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(『業』で猫城主の治療を――だめだ、結界と併用して、治療スキルを使えるほどの力量は、俺にはない……)


 俺は、沙羅と猫城主の「お家探し」に付き添って歩きつつ、考えを巡らせた。


(認知症の患者さんの記憶は、完全に失われる訳じゃない。取り出しにくくなっているだけのことも……城をめぐり、五感を通じて、城主の「身体」に、本来の記憶を思い出させることが、できれば)


 最初に通ったのは、武具が並ぶ『武者溜まり』だった。


 槍や刀、甲冑が、薄暗い廊下に整然と並んでいる。鉄と錆の匂い。


「おじいちゃん、これ見てみ。強そうな槍やなぁ」


 沙羅が、あえて明るい声で槍の穂先を指差す。


 城主はぼんやりとそれを見た。だが、通り過ぎざま、城主の肉球が無意識に壁の木刀を掴んだ。


 瞬間。


 丸まっていた猫背が、ピンと伸びた。


 足幅が自然に開き、重心が丹田に落ちる。


 シュッ。


 鋭い風切り音と共に、城主は木刀を構えた。切っ先は、一ミリの狂いもなく一点を指している。瞳孔が細く収縮し、野生の武人の鋭さが戻る。


「……切っ先は、敵の喉元へ」


(手続き記憶が生きている……!)


 何万回と身体に叩き込んだ剣術の型。


 城主の頭部を覆っていた黒い霧が、うっすらと薄くなった。


 だが、すぐに城主は我に返り、木刀を落とす。


「……む? ニャぜわしは、剣を……」


 困惑が戻る。記憶の窓が、一瞬だけ開いて閉じた。


(一つでは足りない。もっと多角的な刺激が要る)




 次に俺たちは『空中庭園』に出た。


 雲海に突き出した、絶景の庭園。季節外れの満開の桜が舞い、甘い香りが鼻腔をくすぐる。


 俺は、桜の枝から花弁を摘み取った。


「殿。少し、失礼します」


 桜の花弁を、城主の鼻先にそっと近づける。


(嗅覚は、五感の中で唯一、海馬に直結する原始的な感覚。記憶の扉をこじ開ける最も強力な鍵だ)


 城主の白い髭が、ピクリと震えた。


「……桜餅」


 城主がポツリと呟く。目に柔らかな光が宿る。


「妻が……よく作っておった。塩漬けの葉の、少ししょっぱい匂いじゃ」


「優しそうな奥さんやったんやね。どんな方やったん?」


 沙羅の問いかけに、城主は目を細めた。


「うむ……笑うと、えくぼができてニャ。……そうニャ、ここで、二人で茶を飲んだ。春は桜、秋は月を見て……」


 断片的な記憶が、鎖のように連なって蘇る。


 猫城主の思い出話は、尽きることがなかった。


 桜の香りが鍵となり、この庭が扉となり、閉ざされていた記憶の部屋が、ひとつ、またひとつと灯りを取り戻していくようだった。


 最後に、俺たちは天守の『月見台』に出た。


 眼下には一面の雲海。傾きかけた陽が、雲を茜色から黄金色へ染め上げている。


「ここからの景色……」


 沙羅が、手すりにもたれて呟く。


 城主は景色を見つめ、そして、俺が持っていた巻物に目を落とした。


 夕日に照らされた白紙の巻物に、空摺りの影が浮かんでいる。城の断面図。月のマーク。傘の図形。


 巻物の地図と、現実の景色が——城主の脳内でパズルのように噛み合った。


「……ああ」


 城主が息を呑んだ。涙が毛並みを伝い、畳に落ちる。


「そうニャ。……ここニャ」


 城主は、手すりを愛おしそうに撫でた。


「……わしはずっと、家にいたニャ」


 城主が微笑んだ瞬間、残っていた黒い霧は完全に霧散した。


 城全体が夕陽の温もりに包まれた。


「ありがとう、優しいお嬢さん。賢いお医者殿。迷子が治ったわ」


 城主は深々と頭を下げた。だが、その声には、静かな諦めが混じっていた。


「……だが、わしの記憶が保つのは、今宵限りニャ。明日の朝には、また……わしは全てを忘れる。もう、修復不可能じゃ」


「治せんの? センセなら、治せるやろ?」


 沙羅のすがるような視線に、俺は首を横に振った。


「……不可逆的な神経変性だ。俺の業でも、壊死した細胞は再生できない」


 夕日が沈んでいく。


 城主は穏やかに目を閉じた。


「……今、己が何者かを思い出せただけで……十分ニャ。お前たちが解いてくれた謎の『正解』には、これで報いるニャ」


 城主が、月見台の柱にある隠しボタン——肉球型の窪みを、己の肉球で押した。


 ——ゴゴゴゴゴ!


