初陣、そして絶対的防御結界
「いいですか、赤城さん。現代社会で最も重要なスキルは『郷に入っては郷に従う』です。あなたの常識は、ここでは一切通用しません。忘れてください」
コンビニ『アオゾラマート 東新宿三丁目店』へ向かう道すがら、リサポの安田は念仏のように繰り返した。
履歴書はリサポが経歴を偽装して作成し、身元保証人も組織が担当することで、健司はどうにか面接を突破した。だが、問題はそこからだった。
バイト初日。真新しい制服は、異世界で着たどんな魔法の鎧よりも窮屈で、健司の心を落ち着かなくさせた。
「まず、挨拶です。『いらっしゃいませ』『ありがとうございました』。これを忘れたら死ぬと思ってください」
「死……」
「比喩です。それと、笑顔。口角を上げる練習をしましょう」
鏡の前で引きつった笑みを浮かべる元・剣聖の姿は、滑稽を通り越して哀れですらあった。
店長の研修は、まさに異界の言語学習だった。
「POSレジ」「公共料金収納代行」「FFオペレーション」
健司の脳は、意味を理解する前にショート寸前だ。商品をスキャンする赤い光ですら、敵の放つ呪いの光線に見えてしまう。
「あ、赤城くん! 商品は棚に『置く』んだ! 『叩きつける』な!」
「はい! 申し訳ありません!」
無意識に、最短距離・最高効率で動いてしまう身体がもどかしい。ペットボトルの補充作業では、あまりの速さに棚が衝撃で揺れた。
そんな健司の指導を引き継いだのが、夕方からシフトに入った女子高生、高橋玲奈だった。
色素の薄い髪を後ろで一つに束ね、感情の読めない瞳をした少女。彼女の動きには一切の無駄がなかった。レジを打つ指先、商品を袋に詰める手順、客への声のトーン。その全てが、まるで精密機械のように正確で、揺らぎがない。
「赤城さん。お客様の年齢と性別を記憶して、キーを押してください。あと、声が大きすぎます。威嚇しているように聞こえます」
「い、威嚇……」
玲奈は淡々と、マニュアル通りの言葉で健司の欠点を指摘していく。彼女の言葉には温度がない。だが、それは冷酷さとは違った。
まるで、それが世界の真理であるかのように、ただ事実だけを告げている。健司は、自分より十も年下の少女に萎縮している自分に気づき、内心で歯噛みした。
事件が起きたのは、夜8時を過ぎ、客足がまばらになった頃だった。入店してきたのは、見るからに柄の悪い、酔った男だった。彼は缶チューハイを掴むと、レジに乱暴に置いた。
「おい、これいくらだ」
「……216円です」
「あぁ? 高ぇなオイ。まけろよ」
典型的な、理不尽な因縁だった。異世界ならば、健司は無言で剣を抜き、相手を黙らせていただろう。だが、今は違う。店長に教えられた通り、彼は頭を下げた。
「申し訳ございません、お客様。表示価格での販売となっております」
その瞬間、男の怒声が店内に響いた。
「てめぇ、客に向かってなんだその態度は! やる気あんのか!」
――殺気。健司の身体が、意思に反して反応した。男が振り上げた腕が、スローモーションで見える。全身の筋肉が戦闘状態に移行し、呼吸が深くなる。喉の奥から、無意識のうちに低い唸り声が漏れた。
――ゴッ!!
健司の全身から、制御しきれない闘気がわずかに溢れ出す。それは、歴戦の戦士だけが放つ、純粋な暴力の予感。
店内の空気が凍りついた。男は、まるで巨大な肉食獣に睨まれた蛙のように動きを止め、その顔から急速に血の気が引いていく。
まずい。やりすぎた。健司が、自らの過ちを悟った、その時だった。
「お客様」
凛、とした声が、健司と男の間に割り込んだ。いつの間にか、高橋玲奈がレジカウンターから出て、健司の前に立っていた。
「何か問題でもございましたでしょうか?」
玲奈は、怯えも怒りも浮かべない、完璧な無表情で男を見つめていた。その瞳は、酔っ払いを「脅威」ではなく、ただ「処理すべき案件」として捉えている。
「あ、いや……こいつの態度が……」
「赤城の接客態度に、不手際がございましたでしょうか。具体的に、どの点がお客様のご不快に繋がったか、今後の改善のためにお聞かせいただけますか?」
玲奈は一切の感情を排した声で、しかし流れるように言葉を紡ぐ。その口調は丁寧だが、相手に思考の隙を与えない。
「誠に申し訳ございませんが、当店では表示価格以外の販売は致しかねます。ご納得いただけない場合、店長、もしくは本社お客様相談室にご連絡いただくことになりますが、いかがなさいますか?」
暴力には、暴力で。威圧には、威圧で。それが健司の世界の常識だった。
だが、玲奈がやっていることは、そのどれでもない。彼女は、「ルール」と「正論」という名の、決して砕けない透明な盾を男の眼前に突きつけているのだ。感情的になればなるほど、男は自分がみじめなクレーマーになっていくだけだと悟らされる。
男は数秒間、何かを言い返そうと口をパクパクさせたが、結局、悪態をつきながら缶チューハイを置いて店から出ていった。
嵐が去ったコンビニで、健司は呆然と玲奈の背中を見ていた。闘気ではない。魔法でもない。なのに、あの屈強な男を、言葉だけで完全に無力化した。
あれはなんだ。あの少女が放っていた、氷のような圧力の正体は。
健司は戦慄していた。彼女が展開したのは、物理的な力を一切無効化する、異世界のどんな高位魔族も使いこなせない「絶対的な防御結界(クレーム対応スキル)」だった。
この少女は……一体、何者なんだ?




