救われなかった名前
朝、名前が呼ばれなかった。
誰かが生きていて、
誰かが死んでいる。
それを確かめるために、
長老は名簿を手にしていた。
一人ずつ、
名前が呼ばれる。
返事がある。
生きている。
返事がない。
沈黙が残る。
それだけの作業だった。
⸻
「……リナ」
呼ばれても、返事はなかった。
その名前は、
誰もが知っていた。
働き者で、
口数は少なく、
夜になると子どもに昔話を聞かせていた女。
戦える歳でも、
逃げ切れる身体でもなかった。
「……次だ」
長老はそう言って、
名簿をめくった。
誰も異議を唱えなかった。
⸻
昼過ぎ、
俺は瓦礫の向こうで、
彼女の息子を見つけた。
まだ幼い。
だが、泣いてはいなかった。
「母さんは?」
答えなかった。
答えられなかった。
代わりに、
昨夜のことを話そうとした。
敵が来たこと。
剣を取ったこと。
村が守られたこと。
だが、どの言葉も、
彼の前では空虚だった。
⸻
「名前、呼ばれなかった」
ぽつりと、彼が言った。
それは事実だった。
だが、
その一言が、胸に刺さった。
呼ばれなかったから、
死んだのではない。
死んだから、
呼ばれなかった。
その順番を、
誰も気にしていなかった。
⸻
夕方、
彼女が倒れていた場所を確認した。
逃げ遅れたわけではない。
戦おうとした形跡もない。
ただ、
そこにいた。
それだけだった。
俺は、
その場所に立って、
初めて理解した。
俺が守ったのは、
村ではない。
**「ここに残ることを選んだ者たち」**だった。
選ばなかった者たちのことは、
最初から考えていなかった。
⸻
夜。
焚き火のそばで、
また名前が語られた。
だがそれは、
英雄の名前だった。
「彼がいなければ、
もっと死んでいた」
「正しい判断だった」
その言葉は、
確かに間違ってはいない。
だが、
一つだけ、
抜け落ちているものがあった。
救われなかった者の名前。
その名は、
語られなかった。
⸻
俺は口を開きかけた。
だが、
何を言えばいいのか分からなかった。
「俺が選んだせいだ」と言うのか。
「仕方がなかった」と言うのか。
「次は違う」と約束するのか。
どれも、
彼女には届かない。
結局、
俺は何も言わなかった。
その沈黙は、
やがて正しさとして受け取られた。
⸻
その夜、
名もない墓が作られた。
名前は刻まれなかった。
石に刻めば、
理由を問われるからだ。
なぜ死んだのか。
なぜ守られなかったのか。
それらの問いは、
この村には重すぎた。
だから、
名前は残さなかった。
⸻
だが、
俺は忘れなかった。
忘れられなかった。
英雄と呼ばれるたび、
救われなかった名前が、
一つずつ増えていく気がした。
そして、
気づいてしまった。
このままでは、
選択の意味は、
勝った側の言葉だけで固定される。
救われなかった名前は、
次の世代には、
最初から存在しなかったことになる。
それが、
いちばん残酷だった。
⸻
この夜、
俺は知った。
血に残るのは、
剣を取った記憶ではない。
魂に残るのは、
呼ばれなかった名前の重さだ。
そしてそれは、
必ず、
次の世代に渡ってしまう。




