19
(『業』で猫城主の治療を――だめだ、結界と併用して、治療スキルを使えるほどの力量は、俺にはない……)
俺は、沙羅と猫城主の「お家探し」に付き添って歩きつつ、考えを巡らせた。
(認知症の患者さんの記憶は、完全に失われる訳じゃない。取り出しにくくなっているだけのことも……城をめぐり、五感を通じて、城主の「身体」に、本来の記憶を思い出させることが、できれば)
*
最初に通ったのは、武具が並ぶ『武者溜まり』だった。
槍や刀、甲冑が、薄暗い廊下に整然と並んでいる。鉄と錆の匂い。
「おじいちゃん、これ見てみ。強そうな槍やなぁ」
沙羅が、あえて明るい声で槍の穂先を指差す。
城主はぼんやりとそれを見た。だが、通り過ぎざま、城主の肉球が無意識に壁の木刀を掴んだ。
瞬間。
丸まっていた猫背が、ピンと伸びた。
足幅が自然に開き、重心が丹田に落ちる。
シュッ。
鋭い風切り音と共に、城主は木刀を構えた。切っ先は、一ミリの狂いもなく一点を指している。瞳孔が細く収縮し、野生の武人の鋭さが戻る。
「……切っ先は、敵の喉元へ」
(手続き記憶が生きている……!)
何万回と身体に叩き込んだ剣術の型。
城主の頭部を覆っていた黒い霧が、うっすらと薄くなった。
だが、すぐに城主は我に返り、木刀を落とす。
「……む? ニャぜわしは、剣を……」
困惑が戻る。記憶の窓が、一瞬だけ開いて閉じた。
(一つでは足りない。もっと多角的な刺激が要る)
*
次に俺たちは『空中庭園』に出た。
雲海に突き出した、絶景の庭園。季節外れの満開の桜が舞い、甘い香りが鼻腔をくすぐる。
俺は、桜の枝から花弁を摘み取った。
「殿。少し、失礼します」
桜の花弁を、城主の鼻先にそっと近づける。
(嗅覚は、五感の中で唯一、海馬に直結する原始的な感覚。記憶の扉をこじ開ける最も強力な鍵だ)
城主の白い髭が、ピクリと震えた。
「……桜餅」
城主がポツリと呟く。目に柔らかな光が宿る。
「妻が……よく作っておった。塩漬けの葉の、少ししょっぱい匂いじゃ」
「優しそうな奥さんやったんやね。どんな方やったん?」
沙羅の問いかけに、城主は目を細めた。
「うむ……笑うと、えくぼができてニャ。……そうニャ、ここで、二人で茶を飲んだ。春は桜、秋は月を見て……」
断片的な記憶が、鎖のように連なって蘇る。
猫城主の思い出話は、尽きることがなかった。
桜の香りが鍵となり、この庭が扉となり、閉ざされていた記憶の部屋が、ひとつ、またひとつと灯りを取り戻していくようだった。
*
最後に、俺たちは天守の『月見台』に出た。
眼下には一面の雲海。傾きかけた陽が、雲を茜色から黄金色へ染め上げている。
「ここからの景色……」
沙羅が、手すりにもたれて呟く。
城主は景色を見つめ、そして、俺が持っていた巻物に目を落とした。
夕日に照らされた白紙の巻物に、空摺りの影が浮かんでいる。城の断面図。月のマーク。傘の図形。
巻物の地図と、現実の景色が——城主の脳内でパズルのように噛み合った。
「……ああ」
城主が息を呑んだ。涙が毛並みを伝い、畳に落ちる。
「そうニャ。……ここニャ」
城主は、手すりを愛おしそうに撫でた。
「……わしはずっと、家にいたニャ」
城主が微笑んだ瞬間、残っていた黒い霧は完全に霧散した。
城全体が夕陽の温もりに包まれた。
「ありがとう、優しいお嬢さん。賢いお医者殿。迷子が治ったわ」
城主は深々と頭を下げた。だが、その声には、静かな諦めが混じっていた。
「……だが、わしの記憶が保つのは、今宵限りニャ。明日の朝には、また……わしは全てを忘れる。もう、修復不可能じゃ」
「治せんの? センセなら、治せるやろ?」
沙羅のすがるような視線に、俺は首を横に振った。
「……不可逆的な神経変性だ。俺の業でも、壊死した細胞は再生できない」
夕日が沈んでいく。
城主は穏やかに目を閉じた。
「……今、己が何者かを思い出せただけで……十分ニャ。お前たちが解いてくれた謎の『正解』には、これで報いるニャ」
城主が、月見台の柱にある隠しボタン——肉球型の窪みを、己の肉球で押した。
——ゴゴゴゴゴ!
