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「センセ、その頭痛……もしかして」
沙羅が、駆け寄って来る。
俺は、白砂の上に崩れ落ちたまま、起き上がれない。
頭蓋の奥で、何かが焼き切れる音がする。
(熱い。――いや、冷たい?)
矛盾した感覚が、脳を乱暴に掻き回す。
視界が、不規則に明滅した。
目の前を覗き込む沙羅の顔が、二重、三重にダブる。
「……あ、が……」
言葉にならない呻きが、喉の奥から漏れた。
「あー、治癒とか効かんやつや。多分……使いすぎたんやな」
沙羅が、俺の横に膝をついた。沙羅の冷たくて柔らかい手が、俺の額に触れる。
「使い、すぎ……?」
俺は、視界を歪ませる激痛に耐えながら、問い返す。
「この世界の『業』はな、タダやない。現実の脳味噌から、気力や生命力を絞り出して使うんや。強い技ほど、ようけ持っていかれる。センセ、神経難病患者、ゆうたやろ。もともと、あんまり元気ない脳から、無理やり力を絞り出してるから……健康な人間より、反動がずっと大きく来るんや……」
「さっきの攻撃……『飛滴・穿刺』。あれは……俺の脳内の神経伝達物質そのものを、思念の弾丸に変えて撃ち込んだってことか……はは」
乾いた笑いが漏れた。現実で余命を削られ……安息の地であるはずの仮想空間でさえ、命を削って戦うのか。
どこまで逃げても、俺たちは無実の死刑囚らしい。
「笑い事やないで!」
沙羅の青みがかった瞳が、かすかに涙で潤んでいる。
「センセの『診断』の業……あれは情報の解析や。身体への負荷は低い。せやけど、さっきの注射器……物理的な干渉を行う攻撃の業は、絶対にあかん。あれを使えば、センセの現実の身体は壊れる。廃人になってまうで! もう二度と、使ったらあかん。攻撃は、うちに任せとき」
脳裏に、妹の最期が過ぎった。
無数の管に繋がれ、言葉を失い、ただ病室の白い天井を見つめていた美奈。
「……できるだけ、無駄な攻撃はしないようにする。……にしても、攻撃は出来ない、診断だけって、ここじゃ医者は不遇職だな。最弱職かも」
俺は、少しだけ痛みの引いてきた頭を抑え、ぼやく。
「うちがおるやろ。この世界のベテランやで? センセは頭ええんやから、後ろで、どーんと構えとったらええねん」
沙羅が、気丈に笑う。俺も、無理やり口輪筋を横に引き伸ばして、笑顔めいた表情をつくった。
*
痛みの余韻を引きずりながら、俺は浮見堂へと続く小道を歩いた。
水鏡浮見堂。
巨大な水面は、空へと向かって垂直に立ち上がり、鏡のように世界を映していた。
水鏡の中を、星々が瞬いている。
現実の夜空よりも、ずっと近く、ずっと鮮やかに。
「ここが、水鏡……」
「念じるんや。会いたい人を。その人の一番強い記憶を」
沙羅が、俺の隣に並んで立つ。
俺は、静かに目を閉じた。
(タミさん。短い白髪の、穏やかな患者さん)
あの優しげな笑顔を、脳裏に思い描く。
――なぜ、現実へお戻りにならないのですか。
――今、どこにいるのですか。
タミさんの姿に集中しようとした、その時。
――ズキン。
後頭部の痛みに、先程の沙羅の言葉が蘇った。
――健康な人間より、反動がずっと大きく来るんや。
脳への、不可逆のダメージ。蓄積していけば、いずれ。
(死にたく……ない)
俺の奥底に眠る、本能的な叫びが、思考にノイズを走らせる。
思考の焦点が、大きくずれた。
一番会いたい人。
一番、戻りたい時間。
一番、幸せだった記憶。
垂直の巨大な水盤が、ゆっくりと渦を巻く。
漆黒の水面が、徐々に鮮やかな色彩を帯びていく。
そこに映し出されたのは、タミさんではなかった。
突き刺すような、真夏の陽射しだった。
蝉時雨がうるさく響く、とある大学病院の屋上。
緑色のフェンスの向こうに、巨大な入道雲が湧き上がっている。
錆びたベンチに、一人の少女が座っていた。
切り揃えられた黒髪。透き通るように白い肌。点滴の跡が残る、痩せ細った手足。
(美奈……!)
