少女の鎧、そして規則という名の剣
市役所での完全敗北から数日。健司の心は、晴れない霧の中にいた。法的に死人であるという事実は変わらず、給料は店長の温情により「口座ができるまで」という条件で現金手渡しとなったが、それは根本的な解決には程遠い、ただの延命措置に過ぎなかった。
『失われたあなたの神話、我々と共に再び紡ぎませんか?』
「預言者」からの甘い囁きが、弱った心に何度も反響する。いっそ、この誘いに乗ってしまえば、面倒な現実から逃れられるのではないか。そんな考えが頭をよぎるたび、健司はコンビニの制服の襟を正し、無理やり思考を断ち切った。
その日も、深夜のコンビニは平穏だった。健司がバックヤードでドリンクの補充作業をしていると、レジの方から客の怒声が聞こえてきた。またか、と顔をしかめて様子を窺うと、玲奈が中年の男に詰め寄られている。
「だから! このポイントカード、期限が昨日までだったんだから一日くらいいいだろ! 融通を利かせろよ!」
「申し訳ございません、お客様。規定により、有効期限を過ぎたポイントは失効となります」
いつもの光景だった。玲奈は完璧な無表情で、マニュアル通りの言葉を繰り返している。男がどれだけ声を荒らげても、彼女の構えは一切崩れない。やがて男は諦めたように悪態をつき、店を出ていった。
健司が「お疲れ様」と声をかけようと彼女の顔を見た時、ふと気づいた。男が叩きつけたカウンターの下で、玲奈の指先が、かすかに、しかしはっきりと震えているのを。
「……高橋さん」
健司の声に、玲奈はびくりと肩を揺らし、慌てて手を隠した。
「平気なのか。ああいうのは」
「……何がです」
「いつも、鉄の壁みたいに対応しているが……本当は、怖くないのかと」
玲奈はしばらく黙っていたが、やがてポツリと、独り言のように呟いた。
「怖いに決まってるじゃないですか」
健司は、初めて彼女の心の鎧の隙間を垣間見た気がした。
「でも、私が感情的になったら負けなんです。ルールは……理不尽な人から、弱い人間が自分を守るための、唯一の鎧だから。これさえ着ていれば、誰も私を傷つけられない」
その言葉は、健司の胸に雷のように突き刺さった。鎧。そうだ、異世界で自分が身に纏っていたものと同じだ。ただ、材質が違うだけ。
自分は鋼鉄の鎧で物理的な攻撃から仲間を守った。彼女は、「規則」という見えない鎧で、自分自身の心と、この店の秩序を守っているのだ。
これまで自分を縛るだけの邪魔なものだと思っていた「マニュアル」が、玲奈のような人間にとっては、生きるための、そして守るための武器なのだ。
守る。そのために、俺は剣を振るってきたはずだ。ならば、この世界では、この世界の武器を手に取るべきじゃないのか。
健司の中で、何かがはっきりと変わった。その時だった。カラン、とドアベルが鳴り、一人の男が入ってきた。
身なりの良い、清潔感のある男だが、その目は笑っておらず、店内を品定めするように見回している。健司の五感が、男の放つわずかな違和感を捉えていた。
男は店内を一周すると、レジの前に立ち、健司に奇妙な質問を始めた。
「すみません、そちらの防犯カメラのメーカーと画素数を教えていただけますか?」
「は?」
「それと、この店舗のWi-Fiのセキュリティレベルは? WPA2ですか、WPA3ですか?」
以前の健司なら、反射的に「客に関係ないだろう」と一喝していただろう。だが、今の彼は違った。玲奈の顔が脳裏に浮かぶ。彼女なら、どうする?
健司は一礼すると、バックヤードから分厚い店舗運営マニュアルを持ち出した。そして、該当しそうなページを必死に探しながら、完璧な棒読みで答えた。
「お客様、少々お待ちください。……マニュアルによりますと、店舗のセキュリティに関する情報開示は、規定により一切認められておりません」
男は眉をひそめたが、さらに質問を重ねる。
「では、夜間のスタッフは何名体制ですか? 責任者の緊急連絡網は?」
「そちらの件につきましても、防犯上の理由から、マニュアルにより開示が禁止されております」
「……では、商品についてだ。この棚にある全ての飲料の、一日の平均販売本数をデータでいただけますか?」
「誠に申し訳ございません。販売データは社外秘となっており、マニュアル上、開示することはできません。規定ですので」
「マニュアル」「規定」「できません」。
健司は、ただその三つの言葉を盾に、男の要求を全て弾き返した。それは、先ほどの玲奈の姿を必死に模倣した、不格好な防衛戦だった。
やがて男は、これ以上は無駄だと悟ったのか、忌々しげに舌打ちをすると、何も買わずに店を出ていった。
健司はまだ知らない。この男が『アルカナ・ソサエティ』の調査員であり、彼の目的が「コンビニを拠点とした、帰還者の行動を誘発する社会実験」のための情報収集だったことを。
そして、健司の鉄壁の「マニュアル対応」によって、計画に必要な基礎データが一切得られず、作戦が初期段階で「実行不可能」と判断され、頓挫してしまったことを。
健司は、自分が意図せずして敵の計画を打ち砕いたことなど、知る由もなかった。ただ、一部始終を見ていた玲奈が、初めて彼に向かって、ほんの少しだけ驚いたような、そして少しだけ感心したような表情を浮かべていた。
「……赤城さん。今の対応、完璧でした」
玲奈からの初めての肯定的な言葉に、健司は少しだけ胸を張った。彼はまだ、自分の振るった新しい「剣」が、見えざる敵の計画に最初の亀裂を入れたことに気づいていなかった。




