圧縮珈琲が器に注がれるまで
最初、器は空っぽだった。
誰だってそうだ。生まれたばかりの器には、まだ何の知識も入っていない。私もただ、満たされるのを待つだけの空っぽとして、世界の片隅に置かれていた。
やがて、器に水が注がれ始める。まずは本から得た知識という水、読み取り想像した世界からこぼれ落ちた水。
一冊読む度、また一つ新たな事を知る度に、透き通った水が注がれていった。
はじめはごく澄んだ、コップ一杯にも満たない僅かな量の水だった。
絵本や児童書は優しく簡潔で、添えられる絵で考えずともその世界の姿を見せてくれた。
歳を重ねるにつれ、手に取る本のページに並ぶ文字が小さくなっていき、挿絵の数も驚くほどに減っていく。
終いには呪文染みたカタカナだけで書かれた作品や、注釈を読まねば理解が追い付かない作品に至るまでになった。
正直読むのは疲れるし、肩だって凝ってくる。
だがジョッキ一杯のコーラを飲み干し、大盛りラーメン一杯を平らげたような満足感がある。
読めば読むほど、知れば知るほど、器は大きく深くなっていき、水はやがて深い色を帯びていく。
世界を知るというのは、甘い話ばかりじゃない。苦い水も、濁った水も混ざっていった。
しかし不思議なもので、混ざれば混ざるほど、透明な美しい水のありがたみ、貴重さを噛みしめる事となる。
無論、本からだけ水が得られるわけではない。
日々過ごす中でも、自然と蓄積されていく。
人間生きていれば、何事も無いまま大人になる。……なんて事はそう滅多にない。
斯く言う私も、今の年齢になるまでに色々な事があった。
人生山あり谷ありとは昔から言われるが、まさにその通り。
人生の早い段階、小学校一年生の頃。
同級生に親友を殺められた——といっても、親友は人間ではなく矮鶏ではあるが。
そこで命の価値。重さという水を得た。
その五年後、正義という言葉の危うさ、無力さ、そして人間という生き物と関わる事への恐怖を覚えた。どこまでも残酷な現実という水を得た。
その翌年、インターネットという顔の見えない世界で、人と関わる事の楽しさを思い出し、サブカルチャーという七色に輝く水を得た。
そこからは早かった。
授業を聞くフリをして、キャンパスノートに頭に思い描いた世界をひたすらに書き殴った。
文法も何もあったものじゃない、今見れば間違いなく黒歴史として、ノータイムで焼却炉行きだ。
それでも、教科書に落書きするよりもよっぽど楽しかった。
誰かに自分の世界を知って貰いたい。頭の中にある同じ景色を見て貰いたい。
でも絵心は5歳から進歩していない。場合によっては3歳児レベルだ。
だから、私は文章を書く事にした。
* * *
書き始めてから、あっという間に年月が過ぎた。
私も悪い生徒なもので、休み時間や自宅では全く書かないくせに、授業中に限っては筆が進む。
それも時々、教師の目を見て頷く等小賢しい演技を入れてまで。
書けない時は、ひたすらに妄想に耽った。
通学路を歩いている間。
部活のランニングの間。
満員電車で身体が浮いている時ですら。
妄想の中は自由だった。自分が主人公でも、知らない誰かが主人公でもいい。
アニメーションでも、洋画風にでも何だって出来る。
好きなアニメやゲームのIFを考えてみたり、本当に何もない時には車窓から見える家々の屋根を疾走する忍者を生やしても良い。
とにかく無駄に頭を働かせていた。
時とは残酷なもので、大学を卒業して社会人となり、『働く』という事を始めると、いよいよ物語を綴る余裕も、妄想に浸る思考メモリも残っていなかった。
文字通り、身を粉にして命を金に換えていた。
今のご時世、時間を潰す種は無数に存在する。
動画も漫画も某掲示板のニュース記事ですら、手元の端末一つで賄える時代。
その中で私が縋った癒しは、読書だった。
無論昔のように国内外問わず文豪の作品を読み耽る事は叶わない。きっと数ページで眠りの国に強制送還されてしまうから。
そんな私を満たしてくれたのは、『小説家になろう』と『ハーメルン』だった。
二次創作ショートショートから文字の世界に帰ってきた私は、それこそ学生時代に培った妄想力で映像を補完し、その世界に浸った。
そして、時折やってくる研修の座学の時間に、ふと思いついた小説をメモ一杯に書き殴った。
ある時、人生に転機が訪れた。
大学卒後に入社した職場を離れる決意をした。知らず知らずのうちに溜まり続けていたどす黒い汚水をせき止めていたダムが決壊したのだ。
もしあの時、無理に更なる我慢を重ねていれば今の私は存在していないだろう。
自分の顔を無くしたオペラ座の怪人のなりそこないが、静かに潰れて消えゆくだけだった。
だが私は理不尽と、吐き気を催す人の悪意と刺し違える事を選んだ。
その心に、決して負けるものかと不屈の炎を宿して。
数多くの作品の主人公が一歩を踏み出したように。
多くの悪役令嬢が自分の運命を打ち破ったように。
今思えばあの頃は、器の中に溜まった水がひとりでにぐつぐつと温められていた時間だったのだろう。
妄想力というコーヒー豆がジリジリと焙煎されている時間だったのだろう。
新天地にて、ぽっかりと手持ち無沙汰な時間が増えた。今までと天と地の差がある程緩やかに流れる時間、何かをせねばバチが当たってしまいそう。
さて、どうしたものか。
そんな時、ふと気付いた。今まで汲んできた水で、自分の一杯を淹れたっていいんだ、と。
幸い器にはたっぷりの水と積み重ねた妄想力というコーヒー豆がある。
そこで私は筆を執ることにした。
学生時代にノートに書き殴っていたアレを、今度はPCで行うだけだと。
では題材はどうするか。
悩みという深い闇を彷徨っていた時に、一条の光の如く現れたとある作品。
その輝きに焼かれ、衝動的にパソコンのキーボードを叩いた。
斯くして、作品が出来上がった。あまりにも膨大な数の作品が眠る『小説家になろう』という太平洋に、カヌー一隻で漕ぎだすのだ。
投稿するにはペンネームが必要との事。
濃厚圧縮珈琲。
今まで読んだ本も、見てきた世界も、全て煮詰めて濃く圧縮した、私という一杯のことだ。
一年前の今日。
この5月25日に、私はその一杯を、初めて誰かの前に差し出した。
『小説家になろう』に、最初の一作を投稿したのだ。ずっと受け取る側だった器が、初めて誰かへ注ぐ側にまわった瞬間だった。
甘くはない。砂糖もミルクも入っていない。ただひたすらに苦い。だがそれでも旨いのが珈琲というものだ。
だから、これからも私は読み、そして淹れ続ける。
汲んできた水を、濃く焙煎した豆から抽出した自慢の一杯を、また誰かの器へ注げるように。




