正しい家
最初に変わったのは、
呼び方だった。
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「村長の家」
そう呼ばれていたはずの家が、
いつの間にか
「正しい家」と呼ばれるようになっていた。
誰が言い始めたのかは、
分からない。
だが、
誰も否定しなかった。
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客が来ると、
決まってこう言われる。
「こちらが、
あの英雄の家です」
家そのものが、
説明になっている。
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中に入れば、
静かだ。
争いもなく、
声を荒げる者もいない。
それは、
努力の結果でもあった。
だが同時に、
期待に応え続けた結果でもあった。
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妻は、
よく気がつく。
言葉は少なく、
立ち居振る舞いも穏やかだ。
誰かが困っていれば、
さりげなく支える。
それを見て、
人は安心する。
「やはり、
正しい家だ」
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その言葉を聞くたび、
胸の奥がわずかに重くなる。
正しい、とは何だ。
誰が決めた。
だが、
今さら問い直す者はいない。
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子が、
少しずつ大きくなってきた。
まだ言葉も覚束ない。
だが、
すでに注がれる視線は違う。
「この子は、
立派になる」
誰も、
疑っていない。
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家の中では、
気をつけることが増えた。
大きな声を出さない。
感情的にならない。
迷いを見せない。
それは、
誰かに命じられたわけではない。
家がそうあるべきだと、
皆が思っているだけだ。
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ある日、
子が泣き止まなかった。
理由は分からない。
ただ、
泣き続けていた。
外から、
気配がした。
「……大丈夫だろうか」
その声は、
心配だった。
だが同時に、
確認でもあった。
正しい家は、
乱れない。
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俺は、
子を抱き上げた。
泣き声は、
やがて収まった。
その瞬間、
胸に浮かんだ考えに
自分で驚いた。
――よかった。
家が乱れずに済んだ。
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いつから、
こうなったのか。
子をあやす理由が、
愛情だけでなく、
家を守るためになっている。
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村の会議で、
誰かが言った。
「まず、
あの家に聞いてみよう」
それは、
相談ではない。
基準の確認だ。
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家は、
判断を生む場所ではなくなった。
判断が
正しいかどうかを
測る物差しになっていた。
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俺は、
はっきりと理解した。
正しさは、
個人から切り離された。
次に、
家に固定された。
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この家に生まれた者は、
最初から
「正しい側」に立たされる。
選ぶ前に、
位置が決まる。
それは、
楽でもある。
だが、
逃げ場がない。
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夜、
家の中を見回した。
整っている。
静かだ。
安心できる。
それでも、
思ってしまう。
もし、
この家で
間違いが起きたら。
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そのとき、
何が壊れるのか。
家か。
正しさか。
それとも――
血そのものか。
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正しい家は、
強い。
だが同時に、
折れるときは、
一気に折れる。
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この家は、
もう俺一人のものではない。
妻のものでもない。
子のものでもない。
村の安心そのものだ。
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その重さを、
子はまだ知らない。
だが、
いずれ知る。
何も選ばなくても、
選ばされていることを。
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正しい家が生まれた日。
それは、
血が「期待の容器」になった日だった。
そしてこの容器は、
次の世代へ、
静かに、
確実に渡されていく。




