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 トゥカラの巨体は、見た目に反して軽やかだった。


 背びれで波を蹴るたび、鉄紺色てつこんいろの海面が白く泡立ち、飛沫がきらきらと宙に散る。


 俺たちは、その広い背中の鞍に揺られながら、北の海を進んでいた。


 吹雪はいつの間にか止み、澄んだ空が戻ってきている。


 波の音だけが、心地よいリズムで鼓膜を揺らす。



「極楽、か……」


 俺は、流れる景色を眺めながら、独りごちた。


 どこまでも続く海の青と、波間の煌めき。水平線の彼方に、蜃気楼のように浮かぶ翡翠色の小さな島影。



「センセ、少し、顔色がええな」


 前方の鞍に座った沙羅が、振り返った。桜色の振袖が、海風にふわりと靡く。


「そうか? 頭痛はまだ少し残っているけど」


「そうやなくて。なんていうか……少しだけ、憑き物が落ちたみたいな顔、しとる」


 沙羅は、悪戯っぽく微笑んだ。


「最初に会うた時は、眉間に深ーい皺寄せて、世界中の不幸を一人で背負ってますー、みたいな顔やったけどな」


「……失礼な」


 俺は苦笑した。


 ずっと、楽しむことは罪だと思っていた。自分だけが不幸だと、視野狭窄に陥っていた。


 だが、今。


 空を飛び、氷を駆けて。同じく余命を課せられた仲間と共に感じる潮風が、少しだけ心地よい。




「おーい! 見えてきたぞー! 小島だ!」


 トゥカラが、太い声を上げた。


 近づくにつれ、俺は目を疑った。


 海抜ゼロメートルに近い海岸の低地に、本来なら高山にしか咲かないはずの花々が、びっしりと地を覆い尽くしている。



 若紫色のレブンソウ。


 鬱金色うこんいろのレブンアツモリソウ。


 薄紅色のハクサンチドリ。


 色彩の、洪水だった。



 背景には残雪を頂いた山がそびえ、青い海と色とりどりの高山植物が、この世ならざるコントラストを描き出している。


「きれえ……」


 沙羅が、感嘆の息を漏らした。


「綺麗だろー? カムイミンタラって言ってさ。神々が遊ぶ庭……祭場の一つなんだ。あっちにコタンが……人の集落が見えるだろ?」


 トゥカラの視線の先に、灰色の岩肌と枯れ木の森に囲まれた、小さな集落が見えてきた。古びた日本家屋が、斜面にへばりつくように建っている。海に突き出た桟橋。


「あれが『白夜のびゃくやのみなと』だ。補給するにはあそこしかねぇが……ちと、様子が変だな」


 トゥカラが速度を落とした。


 確かに、静かすぎる。



 港には漁船が数隻係留されているが、人の気配が全くない。空は高く晴れ渡っているのに、カラスの鳴き声だけが、不吉にこだましている。


「……嫌な予感がする」


 俺の背筋を、冷たいものが走った。



 トゥカラが桟橋に横付けすると、俺たちは静かに上陸した。


 腐りかけた板張りの桟橋が、踏むたびにギシギシと悲鳴を上げる。


「誰も、おらへんな……」


 沙羅が、腰の太刀に手をかけ、警戒しながら周囲を見回す。


 村の入り口にある鳥居は、朱の色が剥げ落ち、注連縄しめなわが千切れて垂れ下がっていた。


「たのもう! 誰かいないか!」


 トゥカラが大声で呼ぶ。巨体から通常サイズに戻った体で、意外にもスムーズに陸地を進んでいる。


 返事はない。


 その代わり――家々の隙間から、何かが這い出してきた。


 汚れた着物を纏った老人たちが、地面を這うようにして、こちらに手を伸ばしてくる。


「み……みず……」


 その顔色は土気色で、眼窩は落ち窪んでいた。皮膚には、奇妙な赤黒い紫斑しはんが浮かんでいる。


「なんやこれ……ゾンビゲームに方向転換か?!」


 沙羅が後ずさった。


「違う」


 俺は駆け寄り、一番近くにいた老人の手首を取った。


 脈は速く、不整。皮膚は乾燥し、高熱を帯びている。


「若造! 病人に触るな!」


 杖をついた村長らしき老人が、家の中からよろめき出てきた。


「昨日から、井戸の水が白く濁り、飲んだ者が次々と倒れた。これは『祟り』だ! 我々の信仰心が足りなかった罰! ……悪しきカムイに祠で供物を捧げ、怒りを鎮めるしか……」


