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 俺は、広い河原に着地したまま、しばらく動けずにいた。


 俺たちを乗せてきた氷の船は、役目を終え、崩壊し始めていた。


 キラキラと舞う氷の粉塵が、川面に降り注ぐ。


 川の水は清冽で、底の小石まで透けて見える。


 見上げれば、両岸には燃えるような紅葉を纏った山々が迫っていた。


 その谷間を、高梁川をモデルにしたであろう大河が、悠久の時を刻むように流れている。



「おい、紅葉狩りしてる場合じゃねえぞ。……どこだ、ここ」


「天空の山城の、城下町だろう」


 俺は、空を仰いだ。



 空中に浮かぶ島に、鎮座する天守閣。


 黒い下見板張りの壁と、白い漆喰のコントラスト。


 幾重にも重なる石垣は、武骨でありながら、幾何学的な美しさを放っている。



 『天空の山城』。


 現世と幽世かくりよの境界に浮かぶ、難攻不落の城。



「高いなぁ。……あれ、どないして登るん?」


「とりあえず、街へ行こう。……情報収集だ」




 ベンガラ色の格子戸。ナマコ壁の蔵。軒先に干された赤や白の和傘。


 備中の小京都と呼ぶに相応しい、息を呑むほど鮮やかな街並み。



 だが、その風情を台無しにしているのが、至る所に掲げられた張り紙だった。


『本日の城主の御機嫌:大不興おおふきょう。不要な騒音を禁ず』


『城への渡し船:無期限欠航。城主の御機嫌が直り次第、運航を再開いたします』


『猫を踏んだ者は、打ち首に処す。――城主・三十郎』



「……猫の機嫌で、街が動いとるん?」


 沙羅が呆れたように呟く。


「そうじゃ。もう三日もこの調子でな」


 道端に古ぼけた箱を並べ、将棋を指していた老人が、やれやれと首を振った。


「城主の三十郎様は、気まぐれな猫神様でな。『我輩は不機嫌である。理由はニャい』と仰せになって、城ごと結界に引きこもってしまわれた。……まあ、いつものことじゃがの」


 水路には錦鯉が泳ぎ、石橋の欄干には猫の彫刻。町のあちこちに猫耳の形をした瓦屋根、猫の足跡型の敷石。


「……まあ、お猫様じゃからの」


「……気まぐれは、当然のことじゃろうて」


 道端の老人たちが、うんうん、と頷き合う。


(……なるほど)


 ――この街は丸ごと、気まぐれな猫神の庭なのだ。





「あの……最近、このあたりに、上品なお婆ちゃんが来ませんでしたか? 短い白髪の。タミさんておっしゃる……」


 沙羅が、茶屋の女将に尋ねる。


「ああ、いたねえ。三日前だ。品の良いお方で、城へ行きたいと騒いでおったが……正規の道は封鎖されとるからな。裏通りへ消えていった。翌朝には、天守閣に人影が見えたなんて噂もあるけどねえ……」


「裏通り?」


「よしな。あそこは、まっとうな人間の行く場所じゃあない」


(タミさんは、三日前にここを通った。……そして、普通では入れない城に、何らかの方法で辿り着いている……?)



