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「無意味で、無価値で、無機質で……。嫌いだったのにな、虚構の世界なんて」


 俺――夏目翔なつめ しょう、二十五歳――は、思わず呟いた。



 眼前に広がっていたのは、美しくも、どこか懐かしい風景だった。


 若緑豊かな、日本の里山。巨大な朱塗りの鳥居がいくつも連なり、澄み切った空の彼方へと続く道を作っていた。


 周囲には、古い日本家屋が、パラパラと見えた。そのさらに向こうには、季節が狂ったかのような、桜と紅葉が同時に色を競う、山々がそびえる。


 どこか遠くで鳴る、澄んだ風鈴の音。風が木々を揺らす音。



(文字通りの……極楽浄土)



 俺がいるのは、石畳の回廊。


 現実の俺は、北の大地の自宅で寝ているだけだが――ゲーム・アバターの俺は、鮮やかな紫色の着流しを纏ってピンと立っている。


 少数のプレイヤーが、のんびりと行き交っている。皆、着物や袴、あるいは作務衣といった和装だ。ほとんどが老人で、縁側でお茶を啜ったり、将棋を指したりして、穏やかな時間を過ごしている。


 俺の目は、風景でなく、縁側の老人たちに向いていた。


 あのお爺さんは、呼吸が頻繁だ。あの女性は肘が動かしづらそうだ――全員、何らかの疾患を抱えている。


 ――医療用VRゲーム・極楽。死を待つ人間の、最後のコミュニティ。


(こんな場所に、あの人はいるのか……)


 俺が追い込んだ、あの人が。



 その時だった。


 空気が、震えた。


 地面が、唸りを上げた。


 村の人々が、悲鳴を上げて、空の一点を指さす。


「来たぞ!」


「"神"のお成りだ!」


 見上げると、空に連なる鳥居の向こうから、ビル数階分はありそうな、巨大な影が姿を現していた。



 異形だった。数十本の腕を持つ、巨大な深い緋色の蟹。


 脚の一本一本が、錆びた刀や折れた槍を握っていた。



 プレイヤーの老人たちが、慌てて建物の中に駆け込んでいく。


 俺も駆け出す。


 ふと、逃げ遅れた老婆を、目の端に捕らえた。


(……ごめん。俺には、貴方を助けている時間は、無いんだ)

 

 俺はそのまま、走り去ろうとした。だが、老婆が転んだ音に、俺の足は、止まった。


「ったく、俺の貴重な一分一秒を……!」


 俺は振り返り、巨大な蟹を、もう一度真正面から見すえた。


(脚の関節部に殻の隙間。あの構造は、甲殻類の脱皮線に似ている。もし、あそこを……)


 武器になりそうなものを探し、道端の石を掴んだ。


 しかし、俺が石を投げる前に、蟹の神がその脚の一本を振り下ろした。狙いは――俺が立つ石畳。


(――間に合わない!)


 衝撃に備えて、目を固く閉じる。


 しかし、痛みは来なかった。代わりに、鋭い風切り音が響いた。



 そっと目を開ける。


 俺の目の前に、誰かが立っていた。


 小さな後ろ姿。風に翻る、色鮮やかな桜色の振り袖と、藍染の袴。シュルシュルと、風を切った手裏剣が、蟹の神の脚を切り落とし、その人物の手に舞い戻る。


「あんた、余命なんぼ?」


 その人物が、振り返って問うた。


 俺は、息を呑んだ。


 美しい少女だった。 年の頃は、十代後半だろうか。 陽光を透かす、艶めいた胡桃色の髪。雪のように白い肌。少しだけ青みがかった、大きな黒の瞳。ハーフなのだろうか、西洋と東洋の美が、奇跡的な均衡で溶け合った顔立ち。