まだ、自分の口で言葉を話せた頃の姿。まだ、車椅子に乗れば屋上へ外出できた頃の記憶。
映像の中の美奈が、二つに割った水色の氷菓子の片方を、俺に向けて差し出した。
『ゆっくり食べないと、先生に怒られちゃうよ』
美奈が、嬉しそうに笑う。
『お兄ちゃんと、半分こ、ね』
甘いソーダの、人工的で安っぽい青い味が、俺の舌先に鮮烈に蘇る。
(……幸せ、だった。確かに、あの時。……だけど)
この数日後、美奈の容態は急変した。
「やめろ……ッ!」
俺は、血を吐くような声で叫んでいた。
見たくない。
その笑顔は、俺の無力さを抉り出すだけの刃だ。
俺は右手を振り上げ、垂直に立つ水面を、力の限りに強く叩き据えた。
バシャッ!
激しい水音。冷たい水飛沫が、俺の顔に激しくかかる。
美奈の面影が、幾重もの波紋にかき消され、無惨に散った。
「はぁ……はぁ……ッ」
俺は膝をつき、荒い呼吸を急ぎ繰り返す。
水面に触れた指先が、小刻みに震えていた。
「センセ……」
沙羅が、心配そうに俺の背中を、そっと撫でる。
「闘病友達? それとも、大事な人? ……辛いなぁ」
沙羅の声は、どこまでも優しかった。
「妹、だ。……俺が医者を志す理由になった。もう、二度と帰らない」
俺は、悲しみを断ち切るようにゆっくりと顔を上げた。
波打っていた水鏡は、再び、星を映す静かな水面に戻っている。
(感傷に浸っている場合じゃない。今、やるべきことは。今、俺にできることは)
「……ありがとう、沙羅ちゃん。もう、大丈夫だ」
俺は深く息を吸い込み、肺に溜まった澱んだ空気を吐き出した。
水底に沈んだ美奈の幻影に、心の中で告げる。
(ごめん、美奈。俺はまだそっちには行けない)
俺は両目をカッと見開き、再び水鏡を真っ直ぐに見据えた。
雑念を払う。
死の恐怖も、過去への後悔も、今は不要だ。
「見せてくれ。タミさんの居場所を!」
俺の叫びに呼応するように、水鏡が再び激しく波打った。
先程の夏の屋上とは違う、冷厳な気配が周囲に漂い始める。
水面の色が、群青色から、凍てつくような白銀へと瞬時に変わっていく。
見渡す限りの、峻烈な氷の原野。
重く垂れ込める、鉛色の空。
吹き荒れる暴力的な猛吹雪。
その極寒の中心に、俺の探していた患者がいた。
――タミさんが、氷海を行く、小船の中にいた。
顔の表情は、猛吹雪に阻まれて遠く、よく見えない。
酷い寒さに震えているように見えたのは、俺の焦りが見せた幻だろうか。
「ここは……?」
俺が問うと、水鏡を覗き込んだ沙羅が、眉をひそめた。
「『北限の氷海』や。うちも近づいたことない……この世界で一番寒い、流氷の果て」
「……沙羅ちゃん、行き方は分かるか?」
「分かるで! この仮想空間は大体、現実の日本の地形を模しとるんやけど……ここら一帯の最初の起点が、地図で言う札幌あたりやねん。『北限の氷海』は、現実やったら、北海道のさらに北の海のイメージ……こっから北へ、鶴で一刻、二時間ほどや」
「なぜ札幌が起点なんだ……? 普通、東京とかじゃないのか?」
「北海道のIT企業が、このゲームの主幹開発者やからちゃう? ま、そんなんは今はええやん。……せやけど、センセ聞いて。『北限の氷海』は環境そのものが強力な敵やで。過酷な寒さは鋭い痛覚となって、アバターを通じて、センセの現実の脳を直接削ってくる。……それでも、行くんか?」
「構わない。俺は、タミさんを何としてでも連れ戻す。沙羅ちゃん……一緒に、来てくれるか?」
俺の問いかけに、沙羅が小さく息を呑む。
そして、すぐに満面の笑みを浮かべた。
「誰に向かって言うとるんや! 仲間やろ! ほな、行こか! センセの大事な患者さんを、迎えに!」
*
酷薄な冷気が、肌を容赦なく刺す。
北の凍てつく海の上空。
俺と沙羅を乗せた二羽の銀色の折り鶴は、寒風を切り裂いて北上を続けていた。
眼下の景色は、徐々に温度と色彩を失っていく。
燃えるような紅葉も、瑞々しい若緑も、遥か彼方へ消え去った。
気付けば、下方に陸地はすでに無い。
(この世界が現実の地形を模しているなら……。今、稚内のあたりを越えたのかな……)
鉛色の空が、頭上に重く蓋をしている。
徐々に、ハラリ、ハラリと、天から白い粉雪が落ちてきた。
「雪や!」
沙羅が、珍しいものを見るように弾んだ声を出す。北の大地で生まれ育った俺にとっては、さほど珍しくもない現象だ。
