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「どこのどいつだよ、他人のしまで騒ぐ奴は」


 変声期前の少年の声が、吹雪の向こうから届いた。


「センセ、あそこ……!」


 沙羅が、利き手で太刀の柄を握ったまま、もう片方の手で、白の壁の中にある一点を指した。


 流氷と同化していた白い塊が、ぬらりと、動いた。


 現れたのは、一頭のアザラシだった。


 子供にしか見えない。立っても、俺の膝に届くかどうか。


 新雪のように白い、モフモフの体毛。黒曜石のように黒く、潤んだ丸い瞳。


 精緻な彫金が施された、簡素でありながら風格ある和の鎧を纏っている。愛らしい丸い頭頂部には、戦国武将が戦場で被るような、古びた陣笠。


 首には、緋色の布がきつく巻かれ、猛吹雪に靡いている。


 そして、器用に伸ばした前ヒレの先に、朱塗り(しゅぬり)の小さな杯が握られていた。


 なみなみと注がれた酒から、極寒の中にあってなお、微かな湯気が立ち上っている。


 アザラシが、杯の酒を一気にあおった。


「ぷはー、熱くなる……」


 満足げに呟く。頬が、僅かに赤い。


「……アザラシ?」


 思わず俺が呟くと、丸い獣の眉間が、ピクリと不機嫌に動いた。


「か、かわええ……」


 横の沙羅が、うっとりと言い放った。


「……可愛い、だと?」


 アザラシが、仁王立ちになる。丸い白い体が、ぷるん、と全身で震えた。短い後ろ足を踏ん張り、胸を反らして鎧の札をカチャリと鳴らす。


 その動作は客観的に見て、どう控えめに評価しても「可愛い」としか言いようがなかったが。


「俺様は、北の海の覇者にして、泣く子も黙る海賊神! トゥカラ・カムイ様だ! 貴様のその目――節穴かあぁぁっ!」


、――放たれる殺気だけは紛れもなく本物だった。


 咆哮。


 トゥカラが、残りの杯の中身を虚空へ豪快にぶちまけた。


 散った酒の飛沫が、凍った霧に変化した。


 一滴の酒から生まれた白い粒子が、連鎖的に増殖し、吹雪と混ざり合い膨張していく。


神酒白霧カムイトノト・ウララ!」


 視界が、瞬きひとつの間に、濃密な乳白色に塗りつぶされた。





 ただでさえ白い氷の世界だ。


 そこに乳白色の霧が立ち込めると、上下左右の感覚すら喪失する。白の中にいるのか、闇の中にいるのか。


 唯一の確かなものは、足の裏に伝わる氷の冷たさだけだった。


「っ……目眩ましやな! 見えへん! センセ、背中合わせや!」


 沙羅の声が鋭く響く。


 俺は咄嗟に身を翻し、沙羅の背中と自分の背中を密着させた。


 着物越しに伝わる、沙羅の体温。この極寒の中でもなお温かい。




 ヒュンッ!


 風切り音。




「ぐ……っ!」


 右頬に衝撃が走った。遅れて、鋭利な痛みが頬を灼く。手で拭うと、赤い血が冷えた指に付いた。


「氷の礫だ! 気をつけろ!」


「どこから、飛んで来とんの……っ?!」


 沙羅が焦燥を含んだ声を上げた。


 ヒュンッ! ヒュンッ!


 次々と飛来する氷の弾丸を、沙羅は太刀で弾く。だが、見えない敵の攻撃だ。研ぎ澄ませた音と殺気だけで防いでいる。


 ――ザッ。


 氷上を何かが滑走する微かな音が、前方から反響した。


 速い。


 ――分厚い腹の脂肪をそりのように使った、スケーティングの高速機動。海の猛獣の、本領だ。


「俺様を、舐めるなぁっ!」


 右斜め前方から、トゥカラの影が飛び出した。鋭い氷柱つららを槍の形に変え、突き出して突進してくる。白い丸い体が、氷上を弾丸のように滑走する。


「もらい! 軌道、丸見えや!」


 沙羅が、俺の前に一瞬で移動し、太刀を閃かせた。


 だが、刃が届く寸前、トゥカラの体がボールのように弾んで横へ滑る。


 キィン! 太刀が空を裂くだけだった。沙羅の足が氷上でずるりと流れ、姿勢が崩れる。


「ひゃーっはっは! 氷の上なら、俺様の独壇場だ!」


 トゥカラが、槍で沙羅に迫る。沙羅は、ジリジリと追い詰められていく。


 氷の槍が、至近距離で沙羅の袖を裂いた。薄紅色の振袖の裂け目から、白い腕が覗く。


「沙羅!」


「センセは後ろに下がっとき!」


 沙羅が叫ぶ。だが、その声は明らかに切迫していた。


 俺は、拳を握りしめた。


 白い霧の中、沙羅の小さな背中だけが見える。華奢な背中が、俺を庇って、たった一人で全てを受け止めている。


(……また、これか)


 沙羅の背中に、妹の美奈の姿が、重なった。


(俺は、いつまで見ているだけなんだ……!)


 右手が、無意識に持ち上がっていた。


 指先に、この世のものではない冷たい光が、滲み始める。


 あの時と同じ――白銀の、注射器の輪郭が、手のひらに浮かび上がる。



(駄目だ。約束した。攻撃はしないと)


 頭では分かっている。


 分かっている、のに。


 ヒュンッ!


