5
「どこのどいつだよ、他人の氷で騒ぐ奴は」
変声期前の少年の声が、吹雪の向こうから届いた。
「センセ、あそこ……!」
沙羅が、利き手で太刀の柄を握ったまま、もう片方の手で、白の壁の中にある一点を指した。
流氷と同化していた白い塊が、ぬらりと、動いた。
現れたのは、一頭のアザラシだった。
子供にしか見えない。立っても、俺の膝に届くかどうか。
新雪のように白い、モフモフの体毛。黒曜石のように黒く、潤んだ丸い瞳。
精緻な彫金が施された、簡素でありながら風格ある和の鎧を纏っている。愛らしい丸い頭頂部には、戦国武将が戦場で被るような、古びた陣笠。
首には、緋色の布がきつく巻かれ、猛吹雪に靡いている。
そして、器用に伸ばした前ヒレの先に、朱塗り(しゅぬり)の小さな杯が握られていた。
なみなみと注がれた酒から、極寒の中にあってなお、微かな湯気が立ち上っている。
アザラシが、杯の酒を一気にあおった。
「ぷはー、熱くなる……」
満足げに呟く。頬が、僅かに赤い。
「……アザラシ?」
思わず俺が呟くと、丸い獣の眉間が、ピクリと不機嫌に動いた。
「か、かわええ……」
横の沙羅が、うっとりと言い放った。
「……可愛い、だと?」
アザラシが、仁王立ちになる。丸い白い体が、ぷるん、と全身で震えた。短い後ろ足を踏ん張り、胸を反らして鎧の札をカチャリと鳴らす。
その動作は客観的に見て、どう控えめに評価しても「可愛い」としか言いようがなかったが。
「俺様は、北の海の覇者にして、泣く子も黙る海賊神! トゥカラ・カムイ様だ! 貴様のその目――節穴かあぁぁっ!」
、――放たれる殺気だけは紛れもなく本物だった。
咆哮。
トゥカラが、残りの杯の中身を虚空へ豪快にぶちまけた。
散った酒の飛沫が、凍った霧に変化した。
一滴の酒から生まれた白い粒子が、連鎖的に増殖し、吹雪と混ざり合い膨張していく。
「神酒白霧!」
視界が、瞬きひとつの間に、濃密な乳白色に塗りつぶされた。
*
ただでさえ白い氷の世界だ。
そこに乳白色の霧が立ち込めると、上下左右の感覚すら喪失する。白の中にいるのか、闇の中にいるのか。
唯一の確かなものは、足の裏に伝わる氷の冷たさだけだった。
「っ……目眩ましやな! 見えへん! センセ、背中合わせや!」
沙羅の声が鋭く響く。
俺は咄嗟に身を翻し、沙羅の背中と自分の背中を密着させた。
着物越しに伝わる、沙羅の体温。この極寒の中でもなお温かい。
ヒュンッ!
風切り音。
「ぐ……っ!」
右頬に衝撃が走った。遅れて、鋭利な痛みが頬を灼く。手で拭うと、赤い血が冷えた指に付いた。
「氷の礫だ! 気をつけろ!」
「どこから、飛んで来とんの……っ?!」
沙羅が焦燥を含んだ声を上げた。
ヒュンッ! ヒュンッ!
次々と飛来する氷の弾丸を、沙羅は太刀で弾く。だが、見えない敵の攻撃だ。研ぎ澄ませた音と殺気だけで防いでいる。
――ザッ。
氷上を何かが滑走する微かな音が、前方から反響した。
速い。
――分厚い腹の脂肪をそりのように使った、スケーティングの高速機動。海の猛獣の、本領だ。
「俺様を、舐めるなぁっ!」
右斜め前方から、トゥカラの影が飛び出した。鋭い氷柱を槍の形に変え、突き出して突進してくる。白い丸い体が、氷上を弾丸のように滑走する。
「もらい! 軌道、丸見えや!」
沙羅が、俺の前に一瞬で移動し、太刀を閃かせた。
だが、刃が届く寸前、トゥカラの体がボールのように弾んで横へ滑る。
キィン! 太刀が空を裂くだけだった。沙羅の足が氷上でずるりと流れ、姿勢が崩れる。
「ひゃーっはっは! 氷の上なら、俺様の独壇場だ!」
トゥカラが、槍で沙羅に迫る。沙羅は、ジリジリと追い詰められていく。
氷の槍が、至近距離で沙羅の袖を裂いた。薄紅色の振袖の裂け目から、白い腕が覗く。
「沙羅!」
「センセは後ろに下がっとき!」
沙羅が叫ぶ。だが、その声は明らかに切迫していた。
俺は、拳を握りしめた。
白い霧の中、沙羅の小さな背中だけが見える。華奢な背中が、俺を庇って、たった一人で全てを受け止めている。
(……また、これか)
沙羅の背中に、妹の美奈の姿が、重なった。
(俺は、いつまで見ているだけなんだ……!)
右手が、無意識に持ち上がっていた。
指先に、この世のものではない冷たい光が、滲み始める。
あの時と同じ――白銀の、注射器の輪郭が、手のひらに浮かび上がる。
(駄目だ。約束した。攻撃はしないと)
頭では分かっている。
分かっている、のに。
ヒュンッ!
