表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
63/74

2025年11月21日金曜日

屋台のラーメン(10年前)


 父は若い頃、ラーメン屋台を引いていた。その後、母と結婚し製麺所の2代目になった訳であるが、私が子供の頃は父の作るラーメンを食べた記憶が無い。5年ほど前、実家に家族で帰った時、長女が、昔ラーメン屋台を父がやっていた話を聞き、「おじいちゃんのラーメン、食べたい!」と言うので、父は作った。元屋台のラーメン店主が作ったラーメン。結果は、不味くも無いが、うまくも無かった、普通。それは父が一番わかったようで、盛んに失敗作である事を強調し、「食べんでいい!(残せ)」を連呼してました。父が偉いところは、その後昔の勘を思い出すべく努力したことで、それから食べる度にうまくなっていった事である。さすが親父である。

 と言うことで、40歳になってから父のラーメンを食べているわけだが、岐阜(故郷)でのラーメンといえば、やはり岐阜駅北口前にあった屋台のラーメンである。当時、東と西に2店、家(製麺所)の麺を使ったラーメン屋台が出ていた。2店舗あると当然味の差ができ、いつも東のTさんとFさんが交互にやっていた屋台の方が人で溢れていた。また、TさんとFさんでも差はでき、圧倒的にTさんの時の方が人気があった。つまり、Tさんのラーメンが一番うまかった。(その後Tさんが辞めてしまい、Fさんが1人でやって、数え切れないくらいのFさんのラーメンを食べた。うまかった。)

 当時のラーメンは、細麺の縮れ麺。スープは鶏ガラ、豚骨、煮干しの出汁で澄んだあっさり醤油味。だから、一杯ぺろりと食えて、毎日食っても飽きない。Tさんのラーメンは私が今まで食ったラーメンの中でも1番だ。あの味を復活できたら、さぞや今の人達にも受ける(私の年代以上の人には特に受ける)であろう。

 Tさんとは1つ忘れられないエピソードがある。当時小学校の高学年くらいであった私は、ある日、両親ともに外出していた夜、1人で家に居た。その時、麺の追加注文でTさんから電話が掛かってきた。両親が居ない事を私が言う前に、Tさんは私が父であると(勝手に)勘違いし、「麺が無いんじゃい!今すぐ持ってこんかい!」と一方的にまくし立て電話をブチ切った。『今すぐ持って行かないと殺される』と思い、自転車に麺の箱を括り付け、駅に向かってダッシュした。当時自転車で岐阜駅の南口(家側)から北口(店側)に抜けるには2つの方法がある。東陸橋を回るか西陸橋を回るかだが、どちらも大幅に時間が掛かる。(15分は余計に掛かる=殺される。)私は南口の改札前で迷わず自転車を放棄し、入場券を購入。麺の箱を担いで、線路の上の通路を横切り、北口に出て無事Tさんの屋台にたどり着いたのであった。汗だくになりながら麺の箱を担いで運んできた小学生を見たTさんは、(普段は怖い感じの人なのだが)「お前が持ってきてくれたのか。ありがとよ。」とにっこり笑ってくれたのであった。達成感を味わった最初の出来事ではなかったか。

 今はもうあの場所にラーメン屋台は無い。Fさんもお亡くなりになった。岐阜の駅前には屋台は出ていない。一店だけ、逗子に住んでいた時、当時開店した駅前の『支那そば哉』のラーメンを食った時、あの屋台のラーメンの味が蘇って懐かしく感じた。長女はこのラーメンが、自分の中で一番らしい。

 

 

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