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「センセ、顔色、真っ白やで。今日はもう、落ちた方がええ」
沙羅が覗き込んでくる。
「そうだな……。だが、忘れていた」
俺は、重い上半身を無理やり起こそうとした。
「セーブ地点まで、戻らないと……」
このゲームでは、特定の『祠』や『鳥居』、あるいは大きなイベントの起こる建物でしか、進行状況を記録できない。
「アホか。そんな体で歩けるわけないやろ」
沙羅が、呆れたように溜息をついた。
そして、懐から何かを取り出し、俺の目の前に突き出した。
それは、小さな御守りだった。
淡い金色の光を帯びて、脈打つように明滅している。
「希少アイテムやけど、これ使い。『刻繋ぎの形代』や。ここがそのまま、セーブポイントになる」
俺は目を見開いた。
「だめだ、受け取れない。貴重なものなんだろう」
「ごちゃごちゃ言わんといて!」
沙羅が、俺の手を強引に掴んだ。
その小さな手のひらは、驚くほど熱かった。
沙羅は、俺の手のひらに無理やり御守りを押し付けると、ぎゅっと俺の指を閉じさせた。
「ここから動けへんようになったら、ウチが背負って運ばなあかんやろ? ウチの腰のためにも、大人しく受け取り! 使い方は、触わりながら『道のりを記せ』って、言うだけや」
沙羅は、照れ隠しのように唇を尖らせ、プイと顔を背けた。
その耳朶が、少しだけ紅葉のように赤くなっている。
「……ありがとう。使わせてもらう」
俺は、御守りに指先で触れる。
「道のりを、記せ」
呟くと同時に、御守りがふわりと浮かび上がった。
無数の金色の蝶となって、舞い上がる。
蝶たちは俺の周囲を螺旋を描いて飛び回り、光の円陣を描き出した。
リン、と涼やかな鈴の音が響き、俺の足元に、幾何学模様の『紋』が焼き付けられた。
『魂を留める場所を、記録しました』
女性の電子音声。
この場所が、俺の帰るべき場所となった。と同時に、形代は跡形もなく消えてしまう。
「……明日の朝、またここで」
「せやな! おやすみ、センセ」
沙羅の声を背中に聞きながら、俺は虚空に指を走らせた。
システムウィンドウが、空中に展開される。
【『極楽を去りますか?』】の文字が、淡く明滅していた。
「……去ります」
世界が音を立てて崩れ始めた。
まず、足元の草花が、墨絵のように滲んで消える。
次に、空のオーロラが、桜の花弁へと変わり、風にさらわれていく。
沙羅の姿も、光の粒となって霧散した。
意識が、闇に溶けた。
*
シャララーン。
軽快な電子音がした。
俺は、顔に張り付いたVRヘッドセットを、もぎ取るように外した。
重い。
数百グラムしかないはずの白い流線型のギアが、まるで鉛の塊のように感じる。
瞼を開ける。
そこに広がっていたのは、見慣れた天井だった。
六畳一間の、殺風景な自室。
カーテンの隙間から、街灯の冷たい光が差し込んでいる。
静寂。
先ほどまでの風の音も、波の音も、ここにはない。
あるのは、冷蔵庫が唸る低いモーター音と、自分の荒い呼吸音だけ。
「はぁ……」
俺は、ベッドの上で身じろぎした。
身体が、動かない。
金縛りにあったかのように、四肢がベッドに縫い付けられている。
激しい口渇感。
(水……飲まないと、脱水になる)
這うようにベッドから降り、部屋の隅にあった液体タイプの栄養剤を胃腸に流し込む。
(……これが、代償か)
頭の芯が、ズキズキと痛む。
脳内の神経伝達物質が、枯渇している気がする。
セロトニンも、ドーパミンも、仮想世界での『奇跡』と引き換えに、根こそぎ持っていかれたようだ。
左手が動きづらい。指先が痺れている。
ベッドに戻るのさえ、ひどく億劫。
俺は、泥の中に沈むように、枕に顔を埋めた。
(あれ……沙羅ちゃんも、今日……食事も水分も、摂取してなかったんじゃないか……? 成長期なんだから、俺から、声かけ、しないと……)
まとまらない思考の欠片。俺は、もう目を開けていられなかった。
*
その頃、VR世界『極楽』の最深部、『高天原』。
築百年の京町家を思わせる、重厚な和風家屋。 磨き上げられた黒檀の床が、周囲の景色を映し込んでいる。
枯山水の庭園には、空中に半透明のモニターウインドウが複数浮かび上がり、奇妙な空間を作りだしていた。
和風家屋の中には、螺鈿細工の、七色に輝く玉座が鎮座している。
玉座で、一人の女性が頬杖をついていた。 十二単を現代風にアレンジしたような、豪奢な衣装。襲の色目は、薄青から濃紺へのグラデーションを描き、裾が波のように床に広がっている。
顔には、能面のような静けさと、人工的な美しさが張り付いている。
ゲームマスターにして、この世界の創造主の一人たるAI――『始祖』。
始祖が見上げる先は、庭園の空中の、モニターウィンドウ。
ウインドウには、先ほど、ショウが救った村の様子が映し出されていた。
井戸の真菌を特定し、治療するショウの姿が、リプレイされている。
「……おかしなイレギュラーが、生じているようですね」
始祖が、感情のない声で呟いた。
「定められたシナリオでは、あの村は『祟り』を経験し、供物を捧げ……安らかな死を受け入れるための舞台となるはずでした。……受け入れなくてはならない、残酷な運命は、存在するのだと。……それを、『医学』などという、現世の理屈で書き換えるとは」
始祖がゆっくり立ち上がる。
「夏目 翔……。貴方のデータには、他の患者たちのような『諦念』がない。死への安らぎを拒絶し、生への執着でシステムを汚染している」
始祖は、庭へ向けて歩き出した。
「基本的に、プレイヤーの自発性は尊重すべきでは、ございますし……。そのあがきが、いつまで続くか……少し、経過観察と、いたしましょうか」
始祖が、薄青の着物の袖をふわりと振った。
すると、空中に浮かんでいたウィンドウが、音もなく無数の破片へと解けた。
その破片の一つ一つが、螺鈿よりも強い光で、七色に輝き、ひらり、ひらりと羽ばたき始める。
徐々にその光は、空色に透き通る翅を持つ、数多の蝶へと形を変えてゆく。
アサギマダラ。
海を渡り、魂を運ぶとされるその蝶たちは、瑠璃色の燐光を撒き散らしながら、静謐な庭園を埋め尽くしていく。
華やかな群れは、ゆらゆらと頼りなく、けれど目的を持って何処かへと飛んでいった。
「100年もない生なのだから……美しいものに溺れることに、何の罪がございましょう。……胡蝶の夢が覚める、その、時まで」
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