15
翌日。
ログインした俺たちは、深海から持ち帰った木箱を開けた。
濡れた黄金が、太陽の光を浴びてギラギラと輝く。
その一番上に、俺がこっそりと乗せておいた、あの簪があった。
黒檀の軸に、七色の螺鈿細工。先端には、涙の雫のような真珠が揺れている。
俺はそれを手に取った。
ずしりと、重い。
ただのデータのはずなのに、そこには確かな質量が感じられた。
沙羅は、楽しげに宝箱を見つめている。
その無防備な背中を見ていると、胸の奥が締め付けられるような感覚に襲われた。
昨日は、守れた。
けれど、紙一重だった。
(沙羅ちゃんがもし、美奈みたいなことになったら……。やっぱり、この先は、俺一人で……)
けれど、沙羅が承知しないであろうことも、容易に想像できた。
俺は、沙羅の背後に立った。
震える指先で、沙羅の後ろでまとめた髪の根本あたりに、突き刺してみる。
(こ、こうやって使うのか?)
女性の装身具のことなど、全くわからない。洋装でもわからないのに、和装ならなおさらだ。
不器用に挿された簪は、それでも沙羅の髪に、夜光虫のような光を添えた。
「あ……センセ、あの簪? ええの?」
髪に触れられた感触に気づき、沙羅が振り返る。
きょとんとして、俺を見る。その瞳に、俺の困ったような顔が映っている。
「……鑑定に出せば、意外と高値がつくかもしれない。資産は分散して持つのが、リスク管理の基本」
俺は、努めて事務的に言ってみた。
嘘ではない。ただ、売るつもりなど毛頭ないだけだ。
この簪は、彼女が昨日、生きて深海から戻った証だ。
沙羅が、俺の顔をじっと見て、ふわりと花が綻ぶように笑った。
「……ふふ、せやな。おおきに、センセ」
沙羅が、簪の揺れる髪を、嬉しそうに撫でた。
*
路地裏の道具屋の店主は、巨大なヤドカリの姿をしたNPCだった。
背負った貝殻には無数のフジツボが張り付き、まるで老人のシミのように見える。
俺は、昨日のサルベージで手に入れた大金をカウンターに積み上げた。
「『水天回廊図』をください。一番、精度のいいやつ」
「へいへい。金払いのいい客は大好きだ」
ヤドカリ店主は、ハサミを器用に使い、棚の奥から一枚の巻物を取り出した。
埃を払い、カウンターの上に広げる。
墨絵のような紙面に、生きた墨が、うねるように動いている。
描かれているのは、雲海と、その上を流れる風の道。
そして、遥か天空に浮かぶ、巨大な城のシルエット。そして、波のうごく海。
『水天回廊図』
「動いてる……これ、リアルタイムの気象データか!」
俺は、墨絵の地図を凝視する。
風の流れ、気圧配置、雷雲の発生源。それらが、水墨画の濃淡として表現され、刻一刻と変化している。
「……あと、空を飛べる手段を知りませんか? すごく速く移動できるなら、なお良い」
俺が尋ねると、ヤドカリはハサミをカチカチと鳴らし、首を横に振った。
「へえ。うちではそんな希少道具、扱いないですよって。空を飛ぶなんざ、天狗か神様の領分だ」
短い商談を終え、俺たちは店を出た。
路地裏は、朝だというのに、どこか薄暗い。
石畳を歩く下駄の音が、乾いた音を立てる。
ふと、甘い香りが漂った。
花の蜜のような、それでいてどこか腐敗臭を隠したような、濃厚な香り。
「……空を飛びたいと、おっしゃっていましたね」
背中から、鈴を転がすような声がした。
俺たちは足を止めた。
振り返ると、路地の陰に、一人の女性が佇んでいた。
背中に、アサギマダラのような、透き通る浅葱色の蝶の羽を生やしている。
顔立ちは整っているが、どこか能面のように表情が乏しい――NPCであろう。
「『天翔ける羽衣』。これを纏えば、鳥のように自由に空を飛べる」
女性の手には、羽虫の羽のように薄く、虹色に輝く布が握られていた。
「へえ! すごいやん! いくらなん? まだお金、少し余ってるで!」
沙羅が身を乗り出す。
だが、女性は、沙羅ではなく、俺をじっと見据えていた。
値踏みするような、視線。
「……代金は、『余命』」
「……なに?」
俺の眉間が、自然と狭まる。
「あなたは余命半年と、うかがいました。そのうち、たった三日分。三日いただければ、この羽衣を差し上げます」
ドクン。
心臓が、嫌な音を立てた。
背筋に、氷水を流し込まれたような悪寒が走る。
指先が、冷たくなる。
「なんで、俺の余命を、知っている……?」
俺の声が、低く掠れた。
「余命半年」というのは、現実世界の、俺の肉体の診断結果だ。
カルテの中と、俺の記憶の中にしか……いや。
(……沙羅ちゃんに、伝えた。余命半年だと。それを、ゲームのシステムが記録してたんだ……。そして、こいつは、今、ゲームのアイテムと、「現実」を天秤にかけた)
作り物の知能が。
俺の、一分一秒と、落ちてゆく、砂時計の砂のような命を。
まるで、通貨のように扱った。
不快だ。
猛烈に、不快だ。
胃の底から、酸っぱい液がせり上がってくるような、生理的嫌悪感。
「俺の時間は、俺のものだ。一秒たりとも、プログラムに切り売りするつもりはない」
俺は吐き捨てるように言い、沙羅の手首を掴んだ。
「行くぞ、沙羅ちゃん」
「え、ちょ、センセ! 痛い、痛いって!」
俺は足早に、光の届く表通りへと歩く。
心臓の動悸が収まらない。
(なんだ、今の奴は……)
ただのNPCのセリフとは思えない。
まるで、幻想から、現実の世界を覗き見ているような。
あるいは、この『極楽』というシステムそのものが、俺たちの「命」を、単なるゲームの資源として管理しているような――。
冷たい汗が、背中を伝った。
美しいはずの街並みが、急に舞台セットの絵のように、薄っぺらく、不気味に見えてくる。
「センセ、顔、怖いで……」
沙羅の怯えた声で、俺は我に返った。
掴んでいた彼女の手首を、慌てて離す。白く細い手首に、俺の指の跡が赤く残っていた。
「……ごめん」
「ううん……。あんな気色悪いこと言うNPC、初めて見たわ」
沙羅が、自分の手首をさすりながら、気丈に笑う。
「空飛ぶ手段なら、きっと他にもあるで! 楽して飛んでも、つまらんやん!」
「うん……」
俺は、振り返らなかった。
路地裏の闇の中で、あの蝶の羽を持つ女がまだ、俺の背中を見て、音もなく嗤っているような気がした
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