第五話 とても酷い水の記憶
目覚めると、首と腋の下が濡れていた。布団を足で蹴って起き上がる。口の中がねっとりして、喉は渇いている。時刻は二時過ぎ。
一段ずつ確かめながら、階段を降りる。洗面所に入って、引き出しからタオルを出して汗をぬぐった。臭いのしない汗だった。
顔を洗い、歯を磨く。水で口をすすごうとすると、吐き気がこみあげてきた。歯磨き粉まじりの唾を吐く。コップに水を注いだ手が震えた。
これはただの水だ。
あのとき、無理やり飲まされた水じゃない。口の中にゆっくりと水を流しこむ。すぐに吐いてしまった。まだ口の中はすすげていない。歯磨き粉が残っていて気持ちが悪い。僕は少しずつ水を口に含み、何度も吐き出した。奥歯に残った歯磨き粉が、なかなか取れなかった。
校舎の壁が、冷たい風を吐き出しているような寒さだ。いつも履いているスニーカーなのに、大きく感じる。歩くたびにスニーカーが脱げそうな気がした。僕はスニーカーが脱げないように歩を進めた。
三階に上がってすぐ、右側にある教室のドアから、黒い人影が飛び出てきた。
僕は懐中電灯を落としてしまった。その弾みでスイッチが切れ、頼りの明かりがなくなり、懐中電灯が落ちた衝撃音だけが辺りに響いた。
人影が笑い出した。体を二つに折り曲げ、オーバーなアクションをしながら笑っている。
僕は言うべきことも、取るべき態度も、表情も、すべて失って立っていた。僕のスイッチも切られてしまった。
「そんなに驚くなよ! いや、そんなマジでびびった顔されると思わなかった。ほら、ちゃんと持ってろよ」
灯りが灯った。懐中電灯を僕に差し出している佐伯が見えた。
「な、今の俺、そんなに怖かった?」
歩き出した僕の顔をのぞきこみながら、佐伯が尋ねてくる。僕は首を横に振った。
「えー、すごいビビってたじゃん。怖かったって認めろよ」
佐伯がしつこく尋ねてくる。僕は首を振り続けた。こういう態度がいけないということは、わかっている。しかし、僕は他に取るべき態度を頭で考えられても、行動にはできなかった。
佐伯に笑われて、僕は血の気を絞られたように青ざめていることが、鏡を見なくてもわかった。
頬がつめたい。怖い。
佐伯に嘲笑されたことが、怖い。
「……ムカつくよな」
佐伯が呟いた。僕は立ち止まった。
それは僕のことだろうか。冗談一つ流せない僕は、やっぱりムカつくんだ。
佐伯の気配が遠くなった。僕は彼を振り返った。茶色の髪が淡くなり、肌が透けはじめている。
僕は佐伯が闇に飲まれていくのを見ていた。このまま、消えてしまえばいい、もう心を乱さないでほしい。
「……ごめん。俺、調子に乗って……」
佐伯が言った。彼が口を開け、後の言葉を続けようとした。その口が闇に溶けて消えてしまった。
佐伯が謝った。「ムカつく」という先に言った言葉とつなげあわせると、佐伯は「自分がムカつくよな、だからごめん」と謝ったのだろうか。
僕のことじゃなかったのか。僕の態度を、彼が怒ったと勘違いしてしまった。
「……佐伯?」
呼んでも答えはなかった。
「ごめん、違うんだ。僕は……」
懐中電灯の光を壁に走らせる。
「佐伯、出てきてくれ。違うんだ」
僕は佐伯を探した。どこからかまた、佐伯が出てくるような期待をしては、立ち止まって彼を待つ。
しかしあの元気のいい声は聞こえてこなかった。佐伯は闇に溶けて、もう戻ってこないのだろうか。たった一度の勘違いで、もう彼と逢えないのだろうか。
こうして友達を僕は失っていくのだろうか。
友達?
彼のことをそんな風に思っていいのか?
友達なんて言っていいのだろうか。
僕は息を吐く。悩んでる頭の底にある、自分の本音を知りたくて。
佐伯と、もっと話をしたい。
水の音が聞こえた。ぴちゃ、ぴちゃ、という水滴が落ちる音だ。それは男子トイレから聞こえてきた。
僕は音の正体を見た。手洗いの蛇口の締まりが悪く水滴が出ているのだ。僕は蛇口をきつく締めた。
水滴はもう出てこなくなった。角の尖った四角い石の手洗い場は、蛇口が二つあり、正面に鏡がある。
鏡は薄い膜を張ったようで、霧の向こうに、もう一人の僕がいるように映っていた。
水色の床が濡れている。
またくる、フラッシュバックがやってくる。
――――トイレから、悲惨ないじめが始まった。
一歩踏み出して、スニーカーの底で水を踏む。ぴちゃ、という音がした。僕はそれ以上歩けなくなった。佐伯が消えてしまったのは、すべてトイレで起きた出来事のせいだ。すべて、あいつらのせいだ。
いじめの記憶が僕の脳を走った。
秋だった。中間テストが終わり、授業が始まる前に返されるテストに、一喜一憂するのに忙しかった。がんばった甲斐があって、僕は数学で九十七点をとった。
数学でそんないい点数を取ったのは初めてだった。そのテスト用紙を、仲のよかった大倉、高下、北田、清野がバトンのように手渡していった。高下は目玉が飛び出そうなほど驚いた顔をして、清野は「よくがんばったな」と先生みたいな顔で僕をほめ、北田は悔しそうな顔をした。
僕は「たまたまだよ」と言いながらいい気になっていた。
大倉は何も言わなかった。目玉だけを動かして僕らの様子を見ていた。大倉は勉強もスポーツもできる、クラスのリーダー的存在だった。