 村長は震える手で、西の山にある祠の方角を指した。


(頻脈、脱水、紫斑……全員に共通する症状。急性の集団発症。感染にしては発症速度が速すぎる。全員が同時に同じものを摂取した可能性が高い……)


「センセ、これ、お使いクエストやな」


 沙羅が俺の耳元で囁く。


「祠に行って、供物を捧げるか、魔物を倒してこいって、やつや。ゲームのシナリオ通りに進めば、多分解決する」


(なるほど。この世界のルールでは、『祟り』を解く正規ルートが用意されているわけか……だが。供物は何か特定して、探して、入手して……。さらに祠に行って帰って……凄い時間ロスだ。タミさんを見つける前に、有給が切れてしまう。……いや。所詮、苦しんでいるのはノンプレイヤー・キャラクターだ。ただの、プログラム。完全無視して進むのも、手だな)


「……村長。タミさんという、品のいいおばあさんを知らないか」


「こんな時に、何を言っている?!  わしは知らんし、知っている村人がいたとしても、口をきける状態ではないわい!」


「……この村を治療しないと、前に進めないようだな」



 俺は、村の中央にある古井戸へと向かった。


 井戸の中を覗き込む。


 水面は白く濁り、甘ったるい腐敗臭が漂っていた。


 ふと、井戸の枠に生えている苔と、内壁にへばりつく純白のキノコに目が止まった。ころんとしたフォルムの傘をかぶった、白く輝くキノコ。


(……明らかに、警戒色。毒があるから食うな! って、主張している色だ)


「沙羅ちゃん、トゥカラ。……これは『祟り』じゃない。おそらく、キノコ毒の中毒だ」


「ちゅうどく?」


 沙羅が首をかしげる。


「ああ。原因を特定し、適切に対処すれば、必ず助かる。――証明して見せる。きっと、『お使いクエスト』を脊髄反射で行うより、短時間で効率的にすむはずだ」


(このゲームは『業』を主体とする魔法の世界ではあるが、その魔法の仕組や世界構造には、一定の論理性はある……バックグラウンドで動いているのは、人間より賢いAIなんだっけ……?)


 俺は、この医療VRゲームの説明を受けた時、興味が無さすぎて流してしまった自分を、殴りたくなった。


(まあ、いい。きっと、俺のシナリオ外の行動にも、このゲームはロジカルに対応してくれる)



 俺は、意識を研ぎ澄ませた。


「医業執行――神脈・透視しんみゃく・とうし


 激しい頭痛と共に、視界が金色の構造図へと切り替わる。


 井戸の底、そのさらに奥にある地下水脈。


 そこに、目に見えない微細な化学物質の粒子が充満しているのが、光る粉のように、具現化して見えた。


 それは、井戸の内壁に群生する『純白のキノコ』から放出される、致死性の代謝産物――カビ毒だ。


 異常繁殖したキノコが、強力な毒素を水脈に撒き散らしている。


(やはり……。原因は、真菌中毒症だ)


