ただいま、そして、いってきます
あれから、半年が過ぎた。『アオゾラマート東新宿三丁目店』には、変わらない日常が流れている。時折、あの事件を面白おかしく記事にしたネットニュースのリンクが送られてくるが、店の誰もそれを気にする者はいなかった。
「いらっしゃいませー!」
夕方のピークタイム。健司は、少しだけ低くなったが、よく通る声で客を迎える。その動きには、かつてのような硬さも、無駄な鋭さもない。
ごく自然に商品をスキャンし、温かいものと冷たいものを分け、客の顔を見て「ありがとうございました」と微笑む。
彼はもう、レジの前で小銭の計算にパニックを起こす元・英雄ではなかった。
「赤城さん、2番レジ応援お願いします」
「はい、ただいま」
玲奈からの指示に、健司は澱みなく応じる。最近入った新人バイトの高校生は、健司のことを「ちょっとカタブツだけど、頼りになる先輩」だと思っているらしい。
彼がかつて異世界を救った剣聖で、数ヶ月前まで法的に死んでいたことなど、知る由もなかった。
『アルカナ・ソサエティ』は、あのネット炎上とリサポからの情報提供が決め手となり、警察の捜査対象となったらしい。預言者も姿を消したと、先日安田から連絡があった。だが、健司にとって、それはもう遠い世界の出来事だった。
バイトの休憩中、健司は屋上で缶コーヒーを飲んでいた。ポケットの中のスマートフォンには、彼自身の名義で契約した銀行のアプリが入っている。
風呂なしのアパートも引き払い、今はもう少しマシな部屋に住んでいる。失われた十年と、取り戻した日常。その重みを、彼は静かに噛み締めていた。
「何してるんですか」
声の主は、玲奈だった。彼女は健司の隣に立つと、同じように自販機で買ったお茶を一口飲んだ。
「別に。……平和だな、と思って」
「平和が一番ですよ」
玲奈は、以前より少しだけ柔らかい表情をするようになった。
「昔は、剣を振るうことだけが、何かを守る唯一の方法だと思っていた」
健司は、独り言のように呟いた。
「でも、違ったんだな。ルールを学び、人を信じ、頭を下げること。そういう、一見すると弱いことの方が、ずっと強い力になる時がある。あんたが、教えてくれた」
「……別に。マニュアル通りやっただけです」
ぶっきらぼうに答える彼女の耳が、少しだけ赤くなっていることに、健司は気づかないふりをした。
本当の強さとは、何かを破壊する力ではない。目の前にある、この穏やかな日常を守り抜く力のことだ。健司は、十年という遠回りをして、ようやくその答えにたどり着いた。
数日後。健司は店長室に呼ばれていた。
「赤城くん。お疲れさん。……どうだ、うちの正社員登用試験、受けてみないか?」
店長は、少し照れくさそうに言った。
「お前さん、真面目だし、根性あるからさ。推薦しといてやるよ」
健司は、一瞬きょとんとした後、深く、深く頭を下げた。
「はい。よろしくお願いします」
そして、さらに数週間後。健司は、慣れない手つきでネクタイを締めながら、鏡の前に立っていた。異世界でどんな豪華な礼装を着るよりも、このリクルートスーツの方がよほど窮屈で、そして誇らしかった。
もう、彼の顔に「剣聖」の面影はない。そこにいるのは、少し緊張した面持ちで、新しい挑戦に臨もうとしている一人の青年、「赤城健司」だった。
玄関のドアを開け、朝の光の中に一歩踏み出す。彼は「コンビニ店員・赤城健司」として、正社員登用試験の面接会場に向かっていた。
「俺の新しい冒険が、始まる」