 新たな氷の槍が、霧を裂いて飛来した。



 沙羅が斬る。だが、二本目が、死角から――沙羅の横腹を狙って。


 沙羅の瞳が、大きく見開かれた。


 ――間に合わない。


 身体が、思考より先に動いた。


「医業執行――飛滴・穿刺ひてき・せんし!」



 叫びと同時に、右手に白銀しろがねの注射器が顕現した。


 脳の一番深い場所から、何かが強引に引き剥がされる感覚。神経の束が千切れ、脳髄液が煮える――そんな幻覚と共に、頭痛が襲う。



 注射器の針先に、硝子細工めいた瑠璃色の雫が、一滴、こごった。


 俺は、沙羅に迫る氷の槍に向けて、内筒を押し込んだ。


 雫が、弾丸のように射出された。


 蒼い閃光が白い霧を裂き、氷の槍を空中で粉砕する。破片が、ダイヤモンドダストのように煌めいて宙に散った。


 砕けた槍の届く先にいた沙羅が、はっと息を呑む。


「センセ……ッ?!」


 構わず、俺はもう一発、トゥカラ本体に向けて撃ち込んだ。


 瑠璃の雫が、白い霧を引き裂いて飛翔する。凍った雫が、弾丸となって飛ぶ。


 ――パシッ。


 白い丸い体に着弾した瞬間、雫の氷は、鈍い音を立てて弾かれた。


「皮下脂肪か……っ」


 北の海に生きるアザラシは、凍てつく海水から臓器を守るため、何センチもの分厚い脂肪層を蓄えている。その圧倒的な厚みが、雫の攻撃を完全に吸収してしまった。


「……ふはははは! 俺様を舐めんなっ」


 トゥカラの嘲笑が、霧の中から聞こえた。



 ズキィィン。


 再度、脳の奥を、焼けた鉄串で突かれたような激痛が、貫いた。


「あ、が…………っ!」


 膝が折れる。


 ぬるり、と鼻の奥から、温かいものが伝い落ちた。


 白い氷の上に、紅の点が、ぽたり、と散る。



「センセっ。攻撃はせんって、約束……」


「ごめん」


「ああでもうちを助けてくれたんやな、あとでお説教とお礼や! いっそがしいわ、もお!」

 

 沙羅は、迎撃体制のまま、声だけをよこした。


(俺の意識のある……うちに)


「……医業執行。神脈・透視しんみゃく・とうし!」


 視界の色が――変わった。


 白い世界が、変貌した。


 透視の力が、俺の視界を塗り替えていく。


 乳白色の霧は、薄いしゃのようになって透けた。代わりに浮かび上がるのは、金色の脈の道――神脈だ。


 高速で移動するトゥカラの姿が、明滅する金色の光に包まれている。


 分厚い皮下脂肪の下を、光の血脈のような『神脈』が、縦横無尽に張り巡らされていた。その奥で、早鐘のように打つ心臓。


 ズキン、と脳の奥が軋む。


 金色の光を帯びたトゥカラの全身を、注意深くスキャンしていく。


 ――異様に光り輝いている部位が、あった。


 口元の、長いヒゲ。その、根元の皮膚だ。


(……ヒゲの根元?)


 一本一本のヒゲの付け根から、異常に太い神脈が伸びている。それらが束になって、一直線に脳へと直結していた。まるで、光ファイバーの海底ケーブルのように、膨大な情報が絶え間なく流れ込んでいる。


(なぜ、あそこだけ神経伝達の密度が異常に強い? アザラシの身体なんて、医学部では習っていない。けど――)


 俺は、必死で目の前のデータを解釈した。


(確か……猫のヒゲの根元は、血管と神経が密集した、高感度センサーだ。通れる場所の幅を測ったり、暗闘で障害物を感知したりする……)


 トゥカラが、また方向を変えた。白い弾丸が、霧の中をS字を描いて滑る。


(海洋哺乳類のヒゲは、猫以上に高性能のはずだ。暗い深海で、獲物をみつけるレーダー……)


 パズルのピースが、嵌まった。


「こんな真っ白やのに……なんで、アザラシには、うちらの位置が分かんのや!」


 トゥカラの攻撃を迎え撃った沙羅が、焦燥の声を上げた。


「沙羅ちゃん!」


 俺は、風に千切れないよう腹の底から叫んだ。


「トゥカラは、この濃霧の中で『見て』などいない! 奴は目じゃない――ヒゲで、俺たちの位置を把握している!」


「ヒゲぇ?!」


「あのヒゲの一本一本の根元に、超高感度のセンサーがある! 氷を滑る俺たちの足音、氷に伝わる振動……あのヒゲが全て拾って、俺たちの位置を三次元的に特定しているんだ! だから、霧の中でも正確に狙える! ヒゲを狙って!」


「……せやけど、この霧の中じゃ近づくことすら――」


「逆だ! センサーが高感度すぎることが、弱点になる! 氷を叩け! でたらめな振動で、奴のセンサーを過負荷にして、狂わせるんだ!」


「なるほど、そういうことなら――任しとき!」

少しでも続きが気になると思って頂いた方は、ブックマーク頂ければ幸いです。

本日より4日間、1日複数話、定期的に投稿します。

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