 床板が割れ、地下から巨大な物体がせり上がってくる。


 巨大な朱塗りの和傘を逆さにした形状の乗り物だった。


 傘の骨は、磨き上げられた黒漆くろうるしの竹。張られた油紙は、夕陽を透かして琥珀色に輝き、表面には金箔で雲の紋様が描かれている。傘の柄の先には、大人三人が乗れるほどの木箱が吊り下がっていた。


「伝説の飛行具『天傘あまがさ』じゃ。風を掴めば、鳥よりも速く砂の海まで飛んでいける」


 俺たちは、息を呑んだ。


「タミという女人なら、覚えておるニャ」


 天傘に乗り込もうとした俺の背に、城主の声がかかった。


「西の果て、砂の海へ向かうと申しておった」


 俺たちは城主に一礼し、天傘に乗り込んだ。


  強風が吹き抜け、巨大な傘がふわりと空へ舞い上がった。




 天傘は、夢から抜け出したような乗り物だった。


 動力は、傘の柄の部分に取り付けられた五色の風車かざぐるま。見えざる風を受けて回転し、推進力を生み出している。


 ふわり、ふわり。


 重力を無視して、雲海の上を滑るように進む。


「極楽やねぇ……」


 傘の縁に腰掛けた沙羅が、足をぶらつかせながら呟く。桜色の振袖が、風に靡いていた。


 眼下には、備中の山々が燃えるような紅葉の絨毯となって広がっている。


 俺は地図を広げながら、隣の沙羅の横顔をちらりと見た。


 夕日が、長い睫毛に金色の影を落としている。


「……すごいな、沙羅ちゃん」


「ん?」


「あの殿様への接し方、完璧だった。俺の理屈だけじゃどうしようもなかったのに、沙羅ちゃんが猫城主さんに寄り添ったから、上手く行った。……沙羅ちゃん、精神科医か看護師さんに向いてると思う」


 何気ない一言。大人が子供にかける、ありふれた将来への褒め言葉のつもりだった。


「せやろ、せやろ! ウチ、才能あるかもなー!」


 沙羅はニカッと白い歯を見せて笑った。


 だが。


 笑いながら、ふと視線を落とし——。


「看護師か……」


 小さく、呟いた。


「……ええなぁ」


 その三文字が、夕風に乗って、俺の耳に届いた。


 直後、沙羅はハッとした表情になり、わざとらしい明るさで空気を塗り替えた。


「なーんてな! ウチ、勉強嫌いやから無理や! 教科書読んだら三分で寝るわ!」


 ――俺は、己の失言の残酷さに心臓が凍る思いがした。


 看護師の学校へ通う時間。国家試験を受ける年月。


 全て、余命わずかな沙羅の手には届かないカード。


「せやけどセンセ、もっと愛想よくせな! 眉間のシワ、増えてるで!」


 沙羅が俺の背中をバンと叩く。


「……ああ、気をつけるよ」


 ぎこちない笑みを返すのが精一杯だった。


 夕日に染まる沙羅の横顔が、痛いほど美しい。



「センセ、見て! お城が光っとる!」


 沙羅が、ふいに後方を指差した。


 確かに、遠ざかるはずの城の天守閣——最上階の月見台が、赤く明滅していた。


 次の瞬間。


 ヒュルルルル……


 空気を切り裂く音が、背後から迫った。



 ドォォォォン!!



 衝撃。


 天傘が、大きく傾いた。


 傘の縁に当たった火球が炸裂し、黒煙が上がる。


「な、なんや?! 敵襲?!」


 沙羅が飛び起き、刀の柄に手をかける。


「城からだ! 城の防衛システムが作動している!」


 俺は叫んだ。


 振り返れば、城の石垣の各所から、無数の火矢や魔力の弾丸が、雨あられと放たれていた。


 標的は、間違いなく俺たちだ。


「なんでや?! さっき、ニコニコ笑って送り出してくれたやんか!」

少しでも続きが気になると思って頂いた方は、ブックマーク頂ければ幸いです。

3/30まで、1日複数話、定期的に投稿します。(全体で20話程度で、一段落となります)

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