逃げなかった理由
朝になると、村は静かだった。
燃え残った柱から、かすかな煙が上がっている。
夜の騒ぎが嘘だったかのように、鳥の声だけが響いていた。
俺は、剣を洗っていた。
川の水に血が溶ける。
赤はすぐに薄まり、やがて消えた。
――消えるのは、早い。
それが、妙に腹立たしかった。
⸻
「どうして逃げなかったんだ?」
背後から声がした。
振り返ると、村の長老が立っていた。
生き残った者の中で、最も多くを失った男だ。
「分からない」
俺は正直に答えた。
「考える前に、身体が動いた」
長老はしばらく黙っていた。
そして、首を振った。
「それじゃ困る」
その言葉に、胸が少しだけ軋んだ。
⸻
「理由がいる。
あれは“正しい行為”だったと、皆が納得できる理由が」
俺は言葉を探した。
だが、何も見つからなかった。
正義。
勇気。
忠誠。
どれも、後から貼り付ける言葉にしか思えなかった。
「理由は、あとでいい」
長老はそう言って、川の向こうを見た。
「だが、理由がなければ、この村は持たない」
そのとき初めて、俺は気づいた。
俺の選択は、
俺だけの問題ではなくなっていた。
⸻
昼頃、見知らぬ者たちが村に入ってきた。
武装しているが、敵ではない。
整った足並み。
無駄のない動き。
「確認に来た」
そう名乗った男は、
夜の出来事を淡々と書き留めていった。
•何人が死んだか
•何が守られたか
•誰が剣を取ったか
俺の前で、男は一瞬だけ手を止めた。
「君か」
問いではなかった。
確認だった。
⸻
「なぜ戦った?」
再び、同じ問い。
俺は答えなかった。
答えられなかった。
男は気にした様子もなく、
紙に何かを書き足した。
「理由不明。
だが結果は有効」
その一文が、
なぜか強く耳に残った。
⸻
夜。
焚き火のそばで、
子どもたちが俺を見ていた。
恐れでも、憎しみでもない。
期待に近い目。
「ねえ」
一人が聞いた。
「また来たら、どうするの?」
俺は、すぐに答えられなかった。
逃げなかったからといって、
次も逃げないとは限らない。
だが、
そう答えることはできなかった。
「……分からない」
子どもは少し困った顔をして、
それでも言った。
「でも、昨日は逃げなかった」
その言葉は、
俺の胸に重く落ちた。
⸻
その夜、眠れなかった。
目を閉じると、
問いだけが浮かぶ。
なぜ逃げなかったのか。
次はどうするのか。
そして、
それを誰が決めるのか。
俺か。
村か。
それとも、
今日来た“確認の男”たちか。
⸻
理由は、まだなかった。
だが、
理由が求められ始めていることだけは、
はっきり分かっていた。
このまま黙っていれば、
誰かが代わりに理由を作るだろう。
その理由は、
俺のものではない。
だが――
一度生まれた選択は、
もう取り消せない。
その夜、
俺は初めて思った。
逃げなかったことよりも、
その理由を他人に渡してしまうことの方が、
よほど怖いのだと。




