語られない真実
真実は、
隠されたから消えるわけではない。
語られなかったから、
存在しなかったことになる。
⸻
子は、
少しずつ言葉を覚え始めていた。
意味は分からない。
だが、
音を真似る。
それだけで、
家の中は明るくなる。
⸻
ある日、
子が剣の箱を指さした。
「あれ」
短い声だった。
だが、
その一音で、
胸の奥がざわついた。
⸻
「あれはね……」
言いかけて、
言葉が止まった。
剣の話をすれば、
あの夜の話になる。
あの夜の話をすれば、
迷いの話になる。
迷いの話は、
この家に似合わない。
⸻
「大事なものだ」
俺は、
それだけ言った。
子は、
納得したのか、
していないのか分からない顔で、
視線を外した。
⸻
そのとき、
初めて思った。
今、
一つ語らなかった。
⸻
それは、
嘘ではない。
だが、
真実でもない。
⸻
村の子どもたちが、
家の前で遊んでいた。
誰かが言う。
「英雄って、
どんな人だったの?」
問いは、
子に向けられていた。
⸻
子は、
こちらを見る。
俺は、
すぐに答えなかった。
代わりに、
別の大人が言った。
「勇敢で、
迷わない人だよ」
皆がうなずいた。
それで話は終わった。
⸻
迷わない。
その言葉が、
自然に通ってしまう。
違和感を覚える者は、
もういない。
⸻
夜、
妻が言った。
「難しい話は、
まだ早いわ」
その言葉は、
優しかった。
責めてもいない。
命じてもいない。
ただ、
順番を整えただけだ。
⸻
だが、
その順番は、
いつ来るのだろう。
今ではない。
少し先でもない。
気づけば、
「もう必要ない」
と言われる日が来る。
⸻
語られない真実は、
一度に消えるわけではない。
こうして、
少しずつ
話す機会を失っていく。
⸻
俺は、
あの夜のことを
思い出そうとした。
血の匂い。
震える手。
呼ばれなかった名前。
どれも、
はっきり残っている。
だが、
それを言葉にする準備が、
この家にはない。
⸻
語れば、
空気を壊す。
語れば、
不安を持ち込む。
語れば、
「なぜ今さら」と
問われる。
⸻
だから、
語らない。
理由は、
いくらでもある。
⸻
ある晩、
子が熱を出した。
慌てて看病し、
夜が明ける頃には、
落ち着いた。
それだけの出来事だ。
⸻
だが、
その夜、
俺は思った。
もし、
この子を失ったら。
そのとき、
あの夜の話を
語らずに済んだことを
後悔するだろうか。
⸻
答えは、
すぐに出なかった。
それが、
一番の答えだった。
⸻
語られない真実は、
誰かを守る。
少なくとも、
そう信じられている。
子を。
家を。
村を。
⸻
だが、
同時に奪う。
迷う権利を。
疑う余地を。
選び直す可能性を。
⸻
俺は、
気づいてしまった。
語らないという選択は、
次の世代の選択肢を
先に減らす行為だ。
⸻
それでも、
今は語らない。
語れない。
語る理由より、
語らない理由の方が
多すぎる。
⸻
子は、
何も知らずに眠っている。
その寝顔は、
穏やかだ。
この穏やかさを
壊さないために、
真実は
今日も語られない。
⸻
語られない真実は、
嘘よりも強い。
なぜなら、
反論されないからだ。
⸻
そして、
反論されない真実は、
やがて
真実だったことすら
忘れられる。
⸻
この夜、
また一つ。
真実は、
未来へ渡る道を
閉ざされた。
音もなく。
責められることもなく。




