千歳くんのキス
「おまたせー!」
一台の徐行する車の窓から、七瀬が顔を出して手を振っていた。
伊集院の注意が逸れ、フチュとの喧嘩はとりあえず避けられたようで、千歳はほっと胸をなでおろした。
車が停まると、中から女子が三人降りてきた。
七瀬。鬼塚。小御門。
この三人は揃って生徒会に所属しており、クラスの人間からは「生徒会三人娘」と呼ばれている。
やがて大人の男性も車から降りてきて「こんにちは」と一同に頭を下げた。彼は小御門の父親らしかった。
大人組、つまり、歩、慎一郎の両親、小御門の父親の四人は、「たまに様子見にくるね」と言い残し、別ブロックにあるコテージに移動した。
「せっかくキャンプに来たのにコテージに泊まるなんて、俺には理解できないね」
大人たちの背中に向かって、慎一郎は苦笑する。
結城家はよくキャンプに行くそうだが、それは偏に慎一郎の趣味で、別段両親がキャンプ好きというわけではないようだった。
親の趣味に子供が付き合わされるというのはよく聞く話だが、こうして子供の趣味に親が振り回されるパターンもあるというわけだ。
慎一郎の指示に従って、面々は協力してテントを張っていく。男子用と女子用、二つ設営する手はずだ。
意外にも、小御門が手馴れていた。
隣にしゃがんで黙々と杭を打ち続ける彼女とのあいだに、千歳はちょっと気まずさを感じる。
そこで彼は、「小御門さんも、キャンプとか好きなんですか?」と尋ねてみた。
「なぜ敬語?」
小御門は手を止めて、千歳に顔を向ける。
眼鏡越しのジト目が千歳を怯えさせる。
「つい、癖で……」
「早乙女くんって、女の子が嫌い?」
「え。まさか、嫌いじゃないよ」
遠回しに「お前は同性愛者なのか?」と問われているようで、千歳は身構える。
円滑な学校生活のためにも、彼はセクシャリティを暴かれるわけにはいかなかった。同性愛に対する理解が徐々に深まってきているとはいえ、まだ十分とは言えない。特に未成熟な子供のあいだでは、露骨にイロモノ扱いされる。
隠すしかない。隠すしかないんだ……。
「キスしたことある? ないでしょ?」
小御門の追撃が飛ぶ。
小御門の揺さぶりの真意は分からないが、とにかく試されているのは確かだった。
千歳が「普通」なのかどうかを確かめようとしているのかもしれない。
普通、僕の年ごろの男子はキスの経験があるものなのだろうか? きっとあるものなのだろうと、千歳は小御門の口ぶりから推察した。
「あ、あるよ、キスくらい……」
「へえ」
小御門は一瞬意外そうに目を丸くしたが、すぐにジト目に戻り、続きの言葉を口に装填した。
その時ちょうど、「理子」と声がかかった。呼んだのは慎一郎だった。彼は千歳たちの反対側で作業をしていた。
「悪い、ちょっとこっち手伝ってくれないか?」
「仕方ないな」
小御門は大儀そうに立ち上がると、慎一郎のもとへ移動した。
慎一郎がわざわざ名指しで手伝いを求めたあたり、やはり小御門はキャンプ経験者なのだろう。そして慎一郎は、それをよく知っているようだ。
もしかしたら、以前も一緒にキャンプに行ったことがあるのかもしれない。最近知ったのだけど、慎一郎と小御門は中学からの知り合いらしいのだ。
千歳の胸に、苦くてモヤモヤしたものが広がる。
「そろりそろり……」
フチュがしゃがみ歩きでにじり寄ってきた。
「千歳、お前嘘下手だな。ほんとは唇童貞だろう?」
「それが、実は嘘じゃなくて……」
「な、なに……? 何人と……?」
「三人。それぞれ一回ずつ」
「事と次第では私の脳が破壊される。慎重に証言するように」
「うん」
「いつのことだ?」
「最初は小三」
「セーフ」
「次は小六」
「ギリセーフ」
「次は中二」
「はいアウト。ちょっと首吊ってくるわ」
「でもこの話にはオチがあって」
「念のため聞こう。言っておくが、私の首にはもう縄がかかっている」
「相手はみんな男の子なんだ」
「よかった~!」
フチュは首から輪っかを外すジェスチャーをして、その勢いのまま万歳した。
「で、どんな経緯で? んん~?」
一転、フチュはノリノリで尋ねてくる。
「みんな普通の友達だったよ」
「見境なしか。意外と尻軽だな。ノンケを誘惑するとは罪な男よのう」
「違うよ、誘惑なんてしてない。なんか分からないけど、いきなりキスされたんだ。びっくりしたよ」
「流され受けっぽいもんなお前。とりま唇奪っちゃおうってなるのも分かる気がする。で、慎一郎とはないのか?」
フチュは鼻息を荒くする。
「あ、あるわけないだろ」
「すごい精神力の持ち主だな慎一郎は。幼馴染で一緒に過ごす時間は長かったろうに、一度も千歳に手を出さないなんて」
「だから、慎一郎は女の子が好きな普通の男なんだってば」
「分かってないな。お前はノンケの性癖を歪めるポテンシャルを秘めているのだよ」
「おい、サボるなよ」
突然声がかかった。
しゃがんだまま振り返ると、枝木をたんまり抱えた伊集院が千歳たちを見下ろしていた。
彼の後ろには七瀬が立っていて、同じく枝木を抱えている。
二人は薪調達係に任命されていた。
「ごめん」
反射的に、千歳は謝っていた。明らかにただの言いがかりなのに。
