7
トゥカラの巨体は、見た目に反して軽やかだった。
背びれで波を蹴るたび、鉄紺色の海面が白く泡立ち、飛沫がきらきらと宙に散る。
俺たちは、その広い背中の鞍に揺られながら、北の海を進んでいた。
吹雪はいつの間にか止み、澄んだ空が戻ってきている。
波の音だけが、心地よいリズムで鼓膜を揺らす。
「極楽、か……」
俺は、流れる景色を眺めながら、独りごちた。
どこまでも続く海の青と、波間の煌めき。水平線の彼方に、蜃気楼のように浮かぶ翡翠色の小さな島影。
「センセ、少し、顔色がええな」
前方の鞍に座った沙羅が、振り返った。桜色の振袖が、海風にふわりと靡く。
「そうか? 頭痛はまだ少し残っているけど」
「そうやなくて。なんていうか……少しだけ、憑き物が落ちたみたいな顔、しとる」
沙羅は、悪戯っぽく微笑んだ。
「最初に会うた時は、眉間に深ーい皺寄せて、世界中の不幸を一人で背負ってますー、みたいな顔やったけどな」
「……失礼な」
俺は苦笑した。
ずっと、楽しむことは罪だと思っていた。自分だけが不幸だと、視野狭窄に陥っていた。
だが、今。
空を飛び、氷を駆けて。同じく余命を課せられた仲間と共に感じる潮風が、少しだけ心地よい。
「おーい! 見えてきたぞー! 小島だ!」
トゥカラが、太い声を上げた。
近づくにつれ、俺は目を疑った。
海抜ゼロメートルに近い海岸の低地に、本来なら高山にしか咲かないはずの花々が、びっしりと地を覆い尽くしている。
若紫色のレブンソウ。
鬱金色のレブンアツモリソウ。
薄紅色のハクサンチドリ。
色彩の、洪水だった。
背景には残雪を頂いた山がそびえ、青い海と色とりどりの高山植物が、この世ならざるコントラストを描き出している。
「きれえ……」
沙羅が、感嘆の息を漏らした。
「綺麗だろー? カムイミンタラって言ってさ。神々が遊ぶ庭……祭場の一つなんだ。あっちにコタンが……人の集落が見えるだろ?」
トゥカラの視線の先に、灰色の岩肌と枯れ木の森に囲まれた、小さな集落が見えてきた。古びた日本家屋が、斜面にへばりつくように建っている。海に突き出た桟橋。
「あれが『白夜の港』だ。補給するにはあそこしかねぇが……ちと、様子が変だな」
トゥカラが速度を落とした。
確かに、静かすぎる。
港には漁船が数隻係留されているが、人の気配が全くない。空は高く晴れ渡っているのに、カラスの鳴き声だけが、不吉にこだましている。
「……嫌な予感がする」
俺の背筋を、冷たいものが走った。
トゥカラが桟橋に横付けすると、俺たちは静かに上陸した。
腐りかけた板張りの桟橋が、踏むたびにギシギシと悲鳴を上げる。
「誰も、おらへんな……」
沙羅が、腰の太刀に手をかけ、警戒しながら周囲を見回す。
村の入り口にある鳥居は、朱の色が剥げ落ち、注連縄が千切れて垂れ下がっていた。
「たのもう! 誰かいないか!」
トゥカラが大声で呼ぶ。巨体から通常サイズに戻った体で、意外にもスムーズに陸地を進んでいる。
返事はない。
その代わり――家々の隙間から、何かが這い出してきた。
汚れた着物を纏った老人たちが、地面を這うようにして、こちらに手を伸ばしてくる。
「み……みず……」
その顔色は土気色で、眼窩は落ち窪んでいた。皮膚には、奇妙な赤黒い紫斑が浮かんでいる。
「なんやこれ……ゾンビゲームに方向転換か?!」
沙羅が後ずさった。
「違う」
俺は駆け寄り、一番近くにいた老人の手首を取った。
脈は速く、不整。皮膚は乾燥し、高熱を帯びている。
「若造! 病人に触るな!」
杖をついた村長らしき老人が、家の中からよろめき出てきた。
「昨日から、井戸の水が白く濁り、飲んだ者が次々と倒れた。これは『祟り』だ! 我々の信仰心が足りなかった罰! ……悪しきカムイに祠で供物を捧げ、怒りを鎮めるしか……」
村長は震える手で、西の山にある祠の方角を指した。
(頻脈、脱水、紫斑……全員に共通する症状。急性の集団発症。感染にしては発症速度が速すぎる。全員が同時に同じものを摂取した可能性が高い……)
「センセ、これ、お使いクエストやな」
