18
『天空の山城・霧幻』。
屋根瓦は瑠璃色に輝き、壁は雪のように白い。
「……静かすぎる」
トゥカラが身震いした。小さなアザラシの体毛が逆立っている。
「何で、誰もいないんや? そういうクエスト?」
城門は開いていた。招かれているのか、罠なのか。
「天空の山城は、謎解きクエストの会場らしいけど……」
城下町で源案が、凧の骨を削りながら教えてくれた言葉が蘇る。
(『あの猫城は「目に見えるものに騙されるな」って知恵比べの迷宮じゃ。殿様が出す課題を見事解けりゃあ、城の奥に眠る伝説の乗り物――天傘が手に入る。まあ、今の殿様じゃ無理じゃがな』)
俺たちは、城の内部を慎重に進んだ。
壁には、色褪せた掛け軸が並んでいる。描かれているのは、猫の武将たちが合戦を繰り広げる絵巻物だ。
だが、絵巻の後半になるにつれ、絵が崩れていた。
猫の顔が判別できない。鎧の紋様が溶けている。背景の城が歪んでいる。
まるで、画家の記憶が途中から失われたかのように。
*
最上階、『謁見の間』。
広大な畳敷きの部屋の奥に、一匹の老いた猫人が座っていた。
人間と同じように着物を纏い、二本足で座しているが、顔は紛れもなく猫のそれだ。雪のように白い毛並みは乱れ、長い髭は力なく垂れ下がっている。
その周囲を、黒い霧のような靄が、ゆらゆらと渦巻いていた。
霧は、城主の頭部から立ち昇っている。まるで、脳から漏れ出す黒い煙のように。
「……誰ニャ」
猫の城主が呟いた。声は、喉の奥で潰れたような枯れた響きだ。
「わしは……わしは誰じゃ。ここはどこニャ。……暗い。何も見えん」
部屋は明るい。障子から午後の陽光が差し込んでいる。
俺は、右手をかざした。
「医業執行——」
視界がモノクロに反転する。
白い毛に覆われた頭蓋骨の内部が、透視される。
——脳の表面に、黒い斑点が無数に広がっていた。
異常タンパク質の蓄積。神経の変性。記憶を司る脳の部位である、海馬の萎縮。
そして、萎縮した海馬の周囲に、七色の微粒子が付着しているのが見えた。
(……七色?)
俺の背筋に、冷たいものが走った。
七色の蝶。以前俺達を襲った、あの蝶の鱗粉と同じ色だ。
(この認知症は……天然の病気じゃない。誰かが、この城主に仕掛けた……)
認知症の症状を、人為的に引き起こすことで。
(……困った)
俺たちに謎を出すはずの老猫が、己が何者かさえ分からなくなっている。
「見えぬ! 何も書いておらぬ! やはりわしの人生は虚無じゃ!」
城主が突然、手にした巻物を投げ捨て絶叫した。
巻物が畳の上を転がり、俺の足元まで滑ってきた。
(城主が持ってたってことは……謎解きクエストの問題用紙?!)
しかし巻物には、何も書かれていないように見える。
しかも、今はそれどころではなかった。
黒い霧が爆発的に膨れ上がる。
天井を突き破り、部屋中を暴れ回り――龍のような形状に変化する。
「危ない!」
沙羅が俺の前に飛び出し、刀で黒龍の霧を薙ぐ。
しかし、刃は霧をすり抜けた。
「トゥカラ! 冷気で固められないか!」
「やってみる! 綺羅の氷!」
トゥカラの冷気もすり抜け、効果が無い。
その時、霧の触手が、トゥカラの頭部を掠めた。
「……あれ?」
トゥカラが、きょとんとした顔で周囲を見回した。
「ここ、どこだ? 俺、なんでここに来たんだっけ? フンペに、頼んで……あれ?」
アザラシの神の丸い瞳が、きょとんとする。
――霧に触れた瞬間、記憶を奪われた。
「記憶を喰う霧……! それに触っちゃ駄目だ!」
俺は叫んだ。
「医業執行――滅菌・結界!」
バチッ、と音を立てて、俺と沙羅を中心に半透明のドーム状の結界が展開された。
俺は唖然としているトゥカラの首根っこを掴み、結界に引き入れた。
俺は足元に転がっていた巻物を拾い上げた。
やはり白紙にしか見えない。
だが、考えてみれば、これが本来のクエストの「問題」だったはずだ。
源案の話が正しければ、城主はこの巻物を訪問者に手渡し、こう問いかけるはずだった——
『天傘の在り処を記した地図じゃ。読めるものなら、読んでみるがよい』
(目に見えるものに騙されるな……? なら、「何も書かれていない」ように見えることこそが、この謎の核心……?)
