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「乳房は触っていない、胸の真ん中! 心臓マッサージ!」
半身を起こした沙羅の横に座り、俺は必死で弁明した。
「にゅうぼう……ってエロい言い方すんなや!」
「エロくない! 医学用語!」
「……あんた、お医者さん?」
「研修医の、夏目翔です。ただ、余命半年は嘘じゃない……俺自身も、神経難病患者」
「……助けてくれたんやな、おおきに。せやけど……」
沙羅の、長い睫毛が伏せられ、悲しげな影を作る。
――助けなくて、良かった。
声にならない声が、聞こえた。
「……話! 変わるけど!」
俺は、努めて明るい声を出した。
「俺、人を探しているんだ。沙羅ちゃん……って呼んで良いかな。このゲーム、長いみたいだから、知らないかな? ……プレイヤーのアバターって、現実の外見と同じなんだよね? タミさんっていう、品のいい、短い白髪の女性で」
「タミさんは知らんなぁ……。センセ、一応、うちの命の恩人やし、うち暇人やし……。人探し、協力したるわ」
*
沙羅に連れられて、里山の中にぽつんとある、甘味処に入った。
運ばれてきたあんみつを、こわごわ、口に入れる。
「凄い……味覚まで再現されてる」
「大味やろ。甘いー、とか、辛いーとか」
「そりゃ、現実よりは大分情報量が少ないけど……さくらんぼもお餅も同じ甘さだけど……十分凄い」
艶やかなサクランボに、淡い桃色と若緑色の餅。きらきらと光る寒天まで再現されたあんみつは、視覚的にはむしろ現実よりも美しいくらいだ。
「視覚は十二分、聴覚も自然、味覚はやや不十分……感覚器から脳の皮質に至るまでの距離が関係するのか……単に開発の優先順位の問題か。それと、触覚……」
「うちの胸の触り心地……どうやった?」
「胸の中央を押しただけだから、骨の硬さだ!」
言い募りながら、右手に意識を向けた。あんみつをすくうスプーンの硬さも冷たさも、現実とそう変わらない気がした。
「この世界でどんだけ食べても太らんのは、助かるんやけどなー」
沙羅は、あんみつの最後の一口であるミカンを名残惜しそうに頬張りながら、目を細めた。屈託のない笑顔は、先ほどまで神と死闘を繰り広げた少女と同一人物とは、到底思えなかった。
「……現実の君も、入院しているのか?」
俺の問いに、沙羅のスプーンの動きが、ぴたりと止まった。
「せやで。センセのお得意様、長期入院患者様や」
「悪い、詮索するつもりは……」
「ええってことや。ここでは、そういう話はタブーやない。『あんた、余命なんぼ?』が挨拶になる世界や。隠したって、しゃあないやん」
沙羅は、空になった器を、テーブルの隅に寄せた。
「挨拶だったのか……正直、面食らった」
「ふふ、そうやろな。でもな、あれは、うちみたいな"こっち"が長い連中にとっては、大事な合言葉みたいなもんや」
沙羅は、少しだけ、遠い目をした。
「うちらには、時間がない。明日、目が覚める保証なんて、どこにもない。せやから、お互いの残り時間を確かめ合うんや。『うちには、まだこれだけの時間がある』って。そしたら、一日一日を、一瞬一瞬を、大事にしようって思えるやろ?」
「『今日がもし、人生最後の日なら、今日の予定をこなしたいと思うか?』……そんな風に言った、経営者もいたな」
「ああ、うちの母親の国の人やな。……うちは、物心ついた頃からずっと病院暮らしやけど、毎分毎秒、悔いなく生きとるで。……ここがうちの"現実"みたいなもんや。誰より高く跳んで、絶景かなーって世界を見て。甘いもん、食べて。現実の身体じゃできひんかったこと、全部ここで、しとんねん。せやけど」
沙羅は悪戯っぽく笑った。
