沈黙の選択
その日は、
答えを求められる出来事が重なった。
小さな争い。
判断のつかない問題。
どちらも急ぐ必要はなかった。
だが、
皆は俺を見た。
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「どうすればいい?」
問いは、
もう自然に俺へ向かってくる。
英雄だから。
模範だから。
間違えられない人間だから。
そういう理由で。
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俺は、
すぐに答えなかった。
それだけで、
空気が張りつめた。
「……考えている」
そう言おうとしたが、
やめた。
考えている、という言葉すら、
答えとして消費されると
分かっていたからだ。
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沈黙が落ちた。
長くはない。
ほんの数呼吸。
だがその間、
皆は待っていた。
正解を。
安心を。
責任を引き取ってくれる言葉を。
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そのとき、
俺ははっきり理解した。
ここで何かを言えば、
それは次の型になる。
•英雄はこう言う
•正しい人間はこう判断する
•間違えない人間は迷わない
そうやって、
俺の言葉は
俺から離れていく。
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だから、
俺は言わなかった。
理由も、
判断も、
結論も。
ただ、
沈黙した。
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最初に動いたのは、
周囲だった。
「……じゃあ、今日は決めないか」
「時間を置こう」
小さな声で、
誰かが言った。
それは、
今までなかった反応だった。
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皆は戸惑っていた。
英雄が黙る。
模範が答えない。
間違えられない人間が、
判断を放棄する。
それは、
想定されていない事態だった。
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長老が、
俺を見た。
責める目ではない。
困惑と、
わずかな恐れ。
「……何か言うことはないのか」
俺は首を振った。
それだけだった。
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その瞬間、
空気が少しだけ変わった。
安心でも、
不安でもない。
責任が宙に浮いた空気だ。
誰かが引き受けなければ、
決まらない。
だが、
それを俺がやらない。
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その夜、
一人で考えた。
沈黙は、
逃げだろうか。
英雄として、
無責任だろうか。
だが、
別の考えも浮かんだ。
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もし、
俺が答え続ければ。
この村は、
「考えなくていい場所」になる。
皆は楽になる。
だが、
考える力を失う。
それは、
守ることではない。
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沈黙は、
拒絶ではなかった。
放棄でもなかった。
問いを、
元の場所に戻す行為だった。
答えるべき人間に。
迷うべき時間に。
選ぶべき場に。
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俺は思った。
この沈黙は、
英雄としては失敗かもしれない。
だが、
次の世代のためには、
必要な選択だ。
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剣を取った夜、
俺は逃げなかった。
だが今夜、
俺は答える役から逃げなかった。
それは、
初めて自分の意思で選んだ、
「何もしない」という行為だった。
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この沈黙が、
どう語られるかは分からない。
無責任と呼ばれるかもしれない。
弱さと解釈されるかもしれない。
だが、
一つだけ確かなことがある。
この瞬間、
選択は再び、
俺一人のものではなくなった。
それを戻した。
ただ、それだけだ。




