10
「おはようさん! 灯台、行こうや! トゥカラちゃんが待ってる!」
沙羅の、弾むような声。
桟橋で、真っ白なアザラシ――トゥカラが、朝日に輝く波間で、仰向けに寝転んでいた。
その、まんまるのお腹の上で、カモメが二羽、羽を休めている。
沙羅が俺の着物の袖を引く。
「おう、遅いぞお前ら! 潮目が変わっちまう!」
トゥカラが、腹の上のカモメをパタパタとヒレで追い払い、身を起こした。ぴょんと海面に飛び移り、青く光って、巨大化していく。
「悪い」
俺と沙羅は、トゥカラの背中に取り付けられた鞍に跨る。
革の感触と、その下にあるトゥカラの温かい体温。
まるで、巨大な生きる船だ。
「しっかり掴まってな! 目指すは西の果ての、忘れじの灯台だ!」
トゥカラが尾びれで力強く海面を叩く。
ドン! という衝撃と共に、俺たちは大海原へ躍り出た。
風が、頬を叩く。
流氷の海を抜け、景色は徐々に荒涼とした岩礁地帯へと変わっていく。
空の色も、澄んだ青から、少しずつ紫がかった灰色へと澱んでいくようだった。
「なあ、センセー!」
前の席で、沙羅が風に負けない大声を出す。
長い胡桃色の髪が、俺の顔にパシパシと当たる。
「灯台って、なんであんな寂しい場所に建ってるんやろなー?」
「……船が迷わないためじゃないか? 街の光がない場所にこそ、灯台の光が必要だから」
「ふーん。健気やなあ。誰も見てへんのに、ずっと光り続けて」
「誰も見ていないわけじゃない。迷っている船にとっては、唯一の救いだから……」
「見えてきたぜ! あれが『忘れじの灯台』だ!」
トゥカラの声で、俺は我に返った。
前方の海上に、鋭く突き出した岬があった。
波が荒々しく岩肌を噛み、純白の飛沫を上げている。
その断崖絶壁に、灯台が立っていた。石造りの台形の土台の上に、鮮やかな朱色の神社のような建物が乗っている建造物だ。光を発する灯ろう室に、今は光はない。
「トゥカラ。岬の付け根につけてくれ」
「……おいおい、なんか嫌な匂いがするぞ。古い血の匂いだ」
トゥカラが、黒く湿った鼻をひくつかせる。
浜辺に上陸した俺たちは、灯台へと続く、石畳の道を歩き始めた。
石段は苔むし、両脇には風化した地蔵が並んでいる。
風がないのに、ざわざわと草木が揺れる。
「ここ、気持ち悪いわ……」
沙羅が、不安げに俺の肩に身体を寄せる。
「大丈夫だ」
そう言いながらも、俺自身の心臓も、早鐘を打っていた。
灯台の根元から数メートルほどの地点までたどり着いた。
俺たちは息を呑んだ。
灯台の壁面に、無数の赤い、円形の跡が残されていた。
「なんや……これ」
その時だった。
――ザンッ
風切音と共に、空から、吸盤を持つ赤い腕が、鞭のように降ってきた。
石畳が砕け、土煙が舞う。
*
飛び退りながら、灯台を見上げる。灯台の光源部分、灯籠室を覆い隠すように、巨大な軟体動物が巻き付いている。それは、動脈血のような赤色をしていた。
「タコの形……海の賢者・アッコロカムイ?! 礼言華海の深くにいるはずなのに……」
器用に陸の上を滑り、攻撃を避けたトゥカラが、首らしき部位をかしげる。
「神様同士、話せば分からんの?!」
「無茶言うなよ!」
(灯台の影に隠れて、襲ってきた……知性ある、神だ)
八本の腕は、灯台を締め上げるように絡みついている。
その中央、頭部に当たる部分には、巨大な「目」が一つ、見開かれていた。金茶のその目は、白く濁った膜に覆われていた。
――ギョロリ。
濁った目が、俺たちの方を向いた。
ぬらりと赤く光る、巨大な腕が、再度、俺たちに伸びた。
しかし、その腕はなぜか俺たちではなく、俺たちの眼前の、灯台へ続く石畳を破壊する。
「剣業執行――翠柳・幻波!」
沙羅が水平に刃を振るうと、しだれ柳のような、線状の衝撃波が、短距離を飛ぶ。
緑に輝く波は、アッコロカムイの腕の一本を捉え、スパッと先端を切り落とした。
断面から、墨のような黒い体液が噴き出す。
「効いたか?!」
だが、切り落とされた腕は、地面でのたうち回った後、瞬時に再生を始めた。
そして、傷口から二股に分かれ、倍の数になって襲いかかってくる。
「増えた?! 嘘やろ!」
沙羅が顔をしかめる。
「切ると増えるんなら、物理で押すぜ! ……陸も、俺様の縄張りだ!」
トゥカラが咆哮する。体を丸めて弾みをつけ、ボーリングの球のように回転しながら突進した。
「氷塊突貫!」
ドゴォッ!
分厚い脂肪の鎧を纏った、トゥカラの体当たりが、迫りくるタコの腕に炸裂する。タコの腕は、少し動きが鈍ったように見えた。
「沙羅ちゃん、トゥカラ、時間を稼いでくれ! 俺が『診断』する!」
「合点承知! 頼むで、センセ!」
「盾になるぜ!」
二人が前線を支える間に、俺は右手をかざし、意識を集中させる。
視界が明滅し、世界が金色の構造図へと置換される。
同時に、側頭部を釘で打たれたような激痛が走った。
現実の肉体が悲鳴を上げている。
だが、止めるわけにはいかない。
「医業執行――神脈・透視!!」
アッコロカムイの巨大な体内。
通常ならば、神としての核――神脈の集中する弱点が、金色に輝いて見えるはずだ。
しかし。
「なっ……?」
光が見えない。
いや、光ろうとした瞬間に、アッコロカムイが、体の中心を、灯台の裏に隠した。
「自分が解析されていることを理解し、弱点を隠蔽した……? 賢いな」
内心、焦る。しかし、巨大な赤い腕に押されつつある前衛二人に、悟られるわけにいかない。
(まずい、どうしたら……あれ?)
ふと、違和感を感じた。
アッコロカムイは八本の腕を縦横無尽に動かし、沙羅とトゥカラを攻撃する。しかし、その攻撃は、妙に的を外している。
今も、トゥカラに伸びたはずの赤い腕が、脇にあった木をなぎ倒した。
(もしかして)
俺の視線は、あの白く濁った巨大な「目」に吸い寄せられた。
眼球の水晶体は、白く混濁している。
「……白内障か?!」
本来、透明であるはずの水晶体を構成するタンパク質「クリスタリン」が、変性し、凝集している。
「眼が見えなくなって、視界を失って……陸に上がってしまったのか……?」
俺が呟く。沙羅が、息を切らせて応えた。
「唯一の灯台の光にすがって、陸にまで来てしもたんか……なんや、可哀想やな」
「いや、混乱して、訳がわからなくなったんだろ」
俺は冷静に返した。
「トゥカラ! 頼む、タコを地上に引きずり下ろしてくれ! 倒す必要はない。きっと、治せば帰る!」
「治すって……あんな、暴れるデカブツを?!」
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