「……半年」


 唐突な問いに現実感が無いまま、反射のように、俺は答えた。


「ふうん? "お陀仏"は嫌って顔やな。珍しく若いし無理もないか……助けたるわ」


 澄んだ声が、柔らかな関西弁を紡ぐ。


 少女は、再び神に向き直った。腰の日本刀を、静かに引き抜く。鞘から現れた刀身は、月光を凝縮したような、冷たい輝きを放っていた。


「さあ、始めよか。今日の"お勤め"を」


 次の瞬間、少女の姿が消えた。いや、違う。常人には目で追えない速度で、地を蹴ったのだ。


 少女は、空を舞った。振り袖の袖が、羽のように翻る。まるで、少女にだけかかる重力が軽くなったかのように、鳥居を足場にして、神の巨体へと駆け上がっていく。



「沙羅ちゃん!」


「今日も絶好調だなあ……」


 建物の陰から見ている老人たちが呟く。先程の逃げ遅れた老婆が、立ち上がって建物に駆け込むのが見えた。



 沙羅。それが、少女の名前らしい。


 沙羅の太刀筋は、舞踊のようだった。神が振り下ろす無数の腕を、ひらり、ひらりとかわしていく。そして、一瞬の隙を突いて、閃光のような斬撃を叩き込む。


「剣業執行――百花・一撃ひゃっか・いちげき!」


 沙羅が叫ぶと、どこからともなく、色とりどりの光の粒子が生まれ、沙羅の刀の元へと集い始める。


 光のひとつひとつが、花の形と色をしていた。


 春を告げて儚く散る、桜の薄紅。


 夏を咲き誇る、桔梗の紫。


 秋風に揺れる、菊の山吹色。


 冬を耐えて咲く、寒椿の真白。


 そして、死と再生を司る彼岸花の燃えるような、火色。



 沙羅が、楽し気に刀を振り下ろす。


 甲高い金属音と共に、神の脚の一本が、関節から切断された。プログラムの残骸が……光の粒子が、夜空の蛍のように舞い散る。


 沙羅は止まらない。神の巨体を、縦横無尽に駆け巡る。太刀を振るうたびに、神の脚が、次々と斬り飛ばされていく。



 ついに、神は最後の一本を失った。


 沙羅は、神の眉間にあたる部分に、ふわりと着地した。太刀を構える。


「これで、終いや。――刹那・散華せつな・さんげ


 沙羅が渾身の一撃を蟹の神に叩きつけると、閃光が、世界を白く染め上げた。


 光が収まった時、そこにはもう、神の姿はなかった。



 人々が物陰から、空高い鳥居の上の英雄に、喝采を送る。


 沙羅は、ふわりと地上に舞い降りると、刀を鞘に納めた。



(圧倒的――だけど。左前腕の振りと左足の動きが、少しだけ右手足に遅れてる……?脳か頸髄の障害……?)



 そして、沙羅がふぅ、と一つ、小さなため息をついた、次の瞬間。


 沙羅の体が、ぐらり、と傾いだ。


 何の攻撃も受けていないというのに、まるで、糸が切れた操り人形のように。少女の華奢な体が、石畳の上に崩れ落ちていく。



「……え?」


 俺の口から、間抜けな声が漏れた。物陰の老人プレイヤーたちは、誰一人、駆け寄ろうとしない。ただ、悲しげな、そしてどこか諦めたような表情で、倒れた少女を見つめている。


「沙羅ちゃんにも、とうとう……」


「"お迎え"が、来たのか」


 訳が分からなかった。 なんだ、その言葉は。


 分かるのは、目の前で、人が倒れているという事実。 たとえ、ここが仮想世界であろうと。たとえ、倒れている少女が、生身の人間ではない、ただのアバターであろうと。



(そう……アバターだ。現実で人が倒れてるわけじゃない。俺の時間は、あと約千五百万秒しかないんだぞ。……助けてもらっておいて悪いけど、俺の時間は、1秒だって無駄にできないんだ。ここで人命救助なんてしてたら、『死ぬまでにやりたい10のことリスト』のスケジュールが全部狂うし……)


 逡巡する俺の脳を裏切って、俺の足は駆け出していた。


(リストの11個目に、『美少女を助ける』を追加すればいい……!)


 石畳を蹴り、倒れた沙羅の元へ駆け寄る。 うつ伏せに倒れた体を、そっと仰向けにした。 閉じられた瞼は、ぴくりとも動かない。白い頬に、血の気はなかった。


「聞こえるか!」


 肩を叩くが、反応はない。 少女の細い手首の親指側と、首筋に指を当てる。脈がない。 胸を観察するが呼吸の気配もない。


(心停止……!)


 ゲームの世界ではある、現実で死ぬのとは異なるのだろう。だが、この少女は、今、俺の眼の前で死にかけている。


 心臓マッサージを開始した。垂直に、深く、一定のリズムで。研修で叩き込まれた手技を、無心で繰り返す。 自分の心臓が、早鐘のように鳴っていた。汗が、額から顎を伝って、石畳に落ちる。


「戻ってこい……!」


 祈るような気持ちで、圧迫を続ける。 周囲の老人たちが、息を呑んで俺の行動を見守っているのが、気配で分かった。


 頼む。 動いてくれ。


 その願いが、通じたのだろうか。


 沙羅の唇が、小さく開いた。


「……こほっ、ごほっ……!」


 激しい咳と共に、沙羅の体が大きく震える。 ゆっくりと、青みがかった瞳の瞼が、持ち上げられた。 焦点の合わない瞳が、宙を彷徨う。


(良かった、助かった)


 俺の全身から、力が抜けていく。


 俺は、沙羅に向かって、ぎこちない笑みを浮かべた。


「大丈夫か。気分は……」


 沙羅のぼんやりとした目が、はっきりと俺を捉えた。沙羅が、目を見開いた。


「きゃああああっ、なんでうちの胸、触わってんのやあああっ」


 俺は、慌てて、沙羅の豊満な胸の中心から、両手を離した。

少しでも続きが気になると思って頂いた方は、ブックマーク頂ければ幸いです。

本日より4日間、1日複数話、定期的に投稿します。

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