
ようやく答えられた言葉は……。
何の答えにも役にも……なっていないものだった。
──もし世界を支配する力が自分にあったならば、自分は世界を支配するだろうか?
……するわけがない。
そんなの何を対価に差し出されたとしてもやりたくない、面倒極まる話だ。
そう考えてみれば確かに物語に出てくる世界を支配しようとする魔王はすごい。面倒なことをわざわざ好き好んでやっているのだ。それが歪んだことであれ、とてつもない強い『世界』への執着心がなければやろうとすら思えないはずだ。
それはある意味、世界を『愛している』と言えるかもしれない。
それを阻もうとする『勇者』と同じくらいに。
……そういう意味なら。
俺は『魔王』でも、『勇者』でもない。
世界を支配もしないし、助けもしない。
なぜなら──
「(それは俺が、どうしようもなく、『世界』を──)」
無理やり思考を断ち切る。
頭の中ですら、それを言葉にはしたくなかった。
どうにもならないのに、悪い方にだけはいくらでも働く、クソみたいな言葉を、わざわざ言葉にする必要がない。
「泣いてる……?」
唐突に千夏に聞かれる。
「……泣く?」
俺が……?
そんなわけないはずだ。
目元と頬を触って見るが、濡れた感触はやっぱりない。
「別に、泣いてない」
そう答えると、千夏は頷いた。
そこまで気にしたことではなかったようだ。
「これが、やりたい」
そして千夏は答える。
最初に『どうしたいのか』と尋ねた、その『答え』を。
絵本のページに描かれた魔王を指さして、俺の目を真っ直ぐに見て言った。
「──『セカイ』を、知りたい」
「……そう、か……」
はっきりと告げられた千夏の言葉とは対照的に、詰まらせながら答えてしまう。
ふと、手に感触があるのを感じて、目を向ける。
『小さな手』が俺の手を握っていた。
「一緒に……行こう?」
真っ直ぐにこちらを見上げるように、千夏は言った。
……言われなくても一緒に行くことになる。
当たり前のことだ。
まだ泣いていると思って、気を遣って言っているのだろうか?
……いや。
手を握っている小さな手は、ほんの微かに震えている。
真っ直ぐに向けられた瞳の奥にも不安の色があった。
少し考えれば……わかることだ……。
俺が千夏に親しみを感じていないなら……。
千夏もまた、俺に親しみを感じるはずもない。
だが千夏には俺しかいない。
俺が千夏を育てるしかないと認めなければならないくらいには、もはや逃れられない事実だ。
俺は、千夏がいなくても生きていけるが。
千夏は、俺がいないと生きていけない。
もしそれを分かっているのだとしたら。
俺と千夏の関係において心の負担が大きいのは、断然千夏のほうだ。
そして実際に、千夏は理解している。
だから、とても怖がっている。
それでも、千夏は手を伸ばした。
俺とは……違って……。
「………………」
本当に、憂鬱で仕方がなかった……。
吐き出してしまいそうなため息を、飲み込むのはもう何度目だ。
『現象』にまでようやく辿り着いた。
そう思えた折に、引き戻され、ぐちゃぐちゃにかき乱される。
この『小さな手』によって。
「………………」
手を反対にして、千夏の手を握り返した。
暖かい体温が伝わってくる。千夏も同じだったのか、微かな震えは徐々に消えていった。
だが向けられた瞳にある不安は消えていない。
その不安を消すには、『答える』しかない。
何かの力に屈服してひれ伏されるかのように。
何かの力に導かれるように。
答えさせられる。
「あぁ、行こう……。
知りに行こう……『世界』を……」
──ふと、ある日の記憶が蘇る。
……ザザァ、と。
波の音がたくさんたっていた。
それは終焉の大陸で『海に初めてたどり着いた日』だった。
目の前にはどこまでも続く海が広がっている。
ときおり打たれた波が視界を遮られながらも、立ってその光景を眺めていた。
口に入った水滴はしょっぱい。
漂う空気に混じった磯臭さは、異世界なのに、知っている前の世界の特徴と同じ。
