預言者、そして聖域への宣告
玲奈からの初めての承認。それは、健司にとって魔王を討伐した時の喝采よりも、ずっと心に沁みるものだった。
彼は「剣聖」ではない。ただの「コンビニ店員」として、ほんの少し、この世界に認められたのだ。その小さな事実が、健司の足元を確かなものに固めていく実感があった。
バイトを終え、夜の冷たい空気が火照った身体に心地いい。店の裏口で、今日の反省点を頭の中で反芻していると、ふと、気配を感じた。闇に溶けるように、一人の男が立っていた。
先日の、奇妙な質問をしてきた客ではない。だが、同質の、底が見えない不気味さを漂わせている。身なりは洗練されたスーツ姿。しかし、その存在感は周囲の闇を一層濃くしているようだった。
「初めまして、と言うべきでしょうか。“剣聖”赤城健司」
男は、まるで古い友人に語りかけるような、穏やかな口調で言った。健司の全身が、瞬時に戦闘態勢へと移行する。目の前の男は、ただ者ではない。
「……誰だ」
「私は“預言者”。あなたの神話を、誰よりも理解する者です」
“預言者”。スマホに届いたメッセージの送り主。健司は息を呑んだ。
「先日、我々の調査員があなたの“聖域”を訪れました。実に興味深い結果でしたよ。あなたは我々の計画を、マニュアルという最も原始的なルールで防いでみせた。帰還者が、これほど早く現代社会の防衛術を体得するとは。素晴らしい適応能力です」
男の言葉は、健司の疑念を確信に変えた。先日の不審な客は、やはりこいつらの差し金だったのだ。
「一体、何が目的だ」
「目的、ですか。それは、この陳腐で退屈な世界を、より刺激的で真理に近い場所へと“更新”することです。そして、そのためにはあなたの力が必要不可欠なのです」
預言者は一歩、健司に近づいた。その目には、狂信的な光が宿っていた。
「あなたも気づいているはずだ。この世界に、英雄の居場所はない。魔王を討伐したその腕で、あなたは今、商品のバーコードをスキャンしている。なんと滑稽なことか! あなたは檻の中で小銭を数えるために生まれてきた獅子ではない!」
その言葉は、健司が心の奥底で感じていた葛藤そのものだった。市役所での無力感、社会との断絶。預言者は、その傷口を的確に抉ってくる。
「我々と来なさい、剣聖。我々『アルカナ・ソサエティ』こそが、あなたの真価を理解し、あなたにふさわしい舞台を用意できる唯一の組織だ。失われたあなたの神話を、ここで終わらせてはならない」
甘美な誘惑だった。この手を取れば、戸籍の問題も、社会からの疎外感も、全て解決するのかもしれない。一瞬、健司の心は大きく揺れた。
だが――彼の脳裏に浮かんだのは、異世界での栄光ではなかった。栄養ドリンクを差し出してくれた店長のしわくちゃの笑顔。そして、「完璧でした」と、ほんの少しだけ表情を和らげた玲奈の顔。
そうだ。俺はもう、神話の登場人物じゃない。
「……断る」
健司の口からこぼれたのは、自分でも驚くほど、静かで、確固たる拒絶の言葉だった。
「あんたの言う通りかもしれない。俺は、この世界じゃただの役立たずだ。小銭の計算もできないし、敬語もまともに使えない。だがな……」
健司は、店の窓から漏れる温かい光に目を向けた。そこには、黙々と雑誌の整理をする玲奈の姿が見える。
「俺はもう剣聖じゃない。時給1200円のバイトだ。神話なんて大層なものはいらない。俺はここで……ただの“赤城健司”として生きたいんだ」
それは、過去の英雄「剣聖」との、完全な決別の宣言だった。
預言者は、しばらく無言で健司を見つめていたが、やがて、心底残念そうにため息をついた。
「……そうですか。実に、実に残念だ。檻を愛することを選んだ獅子に、未来はない」
その瞬間、男の纏う空気が、穏やかなものから氷のように冷たい殺意へと変貌した。
健司が誘いを拒否した結果、預言者は冷たく告げる。
「理解しました。あなたの意志は固いようです。ならば、我々も方針を改めましょう」
「ならば、あなたの聖域――『アオゾラマート東新宿三丁目店』から、あなたを排除させていただきます」
その言葉を残し、預言者は闇に消えた。健司は、今しがた自分が守ると決めたばかりのささやかな居場所が、明確な敵意の対象となったことを悟り、戦慄した。




