第八話 君には才能があったのに
音楽室の床を踏むと、ギシっときしむ音がして、僕は肩を震わせた。
黒い傷のついたその床だけ、へこんでいる。重い楽器でも落としたのだろうか。こんな些細な音に驚くなんて、警備員じゃなくて泥棒みたいだ。
僕は懐中電灯でコンポを照らした。テープからテープにダビングできる、型の古いコンポだ。電源を入れると、コンポの右隅に赤いランプがついた。
CDを入れ、家から持ってきたヘッドホンを差し込む。佐伯がヘッドホンを耳に当てた。僕は再生ボタンを押した。つまみ回し、音量を調節する。
佐伯がビートルズを聞きたいというから、レット・イット・ビーを持ってきた。ビートルズ最後のアルバムとなったアビィ・ロードの前のアルバムで、そのことを踏まえて聴くと、解散前のやるせなさが感じられる。評価が複雑なアルバムだが、それでも僕はレット・イット・ビーが好きだ。
ピアノの前奏曲が聞こえてきた。
僕は佐伯と目を合わせ、笑った。
佐伯がヘッドホンをしても意味がない。体がないから、音は彼の体に入っていかず、全部外に出てしまう。佐伯はヘッドホンに両手を当て、軽く頭を振って曲に乗っているフリをした。
曲のサビ、レット・イット・ビーと繰り返されるところで、佐伯はふざけるのをやめて聴きいった。その表情で僕は手ごたえを感じる。どうやら気にいってくれたらしい。曲が終わって、僕はCDを止めた。
「もう一回、再生して」
佐伯が言った。僕はもう一度、レット・イット・ビーを再生する。佐伯は曲を聞きながら、口を動かしている。囁くように、歌っていた。
佐伯は何度も僕にレット・イット・ビーを再生させた。よっぽど気にいってくれたらしい。しかしその熱心ぶりは何かに取り憑かれたようで、少し怖かった。幽霊が取り憑かれる、というのもおかしいが。
「よし、弾ける」
佐伯がヘッドホンを外し、ピアノの前に座った。
「聴いただけで?」
僕の質問に答えず、佐伯は音を探すように、鍵盤に指をに歩かせる。
音が一つ一つ集まり、レット・イット・ビーの前奏曲になった。最初は荒削りで、所々音が違ったが、何度も弾きなおしながら、完璧にコピーしてみせた。
「すごい。もしかして、絶対音感の持ち主?」
「さぁ。気に入った曲は弾けるけど、つまらない曲はさっぱり。いいよ、これ。特に」佐伯が前奏曲から、サビを弾いた。 「ここがいいな」
佐伯は何度もレット・イット・ビーを弾いた。そっと歌うように弾いたり、いきなり伴奏を盛り上げたり、また音を小さくしたり、佐伯は弾きながらレット・イット・ビーの曲に秘められたメッセージを、掘り起こしているようだ。
CDをコンポから出して音量も元に戻し、何もかも元通りにして、警備室に戻った。佐伯の演奏に聞き惚れ、つい遅くなってしまった。
「聴いただけで弾けるなんて、本当にすごいよ」
佐伯の弾くレット・イット・ビーを聴いた高揚で、警備をさぼった罪悪感は沈まされた。佐伯は少し笑うだけで、何も言わない。それほどでもない、というクールな態度に思えたが、違っていた。寂しげな目をしていた。
「……本当は、ずっと弾いてたんだよ、ピアノ。お袋がいない時とかに。練習じゃなくて、ただ好きな曲を弾くだけだけど」
視線をあちこちに向けながら、佐伯が言った。
「佐伯、本当はピアノが好きなんだ」
「あんまり認めたくないけどな、そうだよ。辞めたのは、夫婦ゲンカが原因」
佐伯が腕を組みかえる。
「お袋が俺に夢を持っちゃってさ。ガキながらに、なんかそういうお袋とズレを感じてて。俺はお袋が思ってるほど才能なんてなかったし、でもお袋は才能があるって信じてるし。で、あんまりお袋が俺に厳しくするから、親父がキレちゃってさ。その夫婦ゲンカを見ちゃったワケ。これはいかんと思ってさ、ピアノ、辞めようと思ったんだよ。家族崩壊とか嫌だろ」
