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『剣聖、バイトを始める。』魔王討伐の後はすべて上手く行く  作者: 伝福 翠人


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鉄壁のルール、そして証明不能の“俺”

『アオゾラマート』での深夜バイトは、健司の日常になりつつあった。深夜の客が途絶えた時間に、黙々と商品を補充する作業。玲奈からの相変わらず手厳しいが的確な指導。そして、疲れ切った顔の健司を見かねた店長が、自腹で買ってくれた栄養ドリンクの差し入れ。


命のやり取りとは無縁の労働対価と、ささやかな人の温かさ。それは、異世界での目まぐるしい日々と比べれば、退屈なほどに平穏だった。


だが、彼の心には二つの棘が刺さったままだった。一つは、ポケットのスマートフォンに眠る「預言者」からのメッセージ。返信はしていない。だが、消すこともできずにいた。自分の過去を知る唯一の存在かもしれないという、淡い期待を捨てきれずにいるからだ。


そしてもう一つが、より現実的な問題――「俺は、法的に死んでいる」という事実。


初めての給料日が近づくにつれ、店長から「口座、まだ?」とやんわりと催促されるたびに、健司の胃はキリキリと痛んだ。


その日、バイトが休みだった健司のもとに、リサポの安田から連絡が入った。


「赤城さん、準備が整いました。市役所へ行きましょう」


健司の人生を懸けた最難関クエスト、「失踪宣告の取消」に向けた第一歩だった。


市役所は、健司が知るどんな迷宮よりも複雑で、人を憂鬱にさせる場所だった。低い天井、鳴り響く呼び出し音、そして誰もが疲れ切った顔で書類の山と格闘している。異世界の魔王城の方が、よほど活気があったかもしれない。


安田に導かれ、「戸籍住民課」と書かれた窓口へ向かう。ガラスの向こう側に座る職員は、ただ「ルール」を代弁するためだけにそこにいる、という無表情を浮かべていた。


「失踪宣告の取消について、ご相談が……」


安田が口火を切ると、職員は待っていましたとばかりに分厚いファイルを取り出した。安田は健司に目配せする。健司は唾を飲み込み、教えられた通りに口を開いた。


「俺が、赤城健司です。ここに、生きています」


渾身の自己証明だった。異世界ならば、その一言と存在そのものが何よりの証拠となっただろう。だが、職員の表情は一切変わらない。


「さようでございますか。では、赤城健司様ご本人であることを証明できる、公的な書類のご提示をお願いいたします。運転免許証、健康保険証など」


「……ない。すべて、失効している」


「では、申し訳ございませんが、ご本人様であると確認できませんので、手続きは進められません」


話が、終わった。あまりにも理不尽な現実の壁に、健司の頭に血が上る。


「待て! 俺がここにいるだろう! これが何よりの証拠じゃないのか!」


思わず声を荒らげた健司に、周囲の視線が一斉に突き刺さる。職員は、迷惑そうな表情をわずかに浮かべ、マニュアルを読み上げるかのように冷たく言った。


「お気持ちは察しますが、ルールですので。失踪宣告の取消には、家庭裁判所への申立が必要です。そのためには、あなたが失踪期間中も生存していたことを証明する、客観的な証拠が必要となります」


「客観的な、証拠?」


「はい。例えば、失踪期間中に第三者と撮った写真や、その期間にあなたがどこで何をしていたかを証明できる方の証言書などですね」


その言葉は、健司に宣告された敗北の判決だった。異世界にいた十年間の証拠など、あるはずがない。仲間たちとの写真は一枚もなく、証言してくれる者は、この世界のどこにもいない。


健司は、ルールという名の巨大な城壁の前に、丸腰で立たされている自分を悟った。どんなに優れた剣技も、どんなに屈強な肉体も、この鉄壁の前では何の意味もなさない。彼は完全に、無力だった。


市役所からの帰り道、健司は押し黙っていた。隣を歩く安田も、何も言わない。悔しさと無力感が、鉛のように健司の身体にのしかかる。


「……あんたたちは、支援組織なんだろう」


絞り出すような声で、健司は言った。


「なんとかしてくれ。俺は、ただ……人間として生きたいだけなんだ」


その言葉に、安田は初めて足を止めた。そして、いつもは感情の見えない瞳で、まっすぐに健司を見つめた。


「我々も、あらゆる手を尽くしています。ですが、赤城さん……」


別れ際、安田は健司の耳元に、そっと囁いた。それは、リサポという組織の限界を示す、絶望的な真実だった。


「赤城さん、我々“リサポ”は、あなたの味方です。ただし――我々は、法律とは戦えません」


一人アパートへの道を歩きながら、健司はポケットの中のスマートフォンを強く握りしめた。社会のルールに、完膚なきまでに叩きのめされた今、「預言者」からのメッセージが、以前とは比べ物にならないほど甘美な響きをもって、脳内で再生されていた。


『失われたあなたの神話、我々と共に再び紡ぎませんか?』

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