沈黙の相続
疑問は、
浮かんでいた。
はっきりとした形ではない。
言葉にすれば、
また空気が変わる。
それが分かっていた。
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集まりの場で、
いつもの判断が下される。
前と同じ。
迷いはない。
その瞬間、
胸の奥で何かが
わずかに引っかかった。
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「それで、本当に――」
言葉が、
喉まで上がった。
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だが、
止める声はなかった。
誰も、
こちらを見ていない。
期待も、
警戒もない。
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だから、
言わなかった。
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不思議なことに、
世界は何も変わらなかった。
空気は滑らかに流れ、
話は次へ進む。
誰も心配しない。
誰も守ろうとしない。
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楽だ。
その感覚に、
自分で驚いた。
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疑問を口にしたときより、
今の方が
ずっと楽だった。
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家に戻ると、
父がいた。
いつもの場所で、
いつものように。
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何かを言われると
思った。
だが、
何も言われなかった。
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ただ、
目が合った。
一瞬だけ。
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そこに、
肯定も否定もない。
だが、
分かっている。
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ああ、
これがそういうことか。
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父は、
こうして生きてきたのだ。
語らず、
抗わず、
空気を乱さず。
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それは、
逃げではなかった。
弱さでもなかった。
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最も摩耗しない生き方
だったのだ。
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疑問を口にすれば、
正しさは揺らぐ。
揺らげば、
誰かが不安になる。
不安は、
この世界では
最も避けるべきものだ。
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だから、
語らない。
それだけのことだ。
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夜、
一人で考えた。
自分は、
今、何かを
失ったのだろうか。
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だが、
喪失感はなかった。
代わりに、
安定がある。
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守られていない。
だが、
外されてもいない。
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沈黙は、
扉だった。
閉じる扉ではない。
余計な部屋に
入らずに済む扉だ。
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気づけば、
疑問は
形を失っていく。
浮かんでも、
すぐに溶ける。
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それが、
自然になっていく。
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父の背中を、
思い出す。
何も語らず、
だが常に
正しい側にいる背中。
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自分も、
同じ位置に立っている。
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その事実を、
否定しなかった。
否定する理由が、
もうない。
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沈黙は、
誰かから
奪われたものではない。
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自分で受け取ったものだ。
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それが、
この家で
受け継がれてきたもの。
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剣でも、
言葉でもない。
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沈黙という作法。
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その夜、
初めて分かった。
これは、
終わりではない。
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始まりだ。
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語らない者として、
正しさを
守る側に回る。
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そうして、
この沈黙は
次の場面へ
連れていかれる。
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誰にも見えないまま。
誰にも責められないまま。
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沈黙は、
こうして相続される。