沙羅が俺の耳元で囁く。
「祠に行って、供物を捧げるか、魔物を倒してこいって、やつや。ゲームのシナリオ通りに進めば、多分解決する」
(なるほど。この世界のルールでは、『祟り』を解く正規ルートが用意されているわけか……だが。供物は何か特定して、探して、入手して……。さらに祠に行って帰って……凄い時間ロスだ。タミさんを見つける前に、有給が切れてしまう。……いや。所詮、苦しんでいるのはノンプレイヤー・キャラクターだ。ただの、プログラム。完全無視して進むのも、手だな)
「……村長。タミさんという、品のいいおばあさんを知らないか」
「こんな時に、何を言っている?! わしは知らんし、知っている村人がいたとしても、口をきける状態ではないわい!」
「……この村を治療しないと、前に進めないようだな」
俺は、村の中央にある古井戸へと向かった。
井戸の中を覗き込む。
水面は白く濁り、甘ったるい腐敗臭が漂っていた。
ふと、井戸の枠に生えている苔と、内壁にへばりつく純白のキノコに目が止まった。ころんとしたフォルムの傘をかぶった、白く輝くキノコ。
(……明らかに、警戒色。毒があるから食うな! って、主張している色だ)
「沙羅ちゃん、トゥカラ。……これは『祟り』じゃない。おそらく、キノコ毒の中毒だ」
「ちゅうどく?」
沙羅が首をかしげる。
「ああ。原因を特定し、適切に対処すれば、必ず助かる。――証明して見せる。きっと、『お使いクエスト』を脊髄反射で行うより、短時間で効率的にすむはずだ」
(このゲームは『業』を主体とする魔法の世界ではあるが、その魔法の仕組や世界構造には、一定の論理性はある……バックグラウンドで動いているのは、人間より賢いAIなんだっけ……?)
俺は、この医療VRゲームの説明を受けた時、興味が無さすぎて流してしまった自分を、殴りたくなった。
(まあ、いい。きっと、俺のシナリオ外の行動にも、このゲームはロジカルに対応してくれる)
俺は、意識を研ぎ澄ませた。
「医業執行――神脈・透視」
激しい頭痛と共に、視界が金色の構造図へと切り替わる。
井戸の底、そのさらに奥にある地下水脈。
そこに、目に見えない微細な化学物質の粒子が充満しているのが、光る粉のように、具現化して見えた。
それは、井戸の内壁に群生する『純白のキノコ』から放出される、致死性の代謝産物――カビ毒だ。
異常繁殖したキノコが、強力な毒素を水脈に撒き散らしている。
(やはり……。原因は、真菌中毒症だ)
毒物を摂取したことによる急性中毒。だからこそ、村人全員が同時に、急速に悪化したのだ。
皮膚の紫斑は、毒素による血管障害を示唆している。
「原因は多分、これだ。このキノコが産生した毒素が、水を汚染している」
俺は、井戸の縁に生えたキノコを指さした。
「な、なんと……。しかし、そのキノコは昔からそこに……」
「近年は異常気象で、北極の氷さえ、溶けていると聞きます。温暖化の影響で、井戸の深いところで、爆発的にキノコが増殖したんだと思います」
俺は、沙羅だけに聞こえる小声で、付け足した。
「……多分、AIがゲームシナリオを組み立てる時に、学習データとして現実に起きている異常気象を参照したんだと思う」
「し、しかし、実際にどうかなど、分からないではないか! これは祟りだ!」
村長は、頑固である。プレイヤーを本来のゲームの流れ……クエストに誘導すべきノンプレイヤー・キャラクターならば当然か。
「俺様が井戸の底へ降りて、キノコを見てきてやるぜ!」
足元で、威勢の良い声が弾けた。 フワフワのゴマアザラシが、つぶらな瞳を輝かせ、短い前ヒレで胸を張る。トゥカラの姿に、村長は目を剥いた。
「トゥカラ……俺達の側についてくれるのか。……井戸は危険だが、お願いできるか?」
「おうよ! 俺様は海の神。どんな水だって、庭みてぇなもんだ!」
トゥカラは陣笠を外した。微かな青い光を発すると、瞬く間に、手のひらサイズにまで、体が小さくなる。
トゥカラは井戸の釣瓶桶に、身軽に飛び乗った。白い流線型の体が、桶にすっぽりと収まる。ちょこんと頭だけ出した姿は、大福餅のよう。