 毒物を摂取したことによる急性中毒。だからこそ、村人全員が同時に、急速に悪化したのだ。


 皮膚の紫斑は、毒素による血管障害を示唆している。


「原因は多分、これだ。このキノコが産生した毒素が、水を汚染している」


 俺は、井戸の縁に生えたキノコを指さした。


「な、なんと……。しかし、そのキノコは昔からそこに……」


「近年は異常気象で、北極の氷さえ、溶けていると聞きます。温暖化の影響で、井戸の深いところで、爆発的にキノコが増殖したんだと思います」


 俺は、沙羅だけに聞こえる小声で、付け足した。


「……多分、AIがゲームシナリオを組み立てる時に、学習データとして現実に起きている異常気象を参照したんだと思う」


「し、しかし、実際にどうかなど、分からないではないか! これは祟りだ!」


 村長は、頑固である。プレイヤーを本来のゲームの流れ……クエストに誘導すべきノンプレイヤー・キャラクターならば当然か。


「俺様が井戸の底へ降りて、キノコを見てきてやるぜ!」


 足元で、威勢の良い声が弾けた。 フワフワのゴマアザラシが、つぶらな瞳を輝かせ、短い前ヒレで胸を張る。トゥカラの姿に、村長は目を剥いた。


「トゥカラ……俺達の側についてくれるのか。……井戸は危険だが、お願いできるか?」


「おうよ! 俺様は海の神。どんな水だって、庭みてぇなもんだ!」


 トゥカラは陣笠を外した。微かな青い光を発すると、瞬く間に、手のひらサイズにまで、体が小さくなる。


 トゥカラは井戸の釣瓶つるべ桶に、身軽に飛び乗った。白い流線型の体が、桶にすっぽりと収まる。ちょこんと頭だけ出した姿は、大福餅のよう。


「……底に着いたら、釣瓶つるべ桶の紐を叩いて、教えてくれ。絶対に水は飲むな。引き上げたら、すぐに海水で全身を洗うんだ」


「了解!」


 トゥカラが、ヒレで敬礼する。


 気を利かせた沙羅が、海水を取りに港に走り出す。


 俺は、滑車を慎重に回した。キィ、キィ、と錆びた音が鳴る。


 白いアザラシを乗せた桶が、闇へと吸い込まれていく。




 釣瓶を落とし終わり、しばし待つ。


 ――釣瓶桶の紐が、ちょこちょこと動いた。




「よし、キノコを一つ採取して、桶に戻ってくれ!」


 再び滑車を回し、トゥカラを引き上げる。


 桶から飛び出したトゥカラは、大きな純白のキノコを、そのヒレに持っていた。


「やっぱ、井戸の石壁の内側に、びっしり生えてやがったぜ!」


「ありがとう! すぐに海水で、体を洗ってくれ」


 沙羅が、トゥカラの全身へ、容赦なく海水をぶちまける。


 村長が、なんとも言えない顔で立ち尽くしている。




 俺は、トゥカラが持ち帰ったキノコを見つめた。


「沙羅ちゃん、村の家を回って、『灰』があれば、もらって来てくれるか?」


「灰? なんでや?」


「気休めかもしれないが……アルカリ性はカビの繁殖を抑え、一部の毒素を分解しやすくする。井戸の洗浄に使う」


「りょーかいや!」


(これで、俺の体を心配する沙羅ちゃんは、いなくなった……。)



「患者さんのところに案内して下さい、一番重症な方から」



 案内されたのは、村で一番大きな長屋だった。


 薄暗い土間。


 踏み入れた瞬間、鼻をつく異臭に、思わず眉をひそめる。


 腐った果実のような、澱んだ匂い。


 むしろの上には、十数人の村人が雑魚寝していた。


 呻き声すら、もう上がらない。


 ただ、ヒュー、ヒューという、か細い呼吸音だけが、死神の足音のように響いている。


「この子が……一番酷い」


 村長が、震える手で奥を指差した。


 そこには、七つくらいの少年が横たわっていた。


 顔色は土器のようにくすみ、呼吸は浅く、速い。


 脈を取る。


 指先に伝わる鼓動は、糸のように細く、今にも切れそうだ。


(――時間がない)


 毒の回りが早すぎる。


「医業執行――解毒・浄化!」


 俺の掌から、淡い光が溢れ出す。


 光は液状に変化し、点滴のチューブのように、少年の胸へと吸い込まれていった。


 その瞬間。


 ドクン!


 俺の心臓が、早鐘を打った。


 頭痛と共に、視界がぐらりと揺れ、凄まじい倦怠感が、全身を襲う。


(ぐっ……やはり、侵襲度の高い『治療』の代償は重い……!)


 現実世界の俺の脳内物質が、急速に枯渇していく感覚。


 セロトニンが、ドーパミンが、強制的に消費されていく。


 だが、効果は劇的だった。






 少年の呼吸が深くなり、頬に赤みが差す。


 苦悶の表情が消え、安らかな寝息へと変わった。


「おお! 孫が、目を開けた!」


 村長が駆け寄り、涙を流して少年の手を握る。


「ありがとうございます、旅の癒やし手様! どうか、どうか他の者たちも!」


 村長が、縋るような目で俺を見た。





 周囲の村人たちも、虚ろな目を俺に向ける。


 その視線が、痛い。


 俺は、よろめきながら立ち上がろうとして――膝をついた。


 息が上がる。


 指先が震えて止まらない。


(無理だ……)


 冷徹な計算が、脳裏を過る。


 この村には、ざっと五十人以上の患者がいるらしい。


 一人治すだけで、この消耗だ。


 短時間に全員を『業』で治そうとすれば、間違いなく、現実世界の俺の脳が焼き切れる。


 俺が死ねば、タミさんを探すことも、沙羅を救うこともできない。


(リアリティのあるグラフィックに、没入しすぎるな。ここにいるのは、生き物じゃない。ただのノンプレイヤー・キャラクターだ。トリアージが必要だ……優先順位づけが)


「……すまない。俺の『奇跡』には、限りがある」


 俺は、唇を噛み締めながら、村長に告げた。


 絶望の色が、村長の顔に広がる。


「そ、そんな……見捨てるというのか?!」


少しでも続きが気になると思って頂いた方は、ブックマーク頂ければ幸いです。

3/30まで、1日複数話、定期的に投稿します。(全体で20話程度で、一段落となります)

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