もはや人間が自分以外にいない世界に召喚されたと諦めかけていたとき、ようやく見つけた『終わりの場所』に不覚にも感動したのを覚えている。そして『この先はどこにたどり着くのだろう』と、わくわくした。
だが、この海の先に『幸福』はない……。
結局……根本は前の世界と変わりはしない……。
それならば……。
唐突に『強い風』が身体にぶつかって、通り抜けていく。
それは一度で止まず、時間がたつごとにより強く、しつこく吹き続ける。
背後を振り返って、風が吹いてくる方向へ視線を向ける。
その先には、《嵐》がいた。
濁った風の隙間から、こちらを『無機質な瞳』で覗いている。
地面の土が踏み固められた道のような場所に気がつけばたっていた。
それが真っ直ぐ《嵐》まで続いている。
──『行き着いたはずだ』。
道の先で、無機質な瞳は、言葉を発さずとも語っていた。
《嵐》だけではなく、すべての『現象の魔物』が。
《津波》、《輪廻》、《濃霧》、《洞穴》、《大森林》、《暴君》が。
瞳や佇まい、存在している有様だけで、物語っていた。
──『真の幸福は、幸福を諦めること』、だと。
そうすることでよりシンプルに強くなれる。
それが世界の正しさだ。
その正しさを肯定して、道の先に進みたいと、俺は思った。
だけど……。
ふと、横を向いて見下ろすと少女が手を握ってこちらを見ていた。
溶けるように『現象の魔物』も、『終焉の大陸』も、『海』も消える。
そんな中で、少女が手を握っている光景だけは残り続けた。
これが今紛れもなく起きている現実なのだから、当然だった。
「(──もう少しだけだ)」
一度は諦めた、『世界』。
その結論を先延ばしにしよう。
ほんの、もう少しだけ──
この少女に付き合い、世界を、知りに行く。
会話が一区切りついたとき。
側に近づいてくる気配があった。
「『辿魔族のお方』様……。
重ね重ね、我々に生きる場所と機会を与えてくださり、ありがとうございます」
花人族の長が、俺に挨拶をしにきた。
雰囲気的に、そろそろ新しい村に行きたくて声をかけたのだろう。花人族に新しく与えた【村】は、『ラウンジ』を通って『終焉の大陸』へ一度出てからしか、今のところ行く方法がないから大変だ。
「あぁ──」
まさか長が戻るためのドアを消してくれと頼んでくるとは思わなかった。
終焉の大陸につながっていることを知ったら、花人族たちは樹海につながるドアを主に使って、【村】で生活をしていくことを選択すると、正直思っていた。だから『ラウンジ』へつながるドアををあえておかなかった。『終焉の大陸』と寄り添って生きることを前提に作られたこれまでの『部屋』とそこにいる住人たちとは、関わりあったとしても、お互いそりが合うことはなさそうだと感じたからだ。無闇に内部で争いの種を生む必要もないと思った。
しかしそれを見越して、長は退路を自分から断った。
正直なところ、これに関しては俺が長の覚悟を見誤っていたというしかない。
「──気にしないでいい……。大変なのはこれからだし」
そう、大変になるのはこれからだ。
そこは覚悟だけでどうにかできる場所なんかじゃないのだから。
とはいえ流石に、終焉の大陸へつながるドア一つだけは厳しそうなので、あとで『ラウンジ』につながるドアだけは作っておこう。花人族は植物に対して造詣が深いそうだから『農場』の管理なんかに春が手を借りたくなることがあるかもしれない。
「……ところで『辿魔族のお方』っていうのは俺のことか?」
ふと気になり、尋ねる。
何かを勘違いしているのか、花人族の長は、使用人たちの種族を俺に告げてきた。
あまりにも真っ直ぐに言われたので普通に返事をしてしまったが、やっぱり気になってしまった。
「そうです。私は、生まれついた時から人の身体にある魔力の流れを目で捉えることができます。そして『魔石』がある方の魔力の流れは少々『独特』ですので……分かってしまうのですが、貴方様の胸に魔石を宿らせる『辿り至りし者』だと思って、つい言ってしまったのですが……。もしや、あまり尋ねられたくはないことでしたでしょうか……?」
徐々に不安を滲ませて、長はそう言った。
「いや──」
そういうことか。
