16
俺の手の中には、ヤドカリから購入したばかりの『水天回廊図』がある。
墨で描かれた雲と波が、紙の上で生き物のようにうねっている。
「……遠いな」
現在地は、北の最果て。
タミさんが目指していた、"東の彼方、雲海に浮かぶ「天空の城」の千本桜"は、日本地図でいうならば、本州を通り越して岡山あたり。
"南の果て、砂丘の奥にある「癒やしの都市」の月夜"は、鹿児島あたり。
徒歩では、何週間かかるか分からない。
「有給、足りひん?」
隣で、沙羅が覗き込んでくる。螺鈿の簪が、陽の光を受けてキラリと光った。
「うーん。普通に行けば、間に合わない」
「だったら、空を行くしかねえな」
足元でトゥカラがふんぞり返った。
「細かい場所の指定は無しで、大体の位置までなら、運んでくれそうな相手がいる。友達の、伝説のフンペ――骨だけになって神の国へ帰る途中の、鯨の老神に。同じ海のカムイ同士、顔は利く」
(大丈夫か……? 話がうますぎないか……?)
*
港の突堤で、トゥカラが低い咆哮を海に放った。
海面が震え、沖合の海が濃紺から漆黒へ変色していく。
ザパァァァン!!
海が、割れた。
現れたのは白亜の巨大な、クジラの骨格だった。肋骨の一本一本が神殿の柱のように太く、頭蓋の眼窩には蒼白い鬼火が揺らめいている。
『……北の、あざらし。……何用だ』
「いつも悪いな、骨の旦那! 頼む、急ぎの客だ! 西の天空の山城の近くまで、潮吹きで氷橋をかけてくれ!」
鯨は俺たちを見下ろし、
『……よかろう。……掴まれ』
と、背骨を桟橋に寄せた。
*
白骨の背に飛び移った俺は、すぐに問題に気づいた。
「空高くまで行くなら、空気も薄いし温度も低いんじゃないか?」
「安心しな——氷築家(コンル、チセ・ネ・ノ)!」
トゥカラの吐息が周囲の空気を凍結させ――コックピットのような流線型の氷殻が俺たちを包んだ。
「久遠氷の『氷の船』だ。完全密閉で、熱も通さねえ完璧な宇宙船だぜ」
『……行くぞ』
シュゴオオオオオオオオッ!!
圧縮された海水が、水柱となって天を貫いた。
俺たちの氷の船は、その頂上に乗せられ——座ったまま、打ち上げられた。
ドォォォォン!!
凄まじい浮遊感。腹の底から内臓が持ち上がる。
氷の船が緩衝材となり、致命的な衝撃はない。だが背骨が軋む加速感に、俺は必死に、氷のレバーにしがみつく。
「ひゃっほおおおお!! 飛んでるみたいだぜ!」
トゥカラは、両ヒレを掲げてご機嫌だ。
「すごい! 雲が下や! 空ってこんなに広いんやなあ!」
沙羅の胡桃色の髪が無重力に舞い、螺鈿の簪がキラキラと回転する。振袖の袖がふわりと広がって、万華鏡のようだ。
「ちょ……、楽しんでる場合じゃ……!」
俺の脳内では別の計算が走っている。
「高度五十キロからの自由落下だぞ……おいトゥカラ、降りるときのGは?」
「ジーって何だ?」
「重力や加速度のことだ。強い力がかかると、脳に血が回らなくなって気を失う!」
「俺様はカムイだからな。……まあ、何とかなるだろ!」
「人間は、何とかならないから聞いてる!」
「センセ見て! あれ青森の北端ちゃう!?」
「そんなの、見てる場合じゃ——」
「あっ! 虹だ! 虹も下に見えるぜ!」
「聞けよ!」
駄目だ。沙羅もトゥカラも、完全にハイになっている。
空の色が変わり始めた。青が濃紺になり、やがて完全な闇に沈む。
星が見えた。昼間なのに、満天の星空。
地平線が、緩やかなカーブを描いている。
「……地球が、丸い」
沙羅が、呆然と呟いた。
「丸いんや……。ほんまに、丸いんや……」
その声に、先程までの勢いはなかった。
病室の天井しか知らなかった少女が、地球を見下ろしている。
その横顔を見て、俺は——一瞬だけ——計算を忘れた。
水柱が、頂点に達した。
「頂点だ! 凍った潮の滑り台……滑り降りるぞ!」
船が、滑り出す。加速する。
「ひゃー! お腹ふわってなる!」
「ひゃっほーーー! 最高だぜぇ!」
「掴まれって言ってんだろ!」
外壁が赤熱し、プラズマの炎を纏い始めた。
しかし、トゥカラの久遠氷が熱を遮断し、船内は涼しいままだ。
眼下を日本列島が地図のように流れていく。
だが——その時。
ヒラ、ヒラ。
成層圏にいるはずのない、七色の蝶が現れた。
一匹、二匹——みるみる数百の群れとなり、氷の外壁に張り付いた。
沙羅の歓声が止まる。トゥカラの表情が、初めて強張った。
ジュウウウウウ。
蝶が、ストロー状の口を氷の船にくっつけ、氷を吸い始めた。溶けるはずのない久遠氷が、融け、蒸発していく。
「馬鹿な! 久遠氷だぞ!?」
トゥカラが冷気を吐いて修復するが、蝶は七色の燐粉で冷気を中和し、さらに喰い破っていく。
パキィッ!