新たな氷の槍が、霧を裂いて飛来した。
沙羅が斬る。だが、二本目が、死角から――沙羅の横腹を狙って。
沙羅の瞳が、大きく見開かれた。
――間に合わない。
身体が、思考より先に動いた。
「医業執行――飛滴・穿刺!」
叫びと同時に、右手に白銀の注射器が顕現した。
脳の一番深い場所から、何かが強引に引き剥がされる感覚。神経の束が千切れ、脳髄液が煮える――そんな幻覚と共に、頭痛が襲う。
注射器の針先に、硝子細工めいた瑠璃色の雫が、一滴、凝った。
俺は、沙羅に迫る氷の槍に向けて、内筒を押し込んだ。
雫が、弾丸のように射出された。
蒼い閃光が白い霧を裂き、氷の槍を空中で粉砕する。破片が、ダイヤモンドダストのように煌めいて宙に散った。
砕けた槍の届く先にいた沙羅が、はっと息を呑む。
「センセ……ッ?!」
構わず、俺はもう一発、トゥカラ本体に向けて撃ち込んだ。
瑠璃の雫が、白い霧を引き裂いて飛翔する。凍った雫が、弾丸となって飛ぶ。
――パシッ。
白い丸い体に着弾した瞬間、雫の氷は、鈍い音を立てて弾かれた。
「皮下脂肪か……っ」
北の海に生きるアザラシは、凍てつく海水から臓器を守るため、何センチもの分厚い脂肪層を蓄えている。その圧倒的な厚みが、雫の攻撃を完全に吸収してしまった。
「……ふはははは! 俺様を舐めんなっ」
トゥカラの嘲笑が、霧の中から聞こえた。
ズキィィン。
再度、脳の奥を、焼けた鉄串で突かれたような激痛が、貫いた。
「あ、が…………っ!」
膝が折れる。
ぬるり、と鼻の奥から、温かいものが伝い落ちた。
白い氷の上に、紅の点が、ぽたり、と散る。
「センセっ。攻撃はせんって、約束……」
「ごめん」
「ああでもうちを助けてくれたんやな、あとでお説教とお礼や! いっそがしいわ、もお!」
沙羅は、迎撃体制のまま、声だけをよこした。
(俺の意識のある……うちに)
「……医業執行。神脈・透視!」
視界の色が――変わった。
白い世界が、変貌した。
透視の力が、俺の視界を塗り替えていく。
乳白色の霧は、薄い紗のようになって透けた。代わりに浮かび上がるのは、金色の脈の道――神脈だ。
高速で移動するトゥカラの姿が、明滅する金色の光に包まれている。
分厚い皮下脂肪の下を、光の血脈のような『神脈』が、縦横無尽に張り巡らされていた。その奥で、早鐘のように打つ心臓。
ズキン、と脳の奥が軋む。
金色の光を帯びたトゥカラの全身を、注意深くスキャンしていく。
――異様に光り輝いている部位が、あった。
口元の、長いヒゲ。その、根元の皮膚だ。
(……ヒゲの根元?)
一本一本のヒゲの付け根から、異常に太い神脈が伸びている。それらが束になって、一直線に脳へと直結していた。まるで、光ファイバーの海底ケーブルのように、膨大な情報が絶え間なく流れ込んでいる。
(なぜ、あそこだけ神経伝達の密度が異常に強い? アザラシの身体なんて、医学部では習っていない。けど――)
俺は、必死で目の前のデータを解釈した。
(確か……猫のヒゲの根元は、血管と神経が密集した、高感度センサーだ。通れる場所の幅を測ったり、暗闘で障害物を感知したりする……)
トゥカラが、また方向を変えた。白い弾丸が、霧の中をS字を描いて滑る。
(海洋哺乳類のヒゲは、猫以上に高性能のはずだ。暗い深海で、獲物をみつけるレーダー……)
パズルのピースが、嵌まった。
「こんな真っ白やのに……なんで、アザラシには、うちらの位置が分かんのや!」
トゥカラの攻撃を迎え撃った沙羅が、焦燥の声を上げた。
「沙羅ちゃん!」
俺は、風に千切れないよう腹の底から叫んだ。
「トゥカラは、この濃霧の中で『見て』などいない! 奴は目じゃない――ヒゲで、俺たちの位置を把握している!」
「ヒゲぇ?!」
「あのヒゲの一本一本の根元に、超高感度のセンサーがある! 氷を滑る俺たちの足音、氷に伝わる振動……あのヒゲが全て拾って、俺たちの位置を三次元的に特定しているんだ! だから、霧の中でも正確に狙える! ヒゲを狙って!」
「……せやけど、この霧の中じゃ近づくことすら――」
「逆だ! センサーが高感度すぎることが、弱点になる! 氷を叩け! でたらめな振動で、奴のセンサーを過負荷にして、狂わせるんだ!」
「なるほど、そういうことなら――任しとき!」
少しでも続きが気になると思って頂いた方は、ブックマーク頂ければ幸いです。
本日より4日間、1日複数話、定期的に投稿します。




