20
「何でや!? この傘は猫城主が下さったやんか!」
沙羅が悲鳴を上げる。
俺の脳裏に、最悪の推論が浮かんだ。
夕暮れ症候群。認知機能の変動。
さっきまで穏やかだった患者が、数分後には激昂し暴れだすのは、珍しくない。
「……忘れたんだ」
俺は、唇を噛んだ。
「忘れた……って、ウチらのこと?!」
「そうだ。日が暮れて、不安が増し、意識が混濁したんだろう。『見知らぬ賊が城の宝を盗んで逃げた』と認識された」
城主は言っていた。「記憶が保つのは今宵限り」と。
今宵どころか、もう保たなかったのだ。
ズドン!
美しい和紙の傘に、大きな穴が開く。そこから火が燃え広がり、焦げ臭い煙が鼻をつく。
推進力を失った天傘が、ガクンと高度を下げた。
「困った猫城主やな! 恩を仇で返すんか!」
沙羅が、飛来する火矢を刀で叩き落としながら叫ぶ。
「病気のせいだ、本人のせいじゃない」
俺は、揺れる傘にしがみつきながら返した。
「わかってるけど! ……このままじゃ、ウチらが死ぬで!」
天傘の竹骨が、メキメキと音を立てて折れ始めた。
落下。この高さから落ちれば、即死だ。
「トゥカラ! 空を飛べる知り合いはいないか?!」
「西の山にか?! 俺は北海王だぞ? 無理だ!」
「だめか……っ」
俺は、焦りながら水天回廊図を開く。
内臓がせり上がる浮遊感。地面が、恐ろしい速さで迫ってくる。
「近くに池がある! ここに着水すれば少しは衝撃を吸収できる! 沙羅ちゃん! 下方に向かって衝撃波を撃て! トゥカラは氷のブレスで後方へ! 推進力を得る!」
「ロケット噴射ってことか! 行くで! 剣業執行——万雷・轟!」
沙羅が渾身の力で刀を振るう。雷鳴のような音と共に、爆発的な衝撃波が後方へ放たれた。
「俺様もだ! 氷弾連射!」
トゥカラも口からマシンガンのように氷の粒を吐き出す。
ドォン!
凄まじい反動。落下のベクトルが、強引に前方への推進力へと変換される。
壊れかけの傘が風を孕み、軋む。
「あかん! 制御できへん!」
沙羅の悲鳴。
景色が高速で回転する。空、山、地面、空、山、地面。
遠心力で意識が飛びそうになる。
眼前に迫る紅葉の森。その木々の隙間に、鏡のように輝く水面が見えた。
「着水する! 衝撃に備えろ!」
俺は沙羅とトゥカラを抱きすくめ、背中を丸めた。
木々の枝が傘の機体を打ち据える音。砕ける音。
そして。
ザッパァァァァァァン!!
世界が白と青の泡に包まれた。
*
静寂。水の音。鳥のさえずり。
「……ぷはっ!」
俺は、水面から顔を出した。肺いっぱいに空気を吸い込む。
山間にひっそりと佇む、神秘的な池だった。
水はあくまで澄み、底の藻が揺れているのが見える。水面には、砕けた凧の残骸と、紅葉した落ち葉が浮かんでいた。
「……生きてるか?」
近くでプカプカと浮いていたアザラシと、濡れ鼠になった少女に声をかけた。
「……ゲホッ。……死ぬかと思うたわ……」
沙羅が水面にしがみつきながら、かろうじて笑った。
「……楽ちんな旅なんて、やっぱ無理やったな」
*
――同じ頃。
池からほど近く、紅葉の森の奥。
古い石畳の小道が、苔に覆われて続いている。その先に、朽ちかけた茶屋が一軒、ひっそりと佇んでいた。
軒先に吊るされた提灯の火が、風もないのにゆらりと揺れた。
ザッパァァン——
遠く、水が弾ける音が届いた。
茶屋の中で、ひとりの少女が手を止めた。
長い黒髪が、膝まで流れている。白い肌は月光のように青白く、色素が薄い瞳は、光の加減で金にも銀にも変わる。
年の頃は十五、六。
少女は、水音のした方角へ、ゆっくりと顔を向けた。
「あら」
薄い唇が、三日月のように弧を描いた。
「……百年ぶりのお友達ね」
少女は立ち上がった。足音がしない。
提灯の明かりが、少女の顔を下から照らす。
透明な瞳の奥には、純粋な渇望が揺れている。
「今度こそ、壊さない。きっと私は、一人ぼっちじゃ、なくなるの」
少女は、錆びた包丁を手に取った。
刃が、提灯の火をぎらりと弾く。
「歓迎のお料理を――つくらなきゃ」
笑い声が、闇に溶けた。
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この20話で、一段落となります。
人気が出れば更新いたします。