だが、その余裕は、すぐに消え去った。
六花の結晶が、瞬く間に視界を完全に埋め尽くし始めた。
猛烈な吹雪。
音もなく世界を閉ざす、殺意を持った白い魔物。
鶴の銀翼にも、重い雪が容赦なく降り積もる。
和紙の繊維が、水分を過剰に含んで、じわりと重みを増していく。
発光していた銀色の『業』の光が、雪に吸い取られるように少しずつ滲み、弱々しく明滅し始める。
「あかん、鶴が……!」
沙羅の悲痛な叫びが、暴風に千切れて消える。
バリッ、という乾いた破裂音が空間に響いた。
風圧に耐えきれず、湿気で結合が弱っていた沙羅の鶴の右翼が、根元から無惨に折れ曲がった。
揚力を失った鶴と、沙羅の華奢な体が、重力の鎖に引かれて一気に落ちていく。
「きゃあああ!」
吹雪の底へ遠ざかる悲鳴。
みるみる小さくなっていく、桜色の振袖。
遥か眼下には、無数の牙を剥いた流氷の海が、巨大な顎を開けて待ち構えている。
「沙羅!」
俺は、落下する少女へ手を伸ばした。
届かない。指先が虚しく空を切る。
奥歯を強く噛み締める。口の中に、鉄錆の生臭い味が広がった。
「急降下しろ!」
俺は、己の乗る鶴の首筋にしがみつき、叫んだ。
俺の殺気じみた叫びに反応し、銀の鶴が甲高く嘶いた。
翼をほとんど完全に畳むようにして――流線形の弾丸となって、俺と鶴は、真下へ向かってダイブした。
ゴオオオオオ!
途轍もない風圧が、顔の皮膚に刺すような激痛を与える。
視界が風の涙で滲む。
それでも、絶対に目を閉じない。
激しい白い雪の幕の向こう、ピンクの舞い落ちる花びらのような、沙羅の小さな姿を捉え続ける。
(もっと速く、重力よりも速く!)
頭痛が、心臓の鼓動と同期してガンガンと警鐘を鳴らす。
(現実の俺の肉体が、悲鳴を上げている……? そんなこと、今は構わない!)
沙羅との距離が、急速に縮まる。
あと十メートル。五メートル。
落下を続ける沙羅が、恐怖の涙に濡れた顔で、上空の俺を見た。
「駄目や! センセまで落ちてまう!」
「手ェ伸ばせ! 沙羅! 絶対に、掴んでやる!」
俺は、吠えた。
俺の怒声に押され、沙羅が、震える右手を決死の思いで上へと伸ばす。
あと、数センチ。
俺は、鶴の背から、身を大きく乗り出した。
互いの指先が、触れる。
極寒の中で、その微かな体温だけが温かい。
ガシッ!
俺の右手が、沙羅の細い手首を渾身の力で掴み取った。
一気に落下速度の負荷が掛かり、猛烈な重力が、俺の右肩の関節を外しにかかる。
「ぐぅ……ッ!」
肩と頭の爆発的な激痛を意志の力でねじ伏せ、沙羅の体を、強引に俺の胸元へと引き寄せた。
沙羅の身体を鶴の背に載せ、しっかりと抱きすくめる。
腕の中に伝わる柔らかい感触。
だが、安堵に浸る暇はない。
二人分の体重を、すでに限界の、一羽の鶴は支えきれない。
――落ちていく。加速していく。
氷点下の海面が、もう目の前にまで迫っていた。
「翼を、広げて!」
せめて、空気抵抗をギリギリまで増して、落下のブレーキをかける。
(少しは、落下スピードを殺せたか……?!)
ドォォン!
直後、俺たちは、雪が厚く積もった巨大な流氷の平原の上に、激しい勢いで叩きつけられた。
平原と体が接する直前、俺は下敷きになり、沙羅の身体を庇う。
頭から背中にかけて強打し、骨が嫌な音を立てて軋んだ。
舞い上がった雪煙が、視界を白く染めた。
肺に吸い込んだ空気が、冷たすぎて痛い。
「かはっ……、はぁ、はぁ……」
俺は、痛む体を無理やり起こした。
腕の中の沙羅は、青ざめた顔で、けれど怪我はない様子で、瞬きを繰り返していた。
「センセ、ごめん……」
「俺も、鶴が紙だって知ってたのに、油断してたし……そもそも俺が連れてきたんだから、謝ることなんかない」
俺は、沙羅に気づかれないよう、左手を開閉した。
(左手が動きづらい……落ちた時に、支配神経を痛めたか)
自然な動作を装って、立ち上がった。
(でも、大丈夫……生きてる)
体の芯が、熱い。
――そこは、銀色の世界だった。
無数の流氷がひしめき合っている。
ギシ、ギシ、と氷同士が擦れ合う音だけが、不気味に響く。
その時。
「無粋だねえ」
どこか幼い声が、霧の向こうから聞こえた。
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