佐伯は重い空気を吹き飛ばすように、笑い声を上げた。乾いた、空しい笑い声だった。
「僕にやりたいようにやれって、言ったのは……だから……」
「いや、そう深読みするなよ。まあ、夫婦喧嘩はやめるきっかけみたいなもんでさ。本当はうんざりしてたし。ピアノは好きだけど、それは趣味の範囲にしていたいだけ。お袋はそれ以上のモノを求めてきたからさ、嫌だったんだよ」
僕が考えこんでいると、
「でも、俺、もしかしたら才能あるのかもな」
と佐伯がつぶやいた。冗談の顔ではない。
「お袋は、俺のその才能を、必死で育てようとしていてくれたのかもしれない」
僕は佐伯が今、頭に浮かべている母親を想った。彼の生きていた時間を想像してみた。そして、死んでしまっている彼のかなしみに、できるだけ寄りって考えた。
「……きっと、そうだ。もう後からどう言っても仕方ないかもしれない。佐伯のお母さんは、ただ、自分の思いを遂げたいだけだったかもしれない。それでも……佐伯の才能を認めていたと思うよ」
佐伯が僕を見て、うなずいた。
「でも、死んでしまったからなぁ」
僕はこの言葉に、何も言えない。
いつも会話の先に、終末がある。
死んでしまっているから、という言葉で僕等の会話は蓋をされ、思い出の箱に閉じ込められる。そこから、もう出ることはないだろう。佐伯とはもうすぐ、会えなくなる。十月が終わると、僕はバイトを辞めて受験勉強に専念しなくてはならない。
「俺の家に行ってくれないか?」
佐伯が言った。
「……俺さ、死んでから一度、家に戻ったんだよ。もちろん、家族は俺に気付かなかったけど……お袋も、親父も暗くてさ。険悪なムードだったし。心配なんだけど……なんか、見にいけなくて。ごめんな、変なこと頼んで」
「いいよ。住所、教えて。あと、 地図も書いてくれると助かる」
僕は佐伯にシャープペンと、レポート用紙を渡した。佐伯は無理に笑っているような、笑いをこらえているような、奇妙な顔で受け取った。
そしてレポート用紙に地図と住所を書いた。字は下手だが、直線をうまく使って書かれた地図はわかりやすかった。
「……行くなら、土曜日の昼がいい。その時間なら、お袋も親父もいるから」
「わかった」
佐伯からレポート用紙とシャープペンを受け取る。
「家族に伝えたいことはないか?」
佐伯は視線をそらして首を横に振り、機嫌の悪そうな顔で黙りこんだ。自分の思い通りにならなかったことに、腹を立てているような子どもの顔をしている。
僕は赤本を広げ、時々モニターを確認しながら、問題を解いた。消しゴムが右手に当たった。佐伯が当てたのだ。
「いいよな、光輝は」佐伯がつぶやく。「いいよな……」
僕は何も答えることができなかった。
それから、ずっと佐伯は機嫌が悪かった。彼の機嫌の悪さの原因を、僕は感じ取っていた。僕もそのことを考えると気がめいる。
「死ぬ三ヶ月前に、彼女と別れたんだ」
佐伯が言った。
「死んでから、別れなきゃよかったって思う。つき合っている時に俺が死んでたら、あいつ、きっと俺のこと忘れなかったと思うし……あ、でも、すごい悲しい思いさせたか」
佐伯は遠くを見つめて、一人で話していた。僕の相槌も、返事も必要がないみたいだ。
「俺って勝手だよな」佐伯が自分を自分で笑っている。顔色が失われ、背後の壁と同じ色になった。服の色もグレーから白になっていく。「……でも、忘れられたくないんだ……忘れられたら、俺、この世に生きてきた意味が……」
「佐伯」
僕は名前を呼んで、独り言を中断させた。虚ろな目で佐伯が僕を見る。肌の色が戻ってきた。
「佐伯は忘れられないよ。大丈夫、だから」
僕がそう言っても、佐伯は気の抜けた顔でうなずくだけだった。




