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第二話 水と光の間

「俺は佐伯。佐伯智也。そっちは?」

 

 男はおとなしく警備室まで来て、ご丁寧に名前まで教えてくれた。明るい場所で見た彼は、姿形がぼやけて存在が頼りなく、「生きていない」ことがわかった。髪の色が、最初見たときのように淡い。


 僕は幽霊を見てしまった。

 

「……石田光輝(みつてる)

 

 しかも口を利いて、名前を教えてしまった。佐伯を見て、怖いとは思わなかった。幽霊というと、おどろおどろしいイメージを抱いていたが、佐伯は爽やかですらある。

 

 僕は椅子に座った。息を吐くと、強張っていた体がゆるんでいき、溜まった疲れを自覚させた。肩がこった。

 

「ミツテルってどんな字?」

 

 佐伯がスツールを持ってきて、僕の隣に座った。

 

「光に輝くだよ」

 

 僕は自分の名前が嫌いだ。光輝く、なんて不釣合いな名前、僕の地味さを際立たせてくれるだけだ。

 

「いい名前じゃん。なぁ、光輝。俺さ、死んでから誰とも口を利いてないんだよね。おまえと話できて、本当に嬉しいよ。誰も俺のこと見てくれなくてさ、ほんと、さびしかったよ。光輝って霊感、強いの?」

 

 佐伯がなれなれしく話しかけてくる。こんな明るい幽霊を怖いなんて思う方が難しい。

 

「幽霊を見るのは初めてだよ。まだ信じられない……」

 

 僕は横目で隣の幽霊を見た。佐伯がニッと笑う。

 

「信じていいよ。俺、確かに存在するから。俺も生きてるときは幽霊なんて信じてなかったんだけどさ、本当にいるものなんだね、幽霊って。気付かないだけでさ」

 

 信じていいよ、と言われても複雑な気持ちだ。僕は足元に置いた鞄からスポーツ飲料を出し、一口飲んだ。幽霊は無視した方がいいのだろうか。取り憑かれたら困る。もう遅いかもしれないが。

 

「光輝って年いくつ?」

 

 佐伯が話しかけてくる。さっきまで話していたのに、いきなり無視することもできない。無視される辛さは知っている。それに、幽霊を怒らせると手に負えなさそうだ。

 

「十九歳」僕は仕方なく答えた。

 

「十九? じゃ、俺と同じ年か。享年十九歳だけどね」佐伯が笑う。僕は笑えない。「九月に死んだばっかなんだよね。バイクで走ってて、轢かれて死んじまってさ。俺は青信号で渡ったし、交通ルールも守ってた。それなのに、トラックに轢かれて死んだ……かわいそうだろ?」

 

 モニターから佐伯の方に視線を向けると、彼は笑っていなかった。心もとない顔でこちらの反応をうかがっている。どう答えればいいんだろう。

 

「そんな顔するなって。冗談冗談、俺ってかわいそうなんて思ってないって。浪人中に死んだとか、心残りはそりゃたくさんあるけどさ……でも、かわいそうって思ったところでどうにもなんねーし。だから、そんな悲しそうな顔するなって」

 

 佐伯が笑い出す。僕はモニターに向き直った。佐伯はかわいそうと思われたくないらしい。けれど僕は佐伯を見ていると、哀れだと思ってしまう。僕と同じ年で死んでしまったなんて。「そんな顔」と佐伯に言われると胸が痛んだ。同情が顔に出てしまったかもしれない。

 

 かわいそうと思うことで自分は優しい人間だと満足している、卑しい表情。かわいそうという顔をするだけで、いじめから助けてくれなかったクラスメートたち。

 

「俺もさ、ここで警備員のバイトしてたんだよ。出勤前に事故に遭ったんだ……それでかな、霊になってからは学校がいちばん、居心地よくてさ」

 

 佐伯がモニターを覗きこんだ。熊川さんが言っていた遅刻魔とは、佐伯のことかもしれない。

 

「ところで、おまえは? 大学生? それともフリーター?」

 

 佐伯が質問を重ねてくる。こんな風に年の近い相手と話すのは久しぶりだ。幽霊だけど。

 

「大学には落ちたんだ。今は浪人中」

 

「境遇も同じか。ごめん、嬉しがったら悪いよな。でも、俺はすげー嬉しいよ。だって俺の友達、みんな大学に受かってさ。俺だけなんだよ、浪人したの。同士が見つかってすげー嬉しい」

 