「センセみたいに、頭でっかちに分析してたら、この世界の楽しさ、半分も見逃してしまうで?」
「う……」
「もっと、心を解放せな。感じるんや、この世界を! 強く『こうありたい』と願う想いや、現実でずっと打ち込んできたこと、その人の生き様そのものが、ここでは特別な力になるんやで? みんな、自分の人生を武器にして戦ったり、楽しんだりしとる。うちらは、その力を『業』って呼んどる」
「業……RPGゲームの『スキル』みたいなものかな。沙羅ちゃんの『業』は、あの剣の技なのか」
「せやな……あんな風に、自由自在に空を舞って、うちを不自由にするもんを斬り裂きたいって、ずっと思っとったからなぁ。あとなぁ、花が……特に桜が、好っきゃねん。いずれ消えゆく花びらが、いっちゃん綺麗やから。……センセみたいな、お医者さんの『業』は、どんな形になるんやろな。見てみたいわ!」
沙羅は小銭をテーブルに置き、すくっと立ち上がった。沙羅が、俺の手をぐいと引いた。その小さな手は、見た目に反して、驚くほどに力強かった。
「ちょ、ちょっと待て! 離してくれ!」
妹以外の女性と手を繋いだ経験のない俺は、手に変な汗をかいた。気がした。
「待たへん! センセに、この世界の本当の楽しみ方、教えたるわ!」
「いや、俺はタミさんを探しに……」
「『帰らへんプレイヤー』はな、大抵、こっちの世界が美しすぎて、もう現実が嫌になっとるんや。そういうプレイヤーを探すには、まずこの世界を見渡せる、特等席に行かなあかん!」
有無を言わさぬ力で、俺は甘味処の外へと引きずり出された。
*
どこまでも広がる高い空と、桜と紅葉が織りなす幻想的な山々。
確かに、この世界は美しかった。俺がずっと嫌ってきた、虚構の美しさだった。
「特等席って?」
「ついて来たら、分かるわ」
沙羅は、俺の手を引いたまま、散歩中の子犬のように軽やかに、里山の小道を駆け降りていく。
「はぁ……待ってくれ……」
「センセ、体力ないんやなぁ。少し休憩やな」
沙羅は悪びれもせずに笑い、腰掛になりそうなサイズの石を指さした。俺は頷いて、その石に座る。沙羅の手が、俺の手を離れた。
「慣れていないだけだ」
「しゃあないなあ。ほな、飛行の『業』の術具を使おうか」
沙羅の白い指が、沙羅の豊かな胸元――着物の合わせ、重なった襟の内側へと差し込まれていく。俺は、思わず目を背けた。心臓が、とくん、と一つ大きく跳ねた。
沙羅は俺の動揺など露知らず、少し首を傾げながら、胸元から一枚の淡い鬱金色の和紙をすっと引き抜いた。
「はい、センセ」
差し出された、少しヨレた和紙を受け取る。
指先に、沙羅の体温が移ったような、微かな温もりが伝わってきた。
「『折り鶴飛行』の術具や。センセの『願い』が、空に運んでくれる」
「願い……?」
「せやせや。この世界を形作っとる力と同じや。純粋で、強い願いほど、鶴は高く、速く飛ぶ。けどな」
沙羅は真剣な目で俺を射抜いた。
「心に迷いがあれば、鶴はただの紙切れに戻る。空の上でそうなったら……どうなるか分かるやろ?」
ゴクリと喉が鳴る。落ちて死ぬ、ということか。この世界での死が何を意味するのか、俺はまだ知らない。
「強い願いが……覚悟が無いんやったら、使わんほうがええ」
「覚悟なら、とっくに決まっているよ」
「……祈りを込めながら、折るんや」
俺は、まだ温もりの残る和紙で、沙羅に教わりながら、鶴を折った。
柔らかな風が、頬を撫でた。
(死にたくない。……したい事なんて、山ほどある)
この間作った、『死ぬ前にしたい10の事』リストを、思い出す。
(北欧でオーロラが見たい。あの休載ばっかの連載漫画のラストを知りたい。可愛い女の子とあんなコトやこんなコト。……時間がいくらあっても足りないのに、なんで職場に寿命を奪われて。……いずれ1,000度で焼かれるってのに、残業なんて真っ平だ)