天井に、小さな亀裂。
ピコン。
視界にシステムウィンドウが浮かんだ。
【 警 告 】
環境保護層の喪失を検知。
生体ダメージが限界値に達する可能性があります。
緊急ログアウトしますか?
※ 再ログインできなくなる可能性があります。
[はい] [いいえ]
「再ログインできなくなる……!? いやや! 絶対ログアウトせえへん——!」
沙羅が叫ぶ。だが亀裂は広がり続けている。
(考えろ――あの蝶は、何を追っている?)
俺は、蝶を観察した。
蝶が反応しているのは、おそらく氷そのものではない――
俺は、揺れる船の中を、ふらつきながら数歩歩いた。
一歩、二歩。
すると、氷の船の外の蝶の群れが、俺の動きに追従した。
数百の七色の羽が、俺の正面に集まる。
(やっぱり。視覚的に、俺たちを――人間とアザラシを、認識している。だから、俺達が見えなくなれば)
「トゥカラ、氷の壁の内側を、限界まで平滑にできるか」
「平滑? ツルツルにするって意味か?」
トゥカラが、短いヒゲをピクピクと揺らす。
「ああ。鏡のように、一切の凹凸を無くしてくれ。できるか」
「任せな! 北海の王を、舐めるなよ!」
トゥカラが、大きく息を吸い込む。
微かな冷気を、氷の内壁に向けて吐き出した。
氷の表面が、一度わずかに溶ける。
直後に、極低温で急速冷凍される。
「沙羅ちゃん、目を閉じて。強い光が出る」
「え? うん、わかった。信じてるで、センセ」
沙羅が、素直に両目を閉じる。
長い睫毛が、恐怖で微かに震えている。
俺は、右手を氷の壁にかざした。
意識を、右手の平に極限まで集中させる。
現実の俺の肉体から、生命力を強引に絞り出す。
――熱い鉄串を、眼球の裏に突き立てられたような激痛。
しかし、ここで諦めるわけにはいかない。
「医業執行――銀鏡・被膜!」
俺は、痛みに耐え、声を張り上げた。
掌から、眩い銀色の光が溢れ出す。
(アンモニア性硝酸銀水溶液……そこに、ブドウ糖の還元剤を混合する)
銀を定着させる、銀鏡反応だ。
無数の銀の微粒子が、平滑な氷の内壁に高速で付着していく。
瞬く間に、船内の全周囲が銀色の鏡にコーティングされた。
「うぐっ……あぁっ!」
強烈な痛みが、俺の側頭部を乱暴に殴りつける。
鼻の奥から、温かい鉄の匂いが立ち昇る。
(限界を、超えろ!)
「センセ! 大丈夫?!」
沙羅が、目を開けて叫ぶ。
「問題ない」
俺は、荒い息を吐きながら答える。
氷の船は、巨大な合わせ鏡に変化した。
内側は、俺たちの怯えた顔を無限に反射している。
外側から見ればどうなるか。
暗黒の宇宙空間と、遠い星々の瞬きを、ただ反射するだけの鏡の球体だ。
「蝶の気配が……」
沙羅が、息を呑む。
鏡の向こう側で、異変が起きた。
目標の姿を突然失った蝶たちが、パニックを起こしたのか――七色の羽が、無秩序に乱舞する音。
――やがて、蝶の羽音は、遠ざかっていった。
「……消えた」
「トゥカラ、頼む! 船の修復を! そして……外殻の内側にもう一層、水の層を作れ! 液体で満たすんだ!」
「水? 何のためだ!」
「G対策だ! 液体に浸かっていれば、加速度は全身に均等にかかる——内臓が潰れない! 胎児が羊水の中で衝撃から守られるのと同じ原理だ!」
「……おもしれえ!」
トゥカラが、外殻と内殻の間に薄い水層を形成した。さらに船内にも、首から下が浸かる程度の水が満たされる。
「息を止めて――潜れエエエエ!」
ゴオオオオオッ!
再構築された氷の船が、大気圏を滑り降りる。
プラズマの炎が外殻を舐めるが、二重構造の氷と水層が熱を吸収し続ける。
凄まじいGが全身を襲うが、水が衝撃を分散する。
きつい。だが、耐えられる。
眼下に、中国山地の山並みが見えてきた。
雲海に浮かぶ小さな点――天空の山城――が一瞬で過ぎ去る。
(着水する!)
ザッパァァァン!!
氷の船が川面を跳ね、砂州に乗り上げて停止した。
プシュウ……と船が蒸気を上げて崩壊し、中の水がざあっと砂浜に流れ出す。
「……着いた」
俺はずぶ濡れのまま砂の上に大の字になった。
北海道から岡山まで、わずか数十分。まだ、地面が揺れている気がする。
「助かった」
「……ひとまずは、な。だがな、あの蝶は只事じゃねえ。俺様の久遠氷を溶かすなんざ、並のカムイにゃできねえ芸当だ」
トゥカラの声に、珍しく真剣な色が混じっていた。
「蝶……あの、気味の悪いNPCも、蝶だったな」
(並の神ではない……上位存在、か? まるで、俺達をゲームから排除したいみたいだった……。だけど、俺達を強制的にログアウトはできない仕様だから、蝶を使って俺達を排除しようとした……?)
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