「……底に着いたら、釣瓶桶の紐を叩いて、教えてくれ。絶対に水は飲むな。引き上げたら、すぐに海水で全身を洗うんだ」
「了解!」
トゥカラが、ヒレで敬礼する。
気を利かせた沙羅が、海水を取りに港に走り出す。
俺は、滑車を慎重に回した。キィ、キィ、と錆びた音が鳴る。
白いアザラシを乗せた桶が、闇へと吸い込まれていく。
釣瓶を落とし終わり、しばし待つ。
――釣瓶桶の紐が、ちょこちょこと動いた。
「よし、キノコを一つ採取して、桶に戻ってくれ!」
再び滑車を回し、トゥカラを引き上げる。
桶から飛び出したトゥカラは、大きな純白のキノコを、そのヒレに持っていた。
「やっぱ、井戸の石壁の内側に、びっしり生えてやがったぜ!」
「ありがとう! すぐに海水で、体を洗ってくれ」
沙羅が、トゥカラの全身へ、容赦なく海水をぶちまける。
村長が、なんとも言えない顔で立ち尽くしている。
俺は、トゥカラが持ち帰ったキノコを見つめた。
「沙羅ちゃん、村の家を回って、『灰』があれば、もらって来てくれるか?」
「灰? なんでや?」
「気休めかもしれないが……アルカリ性はカビの繁殖を抑え、一部の毒素を分解しやすくする。井戸の洗浄に使う」
「りょーかいや!」
(これで、俺の体を心配する沙羅ちゃんは、いなくなった……。)
「患者さんのところに案内して下さい、一番重症な方から」
*
案内されたのは、村で一番大きな長屋だった。
薄暗い土間。
踏み入れた瞬間、鼻をつく異臭に、思わず眉をひそめる。
腐った果実のような、澱んだ匂い。
筵の上には、十数人の村人が雑魚寝していた。
呻き声すら、もう上がらない。
ただ、ヒュー、ヒューという、か細い呼吸音だけが、死神の足音のように響いている。
「この子が……一番酷い」
村長が、震える手で奥を指差した。
そこには、七つくらいの少年が横たわっていた。
顔色は土器のようにくすみ、呼吸は浅く、速い。
脈を取る。
指先に伝わる鼓動は、糸のように細く、今にも切れそうだ。
(――時間がない)
毒の回りが早すぎる。
「医業執行――解毒・浄化!」
俺の掌から、淡い光が溢れ出す。
光は液状に変化し、点滴のチューブのように、少年の胸へと吸い込まれていった。
その瞬間。
ドクン!
俺の心臓が、早鐘を打った。
頭痛と共に、視界がぐらりと揺れ、凄まじい倦怠感が、全身を襲う。
(ぐっ……やはり、侵襲度の高い『治療』の代償は重い……!)
現実世界の俺の脳内物質が、急速に枯渇していく感覚。
セロトニンが、ドーパミンが、強制的に消費されていく。
だが、効果は劇的だった。
少年の呼吸が深くなり、頬に赤みが差す。
苦悶の表情が消え、安らかな寝息へと変わった。
「おお! 孫が、目を開けた!」
村長が駆け寄り、涙を流して少年の手を握る。
「ありがとうございます、旅の癒やし手様! どうか、どうか他の者たちも!」
村長が、縋るような目で俺を見た。
周囲の村人たちも、虚ろな目を俺に向ける。
その視線が、痛い。
俺は、よろめきながら立ち上がろうとして――膝をついた。
息が上がる。
指先が震えて止まらない。
(無理だ……)
冷徹な計算が、脳裏を過る。
この村には、ざっと五十人以上の患者がいるらしい。
一人治すだけで、この消耗だ。
短時間に全員を『業』で治そうとすれば、間違いなく、現実世界の俺の脳が焼き切れる。
俺が死ねば、タミさんを探すことも、沙羅を救うこともできない。
(リアリティのあるグラフィックに、没入しすぎるな。ここにいるのは、生き物じゃない。ただのノンプレイヤー・キャラクターだ。トリアージが必要だ……優先順位づけが)
「……すまない。俺の『奇跡』には、限りがある」
俺は、唇を噛み締めながら、村長に告げた。
絶望の色が、村長の顔に広がる。
「そ、そんな……見捨てるというのか?!」
少しでも続きが気になると思って頂いた方は、ブックマーク頂ければ幸いです。
3/30まで、1日複数話、定期的に投稿します。(全体で20話程度で、一段落となります)