 ――ならば、俺たちも、行かなければならない。



 その時、路地の奥から、乾いた音が聞こえた。


 カン、カン、カン。


 竹を割る、リズミカルな音。





 路地の突き当たりに、大きな長屋があった。


 入口には『源凧げんだこ』と書かれた看板が、埃を被って傾いている。


 中を覗くと、天井まで積み上げられた竹ひごと、黄ばんだ和紙の山。その中央で、白髪頭の職人――源案が、巨大な竹枠と格闘していた。


 節くれだった指先は、墨と糊で黒く染まっている。


「すみません」


「帰んな」


 振り向きもしない。


「空を、飛びたいんです」


 ピタリ、と竹を割る手が止まった。


「……城か」


「はい。……巨大な凧なら、上手く風に乗れれば、天にも届く」


 源案は再び作業に戻った。


「帰れ。ワシの凧は、もう飛ばん。骨が折れとる。紙も腐っとる。直す気力も、材料もない」


「見せてもらえませんか。……その凧」


「聞こえんかったか。帰れと――」


「俺は医者です」


 源案の手が、再び止まる。


「……人間の医者に、凧の何がわかる」


「骨が折れてるなら、診ます」



 沈黙が、数秒。


 源案は、諦めたように鼻を鳴らし、作業場の奥を顎で示した。


「……勝手にしろ。どうせ、見りゃ諦める」



 埃っぽい奥の間に、それはあった。


 天井から吊り下げられた、二十畳はあろうかという巨大な凧。


 二枚の翼が上下に重なる複葉構造。下部には竹で編まれた流線型のポッドが取り付けられている。


 かつては極彩色だったであろう鬼の絵が、色あせて剥がれかけていた。


 確かに、満身創痍だ。



「……なるほど。主翼の第三肋骨に相当する竹フレームが不全骨折。維管束の断裂は三箇所。和紙の表皮は紫外線劣化で繊維が脆化しているが、深層のミツマタ繊維はまだ生きている」


 俺は振り返った。


「職人さん。この凧は、死んでいません。重傷ですが、手術すれば飛べる」


 源案の目が、わずかに見開かれた。


「……手術、じゃと?」


「骨折した竹フレームに、副木を当てて固定します。壊死した表皮は切除して、新しい和紙で皮膚移植する。糊の配合を変えれば、柔軟性と強度を両立できる」


「……素人がデタラメを言うな。和紙と竹を知らん人間に——」


「竹の維管束は、人間の骨のハヴァース管と構造が似ています。繊維の走行方向に沿って副木を当てれば、応力を分散できる。……職人としてのあなたの目は、それを知っているはずだ」


