血が意味を持った夜
人は、選ばれたときに物語の中に入るのではない。
逃げなかったときに、入ってしまうのだ。
その夜、俺は逃げなかった。
理由はない。
勇気でも、忠誠でも、正義でもなかった。
ただ、足が動かなかった。
⸻
村の外れで火が上がったとき、
誰かが叫んだ。
「もう駄目だ、捨てろ!」
捨てる――
家を。
畑を。
動けない者を。
正しい判断だった。
生き延びるためには、そうするしかなかった。
俺も分かっていた。
頭では。
それでも、身体は剣を取っていた。
⸻
最初の一撃で、相手が倒れた。
それが誰だったのかは覚えていない。
覚えているのは、
血の感触だけだ。
温かく、重く、
皮膚にまとわりつくような現実。
恐怖はあった。
だが同時に、奇妙な確信もあった。
――これは、俺一人の行為じゃない。
そう思った瞬間、
胸の奥に、言葉にならない重さが生まれた。
⸻
戦いは終わった。
村は残った。
だが、
助けられなかった者も確かにいた。
泣き声が夜に溶けていく中で、
俺は初めて理解した。
守るとは、
誰かを選ぶことではない。
誰かを選ばなかった責任を引き受けることだ。
その責任は、
誰にも渡せないはずだった。
この夜までは。
⸻
夜明け前、
剣を地面に置いた。
刃にこびりついた血は、
もう乾き始めていた。
ただの鉄だ。
もう何の意味もない。
――そう思おうとした。
だが、なぜか分かってしまった。
この選択は、
俺が死んでも終わらない。
名前も、理由も、
正しくは伝わらないだろう。
それでも、
いつかどこかで、
同じ場所に立たされた誰かが、
同じように迷い、
同じように逃げない気がした。
⸻
血とは、
生まれを示すものではない。
魂とは、
記憶のことでもない。
この夜、俺は知った。
血とは、選択の痕跡だ。
魂とは、次に渡ってしまう問いだ。
それを祝福と呼ぶ者もいるだろう。
呪いと呼ぶ者もいるだろう。
だが、確かなことが一つある。
この瞬間、
世界に――
継承が生まれた。