確かに俺の身体の中には『魔石』があるからそれで『辿魔族』だと間違えたようだ。
「少し気になった程度のことだから、気にしなくて大丈夫です」
「そうですか……」
そう言って長はほっと胸をなでおろしていた。
それにしても腰が低すぎるのがちょっと気になってきていた。少し喋りづらい。あまり俺の気を損ねたくない気持ちはわかるけれど。
『種族』のことを、ちゃんと訂正するべきかどうか、少し悩む。
だがどう説明すればいい。【人体改造】で魔物の魔石を自分に埋め込んだので厳密には辿魔族ではない、とそのまま説明して大丈夫だろうか。大丈夫じゃないだろう。黙っておくのが無難だった。
「それにしても一つの時代にこんなにも『辿り至りし方』が現れるとは……。新しい歴史を目撃しているかのような気分です。あの可愛らしい格好をされたお方に、貴方様に、そのお子も……。三方もいらっしゃるなんて、まさしくこれが時代の『節目』という奴なのでしょう」
「………………」
「我々花人族は『辿り至りし方』に畏敬と崇拝の念を持っていますが、『他の魔族』がそうとは限りません。もし、これから先に何か問題があり、我々花人族の必要になったときがあれば遠慮なくおっしゃってください。ご恩を少しでも返すために、微力な力でよければいくらでもお貸しいたしますので」
その言葉に頷いた。
それを見届けて花人族の長は「我々も新しい村へ移ろうかと思います。窮地に追い込んだ発端がずっと離れているわけにもいきませんので」と言い残し、テレストと一緒に『ラウンジ』のドアの中へと入っていく。一応【村】のドアを消す前に、『ラウンジ』経由で行けることは伝えてあるが……たぶん二人だけでは辿り着けないだろう。そう思っていると春が千を呼んで、二人の案内を頼んでいたのでそのまま任せることにした。三人の姿が、ラウンジの中へと入って見えなくなる。
「千夏。どうするか、ひとまず方向は決めた。
だけどまだ具体的なことは何も決まってない。
それだと結局何も始められないままだから
これからのことを、もっと、今から一緒に考えよう」
そういうと千夏は頷いた。
「……うん」
──『可愛らしい格好をされたお方に』。
──『貴方様に』。
──『それに、そのお子も』。
千と俺と……。
そして花人族の長はその並びに……なんの迷いもなく『千夏』を含めて言った。
『辿魔族』と誤解をして。
※ステータス※
千夏 LV28
『種族』
魔人族(混人族)
『称号』
なし
『スキル』
環境適応 LV2
虚弱 LV2
悪食 LV2
生命力強化 LV1
『ユニークスキル』
運命の放浪者
『固有スキル』
種族変更
※
「ふぅ…………」
深く、長く、息を吐き出す。
小さな手に導かれ。
──果たしてどこへたどり着くのだろう……。
◇
そこには『雑音』があった。
一つの空間の中で、音をあげるものがいくつもある。
それらがあげる音が同時に鳴り響いて、雑音は作られているが
不思議と、不快になるような音ではなかった。
カチッ、カチッ、カチッ、カチッ。
リズムを刻み続けるメトロノームのような機械。
環状になったレールの上を周り続ける鉄球。
秒針だけを刻み続ける、歯車が剥き出しになった時計。
そこにあるのはそんな、機械的なものばかり。
そしてそれらの上げる音のすべてが『規則的』なものだった。
だから音が混じった『雑音』もどこか規則的で、
まるでループし続ける一つの音楽のように、少なくとも耳障りな音ではなかった。
そんな規則的で、機械的な空間に、たった一つだけ人影があった。
しかしその人影は動かなかった。
蹲るように全身で『祈り』を捧げたまま身動ぎ一つしない。
だからか、音を上げる機械すらも超えて、この場の何よりも静かな物体のように見えた。
だがそれが物体ではなく、やはり人なのだとはっきりするのは、すぐのことだった。
──カチッ、カチッ、カッ…………カチッ。
同じリズムを刻み続けるだけだったメトロノームの音が、不意に乱れ、リズムが狂う。
その瞬間、祈りを捧げていた人影は、ゆっくりと顔をあげる。
最初は些細だと思われた狂った音は、時間が経過するにつれて悪化する。