 佐伯が笑った。幽霊が歯を見せて笑っている。僕もつられて、頬が緩んでいることに気がついた。佐伯が笑うと、ぼやけていた輪郭線が濃く、確かなものとなった。

 

「俺の弾いてたピアノの音、聴こえた?」

 

 僕は聞こえた、と答えた。

 

「きっと耳がいいんだな。俺がピアノを弾いても、誰も聴いてくれなかったんだ」

 

 僕は何かを言おうとしたけれど、言葉に迷って口を閉じた。佐伯の口は開きっぱなしだ。

 

「……お袋がピアノ教師やってて、俺も中学生まで一応、習ってたんだ。なんかピアノのレッスンを受けるのが恥ずかしくてさ、あんまり熱心じゃなかったけど、死んでから暇で暇でしょーがなくて、夜中はずっとピアノを弾いてた」

 

 僕はうなずき、聞いている、という合図だけした。佐伯は僕がうなずくのを見て、

 

「誰もいない音楽室から聞こえてくるピアノって怖いじゃん? 俺、そういうの目指そうと思ったんだけどさ。でも、いかにもっていう不気味な曲が弾けなくてさぁ」

 

とまた話し始める。

 

 佐伯は話し続けた。警備員の研修がつらかったことや、受験勉強に手がつかず、志望大学を変えようと思っていたことなど、話の内容はとりとめがない。

 

 僕は十分な受け答えができず、時々うなずくだけだったが、佐伯は不満そうな顔をしなかった。何を話そうか迷って、結局黙りこんでしまい、僕はいつも飽きられてしまうのに。

 

 佐伯は見回りにもついてきて、教室のチェックを手伝ってくれた。闇の中で、佐伯の存在は濃くなった。人が隣にいる、という気配はするのに、足音が聞こえないことが妙だ。

 

 廊下を歩いていると、佐伯の存在が薄れ、後ろを振り返った。佐伯は無表情で立っている。僕がじっと彼を見ると、ニッと笑う。すると、佐伯が闇から浮かび上がってきた。

 

 明け方の四時、用務員室で仮眠をとった。携帯電話のアラームを五時に設定して、薄い布団の上に横になる。

 

「保健室で寝ればいいのに。俺は保健室で寝てたよ」

 

 枕元で佐伯が言った。僕は首を横に振った。保健室のベッドで眠れば気持ちがいいだろうけれど、勝手にベッドを使ってはいけないと思った。

 

 用務員室は雑然として、横になると狭く感じられる。とても疲れているのに、目を閉じても深い眠りに落ちていけない。布団は固く、枕は湿った臭いがして落ち着けない。しかも佐伯が枕元に座っている。そろそろ、僕から離れていってほしい。

 

 目の周りに溜まった眠気が、まぶたを閉じると逃げてしまうのだ。目を開いては閉じる、を繰り返すうちに、いつの間にか眠っていた。

 

 アラームで目を覚ますと、佐伯の姿はなかった。

 

 最後は入念に校内を点検し、七時に朝からの警備員と交替する。朝から昼の警備を勤めている警備員は、寡黙な年配の男性だった。僕が挨拶すると、「堀田です」と小さな声で名乗った。

 

 堀田さんと門を開けてから、僕は制服を着替えて学校を後にした。眠い目に朝日が痛い。

 

 あくびをかみ殺して電車に乗っていると、昨晩のことがすべて夢のように思えた。

 

 リアルだけれど、荒唐無稽な夢。朝日が差し込む電車の、まだ眠たい空気の中で、佐伯の姿を思い出しても現実味が持てない。

 

 家に帰ると、玄関で父が靴を履いていた。緑色の玄関マットの上に腰掛け、革靴に足を突っ込み、赤い靴べらをかかとに差し込んでいる。腹が出てきた父は毎朝こうやって、靴を履くようになった。

 

「どうだった?」父が僕を見上げて言った。

 

「無事に終わったよ」

 

「そうか」と父が答えて立ち上がり、スーツにブラシをかける。僕は何を着ても痩せすぎでだぼっとしてしまうが、父は体格がよくグレーのスーツがよく似合う。

 

「あら、おかえりなさい、光輝。お父さんに隠れて見えなかったわ」

 

 母が笑いながら言った。僕も母が立っていることに気付かなかった。父が苦笑いを浮かべる。

 

「いってらっしゃい」

 

 出ていく父に僕は言った。母も「いってらっしゃい」と言うと、リビングに早足で戻った。朝の連続ドラマが始まる時間だな、と僕は母の後ろ姿を見て察する。

 