「そしてすぐ謝る。そういうの、すごくイライラする」
「ちょっとー、やめなよー。ちーちゃんまた泣いちゃうでしょ~?」
七瀬が少しばかりサディスティックな笑みを浮かべて言った。
千歳は何も言い返さず、ぎこちなく頭を下げてから、前に向き直って杭打ちを再開した。
「ふん」
つまらなそうに小さく鼻を鳴らすと、伊集院は「薪、集めてきてやったぞ」と慎一郎たちに歩み寄っていった。
「松ぼっくりちゃんはなかったぜ~。最強に火がつきやすいってアニメで見たのに~」
七瀬が別段がっかりした様子もなく言った。
「松ぼっくりが落ちるのは秋からだからな。枝がそれだけ集まっただけありがたいよ。夏ってあんまり落ちてないからさ。それだけあれば、ひとまず管理事務所で買わずに済みそうだな」
わいわいと楽しそうな談笑が漂ってきて、千歳を妙に切ない気持ちにさせる。
そのとき、ちょいちょいと、肩を叩かれた。フチュかと思って横を見ると、彼は背後を振り向いて顔を強張らせている。
どうやら、千歳の肩を叩いたのはフチュではないらしい。
フチュの視線を辿って振り返ると、エプロン姿の鬼塚が立っていた。彼女はてのひらに小さな包みをのせ、千歳に差し出していた。
「くれるの?」
千歳が尋ねると、鬼塚はこくりと無言でうなずいた。
「ありがとう」
千歳がお礼を言ってキャンディーを受け取ると、鬼塚は後腐れなく踵を返し、キッチンテーブルで昼食の下準備をしている忍足の元へ戻っていった。
鬼塚と忍足は調理係に任命されていた。
「鬼塚。あいつ、すごく怖い!」
フチュは警戒する猫みたいな表情で言った。
以前、猫に変身したフチュは教室で鬼塚に捕らえられていた。それがトラウマになっているようだった。
「優しい人だよ。僕が落ち込んでると、よくお菓子をくれるんだ」
「妖精かな?」
昼食は王道のカレーだった。アウトドア補正もあるのだろうけど、それにしても美味しいカレーだった。
「みんな知ってるか?」
食べている最中、慎一郎が一同の耳目を集めた。
「このキャンプ場、出るんだぜ」
「出る? 温泉がか?」
フチュが首をかしげて尋ねた。
「これだよ」
慎一郎は両手を垂らし、お化けのポーズをする。
「なんだ、くだらない。幽霊なんているわけない」
そう言って、宇宙人はクールにほほ笑むのだった。
日が落ちると、「せっかくだし肝試ししようぜ!」と慎一郎が言い出した。
いったい何が「せっかく」なのかはまるで分からなかったけど、初めて出会った小一の時からずっと変わらない慎一郎の陽気な突拍子のなさに、千歳は思わずふっと笑みをこぼした。
「わ、私は一向にかまわんが、ち、千歳が怖がってしまうから、肝試しはちょっと、なァ?」
そう言って真っ青な顔を向けてくるフチュは、チタン製マグカップを持つ手がブルブル震えてコーヒーが飛び散っていた。この宇宙人、幽霊が怖いようだ。
「僕は大丈夫だよ。肝試し、面白そうだね」
千歳はそう宣言すると、フチュにしたり顔を向けた。
「千歳ェ……。母君がお前は怖がりだと言っていたはずだが」
「幽霊は平気なんだよね。なんでか分からないけど」
千歳が怖いのは、あくまで宇宙人的な生々しいやつだ。その宇宙人さえも、フチュの登場によってすっかり恐怖感が薄まってしまった。
「二人ペアで行こう」
慎一郎がさくさく話を進める。
「あ、でも、ペアをどうやって決めようかな」
「アプリ使うのが一番手っ取り早いし、フェアだと思う」
小御門がスマホを取り出して言った。
そして有無を言わさず、抽選アプリでさくっとペアを決めてしまった。
学級委員長という肩書きと、彼女が醸し出す冷徹なオーラが、誰にも口を挟ませなかった。彼女はいつでも決断と行動が早い。
「私は結城くんと」
小御門と慎一郎。
「理子と一緒なら、幽霊のほうが逃げるな」
「うるさい。殺して幽霊にするよ」
軽口を叩き合う二人を、千歳は眩しそうに見つめた。
フチュがぼそりと「小御門め、マウントを取りにきているな。千歳、いいのか?」と耳打ちしてきた。
千歳は「いいもなにも」とため息をついた。
「次。忍足くんと七瀬さん」
小御門が発表を続ける。
「忍足くんとはあんまし喋ったことないよね。これをきっかけに仲良くなろうね~」
七瀬は明るく言った。
「よろしく」
忍足は恭しく頭を下げる。
「僕はれっきとした陰の者だから、ちょっと恥ずかしいな」
「ウケる~!」
「僕はこう思うよ。僕は存在感が薄いから、幽霊に仲間だと勘違いされそうで怖いなって」
「あはは! たしかに忍足くんって透明感あるよね~!」
「透明感って、そういう意味だっけ?」
発表は続く。
「次。フチュくんと鬼塚さん」
すっ、と、鬼塚がフチュに片手を差し出した。握手を求めている模様。
「……」
天敵とペアを組まされ、フチュは借りてきた猫のように固まっている。
辛うじて握手には応じたが、もう片方の手はブルブル震えて、持っているマグカップからコーヒーがドバドバこぼれ落ちる。
千歳はそんなフチュをちょっと意地悪な気持ちでニタニタ眺めていたが、ふと、とんでもないことに気づいてしまった。
あと、残っているのは、僕と、それから……。