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「俺は医者だ。……それに、暴れているんじゃない、怯えているんだ! 目が見えない恐怖は、想像を絶する。自分がどこにいるかも、何に触れているかも分からない闇だ」
俺は叫び返した。
「そうは言ってもなぁ!」
トゥカラが、巨大化して、腕の一本を受け止めた。腕の動きを止めたまま、波打ち際まで押されていく。
「海の王者の意地を見せてやらあ!」
トゥカラが吼える。
白いアザラシの身体が、青白い光を放ち、灯台の半分ほどの高さまで、巨大化した。
トゥカラはヒレを伸ばし、八本の腕のうち、比較的ダメージの少ない、よく動く三本を強引に抱え込む。トゥカラがそのままタコの腕を引っ張ると、灯台に張り付いていた赤いタコの巨体が、音を立てて地表に落ちた。
「沙羅ちゃん、俺をあの目の前まで、連れて行ってくれ!」
「ええっ?! 危ないで?!」
「頼む!」
「……しゃあないな! 信じるで、センセ!」
「行こう!」
沙羅が俺の前を走ってくれる。俺も、走り出した。飛来する赤い腕や、噴き出す墨の弾丸を、沙羅の刀が、美しい軌跡を描いて弾き飛ばす。
黒い雨の中を、俺たちは駆ける。
目の前に、小山のようなアッコロカムイの頭部が迫る。
腐った魚のような臭気が鼻をつく。
巨大な眼球が、俺を見下ろしていた。やはり、白く濁っている。
水晶体の白濁。
(進行した老人性白内障の所見……神も、老いるのか。それとも、人々の「老いへの恐怖」が、この神を病ませたのか)
――やるしかない。
俺は右手を、白濁した眼球にかざした。
意識を集中する。
「医業執行――光刃・灼創!」
俺の指先から、青白いレーザーのような光のメスが伸びた。
激痛が、俺の側頭部を貫いた。
吐き気がする。
指先が痺れる。
だが、止まれない。
(角膜切開……開始)
俺は、脳内で手順を反芻する。
目のレンズである、水晶体の前の部分を、光るメスで切開する。
アッコロカムイが悲鳴のような声を発し、暴れる。
「抑えてやる!」
トゥカラが叫ぶ。
濁った水晶体――目のレンズが、露わになっていく。
硬く、白く変質したタンパク質の塊。
(目を濁らせている、このタンパク質を砕き、吸い出す。通常ならば、超音波乳化吸引装置が必要な工程……)
脳が焼けるような熱さを帯びる。
俺は叫んだ。
「医業執行――水晶・破砕!!」
俺の手のひらから、超音波振動を帯びた光が、奔流となって放たれる。
キィィィィィィィン!
不快な高周波音が、周囲に響く。
白く濁った水晶体が、振動によって細かく粉砕されていく。
同時に、俺の視界がぐにゃりと歪んだ。
鼻から、温かいものが流れる。 鼻血だ。
現実の俺の脳が、限界を訴えている。
(あと少し……あと少しだ……!)
濁りが消え、眼球の奥にある、網膜の黒が見えてくる。
水晶体の入っていた、袋のような部位は、空っぽになった。
(このままでは、神は光を感じられても、像を結ぶことはできない……)
俺は、白い巨体に叫んだ。
「トゥカラ! 氷だ! 不純物のない、最高純度の、溶けない氷のレンズを作ってくれ!」
「あぁん? 氷のレンズぅ?!」
トゥカラは腕の一本を投げ飛ばしながら、吼え返した。
「眼に……この、水晶体を砕いた所に、入れるんだ! これくらいに曲がっていて……透明で、丸くて、硬い氷だ! お前の力ならできるはずだ!」
「……任せろ、俺は北海の王だぜ!」
トゥカラが大きく息を吸い込む。
その胸板が大きく膨らみ、周囲の空気が一瞬で凍りついた。
「久遠氷!」
ヒュオオオオオ!
トゥカラの口から、ダイヤモンドダストのような輝く吐息が噴き出される。 吐息は空中で渦を巻き、凝縮し、一つの透明な円盤を形成した。
それは、太陽の光を浴びて輝く、氷のレンズだった。
「受け取れェ!!」
トゥカラが、尾びれをバットのように振り、氷を弾く。
俺は手を伸ばす。
パシッ。
両手でなければ受け取れない大きさのそれは、凍傷になりそうなほど冷たいが、ガラスよりも澄んでいた。
「永遠に溶けない氷。上等だ」
俺はかじかむ手で、切開創から氷のレンズを滑り込ませる。
慎重に。呼吸を止めて。冷たい氷が、眼球の中へと吸い込まれていく。
レンズが、眼の中でゆっくりと広がり、固定される。
「……これでもう、迷わないはずだ」
俺はその場に膝をついた。
アッコロカムイの動きが、ぴたりと止まる。
巨大な眼球の中で、新しいレンズが、日差しを反射してキラリと輝いた。
レンズの下から現れたのは、濁りのない、山吹色に輝く瞳。
その瞳に、俺と沙羅、そして青い空が映り込んでいる。
神は、瞬きをした。
一度、二度。
まるで、初めて世界を見た赤子のように。
そして、ゆっくりと視線を巡らせ、傷ついたトゥカラと、疲れ果てた俺たちを見た。
アッコロカムイは、トゥカラに絡ませていた腕をゆっくりと解いた。墨の攻撃も、全くして来ない。赤錆色のタコの身体の色が、穏やかな桜色へと変化していく。
「……見えるように、なったんか?」
沙羅が、刀を下ろして呟く。
「ある程度、だろうけど。もともとタコは目がいい……濁った自前の目よりは、周りが見えて、海中生活に困らなくなるはずだ」
アッコロカムイは、俺たちに一礼するように、赤い頭を下げた。
そして、ゆっくりと身を翻した。
癒やされた神は、優雅に砂浜から海面へと滑り落ちていく。
ザパァン……
大きな波紋を残し、巨大な影は深海へと消えていった。
後には、静かな凪だけが残された。
「……行ったか?」
「ああ。家に帰ったんだろう」
俺は石畳に座り込み、袖で鼻血を拭った。
頭痛がひどい。
手足に力が入らない。特に、もともと痛めている左……。
(これが、命を削るということ……)
「センセー!」
沙羅の瞳は、興奮で輝いていた。
「すごいやん! あんなデカい神様を、斬らずに治すなんて!」
「……ただの、治療だよ」
俺は笑おうとしたが、頬が引きつっただけだった。
「でも、センセ、顔色が真っ白やで……」
沙羅の笑顔が曇る。沙羅の温かい手が、俺の額に触れる。
「攻撃はしとらんから、約束破りやないけど……無理したらあかんよ。ウチ、センセが倒れたら、どうしていいかわからん」
「大丈夫だ。少し、休めば治る」
俺は嘘をついた。
治らない。
削れた命は、二度と戻らない。
それでも、悪い気はしなかった。
「あれ……?」
視界が霞む。
激しい耳鳴りが、止まない。
「センセ!」
沙羅の声が、遠く聞こえた。
暗く薄れゆく意識の中で――灯台の頂上が、再び力強く光を放ち始めたのを、見たような気がした。
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