体育祭などのイベントでは大活躍し、生徒委員会では先輩よりも発言力を持っていた。
成績もスポーツも凡庸、目立たない僕とは正反対で、僕は大倉に憧れていた。
中間テストが終わった翌日のことだ。
授業が終わって所属していた卓球部の部室へ行こうとすると、大倉に呼び止められた。
「石田、ちょっと来てくれる?」
大倉はにやにや笑いながら言った。「いいよ」と僕は答えて大倉たちについていった。高下、北田もにやにや笑っていた。清野だけが笑っていない。
妙な雰囲気を僕は感じ取っていたが、大倉たちのたくらみに僕は気付けなかった。気付けるはずもなかった。
校舎の端にある、めったに人が来ないトイレだった。中は薄暗く、不気味だった。
僕はなぜ、こんな所へ連れてこられたのかわからなかったが、「中に入ろう」という大倉の言葉に従った。
突き飛ばされ、僕は個室に入れられた。振り返るとドアは閉められ、向こうから押されて開かない。
「出せよ」と僕はドアを叩いて怒鳴った。ドアの向こうで大倉たちは笑っていた。
僕は何度もドアを叩いた。
トイレのドアに、青色のホースの先がだらりと垂れ下がり、水が出てきて僕の頭を濡らした。僕は慌てて後ろに体を引いたが、水から逃げられず、全身が濡らされた。
「やめろ」と僕は叫んだ。何度も何度も叫んだ。僕はせわしなく体を触っていた。体がどこまで濡れているのか、乾いたところがないか探した。
「やめろ」と叫んでドアを叩くと、誰かがドアを蹴り、掌にしびれるような痛みが走った。
大倉の笑い声が聞こえた。天井にぶつかって跳ね返ってくるような、大爆笑だ。高下の甲高い笑い声が、その声に重なる。清野も北田も笑い出した。
トイレ中に笑い声が満ち、どれが誰の声かわからなくなる。僕は天井を見上げ、ドアを見て、水びたしの床を見て、水が流れ続けるホースを見つめた。どこを見ていいかわからない。どこを見ても笑っている奴の顔が見えない。
「調子乗ってんじゃねぇよ!」
大倉の怒鳴り声が聞こえた。
「キモいんだよ、てめぇ」
高下が金切り声を上げる。トイレのドアがまた蹴られた。僕はその音で震え上がった。
「俺たちと友達だと思ってた? ツケ上がってんじゃねーよ。一人ぼっちはかわいそうだから、お付き合いしてあげてたの」
低く、囁くような北田の声が聞こえた。北田がくぐもった笑い声を上げると、また大倉たちが大声で笑いはじめた。
また、ドアを蹴りはじめた。とても楽しい遊びをしているような笑い声を上げて。
僕は目を閉じ、耳をふさいでうずくまった。
ドアの向こうにいるのは大倉のはずがない、清野じゃない、北田じゃない、高下じゃない。みんな友達だった。違う、嘘だ。ドアの向こうにいるのは、まったく知らない奴らだ。僕はそう思いこもうとしていた。
ドアが開かれた。ホースが床に落ちて、水しぶきが僕のズボンを濡らした。ホースが持ち上げられた。ホースを手にしているのは大倉だった。
「頭、冷やしてやるよ」
大倉が笑いながら僕に水をかけた。高下が箒の柄で僕の腹を突いた。僕は床に膝をつき倒れた。
「きったないなー」
北田が笑いながら僕の背中をブラシで思いっきりこすった。シャツを通し、ブラシの毛がちくちくと皮膚を刺した。手をついた床のタイルが大きく見えた。
「喉、渇いたんじゃねーの?」
大倉が僕の髪をつかみ、引っ張り上げた。彼の目はらんらんと輝き、すごく楽しそうだった。大倉がホースの先を僕の口につけた。
ゴムホースの弾力のある固さが唇に押し当てられ、僕は背中が冷たくなった。
「水、飲ましてやるよ」
僕は口を開かなかった。
「開けよ!」
高下が箒の柄で僕の背中を叩いた。その痛みで口を開いてしまった。大倉が僕の口にホースをねじこんできた。僕の口は水であふれた。口が水でいっぱいになり、溺れ死にそうになった。飲みたくないのに、水を飲むしかなかった。
大倉を見ると、彼は笑っていた。彼の目、鼻、口が巨大に思えた。僕の知っている大倉とは信じたくなかった。
僕は清野に目で助けを求めたが、彼は目をそらした。清野とは小学校から一緒で、付き合いが長い。
助けてくれと必死に目で訴えた。こっちを向いて、大倉たちに「やめろ」と言ってくれることを願った。清野は僕に背を向けた。
「もういいだろう。……帰ろう」
清野が言った。僕はほっとした。彼が助けてくれたのだと思った。清野だけは味方だと信じた。
「そうだな。俺たちもこいつみたいに汚くなっちまう」
トイレの床が水びたしになって、上履きが濡れていることに気付き、北田が言った。大倉がホースを手放し、水を止めた。
「うわっ、すっげーびしょびしょ。なんか拭くもんある?」
大倉が言うと、高下が廊下を指差した。そこには僕の鞄があった。
僕の前で、大倉たちが上履きの底を僕の鞄になすりつけていった。最後に、清野が僕の鞄を踏んでいった。それを見て大倉たちが笑った。
僕はトイレに座りこんだ。
清野は僕の味方じゃないのか。
小便臭さが鼻をつく。周りを見渡し、僕はトイレに座りこんでいる自分に気がついた。どうして、こんな目にあったのか。吐き気がした。胃の中の物が逆流してくる。僕はよろけながら立ち上がり、便器の中に吐いた。