震える手で、和紙を折り進める。角と角を合わせ、折り目をつける。石を机のように支えにして折っていく。雑念が、指先を狂わせた。
完成した鶴は、どこか翼が歪んでいる。
「……飛べ」
俺が念じると、手のひらの鶴は淡い光を放ち、ふわりと宙に浮いた。そして、見る見るうちに大きくなっていく。
「おっ……!」
声を上げた、次の瞬間。
――バサリ、と乾いた音を立てて、巨大化した鶴は縮み、元の和紙に戻り、地面に落ちた。
「まだ、迷いがあるみたいやな」
沙羅は静かに首を振った。もう一枚、和紙を俺に渡す。
「空は、そんなに甘ないで」
沙羅はいとも容易く、流れるような手つきで自分の鶴を折ってみせた。沙羅の鶴は、まばゆい光を放ち、一瞬で巨大な銀白の鳥へと姿を変える。月光を凝縮して作り上げたような、流麗なフォルム。沙羅は軽やかに鶴の背に飛び乗った。
「センセなら出来る! 追いかけてきいや!」
銀白の鶴は、翼をしなやかに羽ばたかせ、あっという間に空の点になった。
翡翠色の山に一人、取り残される。
「迷い……?」
心細さを振り払おうと、あえて口に出した。
(……確かに。さっきは、色々と煩悩が混ざっていた気がする)
俺は、何となく目を閉じた。
深呼吸をし、清々しい空気を肺に思い切り取り入れた。
「もう一度だ」
目を開け、新しい和紙を手に取る。
自分の手を見る。いつか、この手は動かなくなる。いつか、何にも触れられなくなる。ヒトは皆、無実の死刑囚だ。でも、それは今じゃない。
「存在して、いたい。どんなに、辛くても」
鶴を折り始めると、指先から、温かい生命力が和紙に吸い込まれていくのが分かった。和紙が、俺の願いに応えて脈動している。
先程よりも大分形の整った折り鶴が、手のひらの上で完成する。
俺は、鶴にそっと囁いた。
「一緒に、飛ぼう」
次の瞬間、閃光が迸った。手のひらの上の小さな命が、爆発的な光とともに巨大化する。天の川の星屑を溶かして固めたような、眩いばかりの銀翼の巨鳥。
俺は意を決し、その滑らかな背に飛び乗った。俺の心臓と、鶴の心臓が、同じリズムで鼓動を始めた。
鶴が、翼を大きく広げる。
風が渦巻き、木々が激しく揺れた。
次の瞬間――身体が、一気に空へ引き上げられた。
「うおおおっ……!」
ぐんぐんと高度が上がっていく。最初は恐ろしく、鶴の首に必死に掴まっていた。しかし徐々に、鶴の背の安定感が、俺の恐怖を消し去っていく。
風が、頬を、髪を、着流しの裾を、猛烈に叩いていく。視界が一秒ごとに広がっていく。里山の茅葺き屋根が、朱塗りの鳥居の列が、みるみる小さくなっていく。
薄紅色の桜が織りなす錦。その間を縫うように流れる川の水面が、日の光を浴びてきらきらと輝いている。はるか遠くには、七重の虹が空にかかっていた。
「もっと、高く!」
銀の翼が、力強く大気を打つ。
飛んでいる。自分の願いで、自分の翼で、空を飛んでいる。
「早かったなぁ。やるやん、センセ」
弾んだ声をかけられ、横の鶴と沙羅を見る。
「追い越しても、いいか?」
「望むところや! やってみい!」
俺は鶴の首筋をそっと撫で、強く念じた。
(もっと速く!)
願いに応え、銀の翼が力強くしなる。
空気を切り裂く音が一段と鋭くなり、俺たちの体は、誰よりも速く、空を突き進んだ。
「見えて来たで! ……この世界の『特等席』や!」
沙羅が、前方を真っ直ぐに指さした。
雲を突き抜けた先。
目に飛び込んできた「それ」に、俺はただ、息を呑んだ。
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