床板が割れ、地下から巨大な物体がせり上がってくる。
巨大な朱塗りの和傘を逆さにした形状の乗り物だった。
傘の骨は、磨き上げられた黒漆の竹。張られた油紙は、夕陽を透かして琥珀色に輝き、表面には金箔で雲の紋様が描かれている。傘の柄の先には、大人三人が乗れるほどの木箱が吊り下がっていた。
「伝説の飛行具『天傘』じゃ。風を掴めば、鳥よりも速く砂の海まで飛んでいける」
俺たちは、息を呑んだ。
*
「タミという女人なら、覚えておるニャ」
天傘に乗り込もうとした俺の背に、城主の声がかかった。
「西の果て、砂の海へ向かうと申しておった」
俺たちは城主に一礼し、天傘に乗り込んだ。
強風が吹き抜け、巨大な傘がふわりと空へ舞い上がった。
*
天傘は、夢から抜け出したような乗り物だった。
動力は、傘の柄の部分に取り付けられた五色の風車。見えざる風を受けて回転し、推進力を生み出している。
ふわり、ふわり。
重力を無視して、雲海の上を滑るように進む。
「極楽やねぇ……」
傘の縁に腰掛けた沙羅が、足をぶらつかせながら呟く。桜色の振袖が、風に靡いていた。
眼下には、備中の山々が燃えるような紅葉の絨毯となって広がっている。
俺は地図を広げながら、隣の沙羅の横顔をちらりと見た。
夕日が、長い睫毛に金色の影を落としている。
「……すごいな、沙羅ちゃん」
「ん?」
「あの殿様への接し方、完璧だった。俺の理屈だけじゃどうしようもなかったのに、沙羅ちゃんが猫城主さんに寄り添ったから、上手く行った。……沙羅ちゃん、精神科医か看護師さんに向いてると思う」
何気ない一言。大人が子供にかける、ありふれた将来への褒め言葉のつもりだった。
「せやろ、せやろ! ウチ、才能あるかもなー!」
沙羅はニカッと白い歯を見せて笑った。
だが。
笑いながら、ふと視線を落とし——。
「看護師か……」
小さく、呟いた。
「……ええなぁ」
その三文字が、夕風に乗って、俺の耳に届いた。
直後、沙羅はハッとした表情になり、わざとらしい明るさで空気を塗り替えた。
「なーんてな! ウチ、勉強嫌いやから無理や! 教科書読んだら三分で寝るわ!」
――俺は、己の失言の残酷さに心臓が凍る思いがした。
看護師の学校へ通う時間。国家試験を受ける年月。
全て、余命わずかな沙羅の手には届かないカード。
「せやけどセンセ、もっと愛想よくせな! 眉間のシワ、増えてるで!」
沙羅が俺の背中をバンと叩く。
「……ああ、気をつけるよ」
ぎこちない笑みを返すのが精一杯だった。
夕日に染まる沙羅の横顔が、痛いほど美しい。
「センセ、見て! お城が光っとる!」
沙羅が、ふいに後方を指差した。
確かに、遠ざかるはずの城の天守閣——最上階の月見台が、赤く明滅していた。
次の瞬間。
ヒュルルルル……
空気を切り裂く音が、背後から迫った。
ドォォォォン!!
衝撃。
天傘が、大きく傾いた。
傘の縁に当たった火球が炸裂し、黒煙が上がる。
「な、なんや?! 敵襲?!」
沙羅が飛び起き、刀の柄に手をかける。
「城からだ! 城の防衛システムが作動している!」
俺は叫んだ。
振り返れば、城の石垣の各所から、無数の火矢や魔力の弾丸が、雨あられと放たれていた。
標的は、間違いなく俺たちだ。
「なんでや?! さっき、ニコニコ笑って送り出してくれたやんか!」
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