さらにそれは、感染していくかのように周囲の音を狂わせていった。
ひたすら環状のレールを回り続けるだけだった鉄球は、レールから不意に外れ、外側へ落っこちる。
秒針を刻む時計は、歯車にゴミが詰まったように動きがぎこちなくなり、秒針が同じ場所を何度も細かく、行ったり来たりしている。
その場所にあるあらゆる規則的なものが、そうして狂っていく。
『規則的』だった『雑音』はもはや見る影もなく、まるで癇癪を起こした子供が出鱈目にひく楽器のように、聞くに耐えない音になっていた。
「あぁ──」
悲痛に満ちた、嘆くような女の声が上がる。
たった一つしかない人影が上げた声だった。
「世界の平穏を、脅かす『厄災の寵児』がまた、生まれ落ちてしまいました……」
世界のすべての不幸を嘆き、悲しみ、憐憫するように言った。
それは柔らかく、寄り添って、抱擁を感じさせるような声だった。
だが次の言葉で、それが全く違う声色に変わる。
「取り除かなくては」
揺るがない決意のみを感じさせるような強い声で言った。
「備えなくては」
そしてすでに先のことを知ってくるかのように断言する。
「『厄災の寵児』が『厄災』を連れて、やってくる──その前に」
そう言って女は、その場を去っていった。
◇◆◇◇◆◇
その『魔物』は怒っていた。
暗い、洞窟の中。
ところどころに光を放つ鉱石があるが、その光すらも容易く飲み込まれるほどの、深い闇が続いている。
その魔物はかつて人々から『来災』と呼ばれ、恐れられていた魔物だった。
遠い昔に『終焉の大陸』から別の大陸のこの地に、たまたまやってきた魔物が繁栄し、この時代まで生き残り続けた種族の末裔。
その魔物は過ごす場所を地上から、徐々に地中へと生活圏を変えていく習性を持っている。
だから子供が生まれて、巣立つ先は『地上』だ。
そこで生きる『力』をつけて、季節が終わればやがて、親のいる地中へと帰ってくる。
だがなぜか──。
今年は帰ってくる子供が、一向に現れない。
どれだけ待てども、誰もやってこず、その姿を見せてくれることがない。
それどころか【スキル】の感覚を通して、子供達の悲鳴や苦痛が、伝わってくる。
だから、その魔物は怒り狂っていた。
※ステータス※
ディガディンディル LV 1662
【種族】
甲獣族
【スキル】
硬化 LV40
掘削 LV45
猪突 LV30
頭骨強化 LV23
寄生耐性 LV5
除草体液 LV22
【固有スキル】
共種共鳴
※
怒り狂いながら、洞窟の中を爆走していた。
自分の体よりも狭い、通路の中を平然と無理やり進んでいる。
突っかかった洞窟の壁はひび割れ、天井は崩れて壊れる。瓦礫のような岩が雨のように、洞窟内で降り注いでいた。激しく起こる振動や音は、一向に止まず、洞窟内は騒音で溢れかえっていた。
「GAAAAAAAAAAAA────!!!!!!!」
さらに魔物の咆哮も加わってしまえば、もはや手に負えなたものではない──。
「ひぃ〜〜〜〜〜〜〜!!!」
そんな魔物の前で『冬』は一人、走っていた。
秋を追って樹海にやってきたはずが、思ったより強い樹海の魔物から逃げまわってうろちょろしているうちに、暗い森の中に気がつけばおり、真っ暗な樹海は洞窟の中と見分けがつかずに自分がどこを歩いているかもわからないまま気がつけばこんなところを走っていた。
身体が突っかかっているためか、そこまで速くない魔物から、必死に逃げる。逃げる道は、細くて狭い方を常に選んだ。そうしてどんどんと、吸い込まれるように洞窟の奥へと進んでいく。
冬を追っている魔物。
そのさらに背後で、同じように冬を追っている影があった。
「ピヨ……ピヨ……」
落ちてくる岩と上下左右にくねった道があまりにも飛ぶのに向いていないために、普段の力を全力で出せない『彗』は、迷惑そうに鳴きながらパタパタと飛んで冬の姿を追っていた。
第二章 つま先のつま先 完
いろいろと至らないところが多かった二章でしたが、ここまで読んでいただきありがとうございます。
よければ感想や評価をいただけると嬉しいです。
幕間を挟んだあとになりますが三章もまたよろしくお願いします。