白紙に見える巻物に、天傘の隠し場所が記されている。ではどうやって?
ふと、先程の、猫城主の声が脳裏をよぎった。
『……暗い。何も見えん』と。
——猫の視力は、もともと人間より弱い。
老齢の猫ならなおさらだ。墨の文字など霞んで読めない。
視力の弱い猫の城主が、自分でも読める方法で地図を作ったとしたら——
(視覚ではなく触覚……墨ではなく凹凸!)
視力を失った患者が、指先の触覚で点字を読むように。
猫の肉球は、人間の指先より遥かに繊細なセンサーだ。紙から圧力で浮き上がらせた凹凸の模様なら、肉球で読み取れる。
空摺り(からずり)——日本の伝統技法。インクを使わず、圧力だけで紙に模様を刻む。光の角度次第で、影だけが浮かぶ。
俺は巻物を広げ、障子から差し込む西日の斜光に、角度を変えながらかざした。
——浮かんだ。
白紙だったはずの巻物の表面に、微かな影が走る。
城の断面図だ。
天守閣の最上階に、月のマークが刻まれた部屋がある。その床下に、下向きの矢印。さらにその先に——傘を開いたような形の図形が、ぽつんと描かれていた。
「……あった」
俺は思わず声を漏らした。
天傘の在り処だ。
(これが、このクエストの『正解』……! できた!)
「殿! 分かりました! これは天傘の地図、場所は……最上階の月見台の床下!」
俺は結界のギリギリまで歩み寄り、巻物を城主の目の前に掲げた。
斜光に照らされた城の断面図と傘のマークが、はっきりと浮かんでいる。
「……天傘を、頂けると聞いたんやけども……」
横から沙羅が、遠慮がちに言い添えた。
「ニャんじゃ?」
城主の丸い瞳が、巻物の影を追った。
一瞬——ほんの一瞬だけ、目に理性の光が宿る。
だが。
城主は、傘のマークを見つめたまま、ふいに涙をこぼした。
そして、力なく首を振った。
「……天傘とはニャんじゃ? わしが、そんなものを作ったのニャ……?」
「え?」
「わしは……何も覚えておらぬ。ここはどこニャ。……怖い。暗いのは嫌ニャ」
理性の光が、瞳から急速に失われていく。
尻尾がだらりと下がり、視線が泳ぎ始めた。
「母上……母上はどこニャ。家に……帰らねば」
よろめきながら立ち上がる城主。
( 『夕暮れ症候群』か……!)
夕方になると不安が増し、「家に帰りたい」と徘徊する認知症特有の症状。
(謎は、解けたのに。地図も、読めたのに)
だが、それを承認すべき城主の心が、もう壊れている。
(万事休す、か……)
――その時だった。
「猫のおじいちゃん」
柔らかい声が響いた。
沙羅が、大太刀をカタリと床に置き、霧の中へ一歩踏み出そうとする。
「沙羅ちゃん! 触れるな!」
俺は、沙羅の動きに合わせ、慌てて結界を移動させる。
「大丈夫や」
沙羅は歩みを止めず、城主の前に膝をつき、その白い手をそっと両手で包み込んだ。
「お家に帰りたいんやね」
猫城主の気持ちを、丸ごと受け入れるような優しい声。
「そうじゃ……帰らねばならんのじゃ……」
「そっか。心細いなぁ。外、暗いもんな」
沙羅が、城主の耳の後ろをそっと撫でた。
「ウチがな、一緒に『お家』を探したるわ。おじいちゃんの大事な場所、きっと見つかる」
城主の強張っていた肩から、ふっと力が抜けた。
喉の奥で、グルル、と安堵の音が鳴る。
「……一緒に来てくれるのかニャ?」
「当たり前やん。さ、行こか」
沙羅が俺に目配せする。
『センセ。合わせてや』
俺は唇を噛んだ。
(共感的コミュニケーション……相手の世界に入り込み、安心感を与えること。データと論理で戦う俺の……不得意分野)
——論理で、謎は解けた。だが、それだけでは足りないのだ。
「……ご一緒に、探しましょう」
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