「てるちゃん、おかえり」

 

 ぺたぺたと足音をたてながら、潤子が階段を降りてきた。上下赤のパジャマ姿で、昨晩は泊まっていったらしい。

 

 潤子は二才年上の従姉妹だ。近くに住んでいて、しょっちゅう家に泊まりにくる。潤子は母のお気に入りで、彼女は半分、この家の娘でもある。

 

 潤子はCDショップで週四日、朝から夕方までアルバイトしている。もう三年になるから、アルバイトながら小さな店を取り仕切っていた。

 

 僕は台所に入った。母が小さなテレビでドラマを観ている。

 

「白パン、食器棚にあるわよ」

 

 母が言った。僕はガラスのコップに牛乳を入れ、白パンの入った袋を持ってきて、ダイニングテーブルの右端に座った。

 

「なんだか質素ねぇ。白い牛乳に白いパン。てるちゃんは食が細すぎるわ」

 

 洗面所から出てきた潤子が言った。

 

「ジャム、持ってきてあげようか? いちごジャムをつけるとおいしいんだから」

 

「いいよ。僕はこのまま食べるのが一番好きなんだ」

 

 僕が言うと、「ふーん」と潤子がつまらなさそうな顔をした。僕は母が近所のパン屋で買ってきてくれる白パンが好きだ。柔らかいのに歯ごたえがあるという食感が飽きない。

 

「てるちゃんはほんと、白い食べ物が好きよね。はんぺんとかお餅とか」

 

 食パンにいちごジャムを盛りながら、潤子が言う。いちごジャムは母が知り合いからもらった手作りで、いちごをそのまま潰したような鮮やかな赤だ。

 

「この子は味付けの薄いものが好きなのよ。お父さんも光輝みたいに、粗食になってくれればいいんだけど」

 

 母が溜息をつきながら言った。母は痩せすぎず、太りすぎず、体型がちょうどいい。母は健康にこだわり、様々な情報を集めては、これぞという健康法を試している。その成果か、自分の母親ながら肌艶がよく若々しいと思う。近頃は有機野菜に凝って、車で遠くの店まで買いに行っている。

 

「てるちゃん、おじさんの脂肪を分けてもらいなよ。ついでにあたしのお肉もあげる」

 

 潤子が僕の脇腹をつついてきた。

 

「そうしたら光輝が太りすぎちゃうじゃない」

 

「叔母さん、あたしそんなに太ってないって!」

 

 潤子が笑う。母も笑い出した。朝からよくそんな大声で笑えるなぁ、と僕は思う。潤子とひとしきり笑ってから、母はパート先のスーパーに出かけた。僕は母を見送ってからシャワーを浴びた。上がってきて髪をタオルで拭いていると、きしんだ音を立てながら引き戸が開いた。

 

「ノックぐらい、しろよ」

 

 僕は慌ててトレーナーを着て言う。

 

「あ、ごめん。でもちゃんと服着てたから、いいじゃん」

 

「よくない」

 

「お風呂掃除、するわ」

 

 潤子がジャージを膝小僧までたくし上げ、重大な決意を固めた顔で言った。また叔母さんとケンカしてきたな、と僕は察した。潤子と叔母さんは普段は仲のいい母娘だが、月に一回は大きなケンカをしてしまう。血が繋がった親子ゆえにどうしても互いに妥協できないことがあり、争うほかないという。そして、潤子は僕の家に避難しにくる。気持ちを整理するため、風呂掃除をするのだ。

 

 自室に入ると、フローリングの床が冷え切っていた。ベッド脇の細長いCD棚の上に置いた、四角いコンポも冷たくなっている。

 

 僕はベッドにもぐりこんだ。青いカーテンの織り目に光が射すのを見つめる。佐伯の髪を思い出す、淡い光。


  ――水は流れ続けていた。


 どれほどの時間が過ぎたのか、わからない。

 膝まで水に沈みながら、僕は動けずにいた。


 ふいに、背後で誰かの足音がした。

 水をかきわけるような、ゆっくりとした足取り。


 振り返ろうとしても、首が動かない。

 冷たい手が、肩に触れた。


 ――誰だ。


 叫びたいのに声も出ない。


「光輝」


 耳元で、自分の名前を呼ぶ声がした。

 その声は、佐伯のものだった。


 次の瞬間、波が僕の頭上を覆い尽くした。

 視界が暗く沈んでいく。

 

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