 源案は、黙って俺を見つめていた。


 やがて、カッと短く笑った。


「……変な医者じゃな。好きにしろ。壊れた凧で遊ぶくらいなら、許してやる。ただし、ワシの道具には指一本触れるなよ」





 日が暮れるまで、俺たちは凧と格闘した。


 俺は『診断』で損傷箇所を特定し、沙羅が器用な指先で和紙を裁断する。トゥカラは、小さなアザラシの姿で竹ひごを咥えて運んだ。


「センセ、ここの紙、繊維が横向いとるで。縦に貼ったほうが強いんちゃう?」


「そうだね、繊維方向を逆にしておいて」


「よっしゃ! ウチ、裁縫は得意やからな!」


 沙羅は嬉しそうに和紙を切り、柿渋を塗り、丁寧に貼り合わせていく。


 その手つきは、入院生活で覚えた手芸の技術に裏打ちされているのだと、何となく想像が就いた。


 トゥカラは、骨組みの隙間に体ごと潜り込み、内側から冷気で仮固定する。


「沙羅ちゃん、麻紐をもう一巻き」


「はいはーい」


 二人と一匹で這いずり回りながら、巨大な翼の傷を一つずつ塞いでいく。


 源案は、離れた場所で背を向けたまま、別の竹を削っていた。


 関わるつもりはない、という態度だったが――時折、チラリとこちらを見ているのを、俺は気づいていた。



「……そこは、柿渋を二度塗りせんと持たんぞ」


 不意に、源案の声が飛んだ。


「え?」


「聞こえんかったか。二度塗りじゃ。一度目が乾いてから、直角に交差させて塗る。繊維の隙間を、完全に埋めるんじゃ」


 いつの間にか、源案は俺たちのすぐ後ろに立っていた。


「あと、その竹の副木な。角度が甘い。もう五度、内側に傾けろ。風を受けた時に、ちょうどいいしなりになる」


「……ありがとうございます」


「礼はいらん。ワシの凧を、これ以上ヘタクソに直されるのが見ておれんだけじゃ」


 源案は横から割り込み、手慣れた手つきで竹を矯正した。



 その指先は、もう迷いがなかった。


「センセ、職人さん、やる気やで」


 沙羅が小声で囁く。


「……きっと最初から、飛ばしたかったんだ。この凧を」



 夜が更け、月が出た。


 源案は、完全に「指揮官」になっていた。


「その和紙は裏表が逆じゃ、小娘!」


「ひゃっ! かんにん!」


「アザラシ! もっと均一に冷やせ! ムラがあるぞ!」


「やってるよ!」


 怒鳴り散らしながらも、源案の目は生き生きと輝いていた。


 ――やがて、東の空が白み始めた頃。


「……できた」


 源案が、掠れた声で呟いた。



 作業場の前に運び出された『鬼の翼』は、昨日とは別物だった。


 柿渋で飴色に硬化した和紙が、朝露を弾いて鈍く光る。温羅の鬼面が、極彩色の威厳を取り戻し、こちらを睨んでいる。


 竹骨は、俺の『副木』と源案の矯正によって、折れる前より強靭なアーチを描いていた。





 夜明け前の崖の上。


 盆地を埋め尽くす乳白色の雲海が、月明かりを吸って鈍く光っている。


 吐く息が白い。


「覚悟はええか、若いの」


 源案が、留め綱を杭に結びつけながら低い声で問う。


「朝日が雲海を割る瞬間……溜まった熱が一気に解放されて、谷底から山頂へ猛烈な上昇気流が走る。『登り竜』じゃ。そこを逃せば、お前らは谷底の染みになる」


「わかっています」


 俺と沙羅は、竹編みのポッドに乗り込んだ。トゥカラは小型化して、俺の懐に潜り込む。フワフワで温かだ。



 東の空が、茜色に滲み始めた。


 俺は、右手を空にかざした。


「医業執行――気流・造影きりゅう・ぞうえい


 人体を視るはずの透視が、大気に向けて放たれる。


 すると、谷を流れる気流が、青白い色彩を纏って可視化された。


 無数の毛細血管のような細い乱気流が、絡み合うように谷を走る。


(この谷は……一つの巨大な肺だ)


 冷気が溜まった盆地の底が肺胞。山肌を伝う空気の流れが気管支。そして頂上へ向かう上昇気流が、吐き出される息そのもの。


(呼気のタイミングで飛ぶ。谷が息を吐く、その一瞬――)


 地鳴りが響く。雲海がうねる。


 朝の光が、谷に差す――


(来る。谷の、呼吸だ!)



「今だッ!!」



「行けぇぇぇ!!」


 源案が叫び、留め金を木槌で叩き斬った。


 バァン!!


 一瞬の無重力。直後、下から突き上げる暴力的な衝撃。


 竹枠が悲鳴を上げ、和紙の翼が風を孕んで大きくしなる。


 視界が白く染まった。雲海の中を、垂直に駆け上がっていく。



「センセ! 飛んどる! ウチら、飛んどるで!!」


 沙羅の歓声が風に千切れる。


「右翼に負荷! 左へ重心移動!」


「了解っ!」


 沙羅がポッド内で移動し、機体が突風を受け流す。


 白い霧を突き抜けた。


 視界が、爆発的に開けた。



 群青と茜色が混ざり合う、夜明けの空。眼下には見渡す限りの雲の絨毯。


 その彼方に、雲海から頭だけを出した天空の山城が、朝日を浴びて黄金色に輝いていた。


「綺麗……」


 沙羅が息を呑んだ。


 だが、上昇の勢いが急激に衰え始める。



「失速する……!」


 城までは、まだ距離がある。


「沙羅ちゃん、下に向けて衝撃波を放って!! 上昇気流をつくって!」


「合点承知! 剣業執行――百花・繚乱!!」


 沙羅の刃から無数の花弁が炸裂し、衝撃波が背後で空を割った。


 二つの推力が重なる。


 ドォォォォン!!


 翼が唸り、機体が矢のように加速した。


 城が迫る。石垣の目地が見える。



「着陸する……! 掴まれ!!」



 ガガガガガッ!!


 竹のポッドが石畳を削り、火花を散らす。翼が城壁に接触し、派手な音を立てて砕け散った。


 遠心力で放り出される。


 青い空。白い雲。舞い散る和紙の破片の中に、温羅の鬼面の欠片が混じっている。


 ドサッ。 ドサッ。 ドサッ。


 俺たちは、満開の桜の木の下に重なるようにして転がった。左を下にして、何度か俺の体が、ポッドごと地面に叩きつけられた。


 花びらが、頬に降り注ぐ。


「……怪我、ないか?」


「痛ったぁ……。なんとか、やけど」



 俺は仰向けのまま、左手を持ち上げようとした。


 動かない。


 指一本、動かない。


 氷の海で痛めて以来、少しずつ悪化していた左手の神経が、今度こそ完全に沈黙していた。


 俺はそっと左手を懐に押し込み、右手だけで身体を起こした。



 桜の花びらが、空中島の縁から下へ、落ちてゆく。


 谷の下では、きっと源案爺さんが空を見上げている。


 俺たちの翼は、粉々になった。だが、ここまで届いた。


 爺さんの凧は、最後に一度だけ、天に届いたのだ。


少しでも続きが気になると思って頂いた方は、ブックマーク頂ければ幸いです。

3/30まで、1日複数話、定期的に投稿します。(全体で20話程度で